翌日の放課後、明智は再び招待を受けて邸を訪れていた。
 厳密に言えば昨日だって招待を受けてのことだが、この日は不在気味の主、宗敬ではなく、深窓の令嬢であるの招きによるものだった。
 塞ぎ込んで友人らの見舞いも、事と次第によっては女中たちすら撥ねつけていると聞き及んでいたが、いったいどんな気まぐれを起こしたのか―――
 その動機がどんなものであれ、再びあの邸に足を踏み入れる道理を得られたのは、明智にとって幸いだった。嬢直々のご指名となれば調査もずいぶんやりやすくなるだろうし、せっかくの準備も無駄にならずに済みそうだ。
 と、そこまで考えて、明智は誰に見せるでもなく苦笑する。
 ―――二心あってのこととはいえ、なんだかずいぶんやる気になっているみたいじゃないか。
 己に対してそう吐き捨てる。
 探偵などという立場は所詮、世間を欺くための仮面に過ぎないと承知していたはずだが、愛着を覚えたということか。
 ―――それ自体は決して悪いことじゃない。
 明智は再び自らに言い聞かせるように胸の内で呟いた。自作自演の探偵という立場を後ろめたく感じるほど繊細ではないが、余人からの評価が真に自らの実力でないことをつまらないと思う程度には野心と自信に満ちた少年だ。知識や知恵で切り抜けられる局面となれば、どうしても食い付きたくなるということか。
 実際、すでに彼は邸内で起こる怪異現象にいくらかの検討を付けている。奇妙な音に物体の移動や消失、通信障害……いずれも人為的に再現が可能な範疇だ。なにより犯人らしき人影も目撃されている。
 それを証明するためにも、やはり嬢の招待は都合が良かった。彼女がどんなつもりでいるかは分からないが、邸の中をうろつく許可くらいはくれるだろう。
 呼び鈴を鳴らした彼を再び赤谷が出迎えた。この日の警護は榎田という若い男だった。
 榎田は昨晩の警護担当より仕事熱心なのか、赤谷が明智をの部屋に通すと告げると、不機嫌そうな面持ちを隠しもせず同行した。
 その男がいよいよの寝室にまで足を踏み入れるとさすがの明智もギョッとするが、赤谷がなにも言わないでいるところを見るに、これが常のことなのだろう。いくらボディガードといえど邸内にマスコミ関係者が侵入するでもなし、やりすぎではないかと思えたが、余人が口を挟むことでもないかと彼は沈黙を守った。
 なにより彼の前にはがいる。クイーンサイズの寝台で上体だけを起こした姿は事前の情報通り、幽鬼さながらだ。乱れた黒髪にこけた頬、目の下のクマに細い首……病人だと教えられていたら、明智は素直に信じたかもしれない。
 けれど彼女は健康体だ。痩せ細り、不眠を患ってこそいるが、それは心を病んだ結果に過ぎない。その病さえ取り除くことができれば、過日の美しさや朗らかさはたちどころに取り戻されるだろう。たとえ明智に往時の彼女への関心がなくとも、それは間違いのないことだった。
「お加減はいかがですか?」
 そうした無関心さをおくびにも出さず、明智は穏やかにほほ笑んでそう切り出した。なんの変哲もなければ当たり障りない定型文だ。もまた決まりきった答えを返した。
「あまり良いとは言えません。それを言い訳に、こんな格好であることをお許し下さい」
 彼女はまた、静かに頭を下げて昨晩の不明を詫びた。
「昨夜も挨拶すらせず、失礼をいたしました。なにぶんこんな状態で、ご気分を悪くされていなければ良いのですけれど」
「お気になさらないでください」
 明智はやはり穏やかに告げた。
「僕はあなたを治すお手伝いをするために来たんです。無理を強いては意味がない」
「そう―――そうですね。そう、父がお雇いになったとか。歓談の折、『どこかの先生』にご相談したところ、貴方が紹介されたと……聞き及んでおります」
 の口調は平坦だった。この情動の薄さは疲れのためか。瞳には疲労と何某かの不安が揺れているように見えた。
「ええ。でも、これが、少しややこしい話なんですよ。なにしろその『どこかの先生』が懇意にされている書道家の先生が以前テレビ出演した際に知り合った番組のディレクターを頼って制作子会社社員のいとこが僕と同じ学校で……」
「あら、まあ」
「つまり僕は、下請けの下請けの、下請けの下請けの下請けってとこですね」
