甘い誘惑

 窓からは西日が差し込んでいた。
 オフィス街に学舎を構える秀尽学園の校庭では運動部の生徒たちが懸命に修練に励み、特殊教室棟の上階からは文化部の生徒たちが行き交う物音と声が届いている。
 同じ棟の一階にあってしかし、夕暮れの光だけが差し込む保健室内は静かで、あらゆるものが自ら遠ざかっているかのような静寂に満たされていた。
 反面、他の知覚に訴えかけるものは多い。茜色の光は眩くあちこちに反射して網膜を焼き、そこに居る者の瞳孔を収縮させる。鼻には消毒液のにおいが触れていた。口内にはつい今しがた飲み下したばかりの菓子の甘みと香ばしさがまだ残り、二の腕に触れるものがあることも『彼』は知覚している。
 ぼやけていた聴覚には急かすような甘い声が吹き込まれた。
「ね、先生……いいでしょ? 誰にもバレなきゃいいんだし、お願いしたのはこっちのほうなんだよ……?」
 囁きかけたのはまだ十六、七の少女だった。年若い彼女の全身からは声同様の甘い芳香があふれ、そのどちらもが『先生』と呼ばれた男の背筋にゾクゾクと駆け上るものを与えていた。
 それは背徳感によく似ている。後ろめたさとそれを覆い尽くすほどの『実利』を前に、しかし男はまだ残った理性を盾に踏みとどまった。
「こんなこと、駄目だよ……いいわけがない……!」
「どうして? 欲しくないの……?」
「あっ! 待ってさん、そんなっ……」
 二の腕に置かれていた手がやはり急かすような調子で離れ、テーブルの上に放り出されていた男の手の上に重ねられた。やわらかな指先はまた彼の手の甲をつまんで甘やかな痛みすら与えてくる。
 ずっと年下の少女に圧倒的優位を取られることへの決まり悪さは、ここが彼の居るべき場所であることすら忘れさせていた。どうにかしてこの場から逃げ出したいと、そうできればなにかこの状況を打開できる閃きが得られるのではと願いに似た想像を膨らませるうち、彼の思考は時間と記憶を遡りはじめる。

 ———どうしてこんなことになったんだっけ……?

 きっかけを探ると、話は数日前、場所は同じ秀尽学園の学舎内、時刻は昼前にまで戻る。
 授業の終わり際に差し掛かろう頃に一人の女生徒が保健室の戸をくぐった。
「しつれいしまーす」
 室内は静かで、応答には少しの間が置かれる。
「はいはい、どうしたの?」
 穏やかな声と口調に反し、少し慌ただしい足取りで奥から姿を現したのは白衣に袖を通した男だった。女生徒は一瞬戸惑ったように足を止めたが、ひと月ほど前にこの学園にスクールカウンセラーとして着任した人物だと思い至り、すぐに室内に身を滑り込ませた。
 その足を赤いものが伝っている。
「わあ、すごいね。なにをしたんだい?」
「走ってたら派手に転んじゃって」
 ああ、と頷いてカウンセラーは窓の外に視線をやった。校庭では女生徒たちが気だるげにトラックを周回しているから、彼女もそのうちの一人だったのだろう。
「とりあえず洗って消毒しようか」
 洗面台に併設された足洗い場に手招いて、カウンセラーは彼女の傷口を流水で洗い清めさせた。出血は多いように見えたが傷は浅く、付着していた泥や礫も触れる必要すらなくすっかり落とされる。
「丸喜先生ってカウンセラーですよね。こんなんもするんですか」
「一応ね。消毒して絆創膏くらいは僕にだってできるんだし」
「それもそうだ」
 それくらいなら誰だってできると頷いて、女生徒は差し出されたタオルを受け取った。傷を刺激しないように水気をぬぐうと血はもうほとんど止まっていて、彼女とカウンセラーを安堵させた。
 カウンセラーはまた女生徒をスツールの上に導き、なんの変哲もない消毒液とコットンを用意してその対面に腰を下ろした。
「よかった、見た目ほどひどい怪我じゃなさそうだ。念のため赤チンつけとくね」
「セクハラですか?」
「えっ」
「えっ」
 二人は何秒か無言で見つめ合った。カウンセラーにとって幸いなことに女生徒は嫌悪感を滲ませるでもなく、ただ本心から不思議そうに目を丸くしているだけだった。
 それでも彼は大きく肩を落として、安堵と自らの身に訪れる必定の病を思って息をついた。病の名は『老い』という。
「……なんか今ものすごいジェネレーションギャップを感じたよ……」
「……はあ」
 とはいえ、平均寿命から数えれば彼もまだ若いと称して差し支えない。彼は気を取り直してコットンをピンセットでつまみ上げた。
「じゃ、消毒するね。しみるよ」
「あ〜……しみ、しみみみ……!」
 女生徒は奇妙なうめき声を上げてのけぞり、消毒が済んだあともしばらく身悶えていた。
「はい終わり。お疲れさまでした」
「くうう……どうもでした……」
 治療の仕上げに保健室の利用記録に記名を行い、立ち去ろうとする彼女―――と記入されていた―――に、カウンセラーは穏やかに声をかけた。
「そこにお菓子あるから、好きなの持っていって。お大事にね」
「はあ、どうも……」
 入り口そばに設けられたカウンセリング用のスペースには、テーブルの上に菓子かごが置かれている。は少し迷うそぶりをみせたが、いかにも優しげなカウンセラーの眼差しに促されるようにしてパイ菓子をつまみ、ポケットに押し込んで保健室をあとにした。

