目が合うのには理由がある

 都立洸星高校は生徒数五百人余を抱える都内ではありふれた公立高校だ。敷地はそれなりに広く、どちらかといえば文化・芸術系の学科に力を入れている。そのためか運動施設よりもそれら専門の棟が目立つ。
 それらとはまた別に、本校舎内にある図書室の蔵書もまた学校図書標準を満たして充実している。そのためか利用者は多く、自習目的の者と相まって座って本を読むのに少し苦労する時さえあった。
 『彼』が己の前にやってきたのはそのせいだろうと少女はあたりをつける。なにか特別な理由があってのことではないと。
 そもそも前にと言っても真正面というわけでもなかった。広々とした閲覧机の端、室内にちらほら見える空席のうちの一つ、視界の隅に現れたというだけだ。
 それでも彼女は一拍動揺をこらえきれずに息を呑み、紙面を追っていたはずの視線をチラチラと彼の顔と文字との間を行き来させる。この緊張は嫌悪やばつの悪さからくるものではなく彼女からの一方的な好意によるもので、決して悪感情には由来しない。
 有り体に言えば、このという少女は、片思いとも呼べないような薄っすらとした感情を一方的に抱いている。それは彼の身辺に大きな変化が訪れても変わらなかった。
 どれくらいの間そうしていたのか、元より時間つぶしのために訪れていたは気がつけば本より彼を密かに見つめることに注力していた。それを努力と呼んで良いものか、いずれにせよ彼女にとって幸運なことにほんの一瞬、二人の視線がかち合った。
 もちろんそれだけなら単なる偶然だ。今回のこれが『それだけ』で済まされなかったのは、彼の眼がひどく熱心な色を湛えてを見つめていたからだった。
 ともすれば睨みつけているとも取れるような鋭い眼差しだが、しかしは特別恐ろしいとは感じなかった。それは彼女がかの少年に好意を抱いているからというよりは、何某かの必死さを感じさせられるものだったからだろう。
 彼というひとは名前を喜多川祐介といって、少し人目を引くような容姿をしている。それだけがの好意の理由ではないが、少なくとも一因ではあった。さておき、の知る限り喜多川という少年はたいてい難しい顔をしていることの多い人物で、人と接している場面に遭遇することはあまりない。それは彼が他者に関心のない冷淡な人物というわけではなく、単に熱心な人物であることの証明であり、その奥に宿る温かさこそがこのひとの本質とでも呼ぶべきものだと、などは勝手に確信している。
 そうした思い込みに過ぎないような、根拠も証拠もろくにない想いをますます確かなものにするような熱の入りようだった。
 彼女がそうした、今のところは思い込みに過ぎない彼の一面を知っているのもやはりほんの偶然によるもので、きっかけなど彼のほうは知りもしないだろう。伝えようと試みたことさえないのだから当然ではある。
 ―――なにか用でもあるのかもしれない。
 は首を傾げて無言のうちに応えてみせたが、途端に色は失せて視線は逸らされてしまった。
(あ、勘違いしちゃったかな。こっち窓際だから逆光で眩しかったとか。うわあ、恥ずかしい……)
 ―――でも。
 は緩む頬を隠そうと行儀悪く頬杖をついた。
 ―――それでもいいや。今日はツイてるなぁ。
 という少女は、たいへんのんびりとした人物であった。
 窓際の座席には暖かく柔らかな日差しが射し込んでいる。遠くから運動部や吹奏楽、合唱部の面々が励む声音が届くくらいで、ここは世俗から切り離されたように穏やかだ。まるで今のの心情そのもののようであった。
 やがて三〇分ほどが経過したころ、は席を立った。
 彼女がここでさして興味もない本に目を通していたのは、放課後に入れたアルバイトまで時間が大きく空いていたからだ。それもやっと移動と少しの猶予を残してちょうど良い刻限になった。鞄を手に、読みかけの本を棚に戻し、先の幸運を噛み締めて図書室を出る足取りは軽快だった。
「―――さん」
 昇降口に向かっていくらか進んだところで、彼女は背後から声をかけられた。急ぐでもなくゆったりとした足はすぐに止まり、ふり返ってみると例の喜多川某がそこにいる。
 は驚いた猫のように目を開くと、慌てて前髪に手をやった。さっきは座って大人しくしていたから良かったけど、今少し歩いて、それも浮かれて跳ねるようにしていて、髪が乱れていないかと気になったからだ。
 対して喜多川のほうは、そんな彼女の仕草に不思議そうに首を傾けている。
さん?」
「あっ、はい。ええと……」
「喜多川だ。同じ中学だった―――」
 再びの呼びかけにが戸惑った様子を見せていると、喜多川はいくらか気落ちした様子で身上を明かし始める。どうやら己のことを知られていないと早合点したらしい。
 どちらにしても仕方のないことではあった。喜多川は同じ中学だったと言ったがこれはそのとおりで、なんなら同じクラスに所属していたこともある。ただしその当時も深い親交があったでもなく、また高校に進学してからは科の違いもあって言葉を交わしたことさえなかった。
 だからは戸惑っているし、喜多川は自己紹介をし始めた。
 しかし前者はともかく、後者はまったく必要のないことだ。が少しとぼけた人柄であるからといって、なにも知らない相手に好意を寄せるほどではない。
「や、知ってる知ってる。おぼえてるよ。喜多川くん。二年のとき同じクラスだったよね。うん、おぼえてる」
「ああ、そうか。すまない、てっきり忘れられていたのかと」
 両手を振って言葉を遮った彼女に、喜多川は照れたように目を伏せた。
