丸喜にとってのという存在が他の多くの生徒たちと同じであるかといえば、それはもちろんその通りであるし、そうでないともいえた。彼は厳密にいえば教師ではないから、一定以上の嗜みと節度が保たれているのであれば誰も問題にはしなかった。
 なにより秀尽学園にはすでに問題が山積みで、誰もこれ以上は藪をつつきたくはなかったのだろう。納入は常につつがなく行われた。
 そののほうは、丸喜が知る限り他の教員らとほとんど同じ態度で彼に接しているところを見るに、『教員』というカテゴリーに彼を収めているようだった。丸喜は確かに、彼女からわずかばかりの敬意を感じ取っている。
 しかし一方で年ごろの少年少女らしい万能感からくる驕慢さを彼女もまた有していた。
 丸喜がそれを強く実感したのは九月の半ばも過ぎたころ、中庭でのことだった。

 春先にあった教員の不祥事による傷もまだ癒えぬうちに起きた校長の『死亡』事件は校内に少なくない影響をもたらしていた。
 傍目には概ねいつもどおりだ。授業も部活も滞りなく行われ、施設と設備、また各備品の納入や補充にも問題はない。秀尽学園という一つの機関は間違いなく日常をこなせている。
 けれどそこに通う人々の心は別だ。特別親しい間柄でなくとも顔や名前を見知った人物の突然の訃報は、死に際の状況もあって彼らを大いに動揺させるはず―――丸喜はそう思っていた。保健室はまた手放しには歓迎できない賑わいを取り戻すだろうと。
 けれど現実、彼の日常はそう変わることはなかった。
 確かにその日を境に幾人か訪問者は増え、数人の教員が救いを求めて丸喜のもとを訪れたりもしたが、それだけだ。
 秀尽学園の校長というひとは丸喜をしてさえ好人物とは言い難い人柄であった。けれどじゃあといって死を望むほどかと言われれば……丸喜はもちろん、多くの人が首を横に振る。
 そのはずだった。
 学級レクリエーションめいた授業を終えて教室を出た丸喜は、待機所代わりの保健室に帰る道すがらため息を隠し通すことができずにいた。
 彼は学園に通うすべての人の精神状態を把握しているわけではない。非常勤の職員らを含めて五〇〇名弱が詰める学舎のすべてを把握するなど、ただの個人には到底不可能な業だ。
 それでも彼はその内の数十人か百人か、もう少し、可能な限り対話を試みてきた。上辺をさらうだけでなく、彼なりの誠心誠意でもって当たってきたつもりだった。完璧な理解はできなくとも、寄り添おうと努力を惜しまず……
 もちろん。
 もちろん大多数の教師と生徒、用務員は校長の死を、悲しむまでいかなくともその異様さと唐突さに怯えている。しかしそうした人々も心の内で、あるいは声を潜めてその死は当然のことだと囁いた。
 それこそが丸喜の気鬱のわけだ。
 秀尽学園の校長は絶対的な善人とは言い難かったが、だからといって死を望まれるほどの悪人でも決してなかった。よしんばそうだったとして、生まれついての悪など極めて稀なもので、悪党らにはそこに至るまでの語り尽くせない物語が存在する。それがあるからといって過ちが容認されるというものでもないが―――
 いずれにせよ、多くの人が口を揃えて言い放つ様は異様だ。それは間違いのないことだった。
(これは本当に『彼』らの仕業なんだろうか)
 引きずるようにして足を運びつつの丸喜の脳裏に、幾人かの生徒の顔が思い浮かんだ。ふてぶてしい態度で菓子を口に運ぶ少年の像が最も強く結ばれたのは丸喜と彼が一種の協力関係にあるからだろう。
 ―――校長の死に『心の怪盗団』が関わっていると訴える者も多い。それを英雄的行為と見なす者も。丸喜にとってはどちらも同意しかねる意見で、胸に浮かぶ心像が明瞭であればあるほどそれは強まった。
「……」
 彼は歩調を緩め、己を追い越して通り過ぎる、ときにはその存在に気がついて声をかけて朗らかに離れていく生徒たちの背中を見つめた。
 彼に解ることはあまり多くない。カウンセリングにおいて重要なのは対象に心を開かせることであり、そのためには信頼こそが最も肝要である。その点において丸喜は一定以上の成功を収めているが、この件に関しては一つの事実以外に彼が解ることはなかった。
 気がつけば彼の脚は教室棟を抜け、中庭に差し掛かっていた。
 昼休みの中庭はあいにくの曇天のせいかほとんど無人だ。普段は何組かの生徒らが昼食を広げるところに、今は一人の女生徒が腕を組んで立ち尽くしている―――
「……さん?」
「ん? あ、先生。おつかれさまです」
 ふり返ったのはだった。普段なら教室か食堂で友人らと過ごしているはずだが、今日は彼女一人だけのようだ。
「どうしたの? こんなところで一人で……」
 なにかあったのかと言外に尋ねる声に、は素早く首を横に振った。
「いえ、特になにも」
「そう?」
 普段どおりの見知ったその性急さに、丸喜は息をついて彼女に歩を寄せた。
 すると彼は奇妙なことに気がついて眼鏡の下の目を丸くする。
「どうしたの? それ」
 と、彼が指差したのは彼女の手の中に握られた細長いパウチだ。猫の顔が印刷されたそれが猫用のおやつだということくらいは知っているが、丸喜には彼女が何故それを手に中庭に立っているのかが分からない。
 ―――そもそも彼女は猫を飼っていたっけ?
