明智吾郎の事件簿 CASE-xx 『悪霊の住む邸』
前日から続いていた雨がやっと上がり、肌にまとわりつくような湿気だけが残される、いやに冷える夜のことだった。
彼にとっては長い一日を終えてやっと得た寸暇だ。寝る前に済まさなければならないことに取り掛かる前の、ほんのわずかな息抜きの時間―――それすら奪わんとするコール音がスマートフォンから鳴り響いて、彼はそれを窓から放り投げようとする衝動を押し殺さなければならなかった。
当然そんなことができようはずもなく、代わりのため息をつきながらディスプレイを覗きこむと、そこには『通話に応じなければならない』相手の名があった。一旦無視して明日あたり「ごめん寝てた」などと言う訳にもいかない相手だ。
「―――なにかありましたか?」
疲れを押し殺して通話に応じると、回線のむこうの男も似たような状態なのだろうか、ため息のような、苛立ちや不快感を誤魔化すような吐息の後に返答が続いた。
『意味も無くお前に連絡をすると思うか?』
それもそうだ。彼は冷笑を浮かべて沈黙した。電話の男はそれを都合よく、恐らくは従順な態度として受け止めたのだろう。すぐに本題を切り出した。
『外務省の副大臣に、という男がいるだろう』
さも知っていて当然という口ぶりだった。それを信頼ととるか単なる想像力の欠如とみるか、少し迷って彼は肯定してみせた。
それはいい加減な受け答えではなかった。電話の男が言う某とは齢五〇を過ぎた宗敬という名の人物で、当選回数はのべ六回、次期大臣の呼び声も高い男だ。いわゆるタカ派として知られているが、その外交手腕には定評があり、海外とのパイプも多数有している。そんな華々しい経歴の一方、今年の春先に妻を亡くしたばかりで、しばらくはひどく気落ちしていたという―――
とはいえそれくらいのことは、少し知恵のある者であればいくらだって知れる情報だ。
電話の相手―――獅童正義は高圧的に述べた。
『奴さんから『協力』を求められてね』
予想通りの文言ではあったが、詳細について確かなものはない。近く予定されている訪米に際してトラブルでもあったのか。どことなくうんざりした気持ちを飲み込みながら、彼は言葉の続きを待った。
『あれの娘のことは知っているか?』
記憶を探るまでもなく彼はその名を思い出していた。。それもまた調べればすぐに知れることだった。確か今年で十九歳になるはずだ。
つまりの娘にまつわることなのか? 尋ねた彼に、獅童は珍しいことにわずかばかり躊躇するような様子をみせたが、それも長くは続かない。小さく舌打ちをして言った。
『私にもよくわからんのだ』
―――の娘、がどうにも厄介なことになっているらしい。
歯切れの悪いもの言いに、彼は怪訝そうに眉根を寄せた。
「厄介なこと、というのは?」
『ああ、なんというか……病気、のようなものだそうだ』
「病気? それなら僕じゃなくて、医者に診せたほうがいいんじゃないですか?」
『それはまずい、ということだ』
「ああ……」
なるほど、醜聞に関わるような『病気』というわけか。合点がいった彼は失笑する。思いつくものはいくつかある。何某か、あるいは獅童にとって都合の悪い人物との愛執染着か、はたまた愛多憎生、年ごろの娘となればその辺りがセオリーだろう。
そしてそこで己が必要となれば、やること自体は単純だ。
「どちらを『変える』んです? 娘さんのほうですか? それとも相手の―――」
ところが返ってきたのは獅童の呆けた声だけだった。
『なにを言っているんだお前は』
「え?」
『相手はもう死んでいる』
「うん―――?」
獅童はやっと、ことの詳細を、やはり歯切れ悪く語り始めた。
始まりは春先の葬儀―――宗敬の妻、小夜子の弔いをすっかり終え、広々とした邸宅にようやく落ち着きが取り戻されたころになってからのことだという。
