01:Dead Poets

 四軒茶屋の駅を出て通りをしばらく歩いた先の路地のさらに奥に、ルブランという名の純喫茶がひっそりと店を構えている。
 飲み屋が軒を連ねる道の中、その酒を扱わない喫茶店の地味な佇まいはまるで自ら望んで狭い小道に埋没しているかのようだ。
 実際この店のマスターを勤める佐倉惣治郎という男にはそういう向きがあった。流行ることを望まず、己の手で回せる範囲内の客数があればいいと。
 それで身上を潰さずに済んでいるのだから、誰にも文句などつけようがない。
 この日もルブランはいつも通り、まばらな客足が途絶えそうで途絶えずにいた。
 それでも夕方になってくると客足は遠のくもので、日も傾き始めた十七時ごろにこの時間帯最後の客の一人が店を出た。
 若い女がはにかんで手を振る姿とドアベルの涼やかな音を楽しんで、やれと惣治郎は息をついた。胸ポケットにねじ込んであったタバコの一本を口にくわえ、こちらは尻ポケットにあった安物のライターで火をつける動作は淀みなく、そう広くもない店内にはすぐに紫煙が広がった。
 カウンターに腰を預け、まぶたをおろして彼はしばらく耽溺する。耳には半ばバラエティと化した夕方のニュース番組のはしゃいだ食レポとチープなBGM、息を吸うたびに縮まる紙巻きタバコの燃える音、そして表を歩く人々の喧騒―――
 その中に、まだまだ年若い少年少女たちと思わしきまったくバラバラな足音と騒がしい話し声、そして猫の鳴き声を聴き取って、惣治郎は名残を惜しむように紫煙を吐き出し、そばの灰皿でまだ長いそれをもみ消した。
 同時にカランとドアベルが鳴いて、見慣れた姿が顔を覗かせる。
「マスター、帰りました」
 まだどことなく緊張感を漂わせて言ったのは、先頭に立ってドアを開けた伊達眼鏡の少年だった。癖のある黒の前髪は男にしては長く、眼鏡と合わさって目元を隠して彼の印象を少し悪くさせている。
 坊主頭にでもすりゃまだ少し周りの印象も変わるだろうにとは惣治郎の言い分だった。けれど同時に、この子供はこれでいいやとも言葉のないところで彼は思っていたから、軽くあごを引いて「おかえり」と返すだけに留めた。
 すると少年が肩から下げたカバンの中からニュっと尖った耳が二つ飛び出して、愛らしい声で「にゃあん」と鳴いた。
 思わずと相好を崩しそうになる惣治郎の前には、豊かな金の髪を高い位置で二つに結った少女が躍り出る。男は今度こそニヤついた笑みを隠すことが出来なかった。
 なにしろ目の前に立った高巻杏という女の子は、とても十六歳とは思えないプロポーションと面だちをしていて、笑うとわずかに頬に浮かぶえくぼがなんとも言えず愛らしく、人を魅了する。完璧な彫刻のような彼女を前にしては、さすがの惣治郎も息を呑むくらいはしようというものだ。
「お邪魔します!」
 礼儀正しいところも、世にオッサンと分別される年ごろの男には高ポイントだった。
 さておきそれはそれ、これはこれだ。子供は所詮、子供でしかない。彼女がどんなに魅力的だからって、まだ咲く前の花を手折るような不粋さと惣治郎というひとは、遥かに縁遠い関係にある。
「はいよ、どうぞゆっくりしていってくんな」
「ウッス! おじゃましまーす!」
 先を行って階段を登る高巻の後を、髪を派手派手しい金髪に染めた少年が追おうとするが、これは惣治郎が押し留めた。
「ンあっ!? なにするんスか」
 いい加減な敬語でキョトンとした顔を見せているのは坂本竜司という名の、高巻と同じ秀尽学園高校に通っているらしい少年だ。
 やや猫背気味の姿勢と着崩された制服、前述の髪色に薄い眉は彼をいかにもなヤンキーに仕立て上げている。
 けれどやっぱり、惣治郎にとってそれはそれで、子供は子供だった。
 鼻を鳴らして顎をしゃくり、カウンターを示して足を完全に止めさせると、彼は立ち上がって奥の調理場で重低音を垂れ流す冷蔵庫に歩み寄った。
「どうせ腹減ってんだろ。大したもんじゃねぇが足しにしな」
 彼が差し出したのはステンレス製のバットに並べられた、色の違うテラコッタたちだった。その陶器の器の中では『す』の一つも見当たらないプリンがつやつやと輝いている。
「いいんスか! やったー!」
 はしゃいだ声を上げて瞳を輝かせた少年に苦笑して、惣治郎はまたカップをいくつかとトレイを用意して始める。
