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02:VANITAS
怪盗団の面々は渋谷駅の連絡通路に集合していた。
雨こそ降っていないが外は曇天、ガラスで区切られた内にもじっとりとした湿気が溢れている。
ぼんやりと行き交う人波を眺めていた高巻の手などは、落ち着きなくしんなりとした己の髪に触れている。
梅雨入りが宣言されてもう十日以上経っている。気象庁の発表よれば今年は昨年に比べれば短く済みそうとのことだが、だからといって今辺りを満たす不快指数が和らぐというわけでもない。
ウンザリしつつの高巻が足元に目を落とすと、こちらもまた落ち着きなくポケットやらカバンやらを探っている喜多川の姿が目に映る。彼は今日この場に現れてからずっとこうして何かを探す様子を見せていた。
「ねえ祐介、アンタなに探してんの?」
「んー……」
返事ともつかないうめき声を返す少年のすねをつま先でつついて、高巻は更なる反応を促した。
「ねえってば」
「いや、大したものではないんだ。ただちょっと……」
「なによ」
「生徒手帳が見つからない」
「はー?」
ささやかなやり取りに、高巻の隣でスマートフォンに目を落としていた坂本が首を突っ込む。
「落としたん? バッカだなー」
「確かに不注意だが、お前に言われるとひどく落ち込む。やめてくれ」
「え、ごめん……いや待て!? どういう意味だよコラぁ!?」
「けーんかはやめてー」
喜多川に辺りを包む湿気よりもじっとりとした目を向ける坂本の肩に、妙な節をつけながら言った少年が絡みつく。その手には冷感作用のあるボディペーパーが握られていて、坂本のあごの下をゴシゴシと拭いもした。
「ぎえっ、つめてぇっ」
「あ、いいにおーい。私にもチョーダイ」
「メンズ用だけど」
「腕拭くくらいはいいでしょ」
そんなもんかと応えて、彼は高巻の手にもボディペーパーを渡してやった。途端辺りにふわりと爽やかなフルーツの香りが広がる―――
先に喜多川が『怪盗グリム』の案件を持ち込んでからすでに十日以上が経過している。
その間に、怪盗団の前には新たな試練とでも呼ぶべきものが立ちはだかっていた。
それは若者で溢れるこの渋谷の市街を裏で牛耳るマフィア―――と言うとまるで映画の中の話のようだが、現実として彼らが取り仕切る違法薬物の流通により、怪盗団たちのすぐ間近、校内にまで被害は及んでいる。
薬物が無くとも詐欺や恐喝を行っているとなれば怪盗団が仕置をくれない理由はない。
とはいえこの件に関わることになった顛末はなにも義憤によるものばかりではないのが、いまいち彼らのモチベーションを上げ切らない要因の一つとなっている。
「はあ……」
爽やかな香りもメンソールの心地よい涼感も大した役には立たなかった。重苦しいため息も漏れようというもの。
細々とした依頼もいくつか抱えているし、グリムの件もある。梅雨時の湿気はまた陰鬱さを増長させた。
「ため息ばっかついてもどうにもなんねーだろ。シャキッとしろよ、オマエら」
モルガナの発破も虚しく漂うばかりだ。やる気が無いわけではないが、どうにも精細を欠くというのが少年たちの現状だった。
するとまるで空気を入れ替えようとするかのように、ここに一人の闖入者が登場する。
それは一人の少女だった。
ゆるく編まれた三つ編みに長い前髪。ラウンド型フレームの眼鏡に、赤いタイのセーラー服。いかにも文学少女然とした佇まいの少女は、落ち着いたよく通る声で少年たちのうちの一人に声をかけた。
「あの……喜多川祐介、くん?」
「ん?」
膝を折りたたんだ格好のまま未だカバンの中をさらっていた喜多川は、唐突に己の名を呼ばれて顔を上げた。
釣られて少年たちと猫も彼女に視線を投げるが、そこに立っている少女には誰も見覚えがなかった。
「あれ? 違っていましたか?」
少女は少しだけ困ったような声色で小首を傾げた。慌てて、喜多川は立ち上がる。
「いや、たしかに俺は喜多川だが……君は?」
当然とも言える問いかけに、少女は小さく喉を鳴らして背筋を伸ばす。
