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03:Do That Which You Want
季節は完全に夏に入り、学生たちにとっては待ちに待った夏休みが始まってすでに一週間が経過した。短い夏を余すことなく楽しもうと通り過ぎる人で駅から続く通りは溢れかえり、そこを行く人々自身にさえも芋洗いとはまさしくこのことかと思わせている。
日陰の中にいても肌をひりつかせる暑さの中、喜多川は一人ぼうっと突っ立って過ぎゆく人をじっと見つめていた。
人々のささやき声の中に時折『怪盗団』という言葉が現れることにくすぐったさと自尊心が満たされる感覚を覚えながら、しかし彼は暑さ以外の要因からムッと眉を寄せた。
現在最優先で取り掛かっている≪シゴト≫もまた、受動的に関わらざるを得ない状況に追いやられた結果によるものだと思い出したからだ。
けれど解決のための糸口も、それを成し遂げるための動機もすでに見つかっている。後はただ、まっすぐ登る道を確保するだけ。
そして今日はそのための安息日だ。
連日の寝苦しい夜に元は田舎暮らしの頭領がすっかり参ってしまったらしく、今日は一日冷房の効いた場所に篭もるのだと昨日パレスから引き上げる折、切実に訴えていた。
今ごろどこにいるのやら。
喜多川は少しだけ彼の行方を想像してみたが、皆目見当がつかなかった。
絵を描くことにばかり夢中になって友達だなんて呼べる相手をろくすっぽ作ってこなかったこの少年は、そのことにううむと唸った。
友達……そうとも、怪盗団のことを抜きにして、同年代の、しかも同性の友達というものが、今までどれくらいいただろう。他者によく奇妙だとか変だとか、突飛とか奇矯と表される己に嫌な顔一つ―――二つ三つ、四つ五つくらいはしても、それでも付き合ってくれる連中なんてものは貴重だ。
傍目には分からないが、少年は思い悩むような仕草のまま心を弾ませるという器用な真似をしてみせた。
もっとあの連中と仲良くなれたらいいなぁと素朴な思いを抱き、しかしそれを表立って示すのがなんだかとても気恥ずかしかった。この場には彼一人だというのに。
このように彼が思うのにもちろんわけがある。気に食わないことが多々あっても、二度も死線をともに潜り抜ければ意識の変化があるのは至極当然のことだろう。
なにより相手を深く知れば知るほど、彼は己の視界が広がる感覚をよく味わえた。それは描くものにも良い影響をもたらしている。
技術と知識、研鑽と時間ももちろんまだ足りていないだろうが、この少年が今最も欲しているのはもっとたくさんの経験だ。
それは人と人との繋がりによって深まり、強く鮮明な色彩と表現をよりよく彼に教える最良の教科書だった。
だからこそ彼は何一つ物怖じせず、ただちょっと見覚えがあって名前を知っているというだけの相手を見つけて声をかけることができたのだ。
「さん!」
さて、呼びかけられたほうであるところのは、彼のこの明るく楽しげな声に、
「げっ」と小さくうめいた。
相変わらずのゆるい三つ編みと長い前髪、ラウンド型フレームの眼鏡。服装はさすがに夏休みということもあって制服ではなかったが、ラフな格好はこれから気安い友人とでも遊びに行くかのようだ。
でも、今のうめき声はなんだろう。
喜多川少年は小さく首を傾げた。
「今なにか言ったか?」
「いぃえぇ! こんにちは喜多川くん!」
はブンブンと首を激しく左右に振って、やたらと元気よく挨拶をする。
これもまた人によっては奇行と受け取られかねない動きだったが、相手が喜多川であることが彼女の幸いだった。
彼はなんの裏表もなく口元を緩めて挨拶を返した。
「ああ、こんにちは。よく会うな」
「んあー……どうやら行動範囲が被っているようですね」
「そのようだ。君はここでなにを? また待ち合わせか?」
「まあ、そんなようなものです」
ふうんと大した興味も無さそうに頷いて、しかし次の瞬間喜多川は彼女の足元にあるものを目ざとく見つけて身を乗り出した。
「それは?」
彼の視線の先には、の女子にしてはやや筋肉質な脚と細い足首、バックストラップのサンダル、そして足首からふくらはぎまでを覆い隠す包帯があった。