 この店自慢のコーヒーが三つと炭酸飲料が一つ。それからおやつの甘味が揃って並べられたトレイを受け取った坂本もまた、ウキウキとした様子で階段を駆け上がっていった。
「いいんですか」
 それを見送ってまだ居残っていた少年が戸惑いがちに問いかける。伊達眼鏡の下の瞳は「あれは店のメニューの一つだろう」と訴えていた。
 惣治郎は肩をすくめて答えてやった。
「構いやしねぇよ。天気予報じゃこのあと雨になるしな。客足も遠のいちゃもう出ないだろうし、あんま長持ちするもんでもねぇからな」
「でも」
 なおも言い募ろうとする少年を、男は睨みつけた。
「余計な心配しようだなんて百年早ぇよ」
 釣り上がった目はそのままに、しかし瞳の奥にある優しげな色に少年は言葉を失って頭をかいた。
「……わかりました。ありがとうございます―――」
「雨になるんですか?」
 照れくさそうな少年の声を遮って、もう一人まだ店内に残っていた少年が声を上げた。
 ルブランの出入り口のすぐそば、壁にひっそりと飾られた一枚の絵画の前でじっと佇んでいたのは、すらりと伸びた手足に細い体、その上に涼しげな眼差しを乗せた少年だった。先に階上へ登っていった高巻や坂本と比べると、ずいぶんと落ち着いた雰囲気を湛えている。
 少なくとも惣治郎はこの喜多川祐介と名乗った少年がはしゃいでいるところを見たことが一度もない。礼儀の正しい、しつけの行き届いたお坊ちゃんだと受け取っている。
 けれど、つい今しがたまでずっと絵画―――赤子を抱えた優しげな女の絵を見つめていた瞳には、何者にも消すことはできない永遠の炎とでも呼ぶべきものが宿っていた。
 惣治郎はそんな少年にあごを引いて頷いてやる。
「ああ、七時っくらいから降るかもってよ。傘は持ってんのか?」
「はい、大丈夫です。ご心配ありがとうございます」
 歩み寄って頭を下げた彼に対する印象は、やっぱりよくしつけの行き届いたお坊ちゃんといったところだ。
 そんな喜多川もまた階上へ消え、あとには上……すなわち屋根裏部屋の主であるはずの少年と猫が残される。
 何故まだ残っているのかと目で訴える惣治郎に応えたのはモルガナという名の猫の声だった。
「にゃあ〜……ンにゃおぅん……」
 明らかに不満を訴えるこれに、惣治郎は苦笑して再び冷蔵庫に足を向けた。
「うにゃん!」
 期待のこもった猫の声を背に受けつつ、惣治郎は火の通ったササミをほぐして小鉢に入れ、少年の手に押し付けた。
「んにっ……! んにに……にゃっ、にゃーっ!」
「なんだそんなに嬉しいか? ん? カワイイ声で鳴きやがって」
「あー……」
 カバンから顔を覗かせてプルプル震える猫の小さな額を撫でる男の筋張った手に、少年は困ったような呆れたような顔をして呻いた。猫は猫で、されるがままにしながらぶすくれた表情を見せている。
「んだよ。ほれ、お友達が待ってんだろ、お前もさっさと上に行け。騒がしくすんじゃねえぞ」
 シッシと虫を追い払うように手を振られ、小鉢を手にした少年と項垂れた猫もまた階段を登っていった。
 店内は再び夕方のニュース番組が流す若い女子アナのはしゃいだ声とBGMだけになる。
 聞くともなしにそれに耳を傾けながら、惣治郎はふうと息をついて天井を見上げた。
 ―――四月にあの少年がやってきてからどれくらい経っただろう。重く沈んだ様子を見せていたあの子供が猫を連れ込み、笑うようになり、ついには友人まで引き連れて帰ってくるようになった。
 この惣治郎というひとは、この歳になるまでついぞ子を持つ機会には恵まれなかったが、ここに至ってぼんやりと胸が疼くような感覚を覚え始めていた。
 子供ってのは、なんだか不思議な存在だなと。
 血が繋がっていなくても、成長や前進をこうもまざまざと見せつけられて、悔しいやら、頼もしいやら……
 また息をついて、惣治郎は静かにカウンターの内側に身を置いた。
 ちらりと視線を送った先。狭い調理場のガス台の上には寸胴鍋が鎮座している。その中にはこの店、純喫茶ルブランのもう一つの看板メニューであるカレーが客を待っている。
 惣治郎はすぐにそこから目を逸らした。
 子供というのは、かつて自分もそうであったはずなのに、なんだか不思議な存在だ。
 どう接するのが正しいのかなんて、この男には少しも解らなかった。