 顔に大きな疑問符を貼り付けた男を横目で覗いつつ、彼女は空いた手で中庭を示してみせた。
「最近このへんに」
「う、うん」
「猫が出るらしいんですよ」
「……猫?」
 それはまあ、猫用のおやつなのだから猫に与えるためにあるのだろう。彼女自身が舐めたりはすまい。
「なんか校舎内にも侵入してるらしくって」
「ええと……餌付けでもするのかな?」
 それってどうなんだろう。うっかりここに住み着いたりしたら、糞害やらもあるから、問題になるんじゃないかな―――
 嗜めるべきか迷う丸喜に、は少し困った様子で首を傾ける。
「餌付けっていうか……迷いネコなら連れて帰ろうかなって」
 丸喜は安堵して頷いた。彼女の家が賃貸かペット可か、あるいは一軒家なのか、経済状況はどうか、家庭内の様子は……とまだ気にかかることはあるが、少なくとも悪い事にはならなさそうだ、と。
 また彼は感心して目を細めもする。迷い猫を保護してやろうという彼女の心意気に、暖かな気持ちにさえなっていた。
「優しいんだね」
 えらいよ、と率直に褒め称えようとする彼を、しかしはキョトンとした様子で迎え撃った。
「えっ?」
「えっ?」
 思いもよらぬ反応に丸喜もまた呆けてしまう。
 は、また少し困った調子でもって己の目的を明らかにする。
「いえ、こう、校内に迷い込んだ子猫を保護して引き取りましたっていって、動画撮影して、それに広告着けてお小遣い稼げないかなぁって……」
 衝撃と言うには生ぬるく中途半端に柔らかいものが丸喜の中をゆっくりと駆け抜けていった。あとには脱力感が残されて、彼の肩を落とさせる。
 その次に湧いて出たのは不安だ。いつぞや小遣いがどうのと語ってたときは深刻ではない愚痴と受け止めたが、まさか若い身空で、おまけに親元にあってなお困窮しているとでもいうのか。そんな悪い想像を膨らませもする。
「別に困ってはいません」
「あそう……」
 妄想は彼女が粗末な筵を被るところで彼女自身に中断させられた。
 けれどやはり疑問は尽きない。
「その割にはずいぶん、色々手広くやろうとしているんだね」
 激しく浮き沈みさせられたせいか、語調はどことなく恨みがましかった。
 対するは平坦に答える。
「将来的にどこかで必要になるかもしれないじゃないですか。出来るときにコツコツ貯めてかないと」
 もう振り回されまいと誓いつつあった丸喜であったが、その答えにあっさりとまた感心させられてしまう。
「きちんと考えてるんだね。えらいよ」
「どうもっす」
 はやはり淡々と応えた。情動が薄いわけではなさそうだが、丸喜の眼には彼女があえてそうした態度を貫こうとしているようにも受け取れる。
 それも含めて彼女はいつもどおりだ。そうした態度は丸喜を深く安心させた。
「なにニヤニヤしてんですか?」
「え? そう? 笑ってた?」
「まあ。ちょっとムカつく感じの笑い方?」
「そ、そうかな。さわやかじゃない?」
「自分で言う?」
「……ダメ?」
「ダメですね」
 そんな、と言って丸喜は大げさに肩を落としてみせた。もちろんそれは演技だ。先からの彼女の拒絶的な発言も、ずっと冗談めかしていた。
 丸喜はなおも会話を続けようと口を開く。
「そうかなぁ。イケてるって言ってもらえたりしたんだけど」
 途端、無関心を装っていたの瞳が輝いた。
「ほお」
「うん?」
「もしかしてソレ、カノジョですか? いたんだ?」
 いかにも下世話で、一方的に面白がるような態度は相手の弱味を握った悪人そのものだった。それが嫌悪に繋がらないのは彼女に悪意がないからだが、彼は不意に与えられた恋人を意味する言葉に虚を突かれてほんの一拍黙り込んでしまった。
 はわずかな驚きをもって目をしばたかせる。
「先生?」
「……いないよ」
「え?」
「そういう人はいないんだ。悲しいことにね」
 下手を打ったということは彼自身自覚していた。つい今しがた『もらえたりした』と言ったのと同じ口で『いない』と言って、好意的な受け止められ方はしないだろうと理解もしている。どんな形であれ下手な誤魔化しか嘘として捉えられるに違いないと。
 事実は沈黙して、気まずそうに頭をかく丸喜をまじまじ眺めている―――
 やがて彼女は指先をこすり合わせながら目を伏せ、
「その、えっと、すいません。先生の傷をほじくり返すつもりはなくて、冗談のつもりで……」と言い訳がましく述べ始めた。それは丸喜が予想していたリアクションとは少し違っていた。