 指折り数えて言ってのけたが、寝室にはどことなく白けた空気が漂っていた。
 実際に明智のところに来たものは表向きそうした形を取っている。世間的には高校生探偵の明智吾郎と、現職の衆院議員である獅童正義は無関係でなければならなかった。
 とはいえ、たらい回しの結果とも受け取れる文言を歓迎する者はあまりいないだろう。かといって来る方も迎える方も、ここに来てそんな経緯は気に入らないとは言い出せない。それを見越しての発言でもあったし、明智の目論見はもっと別のところにあった。
「だから、そう緊張なさらなくて結構ですよ。気楽になさってください」
 そこまで告げてやっと、膝の上で固く握られていたの拳が開かれた。血の気の失せた唇からは感嘆の息が漏れる。
「……そう。そうね。ばあや、お茶を淹れてくれる?」
「はい」
 老婆は感じ入った様子で深く一礼すると、素早く部屋を立ち去った。
「―――榎田さん、でしたね」
「は……?」
 にではなく己にかけられた声に、扉部付近に立っていた榎田は気の抜けた吐息めいたものを返した。
「ボディガードということですが、いつ頃からここへお勤めですか?」
 真剣そうな少年の眼差しに感化されたでもないだろうが、榎田はいくらか背すじを伸ばしてから答える。
「自分が勤めはじめたのは、ちょうど一月前のことです」
「その頃から今までで、あなた方ボディガードも含めて人の入れ替わりは?」
「……自分の前任が一人と、使用人が一人、ですね」
 記憶を探るように上へ投げられた視線は、しばらく天井をさまよった後にへ向けられた。確認を求めたそれに、彼女はかすかに頷いてみせる。
「ありがとうございます。後で赤谷さんにも同じ質問をさせてもらいますが、お気を悪くしないでくださいね」
「はあ……」
 榎田から返ってきたのは胡乱な目つきと、やはり気の抜けた返事だった。またその視線は質問の意図の説明を求めてもいる。からも同じものをひしひしと感じていたが、二度手間になると告げてやれば、二人は大人しく赤谷を待った。
 果たして戻った赤谷に「辞めたのは二人か?」と問えば、
「ええ……確かに……仰るとおり、ええ、そうです。『二人』辞めておりますね」と答えた。
 赤谷のほうが年かさだからか、記憶を探って答えるまでには少しの時間がいった。
 彼女もまたに確認の視線を向け、こちらは付き合いの長さ故からか、彼女ははっきりと首を縦に振った。
「そうですか―――ああ、こんなことをお聞きしたのは……単純な話で恐縮なんですけど……」
 理由を問う三つの視線を受けて彼は応えた。
「邸内で起こる怪異現象のほとんどは、人為的に再現可能なものなんです」
「というと……?」
 怪訝そうな様子で小首をかしげた老婆からコーヒーを受け取りつつ、明智はおもむろに立ち上がる。
「例えば、物がなくなったと思えば、思わぬところから見つかる―――なんてことが頻発しているそうですね」
 彼は行儀悪くカップとソーサーを手にしたまま窓辺とテーブルの間をゆったりと歩き回った。
「ええ、はあ、仰るとおりでして。わたくしどもも困り果てております」
 困惑気味の視線を老婆から差し向けられて、榎田が頷いた。どうやら彼にも心当たりのあることらしい。
 肩越しにそれを確かめながら、明智はドレッサーの前で足を止めた。
「それは、こういった具合に?」
 一同にも見えるよう身体をずらした彼の視線を追って、皆の眼がそこに集中する。片付けられたドレッサーの上に、ティースプーンがひとつ所在なさげに置かれていた。
「あら、どうしてそんなところに」
「僕が今置いただけですよ」
 あっさりと種を明かした少年に、榎田が鼻を鳴らした。
「そんなことくらい、誰にだってできるだろう」
「ええ。ですが、あなたは僕がスプーンを置いた瞬間を見ていましたか?」
「それは―――見えなかったが―――」
「でしょう? ほら、再現できた。邸内の者であればもっと日常的に、ことと次第によっては大きな物品でも移動させられるでしょうね」
 カップとソーサーを片手に、スプーンを回収する明智の背に寄越されたのはまだ胡乱げなものだった。
 ―――精神的に疲弊しているだろう嬢や亡霊を目撃したと語る赤谷女史はさておき、いい年をした榎田まで心霊現象や怪異現象を信じてるってのか?