 厳密にいえばこれは前置きに過ぎず、本当にきっかけとなった出来事は彼の知らないところにあった。

 治療を終え、授業の終わりを迎え、他の生徒より遅れて制服に着替えて教室に戻ったを、同じクラスの友人らが出迎えた。
 そのうちの一人が目ざとくの頬張るものに気がついて言った。
「あっおいしそうなもん食べてる」
 指し示されたの手には、かじられて角を一つ失った正方形のパイ菓子がある。中央にはレーズンが貼り付いていて、これが彼女の歯にもくっついて滑舌を悪くさせていた。
「ほへんひつでもろた」
 とはいえ同じクラスだ。彼女が授業中に怪我をして向かった先は皆承知済みだから、聞き返す必要はなかった。
「いいなー」
「あんたもいけば? あのカウンセラー、なんか常にお菓子常備してるって」
「マジ? 最高じゃん」
 友人らのやり取りを横目に、は自分の鞄から水筒を引っ張り出している。体育の授業も乾いたパイ生地も、確実に彼女の口から水分を奪っていた。
 保健室への巡業を企てて盛り上がる友人らを、また別の友人が遮った。
「それ目当てに行くのやめなよ。あれって丸喜先生の自腹らしいし、悪いって」
 は冷えた茶で口内をすすいでから口を開いた。
「経費じゃないんだ?」
「らしいよ」
 だから意味もないのに行くのはやめなさいと叱りつける彼女に、はじめに菓子を羨ましがった女生徒は唇を尖らせる。
「ちぇー、校長もそんくらい出してあげればいいのに」
 そしたら気兼ねなく話をしに行けるのに。
 は菓子の残りを口に放り込みながら胸の内で合点して手を打っていた―――そうだそうだ、丸喜先生だ。そんな名前だった。それで、そうか、この菓子は自前なのか。いやに親切なひとなんだな……と。