「えっ? あ、いや……」
「あの、だから、カオ悪くないし、背も高いし、お賃金は……ちょっと物足りないかもですけど」
 再び、今度は明確な衝撃が男を貫いていった。
「えっ! やっぱり結婚するのには厳しいかな!?」
「いやいやいや! 一緒に苦労したいって女子もいますよ!」
 たぶん、と小さく語尾に付け加えられたことに、今回こそは丸喜も気がついてしまった。
 実際のところ、丸喜の収入というものはいかほどのものか。私立の進学校のスクールカウンセラーの年収は、人のひしめく首都にあってはそれなり以上に該当するといっていいだろう。ただし丸喜の場合は常任ではなく、また縁故による採用である点も相まって相場よりかなり……足元をみられている。翻って彼の元々の職業は大学研究員となるが、これもやはり、研究の内容のせいかあまり……そこまで……うーん……
 は他人のプライバシーを土足で蹴散らすような思考を振り払おうとでもしているかのようにかぶりを振り、力強く拳を握った。
「私の友だち何人か先生ならイケるって言ってますよ! 実際先生のとこ行ってる女子のほとんどはカウンセリングじゃなくて先生本人目当てだから!」
 精一杯のフォローに、しかし丸喜は項垂れる。
「それは……うん……嬉しいような、力不足を痛感するような……」
 能力ではなく顔や肉体のつくりを目当てにされているとあけすけに力説されて素直に喜べる者がこの世にどれほどいるものやら。落胆してしょげる彼に、はますます焦った様子で言を重ねた。
「だから、ほら。カノジョいないんなら辞める前に何人かつまみ食いしてけば―――」
「なんてこと言うの!?」
 脱力や失意をふり払って声を大にした彼を復調したとみたのか、は一転無邪気な、しかしどことなく傲慢さを感じさせる笑みを浮かべる。
「アハハ、冗談ですって。マジで手ぇ出したらヤバいしキモいしマズいし……」
「ごもっともだけど、冗談にしていいことと悪いことがあるよ」
 年上らしく言いつけてやるのが丸喜の精一杯だった。
 そしてやはりそんな彼をいつもどおりと捉えたのだろう、は歯を見せて笑っては、
「はーい、先生」と尊敬の欠片もみせずに笑ってみせた。
 さしもの丸喜もこれには苛立ちに似たものを抱かされたが、一方で彼女のふるまいは安息を与えてもいた。
 何故ならその悪辣なふるまいは普遍的な若者らしさの一部に過ぎず、帰結主義にかぶれた確信犯とは程遠いからだ。
 ―――とはいえ。
「でもけっこうマジになってる子もいるからね。連絡先くらいならいいんじゃないですか?」
「あのね……」
 物事には限度がある。丸喜は辟易としつつも、昼休みの時間のほとんどをお説教に費やした。

 その説教に意味があったのかも分からない。の丸喜に対する態度は夏が終わり、すっかり秋の色濃くなっても変わらなかった。
 折しも進路指導面談の季節だ。保健室は再び卒然とした賑やかしさに包まれることとなり、そうでなくたって私事もあって彼の頭はよそ事に回す余裕はなかった。
 その日も最終下校時刻も迫る十八時過ぎ、保健医もとうに帰路につき、自習室にこもっていた生徒たちも帰り始めるころになってやっと一息つくことができる有り様だった。
「大活躍じゃないすか」
「いやー……ははは……」
 月初めの金曜の納入に訪れていたは、疲労困憊の丸喜を眺めてそんなことを言ってのける。彼が返せるのは乾いた笑いだけだ。普段なら手づから淹れてやる茶さえ彼女が用意する有り様だった。
「はいどうぞ。品もちょっと多めに持ってきたんで、先生もたまには摘んでくださいよ」
「う、うん―――」
 熱い煎茶がなみなみ注がれた湯呑みと菓子を渡された丸喜は子どものように頷いた。湯気の昇る縁に口を寄せ、冷まそうと息を吹きかけると眼鏡が白く染まる。
「ぷっ……」
 思わずとが吹き出すのは丸喜の想定の範囲内ではあった。肌寒くなるこの季節につきものの、そうでなくても眼鏡と湯気が揃えば必然の現象を眼にした相手の反応はそう多くない。大抵の人はおかしそうに笑うか、身に覚えがあって共感するかだ。
「すいません、でも、曇ってる……ふふっ……」
 丸喜もまた釣られるようにして笑って、眼鏡を外して袖口で拭う。あまり褒められた行いではないが、そろそろ替え時でもあったからか、指先には力がこもっていた。