「覚えてないのも仕方がないですね。先日図書館でぶつかって……」
そこまで語られて、喜多川の脳裏にあのときの光景が蘇る。薄暗い館内、本に囲まれた空間独特の匂い、蛍光灯に照らされた書架の作り出す単調な影……表情の見えないこの少女の瞳を覗きたいと好奇心を刺激されたときのこと。
「あ!」
カチッとパズルのピースが上手くはまったときのような心地に声を上げた彼に、仲間たちは呆れたような息を漏らした。
「なにやってんのよアンタは」
「む……あのときは急いでいて……いや、言い訳にもならんな。不注意だった、改めて、すまなかった」
丁寧に頭を下げた彼に、少女はのときと同じように手を振った。
「いいえ、こちらこそ」
別に謝ってほしいわけじゃないと口元に笑みを浮かべる彼女に、喜多川は最も強く感じていた疑問を述べた。
「なぜ俺の名を?」
途端、見守っていた仲間たちの間にピリリとした緊張感が走る。
喜多川祐介という少年は確かに人目を引く存在だが、その名前を一方的に知り、接触を図るとなればいくらかの警戒が必要だった。ただの学生としての彼を知るだけであればいいが、もしも怪盗としての彼を知っているか、探りを入れに来たというのであれば―――
警戒はしかし、一呼吸の間に霧散した。
彼らの目の前で通学用のものらしきカバンを漁った少女の手が、手のひらに収まる程度の大きさの手帳を差し出したのだ。表紙にはエンボス加工された洸星高校の校章が浮かび上がっている―――
「これに名前があったので」
朗らかな声でそう言った名も知らぬ少女に、怪盗団の面々は脱力する。
解ってしまえば気構えたことが恥ずかしくなるくらいに単純なからくりだった。喜多川が彼らしく律儀に生徒手帳に記名していた、それだけのことだ。
「図書館でぶつかったときに落としましたよ。警察に届けるのも大げさかなって……これからそちらの学校に連絡をするところだったんです」
ここで『偶然』会うことができて良かった、とはにかんだ少女に怪盗団の警戒心はますます薄れ、今度こそ完全に消失した。
喜多川はやっと手の中に戻った生徒手帳をまじまじ眺め、再び彼女に頭を下げた。
「ありがとう。探していたんだ」
「どういたしまして」
ほっとして手帳を胸ポケットに手帳を放り込む。別段必要に駆られる物ではないが、無くしたと分かるとなんとなく落ち着かないものだ。
もう落とさないと告げる代わりに軽くそこを叩いてみせると、少女は小さく喉を鳴らした。たぶん、笑っているのだろう。
分からないのはやっぱり眼鏡と前髪のせいで、そしてこの少年は再び好奇心が首をもたげる感覚を味わった。
顔を見せて欲しいと言うのは簡単だ。
けれど、それよりも少女が深々と頭を下げて一歩下がるほうが早かった。
「それでは。ご歓談の最中に失礼しました」
「あ、君……」
せめて名前くらいはと腕を伸ばすが、しかし少女は意外なくらいに軽やかな足取りで人波をすり抜け、すぐに姿が見えなくなってしまう。
「なるほど、そうやって女子との接点を作っていくわけか……」
「え、わざと? あえて手帳を落としてく作戦?」
「たぶんアンタらがやっても落とし物箱にポイで終わりだかんね?」
「そもそもちょっと偶然に頼り過ぎだろ」
仲間たちの益体もないおしゃべりは喜多川の耳を右から左に抜けていった。
今度は帰宅を急ぐ必要もない。好奇心がその胸の中ではまだ疼いていた。
人波をすり抜けた少女の足は改札ではなく出口方面に向かっていた。
学生の帰宅時間だ。彼女と同じように制服に身を包んだ少年少女たちと何度もすれ違い、通り過ぎていく。
しかしその足はふと唐突に止まり、ポケットの中で震えていたスマートフォンを取り上げる。マナーモードに設定されたそれが何某かの通知によって震えたのだとロック画面にポップしたメッセージの一文が教えてくれていた。
側面の指紋認証に人差し指を滑らせて送信主の名と内容を確かめると、少女の顔は露骨な嫌悪に歪んだ。
同時に、すれ違った人物と肩がぶつかる。
「あっ! ごめんなさい!」