「……えっと……」
 誤解は解けたが、問題は残る。
 どうやら喜多川のほうはなにか用があってわざわざ追いかけてきた様子だが、さて。には心当たりがまったくない。なにしろ会話するのも実に三年弱ぶりのことだ。
 戸惑って指先を擦り合わせる彼女に、喜多川は姿勢を正して告げる。
「話があるんだ。少し時間をもらえるか?」
「へっ」
「もし急いでいるのなら、君の用事が済んでからでも構わない。できれば他に人がいないところで―――」
 頼む、とこのときもやはり、先の視線に似た熱心さを含んで乞われてはたたらを踏んだ。
 ―――話があるって? できれば二人だけで? それってなんだか……なんだかまるで……
 は素早く首を左右に振った。それは己に都合の良すぎる妄想を振り払うためでもあったし、周囲に聞き耳を立てる存在がいないか確かめるためでもあった。
 喜多川の目には拒絶として映る。
「……駄目なのか?」
「えっ、あ、いや。そういうのじゃないよ。大丈夫!」
「じゃあ」
 半ば了承とも取れる彼女の言に喜多川は瞳を輝かせた。それがまたの知る―――折をみて、隙をみては視線を寄せる際の表情とは全く違う、年相応の朗らかさを宿したもので、彼女の心臓をひどく痛めつけた。
「あ、あっ〜、でもその……あの……」
「うん?」
「こ……これからバイトで……」
「ああ、知っている」
「ええ……?」
 何故知っているんだと尋ね返すことを早々に諦め、は今は急ぐわけではないがあまり時間を割いてもいられないと正直に明かした。
 喜多川はそれに不満を抱くでもなく、むしろ感心した様子さえみせながら鷹揚に頷いている。
「そうか。そうだな、君の仕事に支障をきたしてはまずい。それで、何時に上がるんだ?」
「七時過ぎくらいだけど」
「わかった。迎えに行くから、帰らず待っていてくれるか」
「えあっ!?」
 明日かその先に延ばされるだろうと予測していたところに不意打ちをくらい、は奇声を上げた。
「……空気?」
 喜多川はただ不思議そうに首を傾げている。

 にとっては悲しいことに、この接触には目論見があった。
 事の発端は二週間前、怪盗お願いチャンネル―――通称怪チャンと呼ばれるウェブサイトから始まる。
 怪チャンとはそも、にわかに世を騒がし始めた義賊集団、心の怪盗団に繋がると目されるホームページで、そこに設置されたBBSには日夜懐疑派と肯定派による結論の出ない煽りあいと愉快犯による荒らし目的の書き込みで賑わっている。後者と否定的な文言はマメな管理者によって定期的に削除とアクセス禁止処理が行われているため、常に動きを監視しているでもなければ傍目にはそこそこ穏やかだ。
 それゆえ藁にもすがる思いで綴られた助けを求める声はすぐに目に付き、管理者から怪盗団へと受け渡された。
 『兄を助けて下さい』という表題の書き込みは以下のように続く。
『ある事件の犯人として兄が逮捕されてしまいました。警察も弁護士も信用できません。このままでは兄は冤罪で刑務所行きになってしまいます、助けてください』
 管理者がなにを思ってこの稚拙な文章になにを見出したのかは分からない。彼はいつもの調子でお気楽に、やたらと熱心に依頼を託していった。
 さて、受けた怪盗団の面々は少し困ってしまう。情報の少なさもなによりだが、文中にある『冤罪』の文字が彼らの大半を気後れさせていた。
 というのも、心の怪盗団のメンバーというのは実のところ二十歳にもならない少年少女と一匹の猫で構成されていて、彼らはいずれもがかつて何らかの犯罪の被害者だった。傷害や恐喝、性的脅迫、虐待や剽窃……いずれも許されざる行いだが、致命的な局面に至る前に彼らは難を逃れた。
 翻って彼らを率いる少年もまた理由があってそこにいる。彼に訪れた理不尽な仕打ちは捏ち上げられた罪―――つまり冤罪だった。このためにかの少年は家からも学校からも、生まれ育った土地からも追いやられ、保護観察処分の名目で一人ここへやってきている。仲間たちは彼が家族や元いた土地の友人等と連絡を取り合う姿を一度として目にしていない。
 もちろん他の面々とて失ったものは多く、取り返しのつかないものばかりだ。しかしそれを差し引いても、怪盗団という居場所を自分たちに与えた少年が本来あって然るべき居場所から蹴り出されたという事実は皆に奇妙な居心地の悪さを生んでいた。それは彼の身に不幸がなければ自分たちは救われなかったんじゃないかという勝手な思い込みだ。
 怪盗団の面々は頭領が今回の依頼、頓に『冤罪』という点に触れるより早く彼に強く求めた。「いいじゃん、やってやろうよ」と。
 それで、具体的な手立てを考えるためにアジトに集まろうとなったのが先週の土曜日のこと。
 アジトというのは、四軒茶屋の駅から地上に上がり、路地に入って少し行った先の飲み屋街の手前にある、ルブランという名の純喫茶のことを指す。店主は己の店と屋根裏部屋がよからぬ企みに利用されていると今のところは知らないでいる。
 そして件の喜多川少年もこの店に出入りする数少ない客の一人だ。厳密に言えば彼が客と呼べるほどの利益を店にもたらしたことはない―――彼が足繁く通うのは店自慢のコーヒーやカレーのためでもあるが、そこが怪盗団のアジトだからだ。つまり喜多川祐介という少年は怪盗団の一員であり、他の仲間たち同様、頭領の身の処遇に不満を抱く一人でもあった。
 喜多川他数名のメンバーがルブランの屋根裏部屋に顔を揃えたときにはもう概要ですらない書き込みを行った人物とは接触済みで、事件の情報も概ね整えられていた。依頼主の連絡先は管理者から依頼と同時に受け渡されていたから、接触自体は簡単だった。