は彼から見えないところで思い切り顔をしかめ、包帯を隠すようにすっと脚を引いた。
「あー、これはちょっと……そう、ちょっと、ミスをしてしまっただけです」
「ミス?」
追撃には返し矢を放った。
「そんなことより、あなたこそここでなにを? 誰かを……あるいは、何かを探していたんですか?」
しかし必ず当たるはずのこれに喜多川はなんと言うこともない、寸暇を与えることもなく、またやはり裏も表もなく、正々堂々と己の行動を詳らかにしてみせた。
「人間観察だ」
「は?」
「行き交う人を見て、観察していた」
はしきりにまばたきを繰り返すことしかできなかった。
「……おかしいか?」
そんな彼女の態度をどう思ったのか、喜多川はほんの少しだけ不安そうな面持ちで問いかける。
は慌てて首を振った。
「そんなことは! ただ私はてっきり……」
あ、と少女は言葉を止める。余計なことを言いそうになったと下唇を噛むが、喜多川はこの誤魔化しを許さなかった。あるいは、その意図に気が付かない。そういう意味では、この少年が相手であることは彼女にとっての不幸だった。
「てっきり、なんだ?」
は苦虫を噛み潰したような顔をしてもごもごと口内で何事かをこね回す。
それはやがてこのような言葉として転がり出た。
「え、絵の題材になるような、モデル? を、探しているのかな、と」
そして喜多川は再び追撃を行った。
「俺は君に画家だと言ったことがあったか?」
無意識的に、なんの裏も意図もなく吐き出されたこの疑問の声に、は今度こそ失態を演じたと言わんばかりに奥歯を噛んだ。
「あ―――あの、その……そう、生徒手帳に! 所属学科が!」
「ああ、そういえばそうか」
ぽんと手を打って、喜多川はにこやかにを見下ろした。
その瞳の中にあるのは友好的な色でしかなく、この真っ直ぐな好意の現れに少女はまた顔を逸らして忌々しげに口内で言葉をこね回す。
「なんなんだよぉ……ターゲットを探しているのかと思ったら違うし、妙に鋭いし……もしかしてコイツ、探りを入れてるのか……?」
「さん?」
聞き取れなかった言葉の意味と意義を確かめようと呼びかけると、少女は過剰なまでの反応を示した。
「はいっ!?」
バネ細工のように勢いよく背筋を伸ばし、気をつけの姿勢を取った彼女に、喜多川もまた目を丸くして硬直する。
二人の間に沈黙とそれに覆い被さる喧騒が横たわった。
つうっとの頬を暑さ以外のものから湧き出た汗がつたう―――
喜多川はまばたきを繰り返し、やがて低く問いかけた。
「やはり怪我が響いているのか?」
声は気遣いと優しさに溢れている。
限界だったとは、の弁だ。なにを考えているのか解らないこの少年を相手取るのは、彼女には荷が勝ちすぎていたらしい。
はブンブンと首を左右に振ると、サンダルの踵を鳴らして一歩後退った。
「わ、私、ちょっと所用がありますのでここで―――」
失礼します。と続くはずの言葉を、しかし彼女の手の中にずっと握られていたスマートフォンが遮った。
デフォルトのまま設定変更されていない着信音がざわめきの中に響いて、少女はほとんど反射的に指先を動かしてしまう。
「あっ、あ……」
しまったと喜多川を見上げる瞳は困惑を極め、通話を開始してしまった機器との間を行き来する。
さながらそれは散歩に行くと騙されて病院に連れ込まれた犬ようだった。
微笑ましさすら覚えつつ、喜多川は小さく笑って「どうぞ」と促してやる。
はホッと安堵の息をついて彼に背を向けた。
「もしもし……遅いじゃないか。今どこに……」
通話の内容を聞くともなしにそばの柱に背を預けて、喜多川は彼女の様子を興味深く見守った。
見た目だけなら今どき珍しいくらいに大人しそうな『文学少女』なのに、中身はずいぶんと粗忽者であるらしい。それは不快であることと繋がるわけではなかった。どちらかと言えば親しみやすさをこの少年には与えている。
それを少女のほうが喜ぶかどうかはまた別の話だろうが。
少なくとも彼女は通話相手の発言に、すっかり己が誰の前に立っているのかを忘れてしまったらしい。
「はあぁっ!?」
恫喝的な声を上げ、通話回線の向こうの相手にドスの利いた声でなにごとかをがなり立てている。
