04:Time Flies

 二日が経過する。
 喜多川の手のひらの上にはあの日拾った、の物らしきチャームが乗せられたままだ。それはすなわち再びの邂逅に巡り会えなかったということの証明である。
 理由は判然としないが、そのことを思うと少年の口からはついついため息などがもれてしまう。
「お待たせ〜」
「遅くなってごめんなさい。全員揃ってるわね」
 華やかな笑い声とともに階段を上がる音にふり返ると、ちょうど高巻と新島がルブランの屋根裏部屋に姿を現したところだった。
 夏真っ盛りの首都東京、その中心部からはいくらか遠ざかっているとはいえ、この四軒茶屋にも都市部らしい肌を焦がすような熱気が押し寄せている。とみにこの屋根裏においてはそもそもが住居として設計されていないから断熱処理など施されておらず、窓から吹き込む風と古ぼけた扇風機、それから階下の喫茶店部からわずかにやってくる空調の余波だけが頼りという始末だ。
 案の定高巻と新島は室内にこもる熱に顔をしかめた。
「うわあっつ……ヤバいでしょこれ。リーダー、夜眠れてる?」
 作業机に腰かけてなにやら手元で針金やピンセットを弄っていた少年は、顔を上げて言葉もなくこれにこたえた。
 顰められた眉とへの字の口。つまり答えはノーだ。
「だよねぇ……モルガナなんかもっと茹だってるんじゃない?」
「ワガハイはそうでもないぞ。この部屋だって涼しいところがないわけでもないからな」
「マジ? どこだよそれ」
 汚れるのも構わず床に大の字になって伸びていた坂本かむくりと腹の筋の力だけで起き上がる。
 モルガナは自慢げに尾を振ってスチール製の棚の一番下、僅かな隙間にぬるりと入り込んだ。
「このへんとか」
「いやそれ猫しか入れねーから。やっぱお前発想からしてもう猫だわ」
「うるっせーよ! 猫じゃねーし!」
 ワガハイはニンゲンだと訴えて、しかしモルガナはその冷たいスチールラックから決して離れようとはしなかった。
 年甲斐のない言い合いを始めた一人と一匹に処置なしと冷たい目線をくれてやり、新島と高巻はソファに身を落ち着ける。それを合図と見て少年はやりかけの作業を放り出して立ち上がった。
「よし、作戦会議だ。地図出して」
「これね。今私たちはこの地点まで進んでるわけだけど―――」
 少年たちは額を突き合わせて現状の再確認と今日の行程の確認をする。そうしている間は暑さを忘れることができたし、これを怠れば場合によっては命の危険性さえあるのだ、準備を入念に行うことには誰からも異議は唱えられない。
 しかしそのうち、高巻が議場から顔を上げて窓際に咎めるような目線を送った。
「ちょっと祐介、アンタもこっち来てちゃんと話きいてなさいよ」
 どやしつけるような上からの言葉に、じっと手の中を見つめていた喜多川は大げさなくらいに肩を震わせる。
「なに、どしたの? あ、言い方キツかった? ごめん―――」
「いや、大丈夫だ。少し呆けていただけで……」
 気が付けば屋根裏部屋にある視線は一様に彼のほうへ向いている。
 この少年がこのように仲間たちには解らないどこか遠くへ心を放り出すこと自体は珍しくない。けれど、いささか方向性を間違えても真面目な性格をしていることもまた皆が承知している。
 だからこそ彼が作戦会議に参加もせず己の世界に目を向けて心ここにあらずなんてことは珍しい。
 原因を探ろうとする目はやがて喜多川の手の中に置かれたアンティークゴールドのチャームに集まった。
「それなに?」
 高巻の問いかけに喜多川は皆の視線からそれを隠すようにそれを握り込んだ。
 何故だかこれと―――そしてこれを拾うことになった経緯。あの少女、との時間を誰かに話すことが躊躇われたのだ。
 そしてまた彼は強く自覚する。己の胸に鮮烈に焼き付いたあの笑顔をもう一度目にしたい、と。
 この沈黙をどう受け止めたのだろう。高巻は心配そうな様子で小さく首を傾げた。
「ねえ、アンタ最近ずーっとあの黒崎ってヒトのこと調べてたよね。まさかさ……」
 ただ幸いなことに、彼女の疑惑はまったく別のところへ飛んでいる。
「の、呪われちゃった、とか?」
 喜多川はぽかんとした顔をして一同を見回した。呆れた顔をする者もあれば、渋い顔をする者も、はたまた高巻の言に同調して真剣に喜多川の様子を観察するものもあった。
 呪いか―――
 喜多川は胸中で独り言ちる。
 こんなふうに一人の人間の存在にばかり考えが向いてしまうのは、ある意味では呪いと言ってもいいのかもしれない。ただ少し一緒に遊んで、笑顔を見せられた。たったそれだけのことで……