 今からちょうど一年ほど前、都内で暴行事件が発生した。この犯人として依頼主の兄は逮捕されてしまったのだという。しかし依頼主が言うには、犯行当時の兄にはアリバイがあるため犯行は不可能であり、真犯人は別にいる。だというのに警察はアリバイをろくに調べず、また被害者が意識不明のままであるため、曖昧な目撃証言のみを論拠に激しく兄を追及、自白を迫り、逮捕に至ったのだという。
 悪いことに裁判に際して付いた弁護士が争うのではなく罪を認める方針を取り、疲弊し意気消沈した依頼主の兄は従うままなのだという。
 現状の把握を終えて、真っ先に口を開いたのは高巻杏だった。
「つまり、じゃあ、ウチらでそのお兄さんを改心して、裁判で争わせればいいの?」
 この場合の改心というのは字面通りの意味ではなく、心の怪盗団を名乗る彼ら独自の手段を指す。信じられないことに彼らは他者の心に不可思議な手口で侵入し、その者の歪んだ欲望の根源を盗み出すことでそれを成している。だから『心』の『怪盗団』というわけだ。
 けれどこれに関してはいかほどの効果があろうか。高巻自身も言ってはみたものの、それで解決になるとはどうにも思えないのだろう。豊かな金の髪を指先に巻きつけ、不安げに屋根裏部屋を見回している。
「争ったところでどうだろうな。検察というものは勝ちが見えているから起訴するというし、弁護士にやる気が無いのでは……」
 被告人の心のあり方のみで正しい裁きが行われるかは疑わしいと、喜多川はどことなく苛立たしげに吐き捨てた。
 対してお気楽な表情と口調で言ってのけたのは坂本竜司だった。
「んじゃ、俺らで真犯人突き止めてよ、そっちを改心すりゃいんじゃね?」
 彼の人格を表すかのような単純明快な理論ではあった。
 実際、現実世界においてはただの高校生に過ぎない彼らにできることなどたかが知れている。警察の真似事に比べれば、改心のほうが手立てが確立されているぶん見通しは明るい。
 喜多川はフッと鼻を鳴らした。
「たしかに、改心できればその卑劣漢は自ずと犯行を自白するわけだからな」
「そうは言うがな、誰が真犯人なのか分かってんのか?」
 この声の主には長い尾が生えている。三角形の尖った耳と、全身を覆う概ね黒い被毛……己を猫ではないと主張する猫のモルガナだ。
 彼は怪盗団の行う改心、及びその舞台周りのエキスパートだが、反面ニンゲンの世界にはその身のカタチ故関わり方が限定されてしまう。捜査の方針にやや慎重になりがちなのはそのためだろう。
 それでもやはり、坂本は調子を崩さない。
「真犯人はわかんねーけどよ、話を聞かせてくれそうなヤツなら分かるぜ」
 言いながら彼はポケットからスマートフォンを引っ張り出した。指先が画面を撫で、普段あまり利用されないメモアプリが立ち上げられる。
 坂本はこの前日、件の依頼主と直接面会を行っていた。もちろん、怪盗団の一員だとは名乗らず、その使い走りというテイで。
「……それは?」
 率直に問いかけたのは今まで沈黙を守っていた怪盗団の頭領だった。伊達眼鏡のグラス越しに見つめる先には、坂本が昨日聞かされた恨み言が余すことなく記されている。
「ちょい待ち……お、あった。ホレここ。依頼人の兄貴に自白を迫ったって刑事の名前」
「いや刑事の個人情報なんて知ってどうすんのよ。署まで行ってお話でもすんの?」
 呆れたように高巻は肩をすくめるが、これはもっともではある。警察関係者への軽率な接触は彼らの身上を鑑みれば避けるべきだし、そも話ができる状況に持ち込めたとして捜査情報を一介の高校生に聞かせてくれるものだろうか。
 しかし彼らはこの場合、一介の高校生ではない。
「メメントスで聞き出そうってことか」
 わずかにあごを上げて問うた頭領に、坂本は口角を上げてみせた。
 するとまた喜多川がキザったらしく鼻を鳴らす―――
「フッ、竜司にしては考えたようだな」
「まあな! ……いや『にしては』ってなんだよ!?」
「声が大きい」
 ―――下に珍しくお客さん来てるからうるさくしないで。
 怪盗団の頭領は口元に指をやってトーンダウンを求めた。
 改心の際に侵入する心の歪みが生み出す異空間を彼らはパレスと呼んでいるが、個人の心の有様が表れるパレスとはまた別に、大衆のパレスとでも呼ぶべき異空間も存在している。それがメメントスだ。
 通常ここには個としての人格や思考と呼べるものを持ったものは存在しない。しかしパレスを利用した改心同様、予告状をこの現実で突き付けると大衆の中から自己を強く認識させられるのか、メメントスの内部にもその人の影が浮かび上がる。坂本はつまり、これと『お話』しようと言うのだ。
 話はその方向でまとまり、この日は予告状の作成と送付で終わる。翌日の昼過ぎ、彼らは担当刑事のシャドウを探してメメントスに潜った。
……
 成果はあった。
 あったが、「こいつが真犯人だ!」などというものではなく、当時の捜査線上に浮かんだ人物の名をいくつかだ。これは単純に事件当時犯行が可能だった人物のリストに過ぎず、怪盗団はこれを精査する必要があった。運が良ければ住所や連絡先も名前に付随していたが、悪いと本当に名前のみの情報だ。それ以上はどう『お話』しても引き出すことは叶わなかった。
 仕方なし、彼らは自らの持つ人脈を最大限利用して犯人候補たちを探し当てようと奮闘し、候補者らの事件当時の行動を調べ上げた。そこから、無いわけではないがどちらかといえば少ない頭を捻って検証した結果、犯人候補は八人から三人にまで絞り込まれた。