 翌日の放課後、は再び保健室の戸をくぐった。その肩にはどうした訳か通学用とは別の大きな鞄が下げられていて、膝の絆創膏こそまだあるが新しい傷や病気の兆候は誰にも見つけられない。
「しつれいしまーす」
 気の抜けた挨拶をする声もよく通る。
 カウンセリング用の応接スペースに居た丸喜は腰を浮かしかけた奇妙なかっこうでふり返った。
「君は……さんだね。どうしたの?」
 もしかして自分に用か、と眼鏡の下の瞳は素早く彼女を観察しに動いている。
 されたほうはそれに気付いていながら嫌がるでも歓迎するでもなく、ただ彼がこの秀尽学園に数百人は在籍する生徒たちの中からきちんと己の名前と顔を記憶していることに感心していた。
 この日の彼女の訪問は彼女にとって予め定められていた事だった。金曜日の放課後、本来この場に居るべき保険医は備品管理と確認のため、三〇分ほど部屋を空にする。緊急時には放送で呼び出されることもあって、彼女のみならず多くの秀尽生が知っていることではあった。
「や、ちょっと……なんていうか……」
 そしてはその隙間を狙ってここを訪れている。本来なら施錠されて無人のはずの保健室にカウンセラーが居ると知っていたからだ。
 ところがこの日、彼女にとって予定外の人物が丸喜の対面にふてぶてしい態度で座していて、彼女の企ての浅はかさを証明していた。伊達らしい眼鏡で顔を隠したくせ毛の人物は彼女の同級生で、隣のクラスの男子生徒だ。彼は昨日が退室間際に与えられたのと同じ菓子を口にくわえていた。
 はあまりこの男子生徒に関心がない。彼の身上に関する噂は無数にあったが、諸々の騒ぎが過ぎ去ったころの誰もがそうであったように、彼女もまた彼に関する様々な情報を記憶の隅に放り込んでいた。
 唯一憶えていることといえば、そう……
 ―――こいつになら聞かれても告げ口する友人も教師もいないかな。
 ……あまり交友関係が広い人物ではない、らしい。という『噂』くらいだ。
 はまた、『だから』彼がここに居てカウンセラーと話などしているのだろうと勝手に納得することとして、鞄を肩から下ろしながら丸喜に目を戻した。
「えーと、寄付のようなものっていうか」
「寄付?」
「これ、どぞ」
 不思議そうに目を丸くする丸喜の腕に、が鞄を押し付ける。大きく膨らんでいたわりに鞄は軽く、彼はますます困惑した様子で女生徒と己の腕の中のものを見比べる。
 無言で示される疑問符には勿体つけるでもなくその正体を明らかにした。
「それ、中身は菓子です」
 両手が塞がった丸喜に代わり、の手が鞄のジッパーを横に滑らせる。するとなるほど、中身には確かに個包装されたバラの菓子が姿を現した。
「わ、すごいね。でもこんなに、どうして?」
 丸喜が疑問を覚えたのは量のこともあるが、なによりそれらが『個包装された菓子』である点にあった。いずれもがコンビニやスーパーで見かけたことのある商品だが、そういった場でのこれらは紙箱や大袋に入っていて、個別の袋のみで与えられると違和感すら抱かせる。購入後に開けて鞄に詰め直した可能性もあるが、それも少し手間が勝りそうな量だ。
 はやはり率直に応えた。
「うちんち、問屋なんです」
「とんや?」
「卸し」
「ああ―――」
 丸喜はすぐに納得する。彼女の家族が菓子の卸販売業者ということなのだろう、と。
 それでも疑問は残る。バラで渡されたことも、そもそも渡されたこと自体も、寄付という言葉も謎のままだ。
 は三度応えて言った。
「キズモノなんですよ、それ。食べられるんですけど、包装の際や運送中に砕けちゃったり、袋に傷やら汚れついちゃったやつ」
 家が経営する会社ではそういった物も仕入れてはほとんど原価でまとめ売りなどしているのだという。
 今度こそ合点がいって、丸喜は深く頷いた。
 ―――安価な物で、寄付なのだから、気兼ねなく受け取ってほしいということか。
 ありがたいと思うのと同時に、丸喜は少し情けなくもなる。スクールカウンセラーというものが決して高給ではないと知られてしまったのか、それ故『撒き餌』に自腹を切るのも限界があると噂されてしまっているのだろうか……想像して暗澹たる気持ちになりつつも、彼は大人として、スクールカウンセラーとしての面目を保とうと表情を引き締めた。
「だけど、タダじゃないんだよね? 本当ならお店の商品になるようなものは……」
 受け取れないと続くはずの言葉はせっかちな態度に叩き潰された。
「だから、寄付するんじゃないすか。無料のもの寄越すやつなんていないし、そもそもこの世に本当にタダの物なんてないですよ」
 よく回る舌に丸喜は半歩後ずさる。悪意も苛立ちもなさそうなの眼には、善意すら彼をしても窺うことはできなかった。
 どういうつもりなのかと測りかねて困惑する彼の背後から声がかかった。
「いいんじゃないか」
 丸喜はふり返り、も視線をそちらに向ける。くせ毛の男子生徒は退屈そうに背もたれに身を預け、先とは違う菓子に手を付けているところだった。
「どうせ食うのは俺たちなんだから」
 包装を破り、バームクーヘンを口に放り込む姿はやはりふてぶてしい。
 結局それが鶴の一声となって、丸喜はなし崩し的に鞄の中身を受け取った。
 軽くなった鞄を折りたたむは、保険室内を徘徊して大量の菓子の隠し場所を探す丸喜の目を盗んで男子生徒に囁いた。
「ナイスアシスト」
「ごちそうさま」
 ニヤッと笑って応えた彼の手には、今度は熱いお茶がなみなみ注がれた湯呑みが握られていた。
 この暑いのによくもまあと呆れ半分感心半分のの背後で、丸喜もまた二人の目を盗んでため息などついている。
 ―――してやられた。受け取ってしまった……
 不満ということはないが後ろめたさはどうしようもなく、その胸にはいくらか重いものがへばりついていた。けれどそれも与えられた私物用のロッカーに菓子を詰め込むことに成功すると薄れていく。
「これは……」
 菓子の隙間に紛れ込んだ紙片をつまみ上げると、罪悪感めいたものはさらに薄くなった。
 カラフルに彩られた紙面の上には見覚えのある菓子のパッケージとともに数字がいくつも印刷されている。どうやら家の会社が発行しているチラシらしく、ほとんどがロット販売される業務用だった。
 丸喜の目は紙面をすべり、片隅のアウトレット品と記された部分に移る。
「あ、ほんとに安い……」
 しみじみとつぶやかれた声は幸いにして背後の少年らには届いていなかった。