 彼は苦笑して応えた。
「そうなのかもな。これだけあのひとの顔が頭から離れないのなら……」
 それはきっと一種の呪いに違いない。
 自嘲気味に吐き出されたこの言葉に、怪盗たちはぎょっとして席を離れ、彼を取り囲むように歩み寄った。
 足元をぐるぐると回りながらモルガナが鼻をスンスンと鳴らしつつ言う。
「オイオイ、ヤバいだろそりゃ色んな意味で……」
「体調に変化は?」
 問われて喜多川は伊達のグラスに映る己の顔と見つめ合いながらふむと唸る。
「胸が苦しい……気がする」
「大丈夫なの?」
 これは新島が。彼女は皆より一歩退いた場所から喜多川を観察している様子だった。
「シゴトに支障は無い」
「なんだよ夏風邪か?」
「セキは無いが」
 坂本の問いに喉をさすりつつ答えた彼に、高巻が手を伸ばす。
「じゃあ熱は……無いね」
「ああ、むしろ杏の手のほうが熱い―――うわっ、なにをする!?」
 また高巻の反対側から頭領が腕を伸ばして彼の身体のあちこちを無遠慮に突いたりさすったりもした。
「身体はほんとに健康そうだな。さすが祐介。お前なら光合成できるんじゃないか?」
「ええい、ベタベタ触るなっ!」
 少女の手を優しく、少年の手を荒々しく振り払って、喜多川は逃れるように部屋の中央に進み出る。
 ふり返って彼は長い前髪を撫でつけ、断然と言い切った。
「とにかく、シゴトに問題はない。それにたぶん、これは俺が自分で解決すべきものだ」
 そこには拒絶ではなく決意めいたなにか重要なものが籠められている。
 であれば、少年たちに手出しできる領分ではないだろう。新島などはそう判断してさっさと席に戻っていた。
「お前がそう言うんならいいけどよ……なんかヤベーことになる前に相談しろよ」
 最後まで立ったままでいた坂本が言う。ぶっきらぼうで雑なもの言いだが、そこには彼の、おそらく生来のものであろう情の深さがよく現れていた。
「やだ竜司やっさし〜」
 揶揄するような高巻のこの声と笑みに、何故か坂本ではないものが声を大に身を乗り出して主張した。
「竜司はいつもやさしいよ!」
 それは怪盗団の頭目である。彼はそのままこの友人がいかにイイ奴かを熱く語り出す―――
 同意できるところは大いにあるが、しかし白けた空気が熱気満ちる部屋を上書きした。
 そしてそれは褒め称えられているはずの坂本にしても同じ気持ちだ。
「気持ちは嬉しいんだけどそうデカい声で主張されると恥ずかしいからやめてくれる……?」
 彼はがっくりと項垂れて熱弁を中断させた。

 結局、普段よりも少し長めに会議に時間を割いた後、怪盗団たちは砂上に佇む墓場の形を取るパレスに赴いた。
 攻略自体は順調だ。仕掛けは厄介だが一つ一つを慎重にこなしていけばクリアできないものではない。
 現れる敵―――多く伝承に謳われる神や悪魔、妖精や怪異の姿を取るシャドウたちも、全員で挑む以上さしたる脅威とは呼べないものだ。一度ネズミに身を変えられた時はどうなることかと思ったが……
 我が身と一人の少女の心を救うためとあらば、子供たちの歩みは揺るがない。
 予定していた行程よりもいくらか進行させられたことこそがその証のようだった。
 さりとてしくじりはすなわち命を落とすことに直結する場だ、大事をとって今日はここまでと解散したのが一時間ほど前のこと。
 喜多川は一人になると寮へは帰らず、ふらりとまた人の多い場所を求めて夕方の街へ足を向けた。
 ―――自分で解決すべき問題だなどと言ったが、だからと言ってその手段など持ち合わせていないのだ。
 少年の手の中には相変わらず牙を剥いた犬を象ったチャームがあって、止まった足はこの改札近くからなかなか動いてくれそうにない。
 瞳は通り過ぎる人の波をぼんやりと眺めている。
 行き交う人々は服装や髪型からはじまり、歩き方一つとっても同じ者はいはしない。あるいは服の下の筋の付き方や骨格に至るまで、人種は概ね同じであるはずなのに、一人ひとりが違っている。
 この少年はそれを美しいと思う。
 多様性に溢れた人間なるものを構成するあらゆる要素―――
 すべてを包括するその器の、その種類の豊富さといったらどうだ。見た目の美醜を超えた形而上のなにかがそこかしこに転がっている。
(でも……)
 少年はきつくまぶたを閉ざして、写真のフィルムのように焼き付いたあの笑顔を思い返す。
 ―――どうしてこんなにもあの子の顔が思い浮かぶのだろう。顔の形の作りの良さという点において、それ以外でだって、優れている者はきっとごまんといるのに。
 どうしてあの子なんだろう?