 内心をおくびにも出さず、ふり返って彼はもう少し続けてやることにする。
「他にも、そうですね。通話によくノイズが交じる、話者以外の人の声が混じるそうですが、これは電磁波の発生による電気信号の乱れと考えられます」
「盗聴器の類はこちらでも探しましたが……」
 次に口を挟んだのは赤谷だった。明智は笑みを浮かべ、ゆるく首を縦に振ってみせる。
「盗聴器によるノイズは一昔前の話ですね。今は安物でも周波を限定させてノイズを発生させないようになっているので、この件に関しては盗聴器は関係ないでしょう。つまりそれ以外―――似たような……通話に用いられる帯域と同じ電波の発生装置を用意できれば話は別です」
「そんな物が邸内に?」
「恐らくは。さん、後ほど邸内を調べさせてもらっても構いませんね?」
「ええ、どうぞ」
 三度は首を縦に振った。
「ですが、じゃあ、人の声というのは? わたくしも確かに、受話口からお相手以外の声を聞いておりますが、それは?」
 赤谷が不安げに告げることに明智は少し考えるように間を置き、窓辺に足を止めて答えた。
「それに関してはなんとも言えませんが……でも、気にする必要はないと思います」
「そんな―――」
「通話に他人の声が混じる原因はいくつか考えられますが、大抵は相手側によるものです。覚えのない声がするというのなら、心配すべきは相手方のほうですね」
 少年が朗らかに告げたことに、令嬢の寝室は再び白けた空気に包まれる。しかし続けられた言葉に、一同はすぐに真剣そうな面持ちを取り戻した。
「先の話に戻りますが、人為的に再現可能である以上、それを仕掛けた者がいる」
「それがさっきの……辞めていった連中だと言いたいのか?」
「断定するのはまだ早いですね。現象の発生時間や間隔、始まった時期の照らし合わせも行っていませんし……ですが、全くの無関係とも言い難いかな、と」
 明智は窓際で足を止めると、広い庭に一瞥を投げてからふり返った。きょとんとした赤谷と、眉をひそめた榎田、そして青ざめた顔のが変わらぬ姿勢で彼を見つめている。
「失礼ながら、この邸の人の出入りを調べさせていただきました」
 榎田はあからさまに気分を害したように顔をしかめた。
「事前にお調べになったのなら、どうしてお聞きになったの?」
 もっともな問いかけはからもたらされた。それで怒りや不快感が凪いだのだろう、榎田は口を歪めて押し黙った。赤谷はもとよりぽかんとした様子で声もない。
「一つは信ぴょう性の確認ですね。事が人為的であれ、それ以外の原因であれ、日常的にストレスを与えられ続ければ人は簡単に参ってしまうもので―――ああ、いや、失礼」
「気になさらないで。その通りですもの」
「……ストレスへの解決方法は種々人それぞれありますが、最も効果的な方法はその原因から遠ざかることです」
「辞めていった連中が『そう』だと?」
 これは榎田からの問いだった。明智は曖昧に笑って肩をすくめる。
「ですから、これはまだ想像なんです。ここにはまず、『二人』の人が辞めていったという事実しかない」
 つまり、と挟んで、明智は一度息をついた。
「この邸には人が『二人』辞めていくような『なにか』がある。それはさんや赤谷さん、榎田さんのご様子からも明らかでしょう。その原因が人為的であれそれ以外であれ、それら可能性を一つ一つ潰して、残った一つをあなたにお出しすることが僕の仕事です」
 それでいいか、と尋ねる瞳に、はかすかに目を細めながら頷いた。
「だけどね、探偵さん」
 しかし返された声は硬く、どこか挑戦的な響きを孕んでいる様子だった。
「お母さまが現れるのよ。毎夜訪れては、私に囁きかけるの」
 彼女は言った。
「『私を殺した者に報いを』ってね」