 屋根裏から悲しげな猫の鳴き声が聞こえた気がした。


「プリン〜……ワガハイもプリンがよかったぁ」
 小鉢の中に鼻先を突っ込みながら喚いているのは正真正銘、つい今しがたまでカバンの中に納まっていた、どこから見ても白い靴下を履いたような柄の黒猫だ。
 けれど彼の声は間違いなく、この屋根裏部屋に集った少年たちの耳に言葉として届いていた。
「猫に砂糖ってダメだからねぇ……マスターの気遣いが裏目に出ちゃったやつだ」
 なめらかな生地のプリンを早速口に運びながら、高巻は同情の視線をモルガナに送った。
「ワガハイは猫じゃないのに! 猫じゃ……むにゃにゃ……はぐはぐ……」
「いや食ってんじゃねーか。うまいか? それ」
「うみゃいー」
「じゃあいいだろ」
 全然よくないと訴える声を無視して、坂本もまた甘味を口に運ぶ。卵と砂糖、それから牛乳の味がするということくらいしか彼には分からなかったが、美味いか不味いかなら間違いなく前者だと言い切ることくらいはできた。
 彼の隣では喜多川が小さく震えながら助長かつ大仰な食レポを垂れ流していたが、これは全員が聞き流した。
「素晴らしい。卵以外に固化させるものは入っていないだろうにこのなめらかさ、優しい舌触り……牛乳の風味と甘さの加減も絶妙だ。いずれもが互いに主張を譲り合い、それがかえって美しいハーモニーを下の上で奏でて―――」
「モルガナ、一口食べるか?」
「いいのか!? くれくれ、あーっ」
「ん」
「あーんする猫ってムービー撮ったらそこそこ再生数稼げそうじゃね?」
「広告付けてやってみる? 資金の足しくらいにはなんじゃない?」
「このカラメルの甘苦さは……そうか、コーヒーと合うように計算されて……この組み合わせ、侮れんな!」
 空になった器を掲げて勢いよく立ち上がった喜多川にやっと視線が集中する。
 屋根裏部屋の主人は苦笑しながら彼に訊いた。
「総合的に言うと?」
「美味いっ! ごちそうさまでした!」
 ストンと大人しくソファの上に戻った喜多川は、さてと居住まいを正すとやおら生徒手帳を取り出し、そこに挟まれていた紙切れをテーブルの上に貼り付けるように置いた。
「シゴトの話をしていいか?」
 スイッチを切り替えたかのように真剣に言い放った彼に友人たちは呆れたらいいのか感心したらいいのか分からず、一先ず頷いてスプーンを咥えたまま差し出された紙切れに目を向けた。
 ―――シゴト、と喜多川は言った。
 これは高校生に許される範囲の労働を指した言葉ではなく、非合法で非現実的、極めてイリーガルな≪活動≫を示す言葉だ。
 坂本竜司、高巻杏、喜多川祐介、そして人語を解する猫のモルガナ。一見なんの変哲もない高校生とそのペットというのは、もちろんそれはそれで彼らの本分であり職業だ。うち一匹はこの認識に対して主張したいところがありそうだが―――
 しかしその裏に隠されているのは俄に世の大衆を騒がせ始めた『心の怪盗団』―――悪人たちの心からその歪んだ欲望を盗み出して≪改心≫を行わせる、世直しを目的とした義賊という仮面である。
 そしてこの空間の主である少年こそがその『心の怪盗団』の頭領にして切り札―――エース・イン・ザ・ホール、≪ジョーカー≫に他ならない。
 無力なはずのこの子供たちは皆それぞれ大人たちの無理解や理不尽な扱いによって虐げられた過去を持つ。
 昨日と変わらない今日に苦しんでいた彼らは、しかしあるときその心に眠る叛逆の意思を≪力≫に変え、仮面として顕現させた。それこそが彼らを怪盗たらしめる根幹、≪ペルソナ≫という非現実的な能力だ。
 ただしこの≪力≫は特定の空間―――歪んだ欲望をその内に宿す悪人の心、認知こそが支配する異空間、≪パレス≫でしか発現しない。物質的法則に従う現実では、彼らはあくまでも一介の高校生に過ぎないのだ。
 けれどその心に燃える叛逆の灯火は間違いなく、この現実世界でも光り輝いている。
「絵画の窃盗……?」
 事実怪盗団の頭目たる少年は喜多川が差し出した紙片、新聞の小さな記事の切り抜きらしいものの見出しを読み上げて眉をひそめている。
 然りと頷いて喜多川は応えた。
「ああ、盗まれたのは『眠る女』と呼ばれる絵だ。これは全部で五枚の連作なんだが……」
 勿体つけるような間をおいた彼に、すっかり小鉢を空にしてテーブルに飛び乗ったモルガナの視線が突き刺さる。