 少年はまた胸の奥に鈍い痛みを覚えて、服の上からそこをギュッと握った。
 そうしたところで痛みは収まらないが、しかし叫び出したり走り回ったりしたくなる心地を抑え込む効果はあった。
 いつしか彼は背中を丸め、俯いて己の足元ばかりを見つめていた。このような姿勢では観察などできようはずもないが、そもそもはじめからろくに人々の姿など目に入ってはいなかった。
 意識の下に押し込められた彼の無意識は、ずっと一人の少女ばかりを欲し求めている。
 そして神とでも呼ぶべき者は偶然という形で彼にこれを与えた。
「喜多川くん? 具合でも悪いんですか?」
「え―――」
 ハッとして顔を上げた彼の目線の先に、長い前髪とラウンド型の伊達眼鏡、左右均等に分かたれた豊かな黒髪―――
さん……?」
「ええ、そうですよ。覚えていてくれたんですね」
 はにかんだ少女の存在を確かめるように少年の視線は無遠慮にその輪郭をなぞる。見間違いようもない彼女の姿に、喜多川はすっと胸にあった痛みが引いていくのを感じていた。
 彼はまた己の素直な気持ちを臆することなく彼女にぶつけた。
「忘れるものか。ずっと君に会いたかったんだ」
「へっ」
 はこの少年のもの言いに目を見開いてわずかに身を後退らせた。
 するとそれを追うように喜多川の腕が伸ばされる―――
「これを、落としただろう」
 そこには鈍く輝く金と煌めく紅、牙を見せて吼える犬の横顔を表したアクセサリが置かれている。
 はまた瞠目してハッと息を呑んだ。
「それ、探してた! どこに……」
「一昨日、別れ際に落としたんだ。やはり君のものだったんだな」
 差し出された少女の手にこれを返して、喜多川は安堵の息をつく。
 本来の持ち主の手に帰ることができたからか、犬の横顔もどことなく可愛げのあるものに見えたのは錯覚だろうか? そういえば動物を主題にしたものはあまり描いてこなかったな―――
 思って優しげに目を細めた彼に、は困り顔を隠すように顔を俯けた。
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして。渡せてよかったよ」
 心のこもったこの声に、少女は見えないところで唇を噛んだ。
「もうおかげんは……」
 はじめに背を丸めていたことを指すこの言葉は震えてもいる。
 けれどそれはあまりに小さなものだったからか、少年は気が付けない。ただ彼は言われて思い出したと己の胸を撫で、また穏やかに笑み崩れた。
「大丈夫だ。たぶんはじめからきっと、気のせいだったんだろう」
「そうですか」
 相槌とともには身を捩って彼に横顔を晒した。緩く編まれた髪がそれに合わせて揺れると、おそらく洗髪剤だろう花の香りが広がる。
 気のせいのはずなのに、喜多川の胸はまた不規則な動きをみせた。
「それじゃあ私はこれで―――」
 続けられた言葉に痛みが伴われる。
 一歩を踏み出そうとする彼女の動きが少年にはまるでスローモーションのように感じられた。揺れる髪とそこから立ち上る芳香、やわらかそうな頬に、眼差しを隠す不粋な伊達の眼鏡と……
 気が付けば喜多川はの腕を掴んで彼女が歩き去ろうとするのを阻んでいた。
「行かないでくれ」
 口はまた勝手に彼の本心を吐露する。
 は心底驚いた様子で彼を見上げ、あからさまに動揺した様子を見せつつ「なんで」と問いかけた。
 それは喜多川にも解らない。ただ、今ここで彼女と別れたら、もう二人を繋ぐものは何一つとして無いから、二度と会えないような、そんな気がしたのだ。
 彼は苦しげに一度喘いで、小さく首を横に振る。
「行ってほしくないんだ。どうしてかは俺にも解らないが……」
「そ……そんなことを言われても」
「なにか急ぎの用があるのか?」
 じっと見つめられて、はすぐに
「無いけど」と答えてから慌てて腕を振り払った。
「あいや、ある! あります!」
 だからもうここを離れなきゃ。
 取り繕うように重ねられた言葉に、喜多川はいかにも悲しげな目線を送った。それは例えば雨の降る日、電信柱の足元に置かれたダンボール。その中に一匹だけ取り残されたずぶ濡れの子犬だ。
