05:Night Thoughts

 崩れ落ちる墳墓から転がり落ちるように逃れ出た少年たちは、危ういところではあった
がこれで目下身の回りにまとわりついていた煩慮が晴れたと各々胸を撫で下ろしていた。
 しかし借り入れと返済を繰り返す自転車操業のように彼らの元には厄介事が転がり込む。
 救出したはずの少女が布団に入り込むなり昏倒するように深い眠りについてしまったのだ。
 慌てた少年たちから引っ張り出された近所の医院の女医曰く―――
「寝てるだけ」
 これに関しては少女の義父、およびルブランの店主である佐倉惣治郎からもお墨付きをいただいて、今度こそ一息つくことができたのであった。
 しかしそれはまた、当座の危機が長引くことを意味している。
 望みもしないのに与えられた試練の期日まではまだ十日近くもあるとはいえ、少年たちは撫で下ろした胸から重々しいため息をついた。

 また彼らの苛立ちを誘うものがある。
 相変わらず扱いの小さな新聞記事に掲載された『窃盗』の文字―――
 ≪グリム≫の名こそ記されていなかったが、黒崎明翫の作品が大和食品なる会社幹部の自宅から盗み出されたと書かれている。個人蔵のこれは深夜の時間帯に自宅に侵入した何者かの手により持ち出され、現在もその行方は不明とあった。
 またこれには数十万の保険金が掛けられていたが、元々の資産価値を鑑みれば不自然な額ではないだろう。それは即ち自作自演の犯行である可能性が低いことを示している。
 これはさらに、≪グリム≫の犯行におけるターゲットが黒崎明翫の『無題』に絞られていることの論拠をより強めるものであった。
 眠り続ける少女の様子を確かめに来たついでと集った屋根裏部屋で、心を専門にするほうの怪盗たちは三度目の≪グリム≫の犯行を確信する。
 こちらが別件に手を取られている間にまたという思いこそあれ、相変わらずその正体はぼんやりとして掴めない。男なのか女なのか、若者なのか老人なのか、判断する材料さえ掴みあぐねているのが現状だ。
 優先度の問題で後回しにされていた関係で今この場にある唯一の情報である小さな新聞の切り抜きに目を落としながら、坂本はうーんと唸ってチラと隣に座る喜多川に目を向けた。
「保険金の額は別に不自然なもんじゃねぇったよな?」
 喜多川は頷いて返した。
「で、その保険金は絵の価値によって決まる。ってぇと気になるんだけど、絵の価格ってどーやって決まるん?」
「それは真剣に訊いているのか?」
「いやそんなに」
「はあ……」
 ポイと坂本の手から放り出された紙片とともに喜多川のため息がテーブルの上に落ちる。
 彼はそこに積まれた菓子に手を伸ばしつつ疑問に答えてやった。
「基本は他の多くの物品と変わらん。需要と供給、これがすべてとも言えるな。口惜しいがブランディングというものは解りやすいがゆえに大衆に浸透しやすい」
「あー、有名だからってことね。黒崎ナントカさんはそこまででもない、と」
 同じく菓子に手を伸ばしながらの高巻が。ソファに座した彼女の隣にはちゃっかりモルガナが四足を揃えて座っている。
「そういうことだ。ただ、これは二次市場……つまり、一度画家の手を離れた後の作品に言えることで、一次市場ではもう少し事情が違ってくる。そもそもどんなものであれ己の身命を賭して生み出したのだから、一つ一つに具体的な価格はつけられん。それこそ商業主義的に創り出されたものでもなければな」
「つまり?」
 結論を急かす頭目に、喜多川は手指でフレームを作りをつつ答えた。
「たいていはその絵の大きさが基準になる。もちろんモチーフや画風も影響はするが、美術的知識や見地、心情を抜きに誰でも解る基準足り得るのはキャンバスの大きさくらいだろう」
 ほー、と若者たちは感心の声を上げた。
 しかし喜多川が国内と国外のキャンバスの大きさの違いを語り始めるとこれは見事に流される。