 促されて彼は少しだけ困ったように続けた。
「どこから説明したものか……その絵が盗み出されたのは戦中・戦後の作品展という展覧会会場で、そこにはもっと高名な作品も数多く展示されていたんだ。対して、『眠る女』とその作者はそれらと比べれば……作品の価値とは別にいくらか劣ると言っていいだろう」
 言わんとするところを察して高巻が手を叩いた。
「あーなるほど? なんで他のを狙わずその絵が、ってこと?」
「そうだ。価格という意味ならもっと高価な絵があった。それこそ宝の山だ。横山大観や恩地孝四郎、山口薫の作品もあって、それはもう、もうぅ……!」
 やおら興奮に瞳を輝かせ始めた喜多川に、しかし仲間たちが向ける視線は冷たかった。
「誰それ?」
 声もまた。
 喜多川はがっくりと肩を落として長い前髪をかきむしった。
「なぜ知らないんだ……!? いずれも日本の美術界を築き上げた偉大な先人だぞ!」
「いや知らねーし。とにかく有名な人らなんだ?」
 肩をすくめた坂本に、喜多川はますます項垂れてしまう。
「はあ……そういうことだ」
 いよいよため息までこぼした彼に坂本のまなじりが若干釣り上がったが、手や口が出るより先に頭目が口を開いた。
「盗めるから盗んだのかもしれないな。有名な作品じゃないから警備の質に差があったとか?」
 疑問系のこれに、喜多川はまだ床を見つめるその頭をかすかに縦に振った。
 そして顔を上げると、怪盗たちの顔を一人ひとりとっくり眺めて、彼自身もまだ確信を得ていなさそうな様子で告げる。
「これは聞いた話なのだが、絵が消え、空になった額縁の中には奇妙なメッセージが貼り付けてあったらしい」
「ほう?」
「女は目を覚まして家に帰った、と」
 絵画のタイトルに引っかけられた文言であることは全員がすぐに察せられた。しかし解らないこともある。
「それのナニが変なの?」
 率直に問いかけた高巻に、喜多川は背筋を伸ばして指で空中に文字を描くよう動かし始めた。それは『眠る女』と記している。
 彼は言った。
「この『眠る女』という題は、実は正式なものではなく俗称なんだ。そのほうが通りが良いからそうと呼ばれているというだけで、本来のタイトルは『無題』でしかない」
 また骨ばった指が空中をなぞって『無題』と書き上げる。
「そもそも『眠る女』というのも、連作の一枚目だけを指している。個人蔵だったものが今回のために特別に貸し出されたそうだし……」
「犯人はその絵が連作であることを知らないかもしれないってことか」
 モルガナの言葉に、喜多川は大きく頷いた。
「特に意味があってソレってワケじゃなくて、マジで盗めそうだったから盗った説? なんか安っぽ〜い」
 頬杖をついた高巻の声に頭目などは苦笑する。彼女の発言は、なんだかまるで一端の美学を抱いた≪怪盗≫そのもののように思えたのだ。
 もちろんそれで間違いはない。
 けれど喜多川はまだ納得がいかなさそうな様子で唸った。
「しかしその動機でよりにもよってこの絵を、というのが少し引っかかっている」
「あー?」
 気の抜けかけた炭酸飲料に口をつけながら器用に首を傾げた坂本に、喜多川はどことなく意地の悪い笑みを口元に湛えて告げる。
「この『無題』、五枚の連作は曰く付きでな。いわゆる『呪われた絵画』なんだ」
 坂本はギョッとしてストローを噛んだ。
「人によってはこの絵から視線を感じるのだとか。女は確かに目を閉じているのに、見つめられるはずがないのに、絵の向こうから、絵の中から、誰かがじっとこちらを見ている感覚に襲われるそうだ―――」
 どことなく楽しげに語られた内容に少年たちと猫はいくらか鼻白んで顔をしかめている。呪われた絵画なんて、場合によっては≪ペルソナ≫より非日常的な存在ではないか、と。
 そんな彼らの様子に満足したのか、喜多川はさらに饒舌に語った。
「先のメッセージの不勉強さにも繋がるんだが……そもこの絵に描かれている女は眠っているわけじゃない。死んでいるんだ」
「死んで……って、死体を描いてるってこと?」
 頷いて、喜多川は皆の目に己のスマートフォン、その液晶画面を突き付ける。
 そこには圧縮によって劣化した画像ファイルが表示されていた。
 筵の上に横たわった女。粗末な衣服にほつれた髪。その顔色は白く、死んでいると聞かされていればなるほど確かに、生者の肌色ではないと思わせる。