娘のが体調を崩し、家に篭りがちになった。それだけであれば、母親を亡くしたばかりだ。悲しみが癒えるまでは放っておこうとも見守る姿勢を取った。
ところが、ひと月経っても癒えるどころか顔色を悪くするばかりで、一向に回復の兆しは現れない。それも気分の落ち込みということであればよかった。時間をかけるか、金をかければ解決するはずだ。
すっかり少なくなった口数の中で娘は父に言ったそうだ。
『お母さまが無念そうに枕元に立つのです』と。
はそれを鼻で笑った。気鬱かと思えば、なんだ、ただ悪夢にうなされているというだけかと。
迂闊な男だった。ひと月も続く悪夢となれば、現実に支障が出ている以上それは立派な病気や障害だ。この時点で手を打っていればまだよかっただろうにと、獅童もまた嘲るように鼻を鳴らした。
政治家の資金集めも難しくなったと言われる昨今にあって、は都内に不動産資産を有している。そのうちの一つに渋谷区の邸宅がある。はここへ娘と亡き妻を幾人かの使用人らと共に住まわせていた。
そして、娘のが体調を崩すのと同じころ、ここの使用人の一人が逃げるように辞めていった。これが事の始まりだった。
しばらくすると邸宅内で奇妙な出来事が頻発するようになる。洋風の大きな館のあちこちから、家鳴りやあるはずのない足音や風音、破裂音がする。調理器具や鍵と言った比較的小型の物品が頻繁に消え、覚えのない所で発見される。電話などの通信が頻繁に途切れ、ノイズが混じり、混線もするという。固定されているはずの家具が動いていたり、壁に飾られた絵画に血痕めいた汚れが付着していることもあった。幸いなことにこれは額に守られ、絵自体に被害はなかったようだ。
極めつけは娘のヒステリーだった。頻繁に亡き母の姿を見、声を聞いては怯えて泣き叫ぶようになったという。
は迷信深い人間ではなかった。むしろそういったものを嘲笑し、嫌悪するような男だった。娘の言葉を鵜呑みにはしなかったし、時にはきつく𠮟り飛ばした。
それでも娘はめげずに訴え続けた。
『お母さまが現れるの。無念そうになにかを訴えているのよ―――』
くり返される言葉にさしものもそれを無視することができなくなっていった。娘の焦燥ぶりがあまりにも凄まじく、不気味さすらあったからだ。
丸い頬はすっかりこけ、目はくぼんでクマを刻んでいる。ヒステリーを起こすようになってからは異食症を患ったのか、長く美しかった髪は幾度となく口に運ばれてひどく痛み、まばらな長さになってしまっているという。
医者に診せることはできなかった。次期大臣の呼び声高い男は、外聞をひどく気にしていた。頓に妻が亡くなってからというもの、マスコミがその死に不審なところがないか嗅ぎまわっている。そういう意味では、娘が屋敷に篭りきりになってくれている状況は彼にとって不幸中の幸いだった。
さりとて娘の言を信じて寺社仏閣や霊能者を頼ろうなどというつもりも毛頭なく……
「それで僕、ですか」
感心したような呆れたような声で結論付けた彼に、獅童はかすかな笑い声をあげた。
『つまらん仕事と言いたげだな』
「そんなつもりは」
『構わんよ。私もそう思っている』
電話の向こうで獅童正義は苦々しげに言い切った。某という男は獅童正義にとってそういう存在だ。
獅童の目論む新内閣の構想の前に積極的に立ちはだかる訳でもないが、かといって無視もできない。何故ならもし今、獅童が新内閣の発足に踏み切ったとすれば、政界においてはまだ若年と呼ばれる彼よりも、年齢や当選回数を重ねた他の人物のほうが妥当と判断されかねないからだ。はその『他の人物』の筆頭とも言える男であった。
なるほど、と彼はここに至って獅童の歯切れの悪さを理解した。