 うつむいてグラスと見つめ合う彼の耳にの驚いたような、からかうつもりでいるような、少しだけ上ずった声が触れる。
「眼鏡してない顔初めて見た」
「そう?」
 顔を上げるとわずかに輪郭のぼやけた少女の姿が映る。目を細めてピントを合わせると彼女が明らかに面白がっている様子が窺えた。
 放っておけばまたぞろ妙なことを言い出してこちらが困惑させられる羽目になる―――丸喜は先手を打とうと素早く眼鏡をかけ直して口を開いた。
さんは、もう進路は決まってるのかな?」
 攻撃は功を奏した。即ちは機先を制され、明確に驚いて口をへの字に曲げている。
「切り口が唐突すぎ」
 彼女自身はそれを不覚と感じたのだろう、言い返す声はどこか拗ねた調子になっていた。
 丸喜はいなすように穏やかに笑った。
「ごめんごめん。でもほら、さっき話したよね。最近ここに来て、そこに座って、僕と話をする子はたいてい、この話題に触れるってさ」
 本気で進路の悩みを打ち明ける者もいれば、雑談ついでに、関連する愚痴や陰口めいた本心を吐露する者もいた。真剣な者も、ふざけ半分の者も。
 個人名の特定に繋がりそうな情報を伏せつつにこやかに語る彼に対し、は眉をひそめて唇を尖らせている。先の奇襲めいた問いかけを不服に思っているのだろう、返す声はどことなく刺々しかった。
「ふーん……ほんとに大活躍だったんすね」
「あんまり嬉しいことじゃないけどね」
 そのあたりの指導は本業じゃない。なにより以前にも告げたような事情もあると改めて述べると、はやっと納得したように頷いてみせた。
 それから彼女は茶の注がれた湯呑みをテーブルの上に戻し、手のひらを落ち着きなくこすり合わせながら答えた。
「私は……経営とか、そういう方向ですかね、やっぱり」
 丸喜は目を、今度は焦点深度のためでなく感心によって細めた。照れくさそうな彼女の姿は実に年相応で、時折見せる商売人という仮面の下を覗き見たような気にさせられたのだ。
「それはつまり、親御さんの跡を継いで、会社をもっと大きくしたいってこと?」
 さらなる問いに、はううと小さくうめいてから、やけになったように淀みなく答えた。
「そうです。今は流通しかしてませんけど、私は自社製造もやりたいんです。ブランド立ち上げて、製造工場を作って、流通も続けて、可能なら販売も」
「遠大だね」
 微笑む丸喜の眼に嘲りやからかいは無く、の肩から力を抜き落とす。
 彼女は問われたわけでもないのに、言葉を続けた。
「うちの取り引き先のたいていはコンビニとかスーパーなんですけど、大手のとこはやっぱり他の、卸販売の大手とガチガチに組んでたり、自社ブランドを抱えてるんですよ。うちも営業をかけたりしてますけど、あんまり効果はなくて……いやでもまあ、そこは別にいいんです。今のところは問題なくやってけてるし」
 合いの手を入れるように丸喜が頷いてみせると、彼女は少し困ったように、ますます強く手を揉み、たいへんに恥じらう様子を見せはじめる。
 どうしたのかと丸喜のほうが戸惑うころになってやっと彼女はそのわけを語った。
「私がやりたいのは、だから……甘いモノって人の口を少し軽くさせるじゃないですか。それが会話のきっかけになってくれたら……だから誰にでも、小さな子どもでも気軽に手が出せるような、安価で手頃な、でも味も悪くない……そういうのを、もっと広く……ああもう……」
 丸喜はやっと、長らくほったらかしにされていた疑問の答えを得て胸の内で手を打った。彼女が商売を持ちかけたのは、彼女の経験実績のためだったのか、と。
 丸喜がここにいて、スクールカウンセラーという実績を得ているように、生徒たちに心を開かせる手段の一つとして菓子や茶を振る舞うのと同じように。
 照れているのはそういうことなのだろう。彼女はひどく遠回しに、あなたの真似事をしているとたった今告げたのだ。
 言葉が不明瞭なのは彼女の中の夢というものが、明確な形を得てはいるのだろうが、しかし言葉として具体的に語るには恥じらいが勝るのか。あるいは彼女自身が認知する『』という人格が、その優しい夢に不似合いと感じているのかもしれない。
「立派な夢だね」
 丸喜はそれらの思い込みを否定するためにも肯定してやった。それは彼の素直な所感でもあった。
 効果があったのか、はたまたただのお世辞のたぐいと受け止められたのか、は落ち着きなく指先で髪をいじっては脚を揺らしている。