「これがその盗まれた絵なのか?」
 パタパタと尾を振るモルガナにまた頷いて、喜多川はいくらか声を潜めてさらなる講釈を続けた。
「これが今回盗まれた『無題』の一枚目で、確かに女が眠っているだけにも見えるだろう? しかし二枚目、三枚目となる内に腐敗していき、最後には骨になるんだ」
「うへーっ」
 ウンザリとした声を上げて、坂本はまたストローを噛んだ。
 一方で高巻は熱心にスマートフォンを覗き込み、荒い画質の中からなにかを掴み取ろうと碧の眼を光らせている。
「ほんとにゼンゼン見たことない絵だね。なんて人の作品なの?」
「黒埼明翫という人の作品だ」
 やっぱり知らないやと応えて、高巻は立ち上がった。じっと液晶画面を見つめたことで目が疲れたのか、眉間を指で摘んでギュッときつくまぶたを閉ざしもする。
「盗まれた呪いの絵画、か。その二枚目以降はどこにある?」
「いずれも個人所蔵のはずだ。黒崎明翫の作品は広く知られてこそいないがその作品の性質上、熱狂的な蒐集家が複数ついていて、連作といえども近年すべてが揃った話は聞かないな」
 これに坂本が首をひねった。
「性質?」
 とぼけた素振りや思考回路をしていたとて、やはり彼もまた怪盗の一人ということかと意味もなく感心して、喜多川はこの疑問符に答えてやった。
「『無題』の連作をはじめ、黒崎明翫の作品はいずれも多く死やその後の腐敗を表現したものが多い。そのあまりの精緻さに、本物の人の肉体を画材に使用しているんじゃないかという与太話まであるくらいで……俺も一度だけ班目の伝手で本物の、三枚目を見せてもらったことがあるが、確かにあの腐り落ちた皮膚の下から覗いた溶けかけの肉や脂肪、眼窩の奥の蛆が蠢くかのような精微さはそうと思わせる力があった」
 当時の感情を胸に返したのか、小さく身震いをしてみせた彼に坂本もまた身を縮こまらせた。
「うげえ……ゲージュツってわっかんねえ……」
 直感力や動物じみた勘に優れているということは、感受性が豊かであることとは繋がらないらしい。
 少なからずこの場においては最も美術や芸術といったものから遠い坂本の反応に、しかしそれを志すはずの喜多川もまた首を縦に振った。
「黒埼明翫の作品に関しては同意してやる。俺もあれはあまり……」
「へえ、珍しいね祐介がそういう感想って」
 濁した表現に留められてはいたが、声には明らかに忌避感が込められていたため、高巻が思わずとつぶやいた。
 受けて喜多川はまた難しい顔をして唸る。
「んん……美醜を超えた、なんというか……強い観念……いや、訴えるかけてくるものがあって……それがこう、どうにも、ううん……」
 彼はしばらく歯切れ悪くも己の感じるままを訴えようとしていたが、やがて言語化は不可能だと判断したのだろう。小さく首を横に振って居住まいを正し、話を元に戻した。
「とにかく、黒埼明翫の『無題』はバラバラに保管されているはずだ」
「それも盗まれるかもってことか?」
 首を傾げた猫に、喜多川はやっといつもの調子を取り戻して言い切った。
「わからん」
 きっぱりとした断言に、仲間たちはつんのめって危うくカップやテラコッタを床に叩きつけるところだった。
「オイ、そんなオチかよっ」
 坂本は辛うじて踏みとどまった際、片足を大きく上げ、背を反らした奇妙なポーズになっている。
「そのポーズ、前衛的だな。竜司、スケッチさせてくれ。動くなよ」
「ハアッ!? あああ、ウッソだろお前、ちょ……ぐぐ……」
 やる必要はこれっぽっちも無いはずなのに、坂本は何故か律儀にその指示に従った。片足で立ち、背を逸らして腕を掲げ―――二十秒ほどその姿勢を保持した後、彼は床の上に崩れ落ちた。
 その手から放り出されたガラス製のグラスを首尾よく受け取り、伊達眼鏡のブリッジを押さえながら頭目は小さく笑った。
 そんなじゃれ合いを白けた目で眺めていた高巻が手のひらの中にすっぽり収まる程度の大きさの紙片を取りあげる。
「でもさ、これってウチらにどうこうできる話? 泥棒を捕まえるって……怪盗のシゴトかな?」
 この疑問の声に口元を器用に前足で拭っていたモルガナが舌を出したまま答える。
「フム、どうだろうな。ワガハイはやってみてもいいとは思うが……」