失脚を望んでいた相手ではあるし、その機会を窺ってもいた。これ幸いと退陣して頂くにしても、その内容はいささか……どう取り扱ったものか。万が一にも現内閣の不信任決議、ひいては国会の解散を推し進める計画に支障があってはならない。
明智はこみ上げる笑いを噛み殺した。獅童という男の困惑ぶりは彼にとって愉快なものの一つに過ぎないからだ。
侮蔑の感情をおくびにも出さず、彼は平坦な調子で告げた。
「わかりました。ではまず、事の仔細を見極めて来ます」
『ああ、そうだな。それがいいだろう』
「接触はどうします? こちらで手配しましょうか」
『それには及ばん。すでに話はつけてある』
「それはつまり―――」
『いつも通りだ。高校生探偵の明智吾郎くんにお出ましいただこうじゃないか、えぇ?』
小馬鹿にした口調に、明智はなんと応えることなく肩をすくめた。
……
いつも通りの手筈とは、即ち高名な高校生探偵への依頼という体裁を取る。
表向きには娘の状態を不憫に思ったが邸内で頻発する異変の解決を願った、といったところだろう。外聞を気にする割にと明智は言及したが、どうやら獅童の美談めいた表現に応じたようだ。
そのようにして『依頼』を受けた翌日、明智は学校帰りに渋谷へ向かった。
ちょうど帰宅ラッシュが始まる時間帯だ。井ノ上線から吐き出された乗客が一斉に駅を出ようとごった返すなかからどうにか抜け出し、スクランブル交差点を抜けてほどなく、目的地であるの邸宅へとたどり着く。時刻は二十時を回るころになっていた。
なにも夜を通して調査をしようというつもりはない。この日の彼の目当てはただ顔合わせと軽い挨拶で、事と次第によってはそれだけで済む。
洋風の瀟洒な邸宅は夕闇の中にあって、その建築様式の美しさを誇示するように構えられていた。白い壁、黒い屋根、庭に植えられた木々は夕闇の中にあっても力強く、あるいは嫋やかに緑を揺らしている。
整えられた邸宅の姿に、しかし彼は漠然とそれら―――その場に存在する空気や雰囲気と呼ぶべきものに『違和感』を覚えた。それは言語化し難い感覚的な、非物質的ななにかだ。
―――よもや怪談めいた前説に怖気を感じているのだろうか? ……この僕が?
フッと鼻を鳴らして、明智は想像を振り払った。『違和感』はまだ肌の表面にまとわりついていたが、気にしないようにと意識するとすぐに消えた。
呼び鈴越しに幾つかのやり取りをしたのち、ややあって扉が開かれる。
現れたのは品の良い老婆と黒服に身を包んだ偉丈夫だった。
老婆のほうはこの邸宅の留守を主に預かる住み込みの女中長のようなもので、赤谷敏恵と名乗った。ようなもの、というのは家事全般を請け負うには館の広さや歳のために難しく、多くはもっと若いスタッフに任せきりで、彼女の時間のほとんどはその采配に費やされているのだという。
黒服は名乗らなかったが、赤谷曰く、石山という名のボディガードなのだという。奥方が亡くなられてしばらく、近辺をマスコミ関係者がうろついていることから『旦那様』がお雇いになったのだと彼女は語った。今は石山だけだが、他に二人、上村と榎田という男が同じように勤めているとも。
話しがてら廊下を通り、たどり着いたリビングルームは明智が想像していた以上に広々としていた。庭に面した大きな窓には厚手のカーテンがかけられ、電灯の明かりが照らす室内は清潔に保たれているさまがよく窺える。調度品一つとっても古めかしさこそあれ、チリの一つも見つからない。カーペットは厚く、靴底越しに心地よさを返していた。
明智は自らの内から湧き上がる高揚感を抑え込もうと幾らかの努力を払いつつ、促されてソファに腰を下ろした。それもやはり、なかなか味わえない座り心地だった。これは単に部屋の雰囲気によるものかもしれない。