「ふざっけんなよ! ちょっと……待てよオイっ!」
つい今しがたまでお上品に振舞っていたのが嘘のように荒々しい言葉を使い、一方的に断ち切られた接続に舌打ちまでして、わなわなと腕を振るわせている―――
いっときも目を離さずにいたはずなのに、そこに立っているのがまったく見知らぬ人物のように思えて、喜多川は恐る恐ると声をかけた。
「……さん?」
「ハッ!?」
「ずいぶんと……憤っていたようだが、大丈夫か?」
「あ、い、いえ、その……ドタキャンされてしまって……」
「ああ、なるほど。それは災難だったな」
「はい……」
項垂れて、彼女はまた文学少女に戻った。
けれどそれは表向きだけのようで、俯けた顔と瞳には企みがあった。
「いや、これはチャンスか……? このとぼけたやつがどれだけ掴んでいるか知るには……」
「ん?」
首を傾げた喜多川に、はすっかり『文学少女』の仮面を取り戻し、満面の笑みを作っては彼に差し向けた。
「喜多川くん! その人間観察の対象―――」
白く滑やかそうな手が胸を叩いて、足は一歩前に踏み出される。雑踏の中にあって、その踵が立てた音は喜多川の耳によく響いた。
ラウンド型のフレームの下、どうやら度は入っていないらしいグラスの下の瞳は黒々としていて、よく少年の姿を映している。
彼女は朗らかな声でもって告げた。
「私にしてみませんか?」
そして少年は子猫に与えられたおもちゃのように振り回された。
というのも、観察ははじめ映画鑑賞という穏やかな形態をとっていたが、この二十年ぶりに続編が製作されたSFアクションの大作にすっかりテンションを上げたが喜多川を引っ張って次に向かったのはゲームセンターの一角を占めるダーツコーナーだったのだ。
最初はグーから始まって、コークの結果先攻を奪取したは手本を見せてやると言わんばかりに鮮やかなトリプルを決めてみせた。
そうしてゼロワンから始まり、スタンダード・クリケット、カウントアップ―――最後にイーグルアイに挑んで、これは二人揃って惨敗し、ノーカウントゲームと相成った。
これ以外のほとんどにおいてはその手腕を見せつけるように勝ちを奪い取っている。見た目と剥離したその手並みに少年は目を丸くして、しかし感心とともに彼女を褒め称えた。
「すごいな、さん。意外……と言っては失礼かもしれないけど、こんな特技があるとは」
「人は見かけによらないってことですよ」
快活な笑い声もまた彼女の見た目からはちょっとかけ離れている。そして喜多川にとってはこれらはいずれも快いものだった。
とはいえ、精神が満たされたところで肉体的な披露や空腹は覆し難い。他の屋内スポーツを楽しむ選択肢もあったが、はまた彼を引っ張って手近なカフェに引きずり込んだ。
若者で賑わう店内は騒がしいが、二人が着座したのは店内の奥まった比較的静かな席だった。注文を揃えた店員が遠ざかるのを見計らってかけられた声がよく耳に届く程度には。
「疲れましたか?」
言葉は気遣わしげだか、その声は挑戦的だった。喜多川は苦笑しつつ息をつき、ゆるく首を振って答える。
「大丈夫だ。ただ……」
「ただ?」
「こんなふうに遊んだのは久しぶりだったから」
どことなく感慨深げなこの台詞に、の眼鏡の下の瞳が細められる―――
窓辺の席から屋外を見つめる喜多川に、たとえ見つめていたとしても確認することのできないどこか剣呑な光は、鋭く彼の動きや表情を観察している。
やがて少女は口元に笑みを湛えて言った。
「お忙しくされているんですね。なにか部活や……校外で『活動』を?」
「いや、そういうわけじゃない」
「そうなんですか? でも、あのとき……手帳をお渡ししたときに一緒にいた人たちとは、遊びに行ったりなさらないんですか?」
言葉に、仲間の顔が喜多川の脳裏を過る。
彼は少し熟考して、やはり小さく首を振った。
「彼らとは……遊びに行くこともあるけど、頻繁にというわけでも……」
「ご友人ではないと?」
この問いかけに、喜多川は再び思案に深く沈み込んだ。怪盗団の仲間たちは、己にとって果たしてどのような存在だろうかと。
遊びに行くこともある。けれど集まるのは、怪盗として活動する時間のほうが圧倒的に多いではないか。
であれば彼らは、友人ではないのか?