 明智のみならず、赤谷と榎田までもが顔を顰めた。
 奥方の死因は事故だ。これは司法解剖の結果断定されたことであった。邸の階段で足を滑らせ、鉄製の手すりに後頭部を強く打って死亡した。頭部は陥没しており、即死とみられる。
 明智と榎田は、誘われたわけでもないのに赤谷へ目を向けていた。
 すでに事切れた奥方を血溜まりとともに発見したのはこの老婆だ。
 彼女は己に注目が集まっていることとその意味を察したのだろう、両手を祈るように組んで青ざめている。足元をさまよう視線は記憶の中の事故現場を再現しているのか、ゆっくりと楕円を描くように動いていた。
 明智は老婆にそれ以上のことは求めなかった。顔色の悪さを慮ったこともあるが、あらぬ主張をくり返す雇い主の娘の手前だ。否定も肯定もし辛かろうと口を閉ざした。
 一方で榎田の沈黙は、職務外のことと捉えたからだろう。事実彼はとっくに赤谷ではなく明智に目をやり、そっちの仕事だと訴えている。
 明智はかすかに顎を引くと、笑顔を繕って立ち上がった。
「では、その辺りも含めて調査しましょう。さんはごゆっくりお休みになってください」
 人好きのする甘やかな笑みだが、は頬を赤らめたりしなかった。

 錦の御旗を頂戴した明智は、早速それを掲げて邸内を歩き回り、気が済んだころにはすでに外はとっぷりと暮れ、もう二時間もすれば終電という頃になっていた。邸にはすでに赤谷と泊まり込みの警備員が一人、そしてのみだ。
 十七時ごろには通いの料理人がやって来て、の食事と使用人、警備員のまかないを用意し、十九時前には邸を出た。この際彼は明智の分もまかないを用意してくれたが、それは副大臣の配慮ではなく、この料理人の思いやりというものだろう。
 その後、警備の榎田が二十一時ごろに交代で帰り、代わりに上村という男が夜番として入った。
 五人の使用人らも住み込みは赤谷のみで他は通いのため、殆どが夕飯前には邸を出ていった。殆どというのは、夕餉の餘波にあたり、日によって賄い飯を頂いてから帰宅するためだ。この日は太田という女性が残っていたが、彼女も二十三時前には邸を出ている。
 警備の有無や夕食時の人数の違いこそあれ、ちょうどこの頃が奥方の死亡推定時刻だ。当日、娘のは大学テニス部の付き合いでまだ帰宅しておらず、邸には赤谷と奥方のみであったという。
 また使用人らは男女それぞれ二名ずつ、二十代半ばから四十代後半に分布し、三名が既婚者、一名が寡夫である。いずれも子供を持ち、四十代後半の寡夫の子のみすでに独り立ちしており、他は同居―――
 と、そこまでを整理し終えて、明智は小さく唸った。つらつらと考えてみたものの、赤谷を除いた四人の使用人らは除外してよさそうだ、と。
 明智が今いるのは使用人らの休憩室だ。ホールと呼べるほど広くはないが、地上にあって一十六畳ほどある。見る前から知ってはいたが、そもそもこの邸に地下はない。あっても床下収納くらいのものだ。
 今でこそ明智は一人でくたびれているが、少し前まで太田が居て、あれこれと必要なこともそうでないことも、微に入り細を穿って聞かせてくれたところだった。前述の情報は彼女から得たものだ。もちろん裏取りは必要になるだろうが―――
 仮に。そうとも、仮にだ。心霊現象を肯定的に捉える立場になって考えた場合、この邸で起きているポルターガイストと呼ばれる現象は、思春期の子供、特に女子を抱えた家庭環境で多く起こるという。
 は思春期を少し過ぎているものの有り得なくもないが、しかし使用人らは確実に一致しないと考えていいだろう。