―――こんな洋風の館に、いかにもな女中長とボディガード、そしてヒステリーを起こした娘と、なんだかまるでよくある探偵小説の舞台じゃないか。
疼いて落ち着かないそれが子供っぽい好奇心という自覚はあった。
けれどそれも、赤谷が用意したコーヒーを前にすると鳴りを潜める。
「ありがとうございます」
「いえ―――」
赤谷はどことなく戸惑ったような調子で首を振ると、窺うような視線を彼に寄越した。
当然の反応だと明智は思う。奥方が亡くなってほどなく、その娘が幻覚や幻聴の症状を訴え、邸内では怪異とでも呼ぶべき現象が頻発している。それで呼ばれたのが医者ではなく探偵―――しかもまだ年若い人物となれば、主の正気こそ疑われてもおかしくないだろう。
さらに言えばその主人も不在だ。聞くところによればこうなる前、つまり妻の小夜子の死去より以前からこの邸宅にはあまり帰っていないそうだ。
なんと切り出そうかと手を揉んでいると、赤谷が口を開いた。
「ご足労をいただき、ありがとうございます」
「ああ、いえ。遅くにお邪魔してしまって」
「とんでもありません」
丁寧に頭を下げる仕草には年季が入っている。ずいぶん長くここか、あるいは他の館の類に勤めているようだと察せられた。
「……明智様のお噂は、わたくしどももかねがね伺っております。素晴らしいご活躍だと……」
消え入りそうな語尾に明智は苦笑する。探偵としての彼の手腕のいかほどを知るからこそ、今回の件に駆り出された理由が分からず困惑が深まるのだろう。
彼はさわやかな笑みを取り繕って応えた。
「そんな大層なものじゃないですよ。僕なんてまだまだ未熟者です。だけど、今回の件の解決にも精一杯努めます。どうかご安心ください」
「あ……ありがとうございます……」
赤谷はやはり戸惑いと、しかしかすかな安堵を浮かべて深々と頭を下げた。
それから二、三、当たり障りのない会話を交わした後、彼は本題を切り出した。
「まずは邸内で起こっているという異変についてお教えいただけますか?」
「はい―――」
語られたのは事前に聞かされたことと大差ない情報だった。家鳴りやあるはずのない足音、風音に破裂音。物品の消失とその奇妙な発見場所。通信の乱れ、家具の移動や血痕らしき汚れの付着……
(典型的なポルターガイスト現象だな。物の消失と出現、電波障害、ラップ音に家具の移動……)
とはいえ、と明智は内心で独り言ちる。
彼は己がオカルトめいた超常的な能力の持ち主でありながら、しかしこの件を素直に『そう』と受け止めることに若干の抵抗を覚えていた。これは単に彼が天邪鬼、あるいは疑り深い性格であるというだけだが、それ以上に何某かの勘のようなものが違和感を訴えている。
(探偵の勘ってやつか)
また胸の内で呟いて、自嘲気味に唇の端を歪める。嘲笑は自らだけでなく目の前の赤谷にも、姿を見せない親子にも、この場に居ない獅童正義にも、あるいは彼を探偵として持ち上げる大衆にすら向けられていた。
彼は己が被る『探偵』の仮面なんてものがチャチなまがい物だと知っている。今のところ得ている栄誉など、人知れぬ力によって起こす自作自演の結果に過ぎないと。なによりそれは彼が胸に抱いた復讐心の副次的産物でしかない。
それをありがたがって崇めるようにしたり、やたらと褒めそやしたり、期待や好意を寄せてくる連中といったら、滑稽の一言に尽きる―――
そう思う一方で彼の小さくないプライドや功名心はその名声を心地よくも思っている。自嘲はここへ向けられていた。
そうとも、こんなおあつらえ向きの舞台で、自分が仕込んだ覚えのない、けれど『自分向き』の事件が舞い込んだ。彼は間違いなく、子供のような好奇心と喜びで胸をいっぱいにしていた。