反射的に謝罪を口にした彼女の前に立っていたのは見覚えのある制服―――秀尽学園高校の制服に袖を通した一人の女生徒だった。
正確には彼女は校則通りの服装ではない様子だが……それでも特徴的なチェックのプリーツスカートに見間違いはない。
少女はこの『偶然』に驚きとかすかな楽しさを覚えて動きを止めた。
「こちらこそごめんなさい。ちゃんと前を見ていなかったみたい」
しかし秀尽学園生らしき女生徒のほうは特別思うこともないらしい。チラチラと進行方向に目をやっては早く立ち去りたいとアピールしている。
歩きスマホなんてしていたほうが全面的に悪いに違いないのにと言いたくなるのを堪えて、少女はこの女生徒に道を譲ってやった。
すると女生徒は小さく会釈して小走り気味に階段を駆け上っていく。
なにをそんなに急ぐ必要があるのか。
「あの連中に用がある、とか?」
低くつぶやいて、また人とぶつかってはたまらぬと手近な壁に身を預ける。彼女の手の中のスマートフォンがまた通知に震えた。
「ああもう……」
見下ろした画面には簡潔なメッセージが浮き上がっている。
『日時変更。明後日の九時過ぎ』
舌打ちをして、少女は親指だけで『了解』と返した。
そしてため息をつく。
「怪盗業も一筋縄ではいかないな。お互いに……」
小さな声は誰に聞き取られることもなく床にこぼれ、落ち着きなく床を叩くつま先に散らされた。
少女はしばらくそうやってまんじりともせず床の小さな汚れを睨みつけて、やがて気を取り直すように大きく息を吸うと、ぐっと顔を上げて歩みを再開させる。
そのすぐそばをつい先ほどぶつかった少女が駆け抜けていった気もするが―――
それは彼女には関わりの無いことだった。追って同じく慌ただしく走る少年たちもまた。
「まあ、そっちはそっちでせいぜい人目を引き付けておいてよ」
皮肉っぽく笑って、少女は彼らとは正反対の方向に歩いていった。
……
状況は好転しているとも悪化しているとも言えるだろう。
良い方向としては新たなペルソナ使いが怪盗団に加わったこと。それが作戦立案を担えるだけの知性と冷静さを兼ね備えた人物であること。ただし彼女は追い詰められると暴走する癖があるようだった。
なにしろ悪いことは彼女のこの暴走によって引き起こされている。
街を牛耳るマフィアのボスの居場所に直接乗り込んだ挙げ句、何百万もの金銭を要求される羽目になったのだ。
当然そんな大金、表向き一介の高校生に過ぎない彼らに用立てる手段は無いが―――
改心により己のこれまでの悪辣なやり口を見返すこととなれば、その約束ごと彼は身を持ち崩すだろう。
そのようにして、怪盗団は新たな人員とともにこの難局に専念することと相成った。
―――それ自体に異論はない。
そのように思うが、しかし中途半端に放り出す形になってしまったグリムの件が喜多川の心には引っかかっていた。
変調や不調として現れるわけではないから放置しても問題はないし、なにより差し迫った危機は彼にとっても他人事ではないのだ。けれどどこかで一つの完成された絵画が不名誉に彩られているのかと思うと、どうしても不愉快さは募る。
積み重なったものによって仲間たちの足を引っ張ったり無様な姿を晒す羽目になるのはごめんだと、喜多川は解散後の時間を息抜きに使うために歩き出した。
駅前からすぐ人の多いほうへ向かうと、辺りはすでに暗くなっているというのに「だからこそ」と言わんばかりに騒がしく雑然とし始める。
道行く人たちは皆楽しげで活気に溢れているが、少し裏へ入れば金城の、あるいはそれ以外の者の薄汚れた欲望にこの街は満ちている。そう思うと、なんだか心細いような気もしてくる。
それでも好奇心というものは厄介で、彼の視線を路地の奥へ引き込んだ。
大通りと違って人気のない道は明かりも乏しく、夜の闇など忘れてしまったかのように眩いこの街の中、遙か太古に人々が恐れていた暗闇を未だ抱えて待ち構えていた。
そこへ踏み込もうと思ったのは何かしらの考えがあってのことではなかった。彼はほとんど反射的に動き出していて、その後を遅れて思考がついてくる有様だった。
「ちょっと……離してくださいってば……!」