 高巻はまた個包装のマドレーヌをかじりながら行儀悪く喜多川を細い指で指し示した。
「つまりぃ、祐介に小さい絵を描いてもらって安く買って、アンタが有名になってから売り払えば?」
「金になるかもしれんな。だがその場合、俺には一銭も入らんぞ。一銭もだ!」
 菓子の詰め込まれた大袋を抱えたまま立ち上がった彼に非難の視線が集中する。
 頭目は暑さに耐えかねて寝台の上に転がりながら彼に言った。
「一枚頼む。それでここにクーラーつけよう」
「それはいいな! よし、任せておけ!」
「無名の画家志望風情がなーに言ってんだか」
 呆れた声のモルガナは、しかし片手間にでも高巻に頭を撫でられてうっとりと目を細め、喉を鳴らしていた。
「てかクーラーだけじゃどうにもなんねーだろココ。まずは断熱材入れてさぁ」
「改修レベルじゃん。いっそマスターに許可もらってリフォームしちゃう?」
「いいね。 小さくていいから自分用の風呂とトイレが欲しい……」
「ああ……銭湯と客用トイレではな。その苦境、いかばかりかと拝察する」
「じゃあワガハイも自分の部屋が欲しい〜」
 かくして少年たちは本題から遠く離れ、このルブランの屋根裏部屋をどう改造するかに各々思いを馳せる。
 しかしあーだこーだと勝手なことを言い合うこの騒がしさを、長らく真剣な表情でスマートフォンを覗き込んでいた新島が戸惑いがちな声で断ち切った。
「ねえ……今その、『無題』の持ち主だった人が勤めてる大和食品について検索してたんだけど……」
 彼女が差し出したスマートフォンの画面にはどこかの新聞社のネット掲載版記事が表示されている。
 見出しは以下の通り。
『大手食品加工会社社長突然の訃報』―――。
 内容はこうだ、大和食品代表取締役笠木伊佐良(かさきいさよし)五十五歳がひと月ほど前の深夜、突然一人でドライブに出かけてくると家族に告げて家を出たが、朝になっても帰らなかった。これを心配した家族が警察に捜索を依頼したところ、笠木伊佐良は自宅から十キロ以上離れた山中の林道に停められた車内で事切れているのを発見された。
 この車は笠木の所有物であり、他に指紋等の第三者の存在を示唆する証拠や、死体の司法解剖の結果不審な点が見当たらなかったことから自然死と決定づけられた。
 しかし遺体が発見された現場はろくに舗装もされていない、地元の人間もあまり車では通らないような悪路であり、車もよくあるセダンであることも相まって何故笠木がそのような場所に赴いたのかまでは判明していない。
 死因は心不全とのことだが、家族は警察の発表に不信感を募らせている―――
 新島がとうとうと読み上げた記事はそのように結ばれていた。
 屋根裏部屋にはどこか猛暑にも負けぬ薄ら寒さが満ち満ちた。
「……偶然だろ?」
 辛うじて坂本が言うが、彼の脳裏にもまた≪呪い≫の二文字が浮かび上がっている。
「どうかしらね。一月も前のことだからたしかに偶然かもしれないけど……ちょっと引っかかるのよ」
「変な死に方だなとは思うけど」
 同調した高巻に頷いて、新島はふむと考え込むような素振りをみせた。
「別に、これが例の絵の≪呪い≫に関連していると言うつもりは無いわ。そうじゃなくて、この不可解な状況と心不全っていう死因……なにか思い当たらない?」
 ちらりと知性の輝きを宿した瞳が頭目に向けられる。
 彼もまたふむと唸って顎を擦った。
「精神暴走事件に廃人化……いずれも死亡に至った被害者、ないし加害者になってしまった人の死因は多く心臓の停止だったな」
「ご名答」
 淀みない彼の答えに、新島はにっこりと上機嫌そうに笑った。
「えっ、なになに? つまり、≪グリム≫の件と精神暴走や廃人化に関係があるってこと?」
「うーん、そこまで繋げるにはこの一件だけじゃ弱いかな。ただ、ここまでの他の被害者や所有者を調べて統計を出してみる価値はあるんじゃない?」