 他にも不自然な気温の変化が無いこと、また電子機器を中心とした現象を除いたそれらへの影響の無さも考慮に入る。これは霊が現れる場所は気温が低下する、あるいは心霊現象と呼ばれるもの全般が電子機器と相性が悪いとされることから成る。
 ただしどちらも―――気温の変化、電子機器への影響はもちろん、そもそも心霊現象そのものを明智は観察できていないため、これもまた要検証となる。それにはいくつか装備を整える必要が出てくるが、極めて一般的な高校生探偵の明智としては、そんな心霊捜査員めいた真似は気が重い。
 よって、彼はもう少し理性的に、オカルトに対して否定的な立ち位置から結論付ける。四人の使用人が容疑者足り得ないのは、怪奇現象の無作為性にある、と。
 例えばラップ音一つとっても、耳にした場所と時間を使用人らの勤務表を照らし合わせてみると、特定の人物が必ず居るというような状況は存在しない。近代スピリチュアリズムの先駆者フォックス姉妹は手を使わず膝や足先で音を鳴らし、反響を利用してラップ音を演出していたというが、彼女たちだって邸宅の外から中へ音を送り込むことなど不可能だった。
 ならばスピーカーの類が仕込まれているのかと探してみたが、髪に埃が絡むほど探してみてもそれらしきものは見当たらなかった。
 あるいはもっと巧妙に隠してある可能性もあるが……
 明智はテーブルの上に置かれた小型機器に目を落とした。スピーカーは見つからなかったが、引き換えにこれ―――一般的に害虫や害獣の駆除に用いられる電波発生器の一種を発見していた。赤谷を含む使用人全員に確認したところ、こうした機器を設置した覚えはないと言うから、本来の意図とは違う目的に用いられた改造品、即ち、邸で頻発する通信の乱れの原因と見ていいだろう。
 この電波発生器の発見場所にはある程度の傾向があった。下から二段目の引き出しの底やソファの底面にある縫い目の中、靴箱の内側奥には壁面と同じ塗装を施してあったりと、いずれも膝より下、家具の外面にではなく内側に貼り付けてあった。全てではないが、一部は赤谷の告げた亡霊らしき影の目撃場所とも一致する。
 一方でラップ音の頻発する部屋や廊下を法則に従って探ってみたところで、スピーカーどころか音を発生させる類のものは一つも無かった。
 とはいえ、半日の捜査でポルターガイスト現象のうちの一つ、通信の乱れの原因を特定できたのは上出来と言っていいだろう。
 邸内から発見された電波発生器の数は四つ。いずれも電池式で、先ほど全て抜き取ったからもう影響は出ないはずだ。
 確認のためスマートフォンを取り出し、少し考えてから117へかける。時報を選んだのは単純に、コール音を聞く手間すら惜しいというだけだ。番号をタップし終えて耳を当てるころには、ラジオやテレビでもお馴染みの電子音が飛び込んでくる。
「なんだ……?」
 明智は強い目眩を覚えてテーブルに手をついていた。椅子の足が床に擦れて、妙に耳障りな音を響かせる。
 たしかに幾らかの疲労感はあるが、前後不覚になるほどでは決してないはずだ。食事に細工をするような時間も素振りもなかった。飲み物の類も、の部屋でコーヒーを口にして以後は己で用意したペットボトルの水以外口にしていない。
 じゃあこれはなんなんだときつく目をつぶり、ふらつく頭に手をやろうとして彼はやっと、自らが未だにスマートフォンを耳に押し当てたままだと気が付いた。
 ―――そういえば、時報が聞こえてこないな。ストレスによって難聴が引き起こされることがあると聞くが、よもやこの目眩もそれが原因か。心当たりは嫌ってほどある。
 そう思いながら吐いたため息は、奇妙なことに二重に聞こえる。まるですぐそばで誰かが同時に息をついた、そんなふうだった。
(……今、聞こえたよな。時報は聞こえないのに。まだ他にも電波発生器があるのか?)