 ここからが難題だった。残りの三人はいずれも犯行が可能であり、動機は……それこそ分からない。単なる欲求か、なにか理由があってのことなのか……
 いずれにせよここで一度彼らは行き詰まった。
 三人ともにパレスが存在しないことは確認済みだが、この場合はそれこそがより問題を難しくしている。メメントスで改心を行う場合は名前と予告状さえあればいいのだが、引き換えに異世界を介しての犯人の特定ができない。彼らはどうしてもこの現実世界で犯人を突き止めねばならなかった。
「もういっそのこと全員に予告状送りつけて、メメントスで答え合わせ、とか……どう? ダメ……?」
 などという弱音も出てくる。言った高巻とて本音ではないのだろうが、そうしたくなるほどの暗礁ではあった。
「外れたほうの二人はどうすんだよ? テキトーかまして怪盗団の評判下げる気か?」
「やるとしても判決に間に合わない場合の最終手段だろうな」
 どちらかといえば普段は彼女に窘められる男子二名に逆に言い含められて高巻は頬を膨らませる。
「わかってるってば。けどもう犯人絞り込む材料も途絶えちゃったし、なにか別の方向性っていうの? 新しい証言とかさ……」
 そこまで言ったところでやはり黙って皆のやり取りに耳を傾けていた少年が顔を上げた。屋根裏部屋の中央に引きずり出されたテーブルの上にはここまでの調査結果をまとめた報告書の・ようなものが積み重ねられていて、彼はそれに目を通している途中だった。
「そもそもこの事件、依頼者の兄が犯人とされたのは目撃証言があったからだったな」
 扇風機の風で飛ばないようにと文鎮代わりに紙束を踏んでいたモルガナもまた顔を上げる。
「ああ、そういう話だったはずだぜ。曖昧な証言を根っこにして追い込んだって」
 少年は緩やかに頷いて目を通していた紙束をテーブルに戻した。
「その人を見つけ出すことはできないかな」
 その『曖昧な証言』を俺たちで調査し直せば、なにか新しい発見があるんじゃないか。
 告げられたことに、短い驚嘆の声があちこちから上がった。誰にしてもそうした発想には至っていなかったらしい。
「じゃあ、今度はその証言者を探すってことだよね。犯人の絞り込みと同じ感じでいける?」
「自分から言って回りでもしてなきゃ、証言者が事件に関わったことは一般には伏せられてそうなもんだが……」
「したらよ、ほら、俺らが改心した刑事いんじゃん? 反省して今度こそフツーに『お話』できたりしねぇかな」
「だとして、どうあれこちらの身元が割れてはまずい。なにか手を打つべきでは?」
 方向性が定まれば道筋が組み立てられるのは早い。少年らは代理人を立て、改めてこの現実世界で担当刑事との接触を図ることとした。
 この際白羽の矢が立ったのが、今回の依頼を怪盗団に回した張本人―――怪チャンの管理者の三島由輝だった。なにしろ彼は説明するまでもなく怪盗団の存在を、その仕組みこそ知らぬものの理解し、また事件の概要も承知済みだ。任せるのにこれほど手間の掛からない人材はない。小心なくせに調子に乗りやすい性格ではあるが、これは付き添いというテイで頭目たる少年が猫を伴って直々に同道することで調整しようということになった。
 接触はうまくいった。なにしろ改心をされた担当刑事は己の杜撰な捜査と強引な追及による結末に対する罪の意識に苛まれ、依頼者の兄の知人を名乗った三島にコロッと騙され―――あるいは彼自身も告解を行いたいと望んでいたのか、年端も行かぬ少年たちにあっさりと情報を明け渡した。
 そこでようやくが登場する。情報を持ち帰った少年から聞かされたその名に、喜多川はたいへんに驚いた様子で、
「その子を知っている」と言ってみせたのだ。
「知ってるって……同姓同名とかじゃなくて?」
 再びルブランに会していた仲間たちは、彼の告白に一様に驚いた顔をみせている。喜多川という少年は彼らにしてもやはり、あまり人間関係が豊富な人物とは言えなかった。
 喜多川のほうはそんな好奇の視線に気がついているのかいないのか、落ち着かない様子で頷いている。
「ああ……俺たちと同じ年ごろの人物であれば、おそらく間違いはあるまい。洸星の生徒だ。科は違うが、同じ中学の出身で……」
 なる少女についてごく簡単にではあるが語られ、彼らは納得した様子を見せる。多少なりとも見知った相手が事件の目撃者として冤罪の片棒を担いだとなれば、それは心穏やかではいられまい、と。
「リーダー、確認させてほしいんだが、その人はたしかにという名なんだな? そして、俺たちと同じ年ごろの少女で、間違いはないんだな?」
 神妙に尋ねた彼に、少年は深く頷いてみせた。
「そうか……さんが……」
 への字に曲げた口元に手をやって、喜多川は沈黙する。
 思わしげな彼を気遣ってか、高巻が声をかけた。
「祐介、大丈夫? その子になんかある……ていうか、その、さんってそんなテキトーなさ、証言するようなコなの?」
 疑問も伴ったこれに、喜多川は決然と首を振った。
「いいや、まさか。少しのんびりとした気性ではあるが、人を陥れるような真似ができる娘じゃない」
 明確な否定の言には高巻のみならず、全員が意外そうに瞠目する。同じ中学出身とはいえ今はろくに話もしないような間柄と語っていたのに、ずいぶん確信づいた言葉じゃないかと。
 それを頭目が指摘すると、喜多川はまた難しい顔で腕を組んだ。