「……こんなのトモダチにも親にも言ったことないよ。こういうのも心理学的なテクニックだったりすんの?」
「どうかな?」
 拗ねた文言に丸喜は意味ありげに笑ってみせた。そうしたほうが彼女にとっては快いと知っているからだ。実際、思惑通り落ち着きを取り戻した彼女は、今度は呆れたように彼を睨めつけている。
 ところが丸喜には今の彼女の一挙手一投足が微笑ましくてたまらない。彼女は心理学テクニックなどと言ったが、なんということもない。単純接触効果というものだ。
 納入のためくり返しこの場所を訪れ、ただ物品の受け渡しだけでは申し訳がないと茶の一つ、笑い話の一つも重ねるうちに互いに愛着を覚えた、それだけの話だった。
 だからは己が抱く世界観を丸喜に差し出してみせたのだろう。
 それ故職位を超えた好奇心が丸喜にさらなる問いかけをさせた。
「そのためにお金を貯めてるの? ほら、いつだか動画に広告をつけて、なんて言っていたよね?」
「あれは……」
 の記憶にも残っているらしい。反応は早かったが、あまり歯切れはよくなかった。
「あれはどちらかというと、失敗したときのための保険です」
「失敗……?」
「そうです。夢はあるけど、じゃあって言ってそれが絶対に叶うとは限らないじゃないですか」
「だから、保険?」
 なんと堅実なことだと感心しきり、丸喜は嘆息めいた息をついた。また彼は自らの記憶を探った。自分が彼女と同じ年のころはどうだったかしら―――と。己がひどく年を取ったような気がして、それはすぐに取り止められた。
 なんにせよ彼は今度こそ言葉を失い、敬服して彼女を見つめるだけとなった。
 冷めつつある薄い茶を音もなくすすり、とっくに日の落ちた窓の外へ視線を投げる姿はどことなく所在なさげだ。
 視線を合わせることなく彼女は言った。
「先生は……失敗したことってあるの?」
 奇妙な質問だと丸喜は目を丸くする。
 そりゃあ失敗なんてするものだろう。もうそろそろ長く生きたと言って許される歳だ、小さなものなら日々積み重なって山をつくっている―――
 そう答えようとして、しかし違うかと丸喜は目をつぶった。
 彼女の問いかけはつまり、ICカードのチャージを怠って改札に引っかかって列を止めたり、百円玉と五十円玉を間違えて出して店員に苦笑いされたり、パンツの前後ろを間違えたまま来てしまってトイレで難儀したり焦ったり……そういう失敗の話ではなく、もっと致命的な、取り返しのつかないしくじりを指しているのだろう。
 わずかに身を強張らせた丸喜に、は不思議そうな表情で身を屈めて顔を覗きこんだ。そこにある表情は特別なにかあるということもない、いつもどおりのその人の顔だけだった。
「先生?」
 丸喜は拳を握って顔を上げると、情けなく眉尻を下げて答えた。
「……そりゃあねえ、僕だって大人ですから、色々あるよ」
 これみよがしについたため息は大きく、テーブルの上に放り出されたままの菓子の包みを動かした。
「そうなんだ。それって―――」
「異性関係の話じゃないよ」
 再び先手を取った彼には口を尖らせる。
「つまんないの」
「あのね、さん。そういうのはね……」
 よくないよ、と嗜める言葉は受け流されてしまう。は軽い調子で笑うだけだ。
 丸喜はやっと肩から力を抜いて彼女に目線を戻した。
 するとちょうどドアのむこうを幾人かの生徒らの慌ただしい足音が通り過ぎていった。ひんやりとした空気もまた、暖房の効いた室内でも存在感を主張しながら足元を通っていく。
 丸喜はハッとしての背後に掛けられた時計に目をやった。最終下校時刻まであと一〇分もない。学園から駅までそう長い距離があるわけではないが、こんな時間に寒い夜道を歩かせることを思うと申し訳無さが立つ。
 そろそろ帰りなさいと『先生』らしく言いつけようと、彼が腰を浮かしかけると同時には言った。
「―――先生の夢ってなに?」
 馴染んだ性急さでもって吐き出された問いかけに丸喜は動きを止めた。
「僕の?」
「そ―――そう、先生の……や、今カウンセラーしてるんだけど……でもそれも……」
 膝の上で小さく握られた拳を見てやっと丸喜は彼女の意図を汲み取った。
 この日は十一月初めの金曜日だった。つまり、彼女と丸喜にとっての最後の納入日だ。そしてという少女は、特別保健室に縁のあるタイプでもない。丸喜は今月で学園を去るから、ともすればこれが最後のおしゃべりになるかもしれない―――