喜多川はじっと己を見つめる少女の瞳の中、そこに映る己自身と対峙する。
友人でないのであれば、なんだっていうんだ。心の内を大きく占めつつあるあの騒がしい連中を、己はもうとっくに愛おしく思い、愛着すら抱いているというのに。
やがて彼は薄い唇を開いて答えを述べた。
「あいつらは仲間だ」
はキョトンとした顔をして、彼の答えをオウムのようにくり返した。
「仲間……ですか?」
「ああ。大げさかもしれないけど、しかし他に表すべき言葉が見つからないんだ」
少年はなにかを確かめるように拳を握りしめた。そこに物質的なものは存在していなかったが、しかし彼にとっては確かなものが宿っている。
はそんな彼の一挙手一投足をじっと見守りつつ、眼鏡の下の瞳をしばたかせた。
彼女には決して理解できないものを見つめる少年の眼は、ひどく奇異なものとして映った。
それでもは取り繕うように言を発する。
「素敵な方たちなんですね」
「煩わしく感じることも多いよ」
苦言を漏らしつつも少年の口元は緩んでいた。その姿は彼が心の底からその手の中にあるものを愛おしんでいることの証明のようだ。
は少しの間だけ口を閉ざし、なにかを考え込むように視線を遠く、上方へ投げる。釣られるように喜多川がその視線の先へ目をやるが、彼女がなにを見ているのかは分からなかった。
それもそのはずで、は特別なにか物体を目に映しているというわけではない。
やがて彼女は小さくかぶりを振って視線を少年のまだ握られた拳に戻して次の質問を投げかけた。
「心の怪盗団の噂はお聞き及びになっていますか?」
唐突な問いかけだが、喜多川には不自然ではないようにも思えた。
秀尽学園の鴨志田、高名な日本画家斑目、渋谷の裏側を牛耳るギャング団の長金城……そして今、メジェドから突き付けられたXデーの予告により、その存在は広く世間に広まり、人々の関心を強く引き寄せている。
もまた普遍的な女子高生らしく、噂の怪盗団に興味があるのだろう。
そう納得して、喜多川は頷いてみせた。
「知っているが、それがどうかしたか?」
己がその一員であるなどとはおくびにも出さず微笑む彼に、もまた目を細めた。
「最近すごく流行っているみたいじゃないですか。あなたの心を頂戴する……でしたっけ?」
「そうだな。奇妙なことだが、そのように綴られた予告状を受け取った者たちは皆、その後人が変わったように己の罪を告白したそうだ」
「お詳しいですね。喜多川くんはこういった噂のたぐいは信じないタイプかと」
「なぜ? 人口に膾炙する噂というものは即ち人の心の有り様を示す一つの尺度だ。俺が描きたいと挑むものに限りなく近い題材と言えるよ」
「ああ、そうか。画家を目指してらっしゃるのでしたね。あなたは……どんなものを表したいのですか?」
「あらゆるもの」
「すべて?」
「ああ、そうだ。世にある美しいもののすべて……上手く言葉にできないけど、ここに」
少年の細く節くれだった手が己の胸、俗に≪心≫が宿されていると考えられているところをぽんと叩いた。
「この中にあるなにかがそうしろと俺に言うんだ。俺自身もそう望んでいる。だから、どれだけ時間が掛かろうとも、きっと果たしてみせるよ。それが俺の夢なんだ」
語る少年の瞳は少しだけ照れくさそうに手元に落とされている。そこには確固たる自信と揺るぎない信念が宿り、周辺光を取り込んでキラキラと光り輝いていた。
はそれをじっと見つめている。彼女の瞳にはまるでなにかを懐かしむかのような色が湛えられていた。
「きっと―――」
声もどこか郷愁に似た、言い表し難い感情で溢れている。
ただ、これを耳にする少年は、知り合ってからここまでの短い間、それでもいくらかおしゃべりをしてきた中で、彼女のこんな優しげな声を耳にするのは初めてだった。