「たしかに高校に入ってからは挨拶すら交わしたことはないが……」
「トモダチですらなくね? それ……」
 呆れた調子で坂本が横槍をいれるとさしもの喜多川もムッと眉を寄せる。とはいえ話の腰を折るなと高巻が注意するとそれで溜飲が下がったのか、叱りつける母親か口やかましい姉のような彼女の態度に満足したのだろう、喜多川はどことなく自慢げに言を重ねた。
「彼女とはよく目が合うんだ。たいていはすぐに逸らされてしまうが……きっとむこうも昔日を懐かしんでいるに違いない」
 それはつまり、己が知る中学時代の彼女と変わっていないことの証明だと結んで、喜多川はまぶたを降ろした。そこになにが映っているというのか、彼は穏やかな喜びを噛みしめるように口元を緩ませている。
 怪訝そうに眉をひそめた高巻の隣で、坂本もなにかを考え込むように視線を上に投げた。
「いやそれさ、よく目が合うってソレ……」
「竜司、言わなくていい」
「なんだ?」
 制止した頭目の呆れたような苛立ったような、ひどく冷たい眼差しに、喜多川とついでにモルガナは首を傾げる。
 高巻もまた少年二人の言わんとするところを理解しているのだろう。彼女は猫のほうに誤魔化すように微笑みかけてから緩く首を振った。
「気にしなくていいから。とにかくさ、それじゃあ、そのさんに接触してみるってことでいい?」
「それがいいだろう。彼女なら事の真相を知れば快く協力してくれるはずだ」
 自信深く促す喜多川であったが、彼に寄越されたのは鏡のようにはね返す無色の瞳だった。
「……なんだ?」
「いや、祐介が行くんじゃないの?」
「俺も流れ的にそうだと思ってたわ」
「たしかに俺とさんは多少なりとも縁のある間柄だが……唐突な接触は不審感を抱かせないか?」
「かもな。だからってリュージじゃ怖がらせちまうだけだぜ?」
「ンだとコラこのクソ猫……!」
「ダレがネコだこのサル!」
「けんかはやめてー」
 にらみ合う猫と金髪の間に少年が紙面を挟み込む。ロープブレイクを強制された二人はしばらく唸り合っていたが、高巻の呆れきったため息に場は流される。
「もー祐介でいいんじゃん? 知り合いなんだしさ、久々に話とかしてきなよ」
 たぶんむこうも悪い気はしないだろうから―――
 話し合いを続ければまた猫と猿がじゃれ合い始めると視線で訴えられて、喜多川はやっと頷いた。
「わかった、俺が行こう。さんから話を聞き出してくる―――それでいいんだな?」
「いいよ。皆もいい?」
 一同を見回す伊達眼鏡越しの視線に、仲間たちは頷いてみせた。
「まあ、ワガハイは構わんが……ユースケ単独でかぁ……」
「いいんじゃねーの? 俺らがいきなり事件のこと調べてあんたを見つけました〜なんて言い出したら、最悪通報モノだしよ」
「まあね。あ、でも祐介? そのコにヘンなことしちゃだめだかんね?」
「失敬な」
 喜多川は涼しげな顔で笑って諫言を受け流した。そんな彼の態度に高巻は目を細めるが、坂本は処置なしと両手を上げ、モルガナはまだ先のやり取りが尾を引いているのかバタバタとそれを振っている。彼らを見守る頭領にしても特別口出しをするつもりもないのだろう、黙って視線を天井の梁に投げている。
 生ぬるい雰囲気のなか、一先ず喜多川の接触の成果を待とうとして彼らは解散した。

……
 そういうことがあって、喜多川は翌日の金曜日、に接触した。
 彼女のバイト先は小さな出版社で、タウン誌や専門誌などを発行しているらしい。らしいというのは、どの誌名もいまいちピンとこない、発行部数も限られたマイナー雑誌ばかりで、喜多川はおろか他の怪盗団員に尋ねても誰一人として知る者はなかったからだった。
 はそこで事務作業を主に、校正や資料整理、データ入力等の記事制作アシスタントを勤めている。
 ―――学生のアルバイトにしてはずいぶん色々任されるんだな。それだけ彼女が有能なのか、熱心に取り組んだ成果なのか。いずれにせよ、こうした編集者としての経験を活かす職業を目指しているんだろうか……
 彼女を待つ間、喜多川はそんなことをずっと考えていた。
 日は長くなりつつある時期にあってそれでも辺りがすっかり暗くなる頃、古ぼけた街灯の光に誘われた羽虫が円を描いて飛ぶ様を眺めていると、雑居ビルから出たが小走りになって駆け寄ってきた。
「喜多川くん! ごめん、待たせたよね。ていうか、本当に待ってたんだ……」
「当然だろう。迎えに行くと約束したんだからな」
「そっか、うん、そうだよね。アハハ……」
 はまた、前髪や横、後ろの髪を気にしてしきりに手ぐしで整えている。手の甲で鼻の頭をこすったりもした。
 少女のいじらしい身繕いに、しかし喜多川はこのときもやはり不思議そうに首を傾げた。彼からすれば気にするほど髪は乱れていなかったし、鼻の頭に脂も浮いてはいないからだ。
 彼はただ己の使命感と親切心に従って尋ねた。
「ここから家までは?」
 帰宅手段を問われているのだろうとはすぐに察した。
「えっと、歩きで。そんなに離れてないから」
 彼女は少し期待もしていた。話があると言っていたけど、それが想像―――妄想―――の通りでなくても、もしかしたら、あるいはそれくらいの幸運は許されるんじゃないか……と。
 果たして喜多川はそれに応えた。
「そうか。では、近くまで送らせてくれ」
「うっ、うん……! ありがとう!」
 ぱあっと表情を明るくさせたに釣られるようにして喜多川は笑った。
 とはいえ、歩き出してしばらく二人は無言だった。は思いもよらない展開に緊張していて、喜多川のほうはなんと切り出したものかと珍しく迷っていたからだった。