 ただ彼は子犬と言うには少しばかり大きく成長しすぎている。見下ろす目にはいささかばかりの威圧のようなものがあった。
「うっ、うう……っ」
 はたじろいで後退り―――
「わかった! わかりましたよ!」
 逃げ出すことによって背を向けるほうが危険と判じたのだろう。ヤケになった様子でこう言うと、腕を組んで怒り顔を彼に向けた。
 しかしそれは喜多川の目に映っても入らない。彼は嬉しそうにまた顔を綻ばせた。
「やった」
「あー……もう……こんなの想定外だ……」
「ん?」
「なんでもないよ」
 ぷいと顔を逸した少女はため息をついて手を上げ、誘うようにその指先で彼をチョイと手招いた。
 どうせ話をしなきゃならないのならこんな人目のある場所は不都合だ。
 は少年を引っ張って近くの喫茶店に足を向けた。

 二日ぶりにまた、今度はどこにでもあるチェーンの喫茶店に腰を落ち着けて向き合った二人は、間にアイスティーとほうじ茶を挟んで睨み合った。
 正しく言えば睨んでいるのはのほうで、喜多川はご機嫌そうに彼女を見つめている。
 彼はさっそく己の求むるところを正直に明け渡した。
「君のことを教えてほしい」
「……血液型、とかですか?」
「なんでもいい。君に興味があるんだ」
 まったく飾らないストレートな言葉選びには舌を巻いて湯気の立つほうじ茶をすする。空調の効きすぎた店内にあっては温かい飲み物も少しは彼女の心を落ち着ける効果があるようだった。
「……福益高校に通ってます」
 ポツリと吐き出された単語に喜多川はしばし記憶を探る。
 福益―――福益高等学校は、確かこの近くにある都立の学校だったはずだ。校章は円に藤の花と二つの星。普通科と工科系の学科があって、近年の少子化の影響によって男子校から共学に移行している。
 彼女は初め出会ったときセーラー服を着用していたから、あれが福益の制服だったのだろう。
 なるほどなと頷いて、喜多川はさらなる情報を求めて彼女に目をやった。
 促されてまた一口茶をすすり、少女は語る。
「お父さんとお母さん、それからおじいちゃんがいて……犬も飼ってたけど、三年前に死んじゃいました。それきりペットは飼ってません」
「名前は?」
「……ポチ」
 ありきたりだとは思ったが、しかし喜多川は口を閉ざした。なんであれ死したものの名にケチを付けるべきではないということくらい、彼だって弁えていた。
 だからというわけではないが、彼は少し話題の矛先を変えようと口を開いた。
「福益というと、普通科と工科系があったと記憶しているけど、君はどちらなんだ?」
 これに何故かは苦々しい顔をして押し黙った。行儀悪く音を立てて茶をすすりもする。
 やがて少女はどことなく恥じらいつつ答えた。
「機械科」
 これに喜多川ははてと首を傾げる。
 機械―――というと、つまりはロボットということだろうか。
 単語に内包されたイメージの膨大さに思い悩む彼の姿に、は拗ねたように唇を尖らせた。
「ど、どうせ汚そうとか、底辺っぽいとか、女がやることじゃないとか、根暗そうとか思ってるんでしょう」
「なぜそうなる……?」
 確かに彼女の見た目のイメージ、『文学少女』と機械科という単語はなかなか結び付けられないが、それは決してネガティブな意味ではない。
「あまりそういう方面の知識は無いけど、楽しそうだと思うよ。どんなことを学ぶんだ?」
 声や言葉、仕草や瞳に嘘偽りが無いなんてことは、もはやにも解りきっていることだ。
 正直とは美徳だ。時として人を傷つけることもあるだろうが、しかしそうであることにさえも企みや裏がないのであれば、それは清々しく人の目に映るだろう。
 は指折り数えて彼に教えてやる。
「製図とか、情報技術とか……溶接なんかもやるし、電気配線の図面見たり、フォークリフトの免許取ったり」
「持ってるのか?」
「まだ。でも動かし方なら知ってます」
 へえ、と喜多川は好奇心によって瞳をきらめかせてわずかに身を乗り出した。幼い頃から絵画の世界にどっぷり浸かってきた彼にとって、の語る技術者的な世界観は新鮮なものだったのだ。