一言たりとも聞き逃すまいと、そうしたくないと聴力に集中する彼に、は心を込めて預言めいた言葉を優しく差し出した。
「きっとキミならできる。キミと同じことを言って、夢を果たした人を私は知ってる。だから必ず、そうなるよ」
少女の表情は相変わらず窺えない。天井から降り注ぐ強い人工光が彼女の伊達らしい眼鏡に反射されて、それを覆い隠してしまっている。
けれど少年は彼女の口元、穏やかそうに緩められたそれが示すものをよく理解していた。
深く慈しむような親愛の情と共感に似たもの。
喜多川祐介はより強く、心の底からこの少女のことをもっと知りたいと願った。
それでも学生にとって時間は有限で、気が付けば夏の日差しが茜色に街を染め上げている。
はやおら立ち上がると「門限があるでしょう」と言うと、伝票を手に立ち上がって先にレジへ向かってしまう。
「あ、さん」
「奢らせて。いい話を聞かせてもらったお礼」
それは男としてあまりに情けない―――
と反論したかったが、すでに今日の出費は十分な痛手の範疇に入っている。この上致命傷に至っては多方に迷惑がかかりそうだと、少年は恥を偲んでこの提案を受け入れた。
学生は夏休みでも、社会人は通常運転だ。カフェを出た二人の周辺にはスーツ姿の大人たちがチラホラと見受けられた。
空は茜を通り過ぎて夜の帳を落とし始めている。辺りは充分明るいが、これはあちこちに設置された街灯のおかげだろう。
「……今日はごめんなさい、結局私に付き合わせただけでしたね」
その人工の明かりを浴びながらふり返った少女の言葉に、喜多川は小さく肩をすくめてみせた。
「そう言われれば、そうかもな」
「ご迷惑じゃありませんでした?」
この問いに彼は小さく笑ってみせた。
「それはもっと早い段階で訊くべき事柄じゃないか?」
「う……」
「なにより、俺がここにいることが答えだよ。わざわざ問うのは不粋というものだ」
遠回しに楽しかったのだと告げられて、は少し困ったように口を引き結んだ。
後ろ手に組んだ指先を落ち着きなくすり合わせて、おずおずと彼を見上げもする。
「じゃあ……楽しかったですか?」
喜多川は大きく首を縦に振った。
「もちろん。できれば―――」
またこのような機会を持ちたい。
そう訴えようとする彼を、数時間前にも耳にした着信音が遮った。
「あ……」
「どうぞ」
促すと、は小さく頭を下げて喜多川から少し離れた。会話を聞き取ることはやはり叶わなかったが、どうやら相手は彼女にとって好ましい相手ではないらしいとみて喜多川はわずかに首を傾けた。
やがて短い通話を終えたはポケットに乱暴にスマートフォンをねじ込みながら戻り、申し訳なさそうに眉尻と頭を下げた。
「ごめんなさい、私、もう行かなくては」
「ん、ああ……」
「今日は本当にありがとうございました。それじゃあ!」
手短に立ち去ろうとする彼女に、喜多川はひどく寂しい気持ちになった。
なんだかまるで、この日一日を楽しんだのが己だけで、ただの一人ずもうだと言われたような気になったのだ。
そして彼は、理由は知れぬがそれが嫌だった。
「―――さん!」
気が付けば彼は大きな声で走り去ろうとする少女の名を呼んでいた。
果たしては立ち止まり、髪を揺らしてふり返る。そのことに喜多川の心臓は奇妙なリズムを刻み始めた。唐突に強く、早くなったかと思うと、次の瞬間には止まったように静かになる。
胸を押さえて、彼は問いかけた。
「俺は……俺は今日、楽しかったけど……君は?」
次の瞬間彼を襲ったのは胃の下を突き上げるような不安感だった。
彼は怯えていた。もしも「最悪。つまんなかった」と返されたらどうしようと、そうなったらどうやって挽回したらいいのか……なにをしたらいいのかなんて少しも解らなかった。