しかし当然と言うべきだろう、赤谷はそんな少年の子供じみた虚栄心などつゆ知らず、まだどこか不安げな面持ちで彼の顔をチラチラと窺っては言葉に詰まるような素振りを見せている。
「まだなにか?」
言いたいことがあるのかと促すと、赤谷はひどく恥じた様子で俯きながら言った。
「その……実は、これは他の従業員たちは関りのない話なのですが……」
「構いませんよ。どんな些細なことでも仰ってください」
しかし彼女はまた、幾度目かもわからない躊躇を見せる。それはやはり怯えではなく羞恥の念によるもののように明智には窺えた。
それでも最後には観念か、決心をしたのだろう。軽く息をつくと、重々しく口を開いた。
「……わたくしも、その……見たのです」
「なにをですか?」
「ああ、本当にその……」
背の丸まった老婆は落ち着きなく手を揉みながらやっとのことで告げる。
「奥様をです。亡くなられたはずの小夜子さまを……」
消え入りそうな声を耳に、明智はやっと彼女の態度の訳を知って得心する。
この老婆は己の不明を恥じていたのだ。死んだはずの人間の姿を見たなど、およそ正気の人間が言えたことではない。明智と赤谷はこの見解において共通した感覚を有しているようだった。
その上で彼女は『見た』と言う。
「それは、例えばどんな状況で?」
優しげな少年の声に嘲りや狂人を見た様子が窺えないためだろう、赤谷は安堵の息をつくと、丸まっていた背すじを伸ばして答えた。
「奥様がよく手入れをなさっていたお庭や、邸内のあちこちで……その、うずくまっていたり、這いつくばって動いていた姿を何度か……いずれも夜半も過ぎたころです。物音で目が覚めまして、それで見に行きましたら……」
―――亡霊の姿を目撃し、仰天して部屋に引き返した。
それそのものへの恐怖と我が身の正気を疑って身動きがとれず、今に至っても詳しく調べるようなことはしていない。けれど間違いなくあれは亡き奥方、小夜子の姿だった。老婆はそのように語った。
話の終わりに、明智は大きく頷いて承知してみせた。
もちろん彼は幽霊などといった存在をいささかも信じていない。この場合信用に値するのは赤谷の意識だ。背は丸まり、顔中を皺だらけにし、若者ほど身体が動かないとしても、未だこの邸の多くのことを取り仕切る女性だ。加齢による認知機能の低下はあっても、脳機能の障害等による幻覚の線は薄いと見ていい。
となれば彼女が目撃した亡霊とやらはなんらかの見間違いか、生きた人間である可能性が高い。どちらにせよ夜更けに邸をうろつく怪しい存在となれば、十中八九怪異現象に関わりがあると考えていいだろう。
具体的な怪異現象の発生場所と時間、また先の亡霊の目撃場所の聞き取りを終えると、時刻は二十一時を過ぎていた。こんな時間となっては娘のへ目通り願うわけにもいくまいと一旦の退却を申し出、明智は邸宅を後にする。
閑静な住宅街だ。辺りは似たような高級住宅が並び、たまに通る車も高級車が目に付きやすい。セダン、クーペ、ステーションワゴン、SUV、コンバーチブル……何台かを見送ったころ、明智はおもむろに足を止めた。
(さっさと済ませたほうがいいかな)
事件のあらましは概ね把握できた。数々の怪異現象に幽霊の目撃談、いずれも氏の醜聞には繋がりそうもないものだ。となればあとは、事態を平常に戻せばいい。
事と次第によってはそれで氏を獅童派に転身させることも出来るかもしれない。計画に変更こそ入るが、この場合は支障というより大幅な省略になる。
オカルトめいた怪異現象の原因究明も、いかにもミステリー小説じみた舞台での探偵らしい活躍も、やはり楽しむ隙はなさそうだ。彼は少しだけ残念に思いながらスマートフォンをポケットから引き出した。
彼のシゴトは単純だ。他者の心に侵入し、その精神を暴走させる―――ただし今回の案件においては、根本的な原因となる人物がすでに鬼籍に入っているため使えない。