 意外なところから別の事件への緒が発見されて、若者たちはわずかばかりに活気を取り戻す。
 喜多川はまたそれならばと口を開いた。
「今日は置いてきてしまったが、すでにあの絵の来歴に関してまとめてある。次に集まるときにでも持ってこよう。確かめてもらいたいこともあるんだ」
 そのようにして若者たちは次の集会日時を取り決めて解散した。

 ねぐらに戻った喜多川は、仲間たちに渡すことを約束した絵の来歴、それをまとめてプリントアウトした紙面に一人目を落としていた。
 『無題』はそのモチーフの陰惨さに反してか、だからこそなのか、二次市場、即ちオークションや個人間売買にかけられる機会が多いらしく、紙面には数十人の名が記載されている。
 とはいえ五枚もあるのだから、一枚に割り当てればさほどというものでもない。近年連作がすべて揃ったことがない事実と照らし合わせれば納得のいく数ではあった。
 しかし……
 喜多川は思いつめた表情で己が入力した文字列を睨みつける。それこそが日中仲間たちに『確かめてもらいたい』と請うた部分だ。
 そこにはいくつもの『死亡』の二文字が並んでいる。
(呪い……)
 声には出さず口内で唱えて、彼は小さくかぶりを振った。
 ≪呪い≫とやらの実在を論じる気はないが、しかし彼の胸には奇妙な違和感が引っかかっている。
 事実として複数人の死者が出ているが、それにどうしても納得することができないのだ。
 そして彼はその違和感の答えを知っているはずで、もう喉元までせり上がってきているというのにあと一歩が足りず具体的な形を与えられないでいる。
 スッキリとしないなにかが胃の下に貼り付く感覚から逃れようと、喜多川は思索と手の中の紙束を放り出して別のものに取り掛かることとする。
 彼の前には描きかけのままの高巻の笑顔があったが、しかしこんな心持ちで彼女と向き合うのも失礼なような気がするのと、ふと思い付いたことがあって彼はスマートフォンに目を落とした。
 そもそも≪グリム≫ってなんだろう。
 極めて単純な疑問であった。
 世界最大のサーチエンジンに≪グリム≫の名を託してみると、真っ先に出てきたのはアメリカで放映されたグリム童話と絡めた現代サスペンス・ファンタジーのドラマであった。彼は軽くあらすじに目を通して次に目を向けた。
 先述の海外ドラマの情報が多く並ぶ中、ときおり会社名や競走馬、はたまたゲームの攻略wikiなどが次々と引っかかったが、いずれもピンとくるものはない。
 それならばと考えを巡らせる。
 グリムといえばドイツの言語学者・童話編集者の名だが、この人物を知らない者のほうが少ないだろう。そういえばグリム童話にも泥棒の名人という話があったはずだが……あれはどちらかといえばとんち話や知恵比べに近い。
(俺たちの追っている怪盗とは少し趣を違えているな)
 彼はまたスマートフォンに目を向けた。目的は検索エンジンではなく一人の英語話者である。彼女はまた彼にとってのミューズ、の・ようなものでもあった。
『グリムってなんだ?』
『知らねーよ』
 女神からの返信は早かったが想像以上に辛辣であった。タイムスタンプが二十一時を示していたからさもありなん。彼女はもしかしたら寝るところだったのかもしれない。
 それでも懲りずにグリムのことを調べていたがアメドラばかりが引っかかることをミューズ、もとい高巻に告げれば、彼女は更に続けて返信を寄越してくれる。
『グリムねぇ。童話じゃなくてgrimじゃないの?』
『どういう意味だ』
『辞書ひきなさいよ。とにかく私はもー寝るの。アンタもあんまり夜ふかししちゃダメだからね』
 そっけないが、しかしなんだかまるで厳しい姉のような発言に思わずと苦笑する。
 少年はおやすみと言う前にこう返した。
『寝るということは今寝間着か』
『そうだけど』
『見せてくれ』
『誰が見せるか! アンタほんとチョーシくれてっと今度ヒドいからね』