 丸喜は言葉を失って彼女をまじまじと眺めた。俯いた口もとは固く引き結ばれ、視線は足元に落とされている。その胸にはきっと名残惜しさと寂しさがあって、懸命に隠そうとしているのだろう。
 小さな子どもが見せるようないじらしさに、丸喜は腰を座面に深く戻して息をついた。
「僕はね」
「―――うん」
「元々は大学で研究員をしていたんだ。教育機関があってね、そこに勤務していたんだよ」
「そうなんだ」
「うん。だけど、僕自身の研究は助成金の申請もなかなか通らなくて。その内容の―――実証が難しいんだ」
「……やっぱ貧乏なんだ……?」
 上目遣いに視線を返されて、丸喜は安堵とともに微笑んだ。
「実はね。お給料はそんなに良くはないのに、その割に仕事は忙しくってさ……ここでやっていたみたいにカウンセリングに当たって臨床実績を積みながら、自分の研究を進めるために毎日遅くまで色んな文献を漁ったりして……」
「今も?」
「うん? ああ、うん。そうだね。学校から帰ったあとに論文をまとめたりしていたよ」
「じゃあ、ずっと忙しかったんだ」
「そうなるね。でもその甲斐はあった」
「甲斐? どんな?」
 オウム返しをして首を傾けたに、丸喜はますます笑みを深くする。
 この学園にやって来た一番の収穫となればそれはもちろん、彼の言う『実証が難しい理論』なるものの完成だろう。それは彼女も、他の多くの生徒も関わりのないことだった。
 けれど丸喜の眼がふと、彼女の手の中に巧妙に隠された紙片を見つけ出すと、一時それすら霞んでしまうような気になってくる。
 それが気の迷いなのか、ただの己の心の弱さなのか……判別つく前に、も見つけられたことに気がついたのだろう。照れくさそうにしながら、手の中のものを彼に差し出した。
「はい、先生」
 それというのは申込書の付属した一枚のチラシだ。ラインナップは変わっているが、色合いやフォントに大きな違いは見られない。
 丸喜は反射的に上げかけた手を、いやしかしと中途半端な位置で止めてしまった。
 ―――もうそれは必要なくなるんだ。
 そう告げようとするのをは遮った。
「カウンセラーは本業じゃないんだよね。わかってる。でも、もったいないなって」
「もったいない……?」
 今度は丸喜のほうがオウム返しと首を傾げる番だった。ありがたくも様々な人に惜しまれていることはさしもの彼も察しているが、もったいないと言われると、しっくりこない。
 はじれったそうにチラシを振りながら言った。
「だって、もう今から先生やめないでって泣いてるやついるんですよ」
「そうなの?」
 それはさすがに初耳だった。目を丸くする彼に、は大きく頷いて続ける。
「D組の男子とか、廊下で泣き崩れたって」
「それ、本当?」
「知りませんけど」
「えー……」
 ただの伝聞の噂じゃないかと脱力するが、彼女のほうは構うつもりもないのだろう。相変わらずチラシをヒラヒラさせながらさらに言い重ねていく。
「でも私の友だちも何人かすごいヘコんでるんだよ。マジでかわいそうになるくらいでさ」
「それは……申し訳なく思うけど」
 僕にはどうすることもできないよ。
 そう告げることが精一杯だった。実際これに関して彼になにができようか。学園に彼を招いた校長はすでに亡く、暫定的に運営を引き継いだ副校長にしても教頭にしても、任期の延長を検討こそすれ乗り気ではなさそうだった。
 なにより彼自身にその気があるのかと問われれば……
 俯きそうになった丸喜の顔を見澄ましてはしたり顔で頷いている。
「ほら、もったいない」
 丸喜はやはり首を傾げた。
「だから、泣くほど慕われてんですよって」
「うん。ありがたいと思うよ」
「それだけ人に好かれるのって、才能じゃないですか。私なら商売はじめますよなんか」
「ええ……? 例えば?」
 身を乗り出しかけていたは、しかしそう返されて波のように姿勢を戻した。
「……先生にはカウンセラーが向いてるとおもうよ」
「なるほど」
 丸喜は深く、頷いた。
 商売は向いてないと言いたいのだろうことだけはハッキリと伝わっていた。自覚も彼にはあった。金や損得の勘定は苦手だ、と。
(それに―――)
 僕にはやるべきことがある。
 固く握った拳はの視界の端にあって、彼女の関心を引かなかった。
 彼女はただまっすぐに腕を伸ばして、ずっと手の中にあるものを再び差し出すだけだ。