 彼は子供のようにもっととねだり、はこれにいくらか面食らいつつ応えてみせた。
「設計して、実際に作って動かしたり……」
「どんな物を?」
「わ、私はその、いわゆるパワーアシストスーツを」
「それはどんなものなんだ?」
「ええと……」
 長い前髪を指先でいじりながら、少女は照れた様子で語る。
「こう、身体に装着して、危険な作業や力仕事を補助したり、義手や義足みたいに身体の動きが弱くなった人を助けたりするもので……私がやったわけではありませんが、介護の現場や海外の工場なんかでは実際すでに取り入れられていて……事故や怪我のリスクが減って、その分効率が上がったそうです。日本ではまだそこまで広まっていませんが、つまりそれは、これから先大きな市場に発展するということで……!」
 ……最後のほうはやや早口になっていた。また少女の頬は照れや恥じらい以外のもの、興奮によって紅潮している。
 喜多川はそんな彼女の様子を微笑ましく見守っていたが、しかしは途中でハッと動きを止めると浮かしかけていた腰をそろそろと椅子の上に戻してしまう。
「どうしたんだ?」
「いえ、あの、こんな話をしてもつまらないですよね」
「なぜ?」
「だってあなたは芸術家でしょう。興味ないんじゃありませんか?」
 テーブルの上で組んだ指先をもじもじと動かしながら吐き出された声には、相変わらずどこか拗ねたような色がある。
 喜多川はふうむと一つ唸ると、長く細い人差し指でトンとテーブルを叩いて抗弁を開始した。
「それは世に広く知られる芸術そのものへの誤解と言えるな。君なら知っているだろうが、すでに鉛筆を手に人と遜色なく絵を描くロボットは存在している。また機能性とは別に機械のデザインは俺たちのような芸術家の仕事の一部であること言っていいはずだ」
 目を丸くするの前で、指がまた拍を付けるようにトンとテーブルを鳴らす。
「このことから考えても、ロボットとアートは決してかけ離れたものではないだろう。デザインという一点に絞れば工業のみならず産業や環境、あらゆる分野において機械技術とアートは文化という統合点に向けて足並みをそろえ、感性というカタチの無いものを技術という形に収めて人々を、使用者だけでなく見る者さえもを楽しませ、快適な生活と人生の歓びを約束するものとして―――」
 やっぱり彼も早口だった。
 そして今度はが微笑ましく彼を見つめる番でもあった。あまり口数が多くないはずのこの少年が饒舌に、瞳を輝かせて語る様はの心もまたよく弾ませている。
 当然のことかもしれない。
 何故なら彼は己の手の中に隠した≪宝≫を自慢げに掲げ、彼女に誇ってみせているのだ。
「ロボティクスとは少し離れるが、スチームパンクやサイバーパンクといったカテゴリーを主に構築された世界を描いた絵画など、それこそ無数に存在する。それに……」
「それに?」
「メカが嫌いな男はいない」
 何故か彼は自慢げである。
 は脱力して、くつくつと喉を鳴らして笑い出した。
「くくっ……それもそうか。じゃあ、こういうのはどうかな」
 また彼女は腰の後ろ、背もたれとの間に挟んだ鞄を漁ると、タブレットPCを取り出して彼の前に突き付ける―――
「これは?」
「私の作ったパワーアシストスーツの3Dモデル。これはまだ設計段階だけど……」
 液晶ディスプレイには外骨格とでも言い表せそうな形状の、テクスチャの貼り付けられていない素のポリゴンモデルが映し出されている。
 喜多川は腰を浮かせてますます身を乗り出した。
「おお……! 素材は? スーツと言うからには着用するんだよな? 」
「そうだよ。素材は主に強化プラスチックと、一部は液晶ポリマーを採用する予定。今映してるこれは各部に装着させたセンサーユニットが着用者の行動を、着用者に意識させずに補助することで最大で八倍の力を発揮することができるんだ。私が装備すれば、キミならそうだな、二人か、姿勢によっては三人くらいは持ち上げられるかな?」
「三人……? すごいなそれは、どういう姿勢になるんだ……いや、それより動力はなんだ?」