『おやすみ』
『おぼえてなさいよ!』
 喜多川はチャットアプリを横に滑らせて煩悩とともに追い払った。
 さて、言い付けに従って辞書に手を伸ばした少年はさしたる手間もなく目的の単語を発見した。
 厳しい、好ましくない、楽観できない―――あまり良い意味の単語ではなかった。
 彼はまた、あーそうか『hang on like grim death』のgrimかと手を打った。
 己はまさしくこれだなと苦笑もする。彼はずっと、画家になりたいという夢に必死になってしがみついている。手を離せば楽になるのかもしれないと思うこともあるが……必死になれないのなら、たぶんどんなことも彼にとって価値のあるものではないのだ。
 そして苦笑は自嘲的な笑みにすり変わる。今しばらく忘れていた現実というものが意識の上に登ってきたのだ。課題とか、進路指導とか、夏休み明けに待っている面談だとか、そういう諸々の学生らしい悩みごとだ。
 それらを振り払おうと手元の辞書を床の上に寝かせて、インターネットから無作為に情報を取り込みにかかる。
 デジタル化された情報の海は玉石混交だ。割合は一対九か。
 それでも目的を持ってさまよえばいつかは近いものにたどり着く。
 彼は一匹の黒い犬と見つめ合っていた。その瞳は紅く、大きいが痩せた身体は立ち並ぶ墓石の間にあるとなにか不吉なものの象徴のように思えた。
 ―――俗にブラックドッグと呼ばれるこの黒い大型犬は、主にイギリス各地で言い伝えられる妖精族の一種である。噛みつかれなくとも目撃したり触れたり、唸り声を耳にするだけで不幸に遭い、最悪の場合は死に至るという。
 邪悪な存在なのかと思えるその一方で穏やかな存在としても描かれることがある。喜多川が目にしているのはまさしくその一例だった。
 ブラックドッグにはいくつかの亜種的な存在がいて、これはその一つ、主にイギリスのヨークシャー地方で語り継がれるチャーチグリムと呼ばれる墓守犬だ。紅い目の黒い大型犬の姿をしている。
 墓と教会を守り、鐘とともに吠え、死者の魂の行き先を教える存在―――
 しかし古来から世界各地でイヌというものが死や汚れの象徴として扱われてきたように、このチャーチグリムもまた穏やかな性質の中に≪死≫の表象を孕んでいる。例えばこれは葬儀中か暗い嵐の夜でしか姿を見ることは叶わないのだという。
「≪死≫か……」
 犯罪者の心理というものを、この少年と仲間たちは文字通りその眼で目撃してきている。
 シャドウたちはパレスを持つ持たないに限らずいずれもが人間の歪んだ欲望が表に現れたような言動をとっていたが、それはおそらくあれらが心そのものであったからだろう。
 つまり、あれらのような破壊的、自滅的、反社会的な行いや思想がイコール現実での犯罪者や悪人たちの姿ではないのだ。それは少なからず表面上は取り繕ったり、ほんのわずかにでも罪悪感というものを持ち得ているからだろう。
 しかし綻びは必ず存在する。
 その糸を掴むためにすべきは、≪グリム≫の心理に近づくことだ。
 自ら人ならざるものを連想させる名を名乗り、黒崎明翫の≪死≫を描いた作品を盗み集める―――
 何を考えているのかなんて少しも解りはしなかったが、しかし彼が≪死≫に魅せられているということは少なからず推察できる。
 ……でも、じゃあ、≪死≫ってなんだ?
 つぶやいて、年若いこの少年は手近な画帳に手を伸ばした。
 例えば西洋絵画ではそのシンボルとしてドクロが多く描かれると少し前に仲間たちにも語ってみせたものだが、他にも果物や生花もやがて腐り枯れることを示唆するものとして取り入れられることがある。日本画においてもドクロ、即ち骸骨は多く登場するが、一般的には幽霊画のほうが浸透しているものだろう。
 では特定のモチーフではなくもっと抽象的なうねりや色か、あるいはマチェールによって表現するものか?