彼の視線の先には見覚えのある少女と、それを囲む二人の男の姿があった。
「こんな所で人と待ち合わせなんてこともないでしょ? いいじゃん、遊びに行こうよー」
「だから、私は本当にここで!」
嫌がって身を捩る少女の腕を掴む男の顔はこの薄暗い中でも首まで真っ赤に染まっているのが分かるほどだ。どうやら相当酔っているらしい。もう一人の男のほうもいくらか顔が赤らんでいるが、しかし片割れよりは素面に近いのか、懸命に彼を宥めようと努力をしている。
「おい、やめろって……なあー、ほらもう帰ろう? 飲み過ぎなんだってお前」
「うるせえ! こんな所に女の子一人ほっといて帰れるかぁ!?」
「いやだから、お前が一番迷惑かけてるから……とにかく離してやれよ」
「いーや! せめてその待ち合わせ相手とかいうのが来るまで―――」
少年は息をついて酔漢の腕を掴んだ。
「それなら、もう大丈夫です。彼女を待たせていたのは俺ですから」
「んおっ!?」
ビクッと身体を震わせて、男は脚をもつれさせる。転びそうになるが、それは喜多川ともう一人の男が支えてやって事なきを得た。
見知らぬ男二人が落ち着いたのを見て、喜多川は慇懃に頭を下げて心当たりなどまったくない非礼を詫びた。
「ご面倒をおかけして申し訳ありませんでした。もう帰りますので……」
酔漢はまだなにかお説教めいたことを言わんとしていたが、片割れがそれを遮って引きずっていく。人通りと明かりの多い方向へ消える二人を見送って、喜多川は背後に立つ少女をふり返った。
ラウンド型の眼鏡と長い前髪、左右均等に分かれたゆるい三つ編みに、赤いタイのセーラー服……間違いなくつい三日ほど前に生徒手帳を届けてくれた文学少女(仮)だ。
彼女は掴まれていた腕を抱えながら、少しだけ驚いたような顔をして彼を見上げていた。
「大丈夫か?」
声をかけると少女ははっとして居住まいを正し、頭を下げた。
「だ、大丈夫です。ありがとうございました……」
「余計なお節介でないのならよかった」
でも、と彼は少しだけ眉を寄せて厳しい顔と声でもって告げてやる。
「あの人たちの言うことを真似るつもりはないが、こんな時間に待ち合わせなど不用心では?」
「う、それは……」
ごにょごにょと俯いて言い訳めいたことを口にする少女に、喜多川はますますまなじりを釣り上げる―――
「この辺りには酔漢以上に厄介な連中がいる。なにかあってからでは遅いんだ」
それくらいは解るだろう?
お説教に、少女は呻いて肩を落とし、か細い声で「はい」と答えた。
「解っているのならいい。君……」
はたと喜多川はそこで言葉を止め、困った様子で少女を見下ろした。
視線に気が付いた少女がキョトンとした顔を上げる。
彼は苦笑しながら言った。
「そういえば、名前を訊きそびれていたな」
これに少女はわずかに首を捻り、路地の壁に貼り付けられたどこかのライブハウスのふやけたポスターを睨みながらつぶやいた。
「借りを作りっぱなしでいるわけにはいかないか……」
そして双方にとって幸いなことに喜多川はこれを聞き取れなかった。
「え?」
首を傾げた彼に少女は改めて正対し、うやうやしく頭を下げた。
「私は、っていいます」
そして頭を上げると、またあの朗らかな声で少年の名を呼んだ。
「よろしく、喜多川くん」
よかった憶えていてもらえたのかと安堵したのは少年に下心があったというより、不審者の撃退をしたつもりが己こそが不審者になっていやしないかという不安によるものだった。
「ああ―――さん」
「はい」
「家は近くなのか?」
「はい?」
「遠いのなら、駅まで送るよ」
この全力の親切心に、しかしと名乗った少女は困惑を示して後退った。
「え、っと……私はぁ……」
今や冷や汗までかいてあちこちに視線を走らせる彼女に喜多川は首を傾げる。その拍子に視界へ落ちてきた前髪を払いながら、彼はまた親切心と紳士としての正しい振る舞いを彼女の前に差し出した。
「もしかして本当に待ち合わせだったのか? それなら、迷惑でなければその相手が来るまでここに居させてもらうが―――」