「これ、このユニットは背部の電池で動いているんだけど、一部の関節はバネ式を採用することでバッテリーの稼働時間を最大で五時間まで延長させることに成功していてね、それでね……」
 もまた腰を浮かせ、ペンを手に拡大縮小、回転をさせてますます饒舌に、熱っぽく己の制作したモデルの仕様をとうとうと語る。
 肘が触れ合っていることにも気が付かずにタブレットを挟んでああだこうだと盛り上がる二人を店内にいた他の客や店員たちは不思議そうに見つめていたが、二人は気が付くこともなく、また気が付いたとしても構わずにこれを語り合った。
「しかし見た目がいささか無骨過ぎるんじゃないか? 介護の現場で用いることを想定するのであればこの辺りをもう少しやわらかく……」
「いや駄目だ、それはセンサー部だから削れない。位置を変えるのも難しいな」
「であれば、こういう……のはどうだ?」
「ああ! これはいいな。単に形を変えるだけなら関節部にも影響しないし……キミが良ければこれを採用しても構わないかな?」
「ちゃんと俺の名を制作協力に記してくれるんだろうな?」
「キミ意外とちゃっかりしてるな。まあいいよ、いいさ。手伝ってもらっちゃいけないとは言われていないし」
 苦笑するの手が喜多川からペンを奪う。忘れないようにと言うことだろう、彼女は手早くテキストノートを起動させ、そこに喜多川の名を入力した。
 見慣れない筆跡が己の名を記すことに、少年は何故かひどく安堵した。この際祐介の祐の字が礻から亻に変化してしまっていることからは目をつむろうと思うくらいには。
 そして彼はすぐそばにある少女の丸い頬とその上に影を落とす丸眼鏡に目を移す。好奇心はずっと落ち着きなく彼を促していた。
 ―――興味があろう、当然だ。顔を隠す以上なんらかのわけがある。その者が好ましかろうが憎かろうが、隠されれば気になるもの。ましてチラと覗える彼女の顔に傷や障害のようなものは見当たらぬ。
 であれば、暴き立てることになんの憂いがあろうか。
 心の内から湧き上がる妖しい誘惑に逆らうこともせず、少年は密かに腕を伸ばした。
 細い手指が丸い頬に触れる。少女は軽く驚きこそすれ、逃げようとはしなかった。さっと赤みの走った頬を指先が撫でる。
 あとほんの少し指を動かせば、彼女の顔を隠す物を奪い取れるだろう―――
 けれど結局今回も、彼がこの好奇心を満たすことは叶わなかった。静かな店内にアラーム音が鳴り響いて彼を正気に引き戻したのだ。
 耳慣れた高音に慌てて腕を引き、鞄の中に放り込んだままにしてあったスマートフォンを取り上げる。画面に表示された通知を指で引っ張ると、店内はかすかなざわめきを取り戻す―――
 アラームは彼に寮の門限が近いことを教えていた。
 なにかに夢中になると寝食どころか時間や場所も忘れてしまう己を戒めるために自ら設定したものだが、今この時ばかりはこれを設定した過去の己が心底忌々しく思える。
 せめてあと五分。いいや、あと十秒待ってくれていれば……
「……門限?」
 まだ軽い驚きに満ちた声でが問いかける。喜多川は小さく顎を引いて肯定を示した。
「すまない、もう行かなければ」
「うん、そうだな。もうこんな時間か。引き留めちゃったな」
「それはこちらの台詞だ」
 苦笑しつつスマートフォンをまた鞄の中に押し込んで、喜多川は腰を上げようとする。
 はまだ座したままだ。
 そのことに彼ははっとして眉を寄せた。
「しまった……君、家はどこだ? 少しくらいなら遅れても問題ないから、よければ近くまで遅らせてくれ」
 胸に手を当てて真摯な気持ちとともに述べられたこれに、はふっと唇を緩ませる。
「キミってほんとに紳士だな。でも大丈夫、家は駅からそう離れてない」
「そうか。ご家族に連絡は……」
「必要ないよ。家には一人だ」
 だから帰りが遅いことを心配されることも咎められることもないと語る彼女に、喜多川はあれ、と首を傾げた。
「帰りが遅いのか?」
「えっ?」
「先ほど、ご両親と祖父と同居しているようなことを」
 そう言ったよな。
 確認するように探る視線を向けられて、はため息のような声を漏らした。
「あ……」