けれど返ってきた言葉と声、そして薄闇の中やっと見ることが叶った伊達眼鏡の下の彼女の表情に、すべては打ち壊された。
「それは……不粋ってやつですよ、喜多川くん」
いたずらっぽくはあるが、しかし満面と言っていい笑みがそこにはあった。
少年の心臓がひときわ強く鼓動を刻んだ瞬間には、彼女はもう再び背を向けて走り出していってしまう。その背もすぐに人波に紛れて見つからなくなった。
……取り残された喜多川は、しばらく茫然としてそこから動くことさえ叶わなかった。
ただ胸に己の鼓動と、目に焼き付いた彼女の笑顔と、耳には「必ずそうなる」と夢を肯定した優しい声。
暖かく柔らかな布団にくるまれているときのような、心地よくふわふわとした感覚が彼の全身を支配していた。
これはなんだろう。不安なような、でもすごく気持ちのいいこれは。
考えたが、しかし少年には解らなかった。
やがて我を取り戻した彼もまたねぐらに帰ろうとぎこちなく足を動かすと、そのつま先がカツンとなにか硬いものを蹴る感触がする。
なんだと見下ろせば、幾何学模様を描くタイル舗装の道の上に、アンティークゴールドのチャームが落ちている。おそらくこれを蹴ってしまったのだろうと拾い上げると、それは目に紅い石の嵌め込まれた犬の姿を象った物のようだ。
牙を剥いた犬の横顔はどこか禍々しいが、しかし精悍な顔つきからは一種の頼もしさのようなものも感じられる―――お守りと言われればそれはそれで納得できるデザインだろう。
「これは……」
つぶやいて、喜多川はそっとこれを手に握り込んだ。
もしかしたら彼女の物かもしれないと思えたのだ。彼女は去る前、乱暴な仕草でポケットにスマートフォンを押し込んでいた。そのときにこぼれ出たのだろう。
また次に会えたら渡そう。
そう思うと、少年の心はまたふわふわとした感覚に囚われる。
また次に会えたら……
彼にはそれが、とても楽しいことのように思えてならなかった。
……
日本の人口の実に二割が集中する首都東京の中心部においてなお人気のないそこで、少女が暗闇に紛れるように一人佇んでいる。
非常灯の仄かな明かりだけが頼りのそこで彼女の存在を示すのは、その手の中のスマートフォンからこぼれるかすかな光だけだ。
特別なにかのアプリケーションを起動するわけでもなく、じっと睨みつけられたそこには時刻が表示されている。
舌打ちが闇に響く。
するとこれを聞きつけたかのようにもう一人、暗闇の中に少年が現れる。
肩口まで伸ばされた明るい色の髪に、少女のように整った愛くるしい顔立ちと穏やかそうな笑み。
普通の女の子なら彼がこのように微笑んで眼差しを向けられれば、胸の一つもときめこうというものだろう。彼はそういう類の人間だった。
「お待たせ!」
しかし彼が声をかけて歩み寄った少女は規格外か、あるいはずいぶん長いこと待たされて苛立っているからだろう、じろりとこの少年を睨みつけると腕を組んで冷たい声を発した。
「遅いんだよ」
低く怒りのこもったこれに、少年は大仰に肩をすくめる。
「そう言わないでよ。前回はこっちが待ち合わせ場所と時間を変更されたんだ。お互い様だろ」
「こっちだって事情があるんだ。くそ、あいつ、ワザとやっているんじゃないだろうな」
ぼやいて爪を噛んだ少女に、少年はふっと鼻を鳴らして目を細めた。
「ふ、ふ……ずいぶん楽しそうだったね?」
込められているのは明るい感情ではなかった。嫉妬というよりは、小馬鹿にするような、侮辱的な色を多分に孕んでいる。
当然少女はぎゅっと眉を寄せて、再び彼を睨みつける。
「悪趣味」
「たまたま見かけただけだよ」
「どうだか」
ぷいと顔を逸した少女の横顔を眺めて、彼はその緩くウェーブのかかった豊かな黒髪に手を伸ばす。
「それで?」