 ああでもないこうでもないと唸りながら手を動かす彼の足元は、バツ印の付けられた紙が折り重なっていく。既存の概念を打ち破るようなもっと新しい表現はないものかと、少年は己の中のまだ短い生で得たものを片っ端から形にしていったが、納得できるものは現れなかった。
 やがてスイッチが切れたかのように唐突に動きを止め、らしくなく乱暴な仕草で長い髪を掻き乱す。
 狂人めいた振る舞いを見咎める者はいないが、いたとしても彼を諌めることは至難の業だろう。何故なら彼はこの価値のある取り組みに夢中になっている。
 けれど限界とはあるもので、少年はやおら立ち上がると破り捨てたイメージの出来損ないたちを蹴立てて部屋を飛び出していった。
 彼の言うところのいつもの『息抜き』だとか『散策』という名の徘徊であった。

 もっとも時間も時間だ。歩いて行ける範囲は限られていたし、無断で深夜にうろついていたと知られれば厳重注意を受けるだろう。下手を打てば特待待遇にも響くかもしれない―――
 引き返さねばと思いもするが、まとまらない靄のようなものが彼をねぐらから引き離していた。
 死や呪い、紅い目の黒犬―――
 嵐の夜にだけ姿を現す死の先触れ。
 折しも彼の頭上、十五キロメートルほど上空の対流圏には偏西風が北から吹き込み、南の太平洋高気圧が寄越した湿気を含んだ空気が日中嫌になるほど蓄えられた地上の熱とともに上昇し、これにぶつかっていた。
 これにより空気中の水分が凝結し、積乱雲が発生する。
 ポツッと少年の足元に小さな水滴が落ちた。
 はじめ彼はそれをどこか室外機から飛んできた冷却液の類だろうと思った。よくあることだ。雨だと思って顔を上げたら眩しいくらいの晴天だったなんてことは。
 このときもそのつもりで上げられた眉目に、次の瞬間水瓶をひっくり返したかのような量の雨水が降りかかった。
 遅れて大粒の雨がアスファルトを叩く音が鼓膜に届く。
 ―――集中豪雨、俗に言うゲリラ豪雨であった。
 これもまた珍しいことではなかった。彼自身なんとなく、己が出かけると結構な割合で雨になるなぁとは、物心ついたときから思うところではあったからだ。
「ふっ……ふふ、ふ……」
 自嘲的な笑いをこぼす彼の脳裏には、ミューズの・ようなものである少女が告げた「さっさと寝ろ」という言葉がさ迷っている。
 また彼は頭を冷やせと言われたような気になって雨に打たれるがまましばらくその場に留まった。
 ……どれほど優秀な輩にだって一人の力に限界はある。だから、己一人であれこれ考えるより、はじめから仲間を頼ってブレインストーミングでもしたほうがよっぽど建設的な意見や閃きが見つかるはずだ。
 やっぱり寮に戻って今日はもう寝よう。ちゃんとシャワーを浴び直して暖かくしてから―――
 そんな気勢もまた、下着にまで流れ込んだ水滴に削ぎ落とされた。
「うっ……」
 呻いて、彼はやっとそばの店先、とっくにシャッターも降ろされた青果店の軒先に滑り込んだ。足元にはいまだ激しく雨粒が襲いかかってきているが、少なくとも上半身は守られている。
 ポケットに入れたままのスマートフォンを濡れた手で引っ張り出す。表面にいくらか水滴が付着してはいるが、水没とまでいっていないのは本当に幸いなことだった。
 機種変更はあと一年は後にしたい。
 そんなことを思いつつウェザーニュースに目を通す。速報には単なるシングルセルであると書かれていた。一時間もしないうちに止むだろうとも。
 喜多川はほっと息をついて、シャッターの中柱に背を預けた。
 雨はひどく、静まり返った商店の軒先を雨音だけが満たしている。
 彼は出かける直前まで≪死≫なんてことを考えていたからだと思った。
 何故なら降りしきる雨のむこうから女が一人歩いてきたからだ。全身をぐっしょりと濡らし、どこか覚束ない足取りをして、重い物を引きずるような音とともに……
 なにより彼を恐怖させたのは、その女の顔に見覚えがあるという事実だった。
 それは近ごろずっと眺め続けていた黒崎明翫の連作『無題』、その主題とされた女―――黒崎真理と同じ顔だった。