ならばと生きている当事者、この場合はを廃人に追い込むわけにもいかないだろう。
つまり今回の件には『心を改変する』対象が存在しないのだ。
であれば、極めて単純に、原因を取り除く。この場合は嬢と、場合によっては赤谷女史の精神を蝕む悪夢とやらを払ってやる程度でいいだろう。正気を取り戻した人間の前に残るのはただ事実だけだ。邸内の怪異現象もすぐに鳴りを潜め、犯人も捕まるだろう。
それじゃあそろそろ取り掛かろうかな、と退屈まじりの息をつく。それは傍目には物憂げなため息として映ったはずだ。
「……なにか御用ですか?」
ふり返りざま声を掛けた先の薄闇には一人の女が佇んでいた。瞳には驚きが満ちてこそいるが、怯えの感情は窺えない。
少し前から跡をつけられていることには気がついていたが、駅への道だ。勘違いという可能性もある。ならばと足を止めたが、あちらも止まって姿を見せない。じゃあと接触を待ったが、むこうからアクションを起こす気はなさそうだった。これではシゴトにならないと声をかけたが……
「なんだ、バレてたのか」
女は開き直った様子で胸を張り、明智に歩み寄った。頼りない明かりに顎のラインで切り揃えた黒髪が揺れた。ラフな服装は高級住宅街にはいささか不似合いで、なにより首から下げられたカメラが強く彼女の身分を主張している。
「マスコミ関係の方です?」
「そだよ。ほい、名刺」
隠す気もないらしい。躊躇なく差し出された名刺には、大手新聞社の名が印字されている。中央には飾り気のない書体で『大宅一子』とあった。
「娯楽部、ですか」
「あ、嫌そうな顔すんね。一枚もらっていい?」
やめてくれと手を振ると、掲げられたカメラは意外なほどあっさりと下げられた。
「……目的は僕じゃないんですね」
「おっ、さすが探偵王子」
明智はこれみよがしにため息を吐いてみせた。
―――高級住宅街に娯楽部所属の記者、とくれば、狙いは近隣住民のスキャンダルだろう。氏に関して言えば、春先に妻の小夜子が亡くなってからマスコミが周辺を嗅ぎ回っていると聞いたはずだ。
まだ新しい記憶を辿りつつ目を向けると、大宅と名乗った女は小賢しい猫のように目を細めた。
「キミが出てきたの、宗敬氏の持ち家の一つだよね? もしかして、なにか事件?」
率直な言葉には好感を覚えるのと同時に、邸を出た時点からつけられていたことへの驚きと戦慄、そしてやはり彼女が例の嗅ぎ回っていたマスコミだろうという確信を得る……という滅多にない経験をする。
ついでに舌も少し巻いた。彼女のほうから宗敬の名を出したのは一種の譲歩と察せられたからだ。すでになんらかの情報と確信を得ていて、引き換えにこちらの知ることを寄越せとでも言いたいのだろう。
さてどうしたものかなと明智は顎を擦った。この場合、返答に詰まる事自体が答えだとも彼は理解しているから、逡巡は一拍にも満たなかった。
「事件ってほどのことじゃないですね。ありがたいことにあちらの娘さんが僕のファンだそうで」
一度言葉を切って様子を窺うが、大宅にこれといった変化はなかった。驚きや意外そうな素振りがないところを見るに、娘の『病気』のことはすでに掴まれていると考えていいだろう。
「……一度でいいから見舞いに来てくれと伝手から頼まれたんです」
「ああ、それで」
さして興味もなさそうな吐息が大宅の口から漏れる。それが演技なのか心からのものなのか―――世間的にはの『病状』は単なる気鬱ということになっている。それを把握しているのか、それとも真相を知った上でカマをかけられているのか―――判らなかったが、一方で彼女の目的が娘のにではなく宗敬のほうに絞られていることは窺い知れる。
明智は受け取った名刺にもう一度目を落とした。同時に、狙ったわけではないだろうが、被せるように女のささやき声が耳に触れた。