その手が一房を持ち上げて弄ぶように指先に絡め取ると、少女は露骨な嫌悪感を示して一歩彼から距離を置いた。
「なにが?」
「『彼ら』―――いや、彼はどうだった?」
「ああ……警戒するほどのものじゃない。ただの子供だ」
きっぱりとした発言に、少年の影は低く喉を鳴らした。
「正直だなぁ……そこが君のいいところかもね」
「本心じゃないくせに、よく言うよ」
「まあね。美辞麗句を並べるのも僕の仕事の一つ……あ、そうそう、君って美人だよね」
話の流れからして明らかに心の籠もっていない言葉を述べる少年に、少女は憮然とした表情を浮かべる―――
その黒髪に彼はまた手を触れさせた。
「色仕掛けみたいなこともできたのは意外だな。あの人に教えたら喜びそうだ」
「やめろ。お前の『ご主人サマ』に協力する気はない。あくまでも目的が一致しているってだけだ」
返し刃に少年ははじめて笑みを歪ませた。けれどそれはほんのわずかな変化で、暗闇が誤魔化してしまう。
そもそもこの少女は彼に対して大した興味は抱いていなかった。黒髪に触れる手からまた逃れて、手のひらを上に腕を突き出す。
「お前も、必要な物を私に寄越すのが役目だろ。メッセンジャーらしく振る舞え」
「はいはい、ほら、お望みの物だ」
言って、少年はポケットからUSBメモリを取り出して手のひらの上にそっと置いてやった。
「中身は?」
「図面と警備の配置。入退室の記録と、ターゲットのスケジュール」
「金庫のパスコードは?」
「あー、それね。どうも特定のアルゴリズムで一日おきに変わるみたいでわかんない」
「役立たず」
「そう言うなよ。他の方面ならもっと手出しもできるそうだけど―――」
少女は忌々しげに首を振り、手の中のメモリをぎゅっと握り込んだ。
「これで十分だ。これ以上借りを作る気はない」
声と瞳には決意が満ち満ちていたが、しかし少年はこれを嘲笑った。
「そうかい? 前回はポカをしてしるようだけど?」
細められた目はまた、彼女の足元に巻かれた包帯を見つめている。
恥じるというよりは悔いるように脚を引いて、少女は再び腕を組んだ。それが防御姿勢であるとは、少年には明らかなことだった。
「これは……別にちょっと、噛みつかれただけだ」
「そのちょっとのおかげで僕は証拠の始末に駆り出されたんだけど」
「……次はそんなことにならない」
「そうしてくれるかい。僕だって暇じゃないんだ」
コツ、と少年の踵が床を叩く音が無人の空間に寒々しく響き渡った。彼はもう少女のなににも興味はないと言わんばかりに一歩後ろへ下がっている。
「暇じゃないのはお互い様、だろ」
「かもね。まあ、なんにせよ……」
カツンと音を響かせて、彼は暗闇の中に姿を消し、声だけが残される。
「君の『目的』が果たされることを願っているよ―――」
それきり少年は気配ごと消え、その場にはただ少女だけが残された。
彼女は小さく唇を噛み、足元を睨みつけて拳を震わせている。
チカッと天井に取り付けられた古ぼけた蛍光灯が瞬いて、己の役目を思い出したかのように輝き出す。照らし出されたそこは無人のビルの中の一室のようだった。
窓の外には深更に至ってもなお絶えない輝きに満ちた街並みが雑然と佇み、窓ガラスには少女の姿が映し出されている。
「おじいちゃん……」
無人の空間にいるはずもない誰かの名前をつぶやいて、少女は拳を震わせた。瞳には決意がきらめいている。
「絶対に、私が≪呪い≫を解いてみせるから……」
言葉とともに踵を返し、部屋は元の通りの無人に返される。やがて明かりが落とされると暗闇が満ち、あたかもそこははじめから誰も存在しなかったかのようになった。
無人の空間にはただ、一人きりの少女のつぶやきが反響する。それはこだまのように部屋を飛び出し、廊下を駆けて跳ね回るが―――
誰の耳に入ることもなかった。