 瞠目して硬直した彼に女は気が付いて足を止める。
 双方がハッとして息を呑んだのは同時だった。
「……さん?」
「喜多川くん? なんでこんなところに……」
 ノイズのように走る雨音の中互いを確認する声はよく耳に届いて二人に互いの存在を認識させた。
 豪雨に全身を浸す女は確かに真理と同じ顔をした、つまり、普段なら顔を隠す前髪を除けて伊達眼鏡を外しているに相違なかった。喜多川にとっては一週間ぶりに見る顔でもある。
 聞きたいことは無数にあった。
 こんな時間にこんなところで何をしているんだとか、その後ろ手に引いている人ひとりが納まりそうなトランクケースはなんなんだとか、普段顔を隠していた眼鏡がフレームをひしゃげさせて胸元に引っかけてあるのはどうしてなんだとか……
 君は何故黒崎明翫の妻、真理と同じ顔をしているんだ、とか……
 なによりも奇妙だと喜多川に思えたのは、がそれらの疑問をすべて『正確に』見抜いているかのように気まずそうな顔をしたことだ。
 まるでこちらが黒崎明翫の作品とそれにまつわる逸話や、今のところそれ専用の盗人である≪グリム≫を追っていることを知っているかのようじゃないか。
 しかしその疑心も彼女の服、白いブラウスに滲む赤い斑点を見るなり吹き飛んでしまう。
 見慣れたくはないが、多く戦いに身を割く必要のある心の世界―――パレスやメメントスで嫌というほど見慣れた血の赤だと気がつくのさしたる時間は要しなかった。
 喜多川は思わずと軒先から走り出てに駆け寄った。
「怪我をしているのか?」
 のほうはこの彼の気遣いに溢れた声と表情に間抜けな顔を晒してポカンとしている。
 少年はじれったそうに彼女の胸元や腹のあたりに付着した血痕を指し示した。
「あ。いや、これは私のじゃ……」
 ない。という言葉を激しい雨音とともに耳に入れながら、喜多川はいくらか強引に彼女を引っ張って軒下へ引きずり込んだ。もうすでに雨よけの必要もないくらいに二人ともが濡れそぼっていたが、だからといってこのまま歩かせるのも彼の流儀に反していたからだ。
「どういうことだ」
 濡れて貼り付く前髪を除けながら問いかけると、もまた同じように髪から水気を絞りつつ、気まずそうに目を逸らしながらかすれた声で答える。
「……旋盤とか、溶接とか、そういうのをやるとき怪我をする子は多いんですよ。それで。少し」
 じゃあ胸元に引っかけられた眼鏡のフレームが歪んでグラスが割れているのはどうしてだ。
 そのように彼は問いかけたかったが、しかし彼女の表情がありありと聞いてくれるなと訴えているのを見て、
「そうか」とだけ返すのに留めた。
 先の多くの疑問も同じ理由から胸に押し込める。これには多大な努力を必要とした。
 やっとすべてが明らかになった彼女の顔立ちは、どう見たって彼にとって渦中である作品の人物と同じつくりをしているのだ。
 堪えている間にがうっすらとした笑みを湛えた口を開いた。
「キミこそどうしてこんな時間にこんな所に? 寮は少し離れてるし、もう門限は過ぎてるはずですよね?」
「ずいぶん詳しいな」
「知り合いが、似たような寮に入っているので」
「……そちらのことは分からんが、バレなければどうということはない」
 答えにはどことなく満足げに笑ってみせた。どうやら彼のこの返答を気に入ったらしい。
「非行少年」
 また彼女は揶揄するようにこうも言った。
 確かに裏で怪盗業なんてしているのだから、喜多川祐介という少年は間違いなく非行少年と言っていいだろう。
 しかし彼は胸を張る。
「規則とは多く大衆が道を外さないためのものだ。俺は己の行いが正しいと信じている」
「へえ?」
 はまた面白そうに目を細めた。顔を隠す眼鏡も前髪も無い今、その猫のような表情は喜多川にもよく窺えた。
「正しいか。なるほどね」
「そうでなければ……」
 怪盗なんて、心の世界なんて、一歩間違えば人を殺めるかもしれないような綱渡りを好んでしたりするもんか。
 胸のうちだけでそう唱えて、喜多川はその骨ばった手に付着した水滴を払った。