 途端、少女の表情がすーっと青ざめ。喜多川には窺えないが、丸眼鏡の下の瞳が虚ろになる。それはずっと忘れていた大切なことを思い出して、自らのしくじりを自覚したかのような顔色だった。
「……さん?」
 再び首を傾げた彼に、は唇を噛んで首を横に振る。髪が揺れて、またあの甘い花の香りが少年の嗅覚を刺激した。
「な……なんでもありません。帰りましょう?」
 立ち上がった彼女の表情も瞳の色も喜多川には分からない。
 ただ彼は別れることをひどく惜しく感じて店を出たところで声をかける。
さん」
「……なんですか?」
 が俯いてしまうと、長い前髪と眼鏡に遮られて喜多川にはもう彼女の顔を覗くことは叶わない。
 それでも彼は果敢に問いかけた。
「また会えるか?」
 そこには表裏の存在しない温かみが存在していた。有為であるとか、価値があるとか、そういった枠を超えて目の前の少女と親しくありたいと願う色だ。わずかばかりの下心も垣間見えるが、それは性差ゆえのものであって、特別な意味を持つわけではないのだろう。
 しかし女はどこか虚無的な笑みを浮かべ、彼を置き去りにするようにふらふらと歩みだした。
「どうでしょうね。おやすみなさい、喜多川くん―――」
 ひらりと振られた手にはかろうじて拒絶の意思が詰め込まれている。
 これを読み取ってしまった少年はもうなにも言うこともできずにその背を見送るほかなかった。
 遠ざかって小さくなり、人混みに紛れる姿に彼は首を傾げる。どうやら機嫌を損ねてしまったようだと。
 なにか不手際をしただろうかと彼は少しだけ思い悩んだが、彼もすぐにその場を立ち去った。
 どうせ今日みたいにまた会えるだろうと楽観的に考えていたのだ。


 夏休みは続く。
 そして当然、怪盗団の活動も。
 この日はパレスの攻略後、まだ日も高いからという理由から、喜多川以外の全員が屋根裏部屋に居座ってさしたる意味もない雑談に興じながら疲れが抜けるのを待っていた。
「ジャンピングババア〜?」
 そんな中で胡乱な声を上げたのは、手近なプラ板をうちわ代わりに風を煽る坂本だ。
 彼の前方、テーブルとその上に乗せられた菓子やジュースの類を挟んだ対面では、高巻が両の拳を握って真剣そのものの表情を浮かべている。
「なんかね、最近そういう噂が流行ってんだって」
「へー」
「ちょっと真剣に聞きなさいよ!」
「いやぁお前……おま……ジャンピングババアて。ババアて。なんなんそれ。ジャンプすんの? ババアが? そりゃおばあちゃんだってジャンプくらいするわ」
 心底呆れて馬鹿にした坂本の眼差しに、高巻は長い脚をバタつかせて腕まで振り回した。
「ムッカつく! 竜司のくせに! 竜司のくせにぃ! そもそも名付けたの私じゃねーし!」
「じゃあ誰よ」
 へっと嘲るような笑いを漏らした坂本に答えたのは唇を尖らせた高巻ではなく、黙々と学校図書を読み進めていた少年だった。
「ジャンピングババアっていうと、かなり昔に流行った都市伝説だよな。ふと空を見上げると奇っ怪な影が大きな跳躍をしている姿が見える。鳥か? 飛行機か? はたまたハクビシンか? いいや老婆だ、みたいな話」
 パタン、と音を立てて少年の手の中で本が閉ざされる。
「原型はおそらくバネ足ジャック。ジャンピングジャックの伝承と百キロババアが結びついてできたって言われてるんじゃないっけかな」
 いずれにせよ―――
 少年もまたちょっと憐れみの籠められた目線を高巻に送った。
「小学生レベルだ」
「ぬ、ぬあーっ! 違うんだってばぁ! 今ホントにそういう噂が……っていうか、ムービーが出回ってんのぉ!」
「それなら見たことあるかも」
 騒がしい話題に乗ったのは一人真面目に今回のシゴトに掛かった期間や出費、敵シャドウとの交戦結果、彼我の戦力分析をノートに書き付けていた新島だった。
 これに高巻が我が意を得たりと胸を張る。
「ほらね! 真もこう言ってるし、私の勝ち!」
「一体なにと戦ってるんだ……?」
 モルガナでさえも呆れ返った声を上げる始末だ。
 高巻は慌てた様子でスマートフォンを手繰り、一拍の後にそれをテーブルの上に置いて示してみせた。