 しかし何事も話さねばなにもはじまらないと彼は単刀直入に告げた。
「話というのは」
 しかしこれはの、
「ひえっ」というか細い悲鳴に遮られる。
 驚いて足を止めた彼に、は慌てて口を押さえる。
「ごめん……どうぞ続けて……」
「あ、ああ……話というのは―――」
「うん―――」
 喜多川はチラと己の右を歩く少女に目を向けた。その瞳が妙に潤み、周辺光を受けてやたらと輝いているのは彼女が期待とそれを裏切られる不安に胸をいっぱいにしているからだが、喜多川は何事もなくその先を口にした。
「一年ほど前、この近辺で暴行事件があっただろう」
「え?」
「うん?」
「いや……まあ、そうだよね。でもアレ、ええ……? あ、うん。えっと……」
 期待はしていたし、それを裏切られて悲しくも思うが、しかしは心の同じ部分で「そんなワケないじゃん」と納得もしていた。それ故彼女の切り替えは早く、見開かれた目は記憶を探るように上に向かった。
「……あったね。被害者のひとは今も病院だって聞いてる」
「ああ」
 喜多川は大きく踏み出て先を塞ぐように彼女の前に出ると、脅かさないように慎重にふり返った。果たしては気まずそうにこそしているものの特別怯えや恐れは見せず、落ち着きなく身体を揺らしている。
「えっと……それで……」
 じっと注がれる少年の視線に耐えかねたのか、見上げていた彼女の視線はゆっくりと下に落ちていった。
「あのころたしかに、帰りは気をつけろって口を酸っぱくして言われたよ。だけどそれが……?」
 喜多川はうーんと小さく呻いて眉間にしわをつくった。ここまできて同姓同名の別人ということはよもやあるまいと思うものの、彼女のとぼけた態度が事の顛末を知ってか知らずかの判別はつかなかった。
 が悪辣な意思によって虚偽の証言をしたと喜多川は欠片も思ってはいない。それが根拠も証拠もろくにない自身の思い込みに過ぎないとは彼自身も承知しているが、だからといって無理に押し通そうとも、彼には思えなかった。
「……この件に関して少し事情があって、調べたんだ」
「事情?」
 胡乱げな眼が窺うように下から彼を見上げている。警戒も露わなそれに、喜多川はなるべく硬くならないよう細心の注意を払って声を発した。
「……それを話さなければ、君も話せないか?」
 事情を話そうとなるとこれはいささか手間になる。使うのは口だけだが怪盗団がらみの経緯は説明できず、そうなれば依頼者との繋がりからして嘘をつかねばならない。
 それはあまりしたくないと頭を働かせる彼の姿になにを思ったのか、は両手を振ってその思考を遮った。
「いいよいいよ。話せないのなら、話せないなりのわけがあるんだよね、大丈夫」
「それじゃあ」
「うん。私が事件の目撃者として、警察に行ったときの話を聞きたいんだよね?」
 ため息がちに吐き出された声には入り混じった複数の感情が垣間見える。それはやっぱり告白なんかじゃなかったという諦観や、放課後からここまでの数時間やたらと期待したり不安がったりした己への嘲笑、過去を思い出すことへの忌避感であったりした。
 喜多川は胸に湧いた申し訳無さを握りつぶしながら慎重に頷いてみせた。
「そっかぁ……でも、犯人はもう逮捕されたんだよね? なんで今さら……」
「いや、事件はまだ解決していない」
「ええ?」
 はこれ以上ないほど大きく目を見開いて顔を上げた。
「今現在、犯人とされている男は調書の際、かなり強引に自白を強要されている。彼には事件当時のアリバイがあるにも関わらず逮捕されてしまっているんだ」
 はじめは訝しげに話に耳を傾けていたが、岩に清水が沁み込むように理解が至るとハッと息を呑んで青ざめはじめた。
「つまり冤罪ってこと? まさか……」
 ゆっくりとした思考ではあったが一度解に至るとあとは早いもので、はすぐに喜多川の意図を察知する。彼は少し戸惑いつつも、それ以外の術を知らないと率直に言い表した。
「君の証言が誤認逮捕の一因なっている」
 交通量の多い四車線道路に沿う歩道に人通りは少なく、辺りを走行音が包んでいる。その中にあっても真っ青になったが靴底をにじらせた音はよく響いた。
「そんな……私、犯人が……ちゃんとした、っていうのも変だけど、ちゃんと犯人が捕まればいいって思って」
 縋るものを探してさまよった視線はやがて喜多川にたどり着き、否定を求めて少年を熟視する。その彼のほうは申し訳なく思いつつも安堵していた。彼女が思っていた通りの善良な一市民であることを知って、自らの想像や想いがただの一方的な思い込みでないことを確信し、感嘆の息を漏らしもした。
「ああ、そうだろうとも。君はそういうやつだ」
「へっ……」
「わかっている。君はただ善意から証言した、そうだろう?」
 は必要以上に素早く、必死になって首を縦に何度も振った。それにまた、喜多川は背を丸めて細く長い息を吐く。底に淀んでいた不安感や悪い想像をいっぺんに吐き出し終えると、彼はすぐに背すじを伸ばした。
「他者に罪をなすりつけて安穏と暮らしているやつも許せんが、君のように善意から行動した者の意志を挫くような疎慢な行いも許せん。さん、事件の解決に手を貸してくれないか」
 明瞭とした声は低く、強い怒りの感情と決意が籠められていた。それはの胸を打ち、たった今打ち砕かれた意志を再びより集めるだけの力を有している。
 彼女はすぐに頷いて返したが、一方でまだ戸惑いまでは完全に打ち消せていないのだろう、不可解な面持ちで「でも」と話始めようとする喜多川を遮った。