「ある意味では俺たちに相応しい相手かもしれんぞ」
 床に倒れた坂本を残念そうに見つめていた喜多川が言うことに、のろのろと立ち上がろうとしていた坂本が迷惑極まりないと言わんばかりの目を向けている。
「メッセージが残されていたと言っただろう。それには差出人の名前もご丁寧に添えられていたそうだ」
 骨ばった長い手指の中に収められていたペンが一周だけくるりと回される。
 彼は記憶をなぞるように斜め上に目線を投げ、一度口内でそれを確かめるように呟いてからそれを仲間たちに告げた。
「たしか、そう、『怪盗グリム』……だったか」
「ナニそれ、同業者ってこと?」
「つーかそういうことは最初に言えよ!」
「でも……」
 喚いて喜多川に詰め寄ろうとする坂本と高巻を、冷静な声が押し留めた。
 窓際に立って曇天を見上げていた少年はピタリと動きを止めた二人と喜多川、そしてベッドの上で呆れ顔をする猫に向けて言う。
「怪盗は怪盗でも活動場所が違う。俺たちは心の中の≪オタカラ≫を目当てにしていて、現実で盗みは働かない」
 そうだな、と確認するように向けられた伊達眼鏡の下の眼差しに、仲間たちは静かに頷いた。
 それを見て彼はまた言を重ねる。
「ターゲットの種類も違う。俺たちは悪人だけを狙っているが、そちらの怪盗はどうやら蒐集家を狙っているらしい」
「たしかに、そうだね。ウチらの目的はあくまでも世直しなわけだし……」
「金目当ての盗みとはちょっと違うよな」
 頷いてみせた高巻と坂本に、彼もまた首肯を返した。
 これに喜多川は得意げな顔をして足を組み替えた。
「つまりこの『怪盗グリム』こそが俺たちのターゲットになり得る相手、というわけだ」
「ああ」
 また頷いて、少年は伊達眼鏡のブリッジを押さえた。
「なるほど。絵画となりゃ、大なり小なり持ち主の財産の一部だもんな。それを勝手気ままに盗むってんなら、たしかに改心のターゲットとして候補に入れてもいいかもしれん」
 四足を揃えたモルガナの言葉に、二足歩行の怪盗たちは顔を見合わせて唸る。
 にわかに大衆の口頭に広がり始めた心の怪盗団、その唯一の掟は全会一致だ。属する者すべてがやろうと乗り気にならなければ執行はされない。
 決を求める少年の視線に仲間たちは応えた。
「俺は構わねぇよ。面白そーじゃん、怪盗VS怪盗って!」
 はじめに坂本が。
「いいんじゃない? 人の大切にしてるコレクションを盗むなんて最低だし」
 次いで高巻が。
「ワガハイはさっき言った通り、異論は無いぜ。どっちが真の怪盗か、世に知らしめてやろうじゃねーか」
「元より。少なからず歴史的にも価値のある絵画だ。それを己の欲によって盗み出すとは許し難い」
 モルガナと喜多川が―――
 心の怪盗団、その頭領は全員の顔を見回して口元に不敵な笑みを浮かべてみせた。
「じゃあやろう。次のターゲットは『怪盗グリム』、その人の≪心≫だ」

 とはいえ、分かることは多くない。
 グリムという名と黒埼明翫の描いた連作『無題』、あるいは『眠る女』―――
 まずはこの黒埼明翫、及びその作品の所有者を突き止めようということで作戦会議はまとまり、この日は解散となった。
 しとしとと降り始めた五月雨に、傘を持たない坂本は悲鳴を上げながら駅までの道を疾走していったが、高巻は悠々喜多川の傘に相入りさせてもらって歩いて帰っていった。
 その二人が駅で別れたのも、薄暗くともまだ日も高いうちだ。高巻を見送った喜多川の足は己のねぐらであるところの学校付属の寮ではなく、道の途中にある図書館へ向かった。
 目的は一九三〇年から四〇年代に出版された美術年鑑の類だ。これは単純に懐具合の問題だった。書店でも黒埼明翫の作品を掲載したものは見つかるだろうが、そういった書籍はたいてい簡単に手が届く値段でないことが多い。
 金の問題を排除したって軽い気持ちで―――あるいは真剣に臨むのであればあるほど、長く手元に置きたくない気持ちがある。
 というのも、今回の窃盗事件を小耳に挟んで黒埼明翫の名を聞いたとき、喜多川の脳裏にはかつて見た、あの腐敗した人体を不気味なほど緻密に描き上げた奇作が鮮明に思い起こされたのだ。
 それに伴って蘇るぞくりと背筋や腰に走るおぞましさと恐怖、吐き気。また当時まだ未発達だったはずの彼の性的倒錯とでも呼ぶべき部分を強く揺さぶったあの感覚―――