は戸惑いも明らかに少年の瞳を覗き込んだ。そこに企みや下心を見つけようとでもしているかのように、懸命に。
けれど彼女の望むようなものは、この少年の中に一欠片たりとも見つからなかった。存在しないのだから当然のことだろう。
「ああぁ……いえ、うん、はい……そうですね……」
やがて彼女は敗北を認める棋士のように彼に頭を垂れた。
そして懇願する。
「うん……駅まで、送ってもらってもいいですか……?」
複雑な感情によって震えた声を心細さか恥じらいと受け取った喜多川は、己の胸を軽く叩いて莞爾と笑みを浮かべた。
「了解した。務めを果たしてみせよう」
「アハハ……よろしくおねがいします……」
そして言葉通り、彼はが改札を通ってホームに降りるまでを見守り、しっかり務め上げてみせた。
時間はまた風のように通り過ぎる。
梅雨こそまだ明けきらぬが、季節は暦だけでなく体感としてすっかり夏に入り、七月も半ばを通り過ぎた、学生のほとんどが待ちに待った夏休みの直前―――
ルブランの屋根裏部屋に集った怪盗団は茹だるような暑さにげんなりしつつ、この空間の主が差し出した娯楽誌の一ページを覗き込んだ。
「またグリムが現れたらしい」
そう告げた彼に、怪盗団ニューフェイスにして作戦統合参謀本部長官、もとい新島真はキョトンとした顔で皆と雑誌のページを交互に見やった。
「グリムって?」
飾り気のない素直な疑問の声に懇切丁寧に答えてやり、さらに補足して雑誌の内容を頭目が読み上げる。
「盗まれたのは連作の二枚目。個人宅に飾られていたものだって」
受けて、坂本が世界最大のサーチエンジンで検索をかけたのだろう。該当する画像をスマートフォンに表示させて皆の前に示してみせた。
「これか?」
「見せてみろ。……ああ、これだ」
頷いた喜多川の視線の先には液晶画面に映し出された女の姿がある。
その元より白かった顔は今や青褪め、死斑らしきものが浮かび上がっている。また手足は硬直が解けたのかわずかにポーズが変わり、より脱力したかっこうになっている。
「あー……これ見ると死んでるってのも納得かも」
若干腰の引けた様子の高巻の言に、モルガナもまた目を細めてヒゲを縮こまらせている。
死体の画像なんてものは、たとえそれが絵画であっても積極的に見たいものではなかった。
「またメッセージがあったみたいね。『女は埋葬されて地に帰った』……一枚目は『家に帰った』んだっけ?」
大げさに誇張された記事に目を通しつつの新島のこれに、頭目は然りと大きく首を縦に振った。
するとその隣で、喜多川が確信のこもった声で言う。
「これで一つ分かったことがある」
仲間たちの視線は一斉に彼へ向かった。
「『怪盗グリム』は黒崎明翫の作品の内、この『無題』の連作だけを狙っている可能性が高い」
「自信がありそうだな。どういう意味だ?」
猫から投げかけられた問いに彼は答えた。
「そもそも絵画の世界において、死が描かれること自体は珍しくない。西洋美術の世界ではかつて『絵画には≪死≫を意識させる要素を入れるべき』とまで言われていたほどだ」
「はー……? なんでわざわざそんな暗いもん入れんの……?」
「色々と理由はあるんだが、大まかに言えば当時の人々にとっては今よりずっと≪死≫が身近なものであったからだろうな。≪死≫だけはいかなる者の前にも訪れる必定であり、真なる平等の象徴だった……お前にも解るように安っぽい表現を使ってやると、それが当時の流行りだったんだ」
水を差した坂本に返されたのは小馬鹿にしたような視線と解釈だった。
「あーどーも、わかりやすゥい」
とはいえ本当に解りやすい表現である以上、不平を並べることもできず口をへの字に歪めて押し黙る。頭目だけが彼を慰めるように優しく肩を叩いてやったが、それは坂本本人によって直ちに叩き落とされた。
喜多川は続ける。
「この流行は日本にも存在していた。例えば河鍋暁斎という江戸時代の画家が描いた地獄太夫という絵にはまさしくこの≪死≫を意識したシンボルであるところの髑髏が―――」
「ん?」
ドクロという言葉に思わずと反応した坂本に、喜多川は首を左右に振った。