「先生」
「えっ?」
「持ってってよ」
 戸惑いつつも彼はやはり反射的に手を上げかけて止める。受け取ったところで、もはやそれはただの紙切れだ。両面に印刷されているからメモ帳にすらならない。
 は面白がるわけでも不服そうにするでもなく、さりとて時折覗かせる商売人の顔とも違う表情を見せていた。彼を尊重しつつ我を通そうとする少し傲慢な、しかし慈しみも感じさせるような複雑な笑みだった。
「わかってるって。他になんかやりたいこと……研究? なんか心理関係のがあるんだよね。わかってる、わかってる」
 口ぶりもそれに倣っている。優しげではあるが、投げやりで、いい加減だった。
「本当に?」
 丸喜は口をへの字にして目を細めるが、それもナシのつぶてだ。は鷹揚に頷くばかりだった。
「うんうん。わかってるって。けどさ―――」
 そして彼女は笑顔で丸喜を突き刺した。
「それだって成功する保証もないじゃん?」
「うっ……」
 そのとおりだった。
 丸喜の夢や目的というものは、言ってしまえばのそれと比べて夢物語に近い。確信こそ彼にはあるが、まだ実現には至っていない―――
 実情を知るわけではないだろうが、の言は的確に丸喜の不安を突いている。
 ただし彼女に自覚はなく、相変わらずの表情で彼に安っぽい用紙と印刷のそれを差し出している。
「だからね、どうぞ」
「僕には―――」
 それはもう必要ない。何故なら夢が叶えば、菓子を出して対話を試みる必要さえなくなるかもしれないからだ。
 そう突っぱねようとして彼は口を閉ざした。 
 ―――やるべきことはある。だけどそれとはまた別に……
 泣いている生徒がいると彼女は言った。泣くほど己との別れを惜しむ誰かがいてくれるのだと。そうした絆を完全に手放せるほどの強さを彼は有していなかった。
「……ありがとう、さん」
 結局彼はそれを受け取った。ほんの少しの申し訳無さと後ろめたさがあったが、それもの威勢のいい、
「毎度どうも!」という冗談めかした文言にかき消される。
 やはり自分には商売は向いていないだろうと丸喜は強く思う。LEDライトの青白い輝きに照らし出された少女の屈託のない―――というにはいささか欲にまみれた笑みは、それでも彼に確信を抱かせるには充分だった。
 このたった一枚の安っぽい印刷物こそが丸喜とを繋ぐ絆の証明だ。得られるのはそれぞれ小銭と安物だが、これは固いはずの彼の決意を一瞬でも揺るがし、奇妙な夢を見させた。
 平身低頭頼み込んで望めば、きっと学園に残ってスクールカウンセラーを続けることもできるはずだ。その場合さらに足元を見られるだろうが……生徒たちの健やかな心の成長のため、本格的に奔走する日々を想像して、丸喜の胸には言い難いくすぐったさと苦々しさ、相反する暖かさに包まれた。
 それはそんな決断も悪くないと思わせる、甘やかな誘惑だった。
 丸喜は、チラシを白衣のポケットに押し込んでやや自嘲的な笑みを浮かべる。
「……お菓子だけにね」
「は?」
「なんでもないです。すいません」
「はあ」
 ちょうど時間は完全下校時刻になるところだった。は満足げにして鞄を取り上げると、彼に促される前に自ら立ち上がって部屋を辞した。
「じゃ、先生、またね!」と言い残して。
 朗らかなそれは、どうせまた明日も学内のどこかで顔を合わせるだろうからという事実からか、はたまたもっとずっと先も縁が続くと確信しているからなのか。
 丸喜にはよく解らなかった。



……


 一台のタクシーが都内を縦横無尽に走る数多の道路のうちの一つを走っている。
 それ自体に珍しさはない。そんなものは、都内であってもなくても、全国どこでも、世界中で見られるような光景だからだ。
 ただ車内は少し騒がしい。
 暴れる恐竜のような子どもの泣き声が、走行音と歩行者用信号の音響信号、FMラジオの放送をかき消していた。
「すみません、すみません……」
 傍らの母親はまだ二十代後半といったところか、爆発音めいた泣き声がしゃくり上げる音に切り替わった隙間に、しきりに運転手の男に頭を下げている。
 目深に帽子を被った男は口もとに柔らかな笑みを浮かべ、ミラー越しに首を横に振った。
「いいんですよ。大丈夫、気になさらないでくださいね」
 そう返して車はゆっくりと速度を落とす。ちょうど目の前の信号が赤になったところだった。