 熱心な蒐集家がいるという話も頷ける。仲間たちの手前曖昧に濁したが、惹かれる者がいるという話にも一定の理解ができた。
 死は穢れだ。しかし、多く人は穢れや恐怖に悦楽や興奮を覚えるものだ。ましてあの『無題』。横たわって目を閉じた蒼白の女の横顔からは、それを描いた者の無限とも思える≪愛≫が感じ取れる。
 であれば、あれを盗み出した怪盗グリムとやらも、己や蒐集家たちと同じく魅せられたということだろうか? けれどそれならば『女は目覚めて家に帰った』とはどういう意味だろう?
 喜多川は書架の間で首尾よく目的の本を見つけ、その分厚いページをめくりながら唸った。
 中ほどに黒埼明翫の代表作の一つ、『淑女』が掲載されているのを見つけて手を止める。
 『淑女』は『無題』と同じ若い女を描いた作品で、主題とされた女は黒埼明翫の妻真理であるとされている。曖昧な表現にとどまっているのは女の顔がのっぺらぼうのようになっていて、また特徴的な腐敗や穢れの表現が一切見られないためと、この作品が世に出たのは近年になってからだからだ。おそらく死蔵されていたものがなんらかのきっかけで画商の手に渡ったのだろう。
 当然この女の正体を知る黒埼明翫はすでに鬼籍に入ってしまっている。
 『淑女』は黒く長い髪を左右均等に分けて三つ編みにした、華やかな衣服に身を包んだ女性の肖像画だ。だから、たぶん、これは黒崎明翫が真理と出会った頃の姿だろう、と推測されている。
 ―――黒埼明翫とその妻真理が結婚したのは明翫が十八、真理が十五のときだ。しかし明翫は祝言を上げた直後の十九歳のとき、当時の大日本帝国軍の命のもと海を越えた南方、トラック諸島(現チューク諸島)は春島(現ウェノ島、モエン島)に渡っている。とはいえ現地に入るや否やチフスに罹り、何日も高熱に浮かされながら防空壕の中で米軍の空爆をやり過ごしたとされている。その後終戦とともに日本へ帰った黒崎明翫は妻のもとへ戻り、二人の子をもうけた。しかしその暮らし向きは決して豊かとは言い切れず、妻真理は出産後ほどなくして死亡した―――
 『無題』はその妻の死に顔を描いたものであるとされている。
 粗末な筵の上に横たえられたその顔は安らかで、一枚目は確かに眠っているように見える。しかし二枚目、三枚目と進むうち、女の肉体は腐敗し、虫が集って肉が分解され、骨と化す。その生々しさには死した女に対する強すぎる執着と≪愛≫に溢れていると言えるだろう。
 しかし一方で、黒崎明翫には二人の子がいたはずである。この二人の子供がどこかへ引き取られたという記述は見つからないから、子供たちもこの絵が描かれた現場―――すなわち、子供たちにとっての母親が腐り落ちていく様と、それを一心に描き続ける父の姿を見つめていたことになる。
 この想像こそがより作品に宿る≪念≫や≪狂気≫と呼ぶべきものを強調させていた。
 その後の作品でもまた死や腐敗が描かれていることから、このとき黒崎明翫は正気を失ったのだとも。
 作品の総数は不明だが、彼は亡くなるまで筆を握っていたはずだと喜多川などは思っている。享年八十三歳。その死の際まで描き続けなければならないなにかが彼の絵にはあるのだと。
 そしてそれを感じ取るとき、喜多川ひどく体力を消耗する。あるいは気力や精神力といったものがすり減らされるのだ。
 これは黒崎明翫の作品に限らず、魂の込められた偉大な作品を前にしたとき共通して現れる現象だった。
 単に集中や緊張によって見た目以上に脳や心臓を酷使しているだけだろうと結論付けてはいるが、若くして倒れた母のことを思うと少しは控えたほうがいいのではないかという気にもなる。
 それも再び目を落とした『淑女』の前ではもろく打ち崩される。
 揃えて腰元に置かれた手。わずかに傾げられた首にかかるほつれた毛。細い腕にやわらかそうな二の腕と胸。いずれからも顔の無いこの女に対する≪愛≫に溢れている。
 けれどそれは劣情や性愛を呼び覚ますものではなく、例えば、フワフワした毛皮のまだ目も開け切らない子猫を膝の上に置くような、そんな優しい愛情だ。『無題』が燃え盛る生々しい男女間の愛であるとすれば、こちらは穏やかで暖かい家族愛とでも言ったものだろうか。
 少年はそこにあるべき女の顔を夢想する。
 己なら―――俺なら、ここにどんなひとの顔を描くだろうか?