「お前じゃない」
「あっそう」
そろそろ理解することを放棄して座した椅子の背もたれに身を預け始めた彼に苦笑して、また叩かれてはたまらぬと頭目は喜多川に向き直った。
「その話長くなる?」
「なる!」
自信満々に応えた彼に、少年は怪盗団の長として、また友人の立場からも厳命した。
「じゃあはしょって」
喜多川はがっくりと肩を落として項垂れて、しょんぼりしながら、それでも結論を皆の前に示した。
「……つまり、≪死≫を意識させる作品というのは、こう言ってはなんだがありふれたものなんだ。であれば、黒崎明翫の作品のほとんどもまた。無数の作品の中からその五枚だけを狙うその理由の中に、グリムの正体が隠されているとおもう」
なるほど、と応えたのは新島だった。
学園一の秀才とも謳われる彼女はまた、娯楽記事の一文に目を落としながら推論を組み立てる。
「そもそもそのグリムって人、その『無題』より以前に活動していたらしき痕跡が見つからないってここにあるわね。これが事実なら、グリムは初めから怪盗だったんじゃなくて、これを盗み出すために怪盗になったと言えるんじゃない?」
「あーそっか、なんか意味深なメッセージまで残してくくらいだもんね。この絵を盗むためだけに……」
「呪われてるとウワサされる絵を狙う理由、か……フム、確かになんらかの意図や狙いがありそうではあるな」
ぱしぱしとテーブルの天板を叩くモルガナの尾に視線が集中する。揺れるその動きを追って忙しなく眼球を動かしながら、少年たちはうーんと唸った。
「つか、その絵って一枚でもヤベーんだろ? 五枚揃ったらどーなんだよ」
「うーん……なにかすごいことが起きる、とか……」
坂本の疑問に答えて、しかし少年は伊達眼鏡のブリッジを押さえてうめいた。彼自身も曖昧な答えだと自覚していたし、具体的に思い浮かぶものは何一つとして存在しないのだ。
それは他の面々も同じことだった。
彼らはしばらく額を突き合わせてグリムの正体とその目的に思いを馳せる。
やがて高巻がなんらかの結論を得て顔を上げると、恐る恐ると口を開いた。
「……人が死ぬ、とか……?」
この物騒な発言に仲間たちはギョッと目を見開いて彼女を見つめる。
張り詰めたような緊張感がにわかに部屋を満たした。
「さすがに……それはないんじゃないか?」
辛うじて一人が反論するが、しかしこれも高巻の物騒な発想も、それがもたらした緊張感も、もろともに喜多川がぶち壊した。
「安直だな。……杏だけに」
モルガナが強かにテーブルを尾で叩く音が静まり返った屋根裏部屋に響き渡った。
外ではそろそろ夏本番とセミが鳴き始め、窓際に吊るされた風鈴が吹き込む生ぬるい風に揺さぶられて涼しげな音を奏でている。
白けた空気が場を支配することしばし―――こほん、と咳払いを一つして、新島が口を開いた。
「たしかに死者を描いた作品だからといって人死が出るって発想は安ちょ……ナンセンスね。でも、呪いの力を利用するためにっていうのはありそう」
この発言に高巻がおやと軽く目を見開いた。
「真、こーゆーの信じるタイプだったんだ?」
「まさか。でも、呪われてるって噂されていることに意味はあるとは思うよ」
軽く答えて肩をすくめると、新島はおもむろにポケットを探り始める。
「例えば……はい、これ」
そしてそこにあったキーホルダーを高巻の手に押し付けた。
「ん? なにこれ? 鍵?」
「ええ。私の家の鍵」
「くれるの?」
「あげないわよ。ただね、それ、さっきトイレの便器の中に落としちゃったのよね」
「ぎゃっ!」
悲鳴を上げて高巻は鍵を放り出した。新島の手がすかさずそれを空中で掴み取る。
そして彼女は得意げな顔をして肩をすくめてみせた。
「ほらね」
「なにがっ!? ねえ、ちゃんと洗った!?」
「今のは嘘よ」
「はーっ!?」
「落としてないよ、これまでだって一度も」
ぽかんとする高巻と少年たち、猫に向かって、新島はちょっといたずらな、年相応の笑みを浮かべてみせた。
そして己の行動の訳を説明し始める。