「わざわざ見舞いを頼む程のビョーキかぁ……娘のほうからは引き出せそうにないし、茶化すのも、ねぇ……」
娯楽記事の担い手、それも奥方を亡くしたばかりの政治家の身辺を探る輩にしてはやたらと良識めいた言葉だった。聞かせるつもりで―――明智少年の警戒を解くための方便として吐かれたとも考えられるが、穿ち過ぎかとも彼は思う。
(この人の狙いは僕じゃない。娘の嬢でもなさそうだ。やはり宗敬氏に間違いない。これといった醜聞は聞こえてこないけど、相応の地位にある人物だ。そこに辿り着くまでに一つ二つの間違いがあっても、人間ならおかしくはない。問題はそれが『どういった類のものか』だ)
考えるうち、明智の内にむらむらと良からぬ考えが湧き立ちつつあった。
獅童はあくまでも宗敬氏の穏便な退場を望んでいたが、同時に氏の擁するコネクションを惜しんでもいた。それをそっくり手に入れるのに今回の件は打って付けの機会だ。
『それだけ』で済ませれば、いつも通りに終わるだろう。
明智に言わせれば、『それだけ』で終わってしまうことになる。
元より彼は獅童正義の目的にあまり興味がない。この国の総理大臣の座に彼を着かせることにも、その後の政策方針にも、それでこの国がどうなろうともだ。
彼にとって重要なのは『その瞬間』だ。その修飾のためであれば、いくらだって労力を注ぎこめる。
そして今がその注ぎどころのように思えた。
いつも通りに唯々諾々と『おつかい』をこなすだけでは、獅童正義にとっての明智吾郎という存在は縮んでいくばかりだろう。例えそれが唯一無二の存在だったとしても、人は刺激に慣れるものだ。それが己にとって都合の良いものとなれば尚のこと。子供が親の愛情を当然と感じることに似ているかもしれない。
氏の首に縄をつけて傘下の一部とする行程をすっかり揃えてやれば、忌々しいことにより覚えめでたくなるだろう。
この名刺はその一手に利用できる。何故なら大宅一子は獅童正義の息のかかっていない記者だからだ。彼女の勤める新聞社自体は獅童の影響力下にあるが、その内の女一人、言いくるめるにせよ心を改変するにせよ、明智には大した手間ではない。手柄を一人占めするにはちょうどいい相手だった。欲を言えば、娯楽記事の担当よりも政治部や評論家に繋がりのある人物のほうが良かったが、この際贅沢は言っていられない。
名刺から顔を上げた彼を、怪訝そうな女の顔が出迎えた。
「なに? あ、まさかホントに記者かどうか疑ってる? いいよ、デスクに電話してくれても。キチンと仕事してるって証明になるし」
少年は素知らぬ顔で悲劇を前にした善良な一市民のようにうなだれてみせた。
「いえ、疑うとか、そんなんじゃないんです。ただ、娘さんの病状があまり芳しくないようで……母親を亡くされたばかりですから……」
だから、人として良識ある行動を期待しているのだと、正義感に満ちた、しかし無知な若者らしく振る舞ってやると、女はこれみよがしに大きなため息をこぼして返した。
「ああ、ああ、わかったよ。傷心をほじくり返すなってんだろ? ったく、このネタも使えないってことか」
「ありがとうございます」
柔和な笑みも朗らかな声にも、女は関心を示さない。その徒労感に満ちた表情が心底からのものなのか、明智にはやはり判らなかった。
女はそのまま、おざなりな挨拶を残して立ち去った。その足は駅の方を向いていたから、氏に関するスキャンダルは諦めたのだろう。それも『今夜は』というだけかもしれないが……どちらであっても明智には関りのない事だ。
三度、渡された名刺に目を落とす。そうまでしても彼は己がその名にした仕打ちを思い出すことはなかった。
遠ざかる女の背が消えてやっと彼はその場を立ち去った。