 はまた、アスファルトを穿つように強く地に叩きつけられる雨粒を見つめながら問う。
「まだもう一つに答えてもらってませんよ」
「ん?」
「どうしてこんな場所に?」
 さて、喜多川はこれになんと答えたものかと思案する。怪盗団の活動に触れず己の行動を詳らかにしなければならぬ。
 彼はふむと小さく唸って返した。
「少し散歩をしたくなったんだ。行き詰まってしまって。そのときには晴れていたんだが」
「それはご愁傷さま。行き詰まったって、なににですか?」
 追撃に喜多川はゆっくりと、白白しさをひた隠して答える。
「描こうとしたものがうまく掴めない。イメージはあるが、それがひどく抽象的なものでな」
「それでこんな夜更けに瞑想を行っていたと」
「そういうことだ」
 頷いて、上手く誤魔化せただろうとほっと息をつく。
 はそれを見るともなしにまぶたを閉ざし、引きずっていたトランクケースに軽く尻を乗せて静かな呼吸を繰り返した。
 まるで彼女こそが瞑想を行っているようだと、喜多川はその横顔を盗み見つつ思う。
 彼はまた感慨深くもあった。
 ずっと見てみたいと気になっていたものが、今ここで偶然にも明らかになってさらけ出されているのだ。
 不思議な感覚だった。好奇心が満たされているのに、また別の興奮が頭をもたげてさらなる充満を求めている。
 黒崎明翫の『無題』、そこに描かれた女とよく似た顔……
 もしもこれを同じように描くことができたら、そこに籠められた意味や意義、感情や想いを理解することができるだろうか―――?
 彼は生まれて初めて己の信念に背くような行いをした。
「モデルを引き受けてくれる気はないか?」
 即ち、真なる芸術を極めるためではなく、怪盗としてターゲットを追い詰める、その心理分析のために筆を取ろうとしている。
 そして彼女はこの上なく嫌そうな顔をしてこたえた。
「ないです」
「え!? なぜ!?」
「なぜってなぜ。嫌ですよ」
 少年は落胆によって肩を落とし、天に立ち込める暗雲より暗いものに覆われる。それは当然、分析以外にも単純に描くことの機会を逃したくないからだが、はどう受け止めたというのか、困ったような、拗ねたような顔をしてみせている。
 彼女はまた口内で小さくなにごとかをつぶやいていた。
「……最悪の場合の保険にはなるか……」
 そして少年はまたこれを聞き逃した。今回ばかりは未だ衰えぬ強烈な雨脚のせいだった。
 は顔を上げると、どことなく緊張した面持ちを彼に向けた。
「―――分かった。いいよ」
「えっ?」
 この唐突な手のひら返しに、喜多川はその湿った顔面に困惑と歓喜を同時に浮かべるという器用な真似をしてみせた。それは思わずとが苦笑してしまう程度に滑稽な姿だった。
 しかしは不快感を覚えない。何故ならこの少年がいかに芸術というものに身命を賭しているかを知っているからだ。
「本当にいいのか?」
「うん」
 どういう心境の変化だと瞠目する彼は、困惑のほうを強めて頭をかいた。
「ぬ……脱いでもらうことになるが」
 つまりはそういうことだった。
 はわずかに鼻白む様子を見せたが、やはり首を縦に振る。
「芸術ってやつなんだろ? 気にしないよ」
 言いつつも、しかしその視線は雨の中をさまよっている。声もどことなく尻つぼみだった。
 けれど言質は言質だ。喜多川は瞳を煌めかせて彼女の手を両手で取って握りしめた。
「あ―――ありがとう! じゃあさっそく! 気が変わらない内に―――!」
「何時だと思ってるの?」
 は直ちにその手を振り払った。
 ―――結局、二人はまた後日にと取り決めて、互いの連絡先を交換した。
 雨脚は大分弱まったが、傘を持たず飛び込むにはまだ躊躇する程度に降りしきっている。
「……どこに行けばいい?」
「え?」
「さすがに、そのへんでっていうのは遠慮したいんだけど……」
 恥じらいによってしかめられた眉に、少年ははっと息をのむ。
「しまった」
「え?」
「屋外は駄目か」
「駄目に決まってんだろなに考えてるんだ。捕まるよ、キミがじゃなくて私が!」