 真っ先に思い付いたのは高巻の華やかな笑顔だった。
 太陽のように明るい、何者にも恥じることなく咲き誇る華のようなあの笑顔は、どんな中にあってもくすむことはないだろう。
 でも……
 でも、どうだろうか。あの完璧な、ギリシャ神話にうたわれるピュグマリオンの彫像の如き美しさは、かえって周りを殺しかねない。
 彼女を描くのであればもっと彼女だけに相応しいものがあるはずだ。わざわざこの空白に当てはめるまでもなく、あの女の子は一つの芸術として完成している。
 それならばと思い付く限りを当てはめていっても、一つもしっくりくる顔はない。
 やがて少年は既存のものでは駄目なのだと気が付いて、カバンの中から画帳を取り出し、立ったまま、分厚い書籍を抱えたままペンを走らせ始めた。
「こう……いや違うな。もっと柔和な……しかしそれだけではなく……ああこれも違う。ならばこう……駄目だ、そうじゃない!」
 己一人の世界に入り込んで独り言を漏らし始めた彼を通りかかる利用客や図書館員は遠巻きに見守った。幾人かは果敢にもこの少年の不審な行動を諫めようと試みたが、それも彼の奇矯な振る舞いを間近にしては尾を巻く他なく、結局彼はポケットに入れたままのスマートフォンがアラーム音を鳴り響かせるまでその場を動くことはなかった。
 静寂を引き裂いた高音にやっと我に返った喜多川は慌てて本を書架に戻し、画帳を取り落としてアラームを停止させる。そこでやっと彼は閉館時間が近いことと、寮の門限が近づいていることを知った。
 まずい、と呟いて、落とした画帳を慌ただしく拾い上げ、抱えながら書架を抜ける。早足に通り抜けたその姿に、館員らは奇妙な来館者がやっと立ち去ることを察して息をついた。
 出入口付近の書架を曲がろうとしたとき、喜多川はすれ違った一人の少女とわずかに肩がぶつかって小さく呻いた。
「あっと―――」
「すまない」
 幸いどちらもふらつくこともなく済んだが、それでも喜多川は丁寧に頭を下げて己の不注意を謝罪する。
 これに少女は、手を振ってこちらも不注意だったとはにかんだ。
 ある意味で彼女はこの空間に相応しい存在だった。
 少し癖のある真っ黒な髪は左右均等に分かたれ、ゆるく編まれて垂らされている。まだあどけない丸い輪郭は、しかし伸ばされた前髪とラウンド型フレームの眼鏡によって目元が隠されて、感情が窺えない。
 パッと見たその風采はいかにも文学少女といった印象を喜多川に強く焼き付けた。
 また彼の胸にその眼鏡の下の瞳を覗いてみたいという好奇心が首をもたげたが、しかし時間がそれを許さなかった。
 喜多川は再び少女に謝意を告げ、小走りに公共の文化施設を飛び出していった。

 閉館時間を告げる穏やかな、どこか耳に馴染んだ音楽の中、少女は手の中の手帳をパラパラと捲ってふうんと唸った。
 また彼女は中ほどに几帳面に折りたたまれた紙片があることに気が付いて、指先でそれを摘まみ上げると荒く印刷された見出しに小さく鼻を鳴らした。
「なるほど、同業者の動向はさすがの『心の怪盗団』も気になるってところか。でも―――」
 小さくたおやかそうな手が元の通りに紙片を戻して、手帳をスカートのポケットにねじ込んだ。
「こんなに簡単に掏られてちゃ、先が思いやられるんじゃないか? 喜多川祐介、くん?」
 低い囁き声を聞きつけた館員が退館を促そうと書架の間を覗き込んだとき、そこにはもう誰の姿も見当たらなかった。