「あの、そのひとは……その、間違って逮捕されたひとは喜多川くんの知り合い……?」
 言葉には多大な疚しさが見え隠れしていた。好いた相手の、そうでなくても誰かの知人友人を知らず陥れたとなれば、罪悪感はさらに増すだろう。自ら傷を広げるような行いとも、己のしでかしたことを正確に見定めようとする一種無謀な勇敢さとも受け止められる発言だった。
 とはいえそれは杞憂でしかない。喜多川はなんてことはないと首を振ってすぐに答えた。
「いいや、顔も知らない」
 ただしそれはそれでを呆けさせる。
「え? じゃあ、そのひとのご家族とかと?」
 これにも喜多川は否定を示した。
 こうなるとの疑問はますます深まる。もちろん彼女は冤罪の証拠を掴んだ経緯がよほど悪辣なものでない限り彼の望みに応えるつもりでいたし、そもそもの知る喜多川という少年がそのような邪悪な目論見に加担していると思ってさえいない。彼女はただ、彼の奇妙と言い表せるほどひたむきな態度を不思議に思っただけだった。
 誰かを助けようとするその心意気は立派なものだけど、どうしてそれほど熱心になっているの? と。
 喜多川は少し困った様子でしばらく言い淀んでいたが、やがて観念したのかため息めいたものを吐き出すと静かに語り始めた。
「……俺の友人に、冤罪被害を被ったやつがいる」
 思いもよらない返答に妙なことを訊いてしまったとは頭を下げるが、喜多川のほうはやはり首を左右に振るだけだった。
「いや、いいんだ。彼も君に話す分には気にしないでいてくれるだろう」
「そ、そう……? それじゃあつまり、その友だちのために?」
「ああ。この件と彼に直接の関わりはないが、俺は彼に恩がある。それに報いたい」
 少し喋りすぎたかと喜多川は視界にかかる前髪に手をやる。それはの見上げる視線から顔を隠すためと、必要以上に熱くなっている己に平静さを取り戻させるための一種の儀式だった。しかし手を降ろしたときのの表情―――この事件の解決と報恩にどう繋がりがあるのかと不思議そうにまばたきをくり返す無防備な様を見て、沈黙は不義理だと彼は言葉を繋げた。
「これは俺が言ったわけじゃないんだが……この事件を解決に導くことができれば、それは一つの前例を示すことにもなるんじゃないか、と」
 足掛かりを得るとは素早く言わんとするところに辿り着いた。
「ああ、そっか。この冤罪を晴らせれば、喜多川くんの友だちの疑いも晴らせる可能性が生まれる……ってことだよね?」
「そうだ。もちろん状況の差異から必ずしもとは言い切れないが、方向を模索する手がかりにはなるだろう」
 と、そのように坂本や高巻は息まいて拳を握っていた。言うまでもなく喜多川も同じ気持ちでいる。諦めず足掻き続ければ雪冤叶うと。あって然るべき自由とそれに伴う責任は誰にでも平等に、慈悲なく与えられるものだ。己がそうであったように―――
 感慨深げに自らの手を見つめる少年をとっくり眺め、は緊張を解いた。
「そういうことなら、もちろん。協力するよ」
「本当か!」
「うん!」
 力強く頷いたに、喜多川はぐっと拳を握る。停滞していた事態が進展をみせるかもという期待と、友人に希望を与えてやることができるかもという喜びに、彼は感じ入ったようにまぶたを下ろした。
 その耳にの時間帯にはやや相応しくない元気のいい声が飛び込んだ。
「よし! 時間は違うけど、直接目撃した現場まで行こうよ。そのほうがきっと分かることも多いはず!」
 次いで軽快な足音―――
「いや、それには及ばな―――さん? 待ってくれ!」
「こっちこっち! はやくー!」
 驚く喜多川を置いて、は十数メートルは先に行ってしまっていた。
 必要なのは目撃時の再現ではなく、すでに手元に揃っている犯人候補たちの顔や背格好の確認だったのだが、しかし張り切って先を行った彼女に追いつくころには、二人の足は事件現場のすぐそばに差し掛かっていた。
 ……まあ、いいか。突然写真を見せてこの男に見覚えはないかなどと訊いては不審がられる。せっかく協力的になってくれているのだから、彼女の記憶を掘り起こす意味でも相手になったほうがいいだろう―――
 喜多川はしばし、身振り手振りを交えて懸命に語る彼女に付き合った。
 彼女の証言とは以下のようなものだった。
 午後九時ごろ、普段より長引いたバイトのため早足になって帰宅していた彼女の耳に微かな悲鳴が届いたという。不審に思ってその方向に目をやると、一人の男性が電話をしながら悲鳴とは逆方向に通りを横切るところだった。その後しばらく耳をそばだてていたがそれ以上はなにも聞こえてこず、帰宅を急いでいたため彼女はその場を立ち去った。声が聞こえた方向を考えると、横切った男性であればなにか見ていたかもしれない―――
 そして彼女は警察にこの男性の特徴を伝えた。それこそが依頼者の兄であった。
 これを利用され、歪められて逮捕に至ったのだろうと推察を立てながら、喜多川は他に見かけた人物はいるかと合間に問いかけた。また用意した写真を何枚か差し出すと、一人の男には反応する。
「あ、この人。たぶんこの辺の人だよ。帰りに何度かすれ違ったことがあるから、たぶんそう。事件の日は……見なかったと思うけど……」
「なに? 待ってくれ、何度かだって? 頻繁に?」
「うん。あでも、そういえば最近見かけないなぁ。引っ越したか、仕事変えたのかな?」