「ほらほら、これこれ」
「はー?」
 興味もなさそうに、しかし律儀に画面を覗き込んだ坂本の背に猫と少年が伸し掛かる。
 呻いた坂本に構いもせず高巻の指が表示されていた再生ボタンをタップする―――
 どうやらどこかのオフィス街を撮影しているらしい。画面の殆どが暗色に占められ、ザラザラとしたノイズが走っているのは撮影時刻が夜間だからだろう。
 撮影主らしき男の声が妙にはしゃいだ様子で喚いた次の瞬間、カメラが揺れて上空にパンする。
 遠く繁華街の輝きによって薄っすらと明るく照らされた空、街灯のむこう―――
 サッとビルとビルの間を抜けた影がある。
 カメラはそれを追って激しく振れる。
 影はビルの壁に取り付き、虫や爬虫類のように這いつくばって壁面を駆け上がっていく。やがて十階建てのビルの屋上に辿り着くとカメラが影の姿を捉えようとズームされる。それは人のような形をしていた。二本の足に腕、細身の体……
 その顔は闇の中にあって窺えないが、あともう少しズームすれば歳格好くらいは判別できそうだ―――
 そう思えた次の瞬間、人影は数歩後退り、助走をつけてビルの屋上から飛び跳ねた。
 撮影主が声にならない悲鳴を上げ、動揺したのかカメラは激しく揺らされる。
 しかし画面には再び人影が映される。それは地に叩きつけられることなく、また別のビルの屋上を疾走していた。そしてまた大きく身をかがめてから高く跳躍する。
 ムービーはその人影が隣のビルの壁に取り付いたところで終了した。
「……ね? ジャンピングババアでしょ?」
 高巻はやっぱりどこか自慢げな様子で言ってのけた。
 しかし少年と猫を背から落とした坂本のウケは悪い。伸し掛かられた以上に渋い顔をして「アホくさ」とかぶりを振っている。
「どこがババアだよ。全然若そうじゃねーか」
「だから名付けたのは私じゃないって」
「というかコレ、どっちかといえばスパイダーマンじゃない?」
 猫とともに床から起き上がった少年は再び高巻のスマートフォン、同じ動画を再生させて見入っている。
「肝心のジャンプの瞬間はほとんど見えないし……」
「合成ってこともあるかもしれないよね。あるいはフルCGということもできるのかしら」
 懐疑的な彼の言葉に新島が苦笑しつつ同調した。
 高巻はつまらなさそうに唇を尖らせて、己の持ち物を回収する。
「なによもー……怪盗VS怪物って楽しそうだと思ったんだけどなぁ……」
「いやコレ現実だろが。どうやって倒すんだよ」
「メメントスにうまいことおびき寄せて……?」
「ムリムリ。つか、こういうの一番喜びそうなヤツが今日は帰っちまったし、広げようがねぇだろこの話題」
 顔の前で手を振る坂本に高巻の頬が風船のように膨らんだ。それでも崩れない愛らしさというものにか、モルガナはトロンとした瞳で彼女を熱っぽく見つめている。
 その頭上でパタンと新島のノートが閉ざされた。彼女はまた、手にしていた筆記用具をキャラクターものの筆箱にしまいながら言う。
「なにかまた描いてるんじゃない?」
 これに若者たちは立ち寄りたい所があるとかで早々に駅に向かった怪盗団の芸術方面担当の変人の姿を各々脳裏に思い描く。
 喜多川がなにかに興味を抱いたり好奇心を刺激されてふらりとどこかへ出掛けるのは珍しいことでもない。そこはそれ、怪盗団として活動している時でもなければ、各々のプライベートは守られるべきだと仲間たちも分別を弁えていた。
 しかし一人、高巻がうーんと唸る。
「杏、どうした?」
 すかさず頭目が問いかけるのに、彼女は少し戸惑った様子で首を振った。
「んーん、なんでもない。予想外れてたら祐介に悪いし」
「そう」
 であれば、たとえリーダーの任を仰せつかる身であってもしつこく追求することはよそうと彼は身を引いた。
 いずれにせよ、怪盗団は様々な意味で順調であると言えるだろう。
 現在取り掛かっているパレスの攻略も大詰めに差し掛かっている。あとは予告状をあの子に渡してオタカラを盗み出すだけだ―――
 傾きつつある夏の陽を眺めて、少年は拳を握った。