 うんざりしながら立ち上がろうと足掻くと、椅子の脚が床を擦る音がはっきりと耳に届いた。
(難聴じゃない。やっぱり通信妨害か)
 確信と共にスマートフォンを耳から離そうとしたが、しかし彼にはそれが出来なかった。
『どうして……』
 ため息交じりの女の声だった。少し掠れた、女性にしてはやや低い、色気のあるハスキーボイスだ。まるで用意された原稿をただ淡々と読み上げているような調子で言葉が続けられる。
『分かりきったことのはずじゃない。他に誰の仕業だっていうの。それなのに、どうして、まだ……』
 抑揚はないが、口舌にはフツフツとした怒りと苛立ちが乗せられている。
 延々と続く愚痴と恨み言を耳にしながら、明智は自らの発言を胸に返していた。
 ―――通話に他人の声が混じる原因はいくつか考えられますが、大抵は相手側によるものです。覚えのない声がするというのなら、心配すべきは相手方のほうですね―――
 しかしこの場合に限って言えば、通話先にあるのは人や空間ではなく、時刻装置と組み合わされた音声断片のみだ。そこにただの人の愚痴が混じるようなことは通常あり得ない。
 ならば混線しているのかと思うがしかし、これもやはり直ちに否定される。
『お願いよ、……私を殺したあいつらに―――』
 声は割れんばかりに響いたノイズ音に遮られる。後に残ったのは電子音と時刻を告げる合成音声だけだ。
 明智はぼう然としたまま、やっと受話口から耳を離した。同時に目眩が波のように引いていく。
(なんだ今の)
 腰を浮かせた姿勢のまま、明智は半ば放り出すようにスマートフォンをテーブルの上に置いた。通話はまだ続いていて、微かに時報を告げる音声が垂れ流されている。
 ゆっくりと椅子に腰を戻して、それで彼はやっと人心地つく。
 ―――今の声はなんだったんだ。
 しかし胸を占めるのはそればかりだ。
 ―――低いが、確かに女の声だった。怨嗟の念のこもった平坦な声……
 一人きりの部屋に虚しく、か細い時報だけが響き続けている。邸の奥に位置する休憩室には外部の自然音も、人工的な環境音も届かない。部屋を出たとしても使用人らはすでに邸を出ており、夜番の上村も見回りの時間以外は客間を出ず、一人きりの状況は早々には解消できそうにない。
 鳥肌のような感覚が足元から登り、背をゆっくりと撫で上げる。内には焦燥感があって、ジリジリと骨を焼いている。
 それこそが『恐怖』であると理解する直前、明智の全身をもっと強烈なものが駆け巡った。
 ―――なんでこの俺が、こんな下らない、ガキのイタズラ以下のことで、ビビらなきゃならないんだ!?
 それが虚勢であることは明らかだったが、しかし同時に、怒りは本物でもあった。
 事実顔を上げた彼の瞳には憤怒の炎が揺らめいている。
 そうとも、仮にもし幽霊などという存在がいるのだとして、それは彼にとって取るに足らない存在でなければならない。今の彼には目の前の現実でさえも思い通りにできる力があるのだから、たかが女の声一つに恐れを引き出されるなどあってはならないことだ。
 明智は胸の内で、まだ姿形も見えない犯人に対して指を突きつける。
(お前がなんだろうと、どこにいようと、必ず、正体を暴いてやる―――)
 言葉だけ抜き取れば、一端の探偵のような決意をことを考えて、この日の調査は終了した。