 喜多川は眉をひそめて画像に目を落とした。記憶違いでなければこの男は別の区に居を構え、職場はもっと離れた場所にある。さりとての勘違いでもないだろう。先に語られた彼女の記憶は、メメントスでの『お話』で得た情報と概ね一致している。
 つまりこの男は、居住地からも仕事場からも離れたこの場所へ足繁く通っていることになる。
「……さん、この辺りになにか……有名な食事処や酒場か、あるいはジムといった、定期的に利用する、したくなるような施設はあるか?」
「え? うーん、ジムならあるけど、駅の向こうになっちゃうよ。あとはラーメン屋とかステーキハウスとか、あとすっごく美味しい中華屋さんとか……さっきの通りに戻って道を渡った先にあるけど」
 お腹空いてるの? などとトンチンカンなことを言う彼女の視線の先にあるのは薄暗がりばかりだが、その方角には喜多川もつい一時間ほど前に利用した駅がある。つまり彼女の言うラーメン屋やステーキハウス、美味しい中華料理店は駅前に揃っているのだろう。そういえば確かに、そこを通るときやたらといい匂いが漂っていた。
 嗅覚に蘇った香りとそれに呼び起こされる空腹感を振り払って喜多川は思考に戻る。
 つまり、ごく限られたこの近辺に絞って考えれば、生活範囲を越えてやってくる理由は薄い、ということになる。
「もしかして、この人が……?」
 不安げに尋ねる声を耳にして、喜多川は安心させようと、話題と場にいささか不似合いと知りつつも笑ってみせた。
「確定とするにはまだ早いだろうな。だが進展はした。ありがとう、さん。助かったよ」
「ん? もういいの? どういたしまして」
 こんなの役に立ったのかな―――は不安げに首を傾げるが、喜多川はやはり微笑んで見せる。は残り二人の犯人候補には見覚えがないと述べたのだから、この男に集中して調査すれば少なくとも無駄ということにはならないだろう。
「じゃあ、そろそろ行くね。またなにか必要になったら声かけてくれればすぐ行くから」
「ああ、ありがとう」
「こちらこそ、送ってもらっちゃったし……あでもここまでで大丈夫だよ」
 付近一帯は小規模なオフィスビルが立ち並ぶ通りが続いているが、抜けた先は住宅街になっており、そこに自宅があるとのこと。喜多川はいくらか渋ったが帰途に就く人々の姿も先ほどからチラホラと見かけているからか、無理を押してまで彼女の家の前まで付き添おうとは言い出さなかった。
「気を付けて帰るんだぞ」
「お父さんみたいなこと言うなぁ……大丈夫だって」
 つい今しがたまで解決していない暴行事件の話をしたばかりとは到底思えない、いかにもお気楽で楽観的な言と力の抜けた笑みだった。
 軽く手を上げて立ち去ろうとした彼女の横顔に眇められた喜多川の視線が突き刺さる。
「お節介かと黙っていたが、やはり言わせてくれ」
 はキョトンとした様子で足を止め、彼がいかにも不機嫌そうに顔をしかめているのを見て半歩後退った。
「バイトの終わり時間が遅いんじゃないか?」
「そ、そういうシフトだから」
「それならせめて、親御さんに迎えを頼むなりしてはどうだ」
「うち、どっちも夜遅いからまだ帰ってきてないよ」
 は嘘偽りのない真実を告げるが、喜多川は納得しかねると言わんばかりに小鼻を膨らませている。
 確かに彼の言うことにも一理ある。時刻はまだ夜の八時前で、遅いというには早いが、じゃあといって早いというには遅すぎる。そうした認識はにもあったから、彼女は落ち着きなく手をすり合わせながら、しかしどこか他人事のように謝罪する。
「ご、ごめん?」
 これみよがしなため息が喜多川の口からこぼれた。
「……この近辺には、暴行事件を起こし、あまつさえその罪を他者になすりつけるような卑劣漢が潜んでいるんだ」
「い、いや、犯人っぽい人は最近見かけないし、潜んではいないんじゃ……」
「なぜ自分も被害に遭わないと思えるんだ。ここに来るまででも暴漢が隠れられるような暗がりは無数にあっただろう」
「やたら気がつくね……?」
 ……それは己こそがその暗がりを利用して盗みを働く一団の一人だから―――などと言うわけにもいかず、喜多川は咳払いひとつで彼女の疑問を吹き散らした。
「とにかく、事の真相が明らかになるまでの間だけでも、シフトを変更したほうがいい」
「う、うーん、でもあまり長く掛かると、編集部のみんなに迷惑がかかっちゃうよ。それはあんまりしたくないし」
 だからといって万が一、有り得なくない事が起きれば責任は職場にも求められる。それこそ君の望みではあるまい。
 そう説き伏せるのは簡単だったが、喜多川はこのときただフッと笑うだけで済ませた。それはどことなく意地の悪い、自信過剰とさえ受け止められるような憫笑だった。
「そう時間は掛からない。すぐに済む」
「え……」
 ―――なんでそう言い切れるの? 君はいったい、なにを仕出かすつもりなの?
 暴力的な顛末を想像しては青ざめるが、喜多川は沈黙を都合よく受け止めたのか、満足げにしてその場を立ち去ってしまった。
 残されたはただ、不安そうに彼が消えた角を見つめている。
 彼女は彼を好いているが、それは彼が信頼に値するひとだと彼女自身が感じているからだ。ただしそこに根拠も証拠もありはしない。ただ一方的に遠くから眺めて、時折目が合ったりするだけの関係性の底にあるものとは所詮、その程度のあやふやなものでしかなかった。
 はのほほんとした人物だが、一方でただ遠くから眺めるばかりの片思いを延々温め続けられる、情熱的というにはやはりのんびりとしたぬくもりの持ち主でもあった。
 その性質は彼女にここで立ち尽くして待つことを良しとしなかった。