 車内は気まずい沈黙と子どものすすり泣く声に満ちている。右折してきた普通車が横を通る音が、やけにざらついた感覚を母親の耳に押し付けた。
 女は気が気でなかった。自分の息子がいつまた火が点いたように泣き出すか……それだけならばまだしも、暴れ出されたら狭い車内では手の付けようがない。
 ……どうしてこんなに大きいんだろう。
 母親はしくしく泣いてしがみついてくる己の子を見つめてそう思う。まだ五歳にもなっていないはずなのに、その身の丈は同じ歳の子らと比べるとひと回りもふた回りも違っている。自分が産んだはずの子どもが、なにか別の生き物のように思えてならない、と。
 こみ上げる嫌悪感と疲労や不安に、女の目尻にさえ涙がにじみ始めたときだった。
「あの、よろしければ……これ、いかがですか?」
 ハッと息を呑んで顔を上げると、運転手が手になにか……ビニールのパッケージに包まれた菓子が山ほど詰め込まれた小箱を差し出しているところだった。
「おかしー!」
 反応したのは子どものほうが先だった。泣いていたカラスが、と言わんばかりに笑顔になっている。
「で、でも……」
「どうぞどうぞ。サービスですから」
 戸惑う母親の傍ら、子どもはすでにいくつもの菓子を手に取っては包みを破って口に詰め込んでいく。そのいかにも飢えた素振りに、母親の頬にカッと赤みがさした。
「……やめなさいっ!」
 まるで自分が食べさせてないみたいじゃない。ちゃんとお昼だって用意して、好き嫌いしないように細かく刻んで味付けもして、きちんと食べさせているのに、どうしてそんな真似をするの―――
 無意識のうちに上がりかけた手を穏やかな声が制した。
「いいんですよ、お母さん」
 でも、喉に詰まらせないようにね。
 そう言い残して運転手は菓子箱を子どもの手に預け、進行方向に向き直った。信号は青に変わっていた。
「……実は僕、卸しの業者さんと知り合いなんですよ。それで、直接安く売ってもらえてて」
「そう、なんですか……」
「ええ。だからこうして、おしゃべりがてら皆さんに召し上がっていただいているんです」
 穏やかな語り口は運転にも表れていた。子どもに預けられた箱からも、小さな手からも、菓子はこぼれ落ちることはなかった。
「よければあなたもお一つどうぞ」
「あ……ありかとう、ございます……」
 母親はホッと息をついた。と同時に今まで肩ひじにこもっていた力が抜け落ちる。
 運転手はハンドルを切りながら、再び母親に話しかけた。
「いま何歳ですか?」
「えっ……」
「あ、お子さんがね。もう小学生かな?」
「よんさい!」
「あちゃー、外しちゃったかあ」
 気安い笑い声に母親はつまんだ菓子を見つめながら俯いた。
「……身体が大きくて、よく間違われるんです」
「ああ、なるほど。抱っこするのもひと苦労しそうだ」
「そうですね。そう……」
 母親の細い喉首がぐっとなにかを飲み込むように動いた。こみ上げた愚痴や悪言めいたものを辛うじてこらえたためだった。
 やがて車は目的地に停車する。
 運転手の男は手早く支払いを済ませ、カードを返しがてら、
「そうだ、これ」と言って紙片を差し出した。
「え……?」
 不審げな眼にも怖じけず彼はそれを手渡した。
「僕の名刺です。抱っこが大変なときはまたお願いしますね。お菓子はいつでもありますから―――」
 反応はやはり子どものほうが早い。
「ほんと!?」
 恥じらいと驚きに硬直した母親を脇に、男は身を屈めて視線を合わせて笑った。
「うん、ほんとだよ。僕の友だちにね、お菓子屋さんがいるんだ」
 だからまたね、と目尻を下げる彼に、子どもは歓声を上げて車から飛び降りた。
 母親は丁寧に頭を下げてから、はしゃいで落ち着きのない身体の大きな子どもを苦労しながら抱き上げると、重い足取りで小児科医院の戸をくぐっていった。
 運転手の男はにこやかにしてそれを見送り、また来た道を引き返し始める。
 行きと違って車中は静かだ。
「僕もなかなか、商売ってものが身についてきたんじゃないかな? どう思う……?」
 問いかけに答えるものはないが、しかしハンドルを握る男の胸には明確に一人の少女の存在が描かれていた。
 心象は歯を見せて笑いながら彼に答えた。
『まだまだですね、先生』
 男は穏やかに目元を緩め、「向いてないみたいだ」と言い返した。
 ラジオからは流行りのシティポップが流れ、鼻にはかすかに甘い香りが触れている。