「でも杏、あなたは初め普通に受け取ることができたものを、便器に落ちたという情報が付加されただけで放り出したわよね」
指摘に高巻はうっとうめいて申し訳なさそうに手をすり合わせた。
「だってそれは、汚いって思っちゃったから……」
然り。新島は頷いてみせると、一同の顔を見渡してはっきりと発言した。
「それがいわゆる≪呪い≫の正体よ」
「ええ?」
「誰だって初めから『これは呪われています』って聞かされていたら、呪いの実在を信じていなくたってなんとなく不気味に感じるものでしょ?」
得意げに語る彼女の手の中で、なんの変哲もない鍵とキーホルダーがチャリチャリと鳴らされる。
反論の余地なく頷いて返した下級生らと猫に、新島はさらに言を重ねた。
「そして恐怖を覚えれば判断力は鈍る。本来なら全く繋がりの無いもの同士を結び付けたがる……例えば、ただ不注意で転んだだけでも、出かけようとしたら雨が降り出しただけでも、怖い夢を見ただとか、テストのヤマが外れただとか……ささいなことまでもが≪呪い≫に結び付けられてしまう」
ポケットに鍵をしまい、新島はことさら明瞭な発音を心がけて断言してみせる。
「これが実際に妙な噂の付きまとう、不気味な絵であればどう? 一枚でも大したものだったのに、すべてが集まったら、なにかが起こるんじゃないか……そういう強迫観念によって≪呪い≫が発動する可能性はあると言えるわ」
部屋は再び静まり返った。
セミの声と風鈴の鳴き声、そして表のささやかな喧騒に車の走行音、どこかから届く野球中継に階下のテレビ番組、客のささやき声……
やがて感嘆の声を坂本が漏らした。
「はへー……なるほど。んで……だから?」
今度は新島が肩を落とす番だった。
「……いい? つまり≪呪い≫というものが発生した原因がどこかにあるのよ。この絵であれば所有者が必然として亡くなられた、とかね。一番初めならこれはまだ≪呪い≫じゃなかったはず。二人目か三人目か……どこかのタイミングで呪われていると囁かれるなにかがあったのよ」
そしてそこに、『怪盗グリム』の影が隠されているはず。
確かな知性の輝きを湛えた彼女の声に、ハッと喜多川が息を呑んで手を叩いた。
「絵の来歴か!」
いくらか大きめの声に猫が少しだけ尾を膨らませたが、張本人も新島も構うことなく頷き合う。表向きの飼い主であるところの少年だけが面白がって彼の尾を掴み、強かに噛みつかれて椅子から転げ落ちた。
「……なにしてるの? どうでもいいけど。ねえ祐介、そういうものって調べられる?」
「ああ、遡るには限界があるだろうが、班目の伝手を利用すればある程度は把握できるはずだ」
にわかに発見されたもう一人の怪盗への糸口に、喜多川は目を輝かせて立ち上がった。
彼の師であった斑目は現在多数の詐欺や剽窃等倫理の侵犯への疑いによって在宅捜査を受けている身である。逮捕拘留されていないのは彼が≪改心≫によって自ら己の罪を世に晒したからで、現在は起訴か不起訴かの沙汰をどこかにあるらしい自宅で待っているはずだ。
けれどそれとは別に、斑目はこの少年のような弟子らを住まわせ、また『清貧』の演出として用意したあばら家を持っている。それは現在も変わらぬ姿のまま、誰も帰らぬ無人の家として同じ場所に建っているはずだ。
そこにあった詐欺や剽窃の証拠の類はすでに捜査のために持ち出されているだろうが―――
「必要ないと置いてきた物の中に、先生が仕事用にと渡してきた携帯がある。あれに、そうだ、懇意にしていた画商の連絡先!」
「警察に持ってかれちゃったりしてない?」
「それは大丈夫だ。そもそも提出しようとしたら返された物で、そばに置くのも癪だと……たしか電源を切って押し入れに放り込んだはずだ」
「じゃあ……」
「ああ、少し時間をくれ。回収し次第すぐに来歴を調べる!」
このようにして、この日の会議は終了の運びとなった。
喜多川は直ちにかつての住処に侵入し、首尾よく目的の物を回収し終えると早速『無題』の過去から現在までの持ち主を調べようと取り掛かるが―――
まるで予め定められていたかのように、怪盗団の前に再び試練が立ちはだかった。