 それから一週間と少しの後、寄付品がすっかり底をついたころを見計らっては三度丸喜のもとを訪れていた。もちろんと言うべきか、大量の菓子を携えてだ。
 丸喜は彼女を歓迎こそしたが、しかし彼女の施しには渋い顔をしてみせた。
「やっぱり、悪いよ。君のおうちの商品なんだし、代金を―――」
 支払わせてくれ、と続く言葉をはやはり素早く遮った。
「金銭の受け渡しのほうがマズくないですか?」
 丸喜は呻いて項垂れた。
 この日の保健室にもやはり保険医はおらず、また今日はくせ毛の男子生徒も訪れてはいなかった。どうも、なにか忙しくしているらしい。
 丸喜としては、寄付自体は大変ありがたく思っている。けれど菓子山に紛れていたチラシに掲載されていた値段を見るに月収から実費を支払っても十分余裕が生じる範囲であり、ふたりが生徒と教師―――厳密にいえば丸喜は教師ではないが―――という関係性である以上、物品にせよ金銭にせよ、なんらかの個人的なやり取りが発生するのは世間的にも倫理的にも問題が発生する。怒られたくないというだけではないが、当然それは回避したい。
 なによりもただ本当に、倫理や世間体を差し置いて彼は、とにかく、どうにも、申し訳がなくてたまらないだけだ。
 年甲斐もなくしょぼくれた彼を見ても少し考えるように視線を天井にさまよわせた。
 やがて、ポンと手を打って、
「じゃあ、私からじゃなくて、うちから買い付けしてもらえるんならいいかな?」
「え? あ……」
 丸喜はすぐに彼女の言わんとするところを察して菓子山の中のチラシを見つけ出した。ついでに先日の一件の後調べて見つけ出した商店の通販サイトのラインナップを胸に返す。五〇〇〇円以上の購入で送料無料とあった。
 そうとも、菓子の卸販売業者から丸喜が個人事業主として買い付けを行う分には倫理に抵触しない。この際それが生徒の親が経営する小規模事業だとしても、単なる偶然と言い抜けられるだろう。そもそも丸喜が生徒におやつを用意する必要性は不明だが―――
 の手が山の中からチラシを抜き取り、裏面の端に収まる申込み書面を上に机の上に置いてみせた。
「……どうです? こっちとしても会社の儲けになってくれるんなら全然嬉しい……っていうかお願いしたいくらいですけど」
 丸喜は促されるままに安い事務椅子に腰を下ろした。机の上には広げられたチラシと、ペンが転がっている。
 そこへきて彼ははじめて、の瞳にあるものが悪意でも苛立ちでも、ましてや善意ですらない、ギラギラとした何某かの情熱―――商売っけに燃える商人の眼だということに気がついてがく然とした。己が生徒たちとの会話の糸口に菓子を利用しているのと同じように、彼女にとってこれは単なる先行投資でしかないのだと。
 猫を撫でるように二の腕を優しく擦る手に彼は総毛立った。
「ね、先生……いいでしょ? 誰にもバレなきゃいいんだし、お願いしたのはこっちのほうなんだよ……?」
 耳に吹き込まれる甘い声は彼を深く誘惑した。
 それで、話は冒頭に戻る。
 は極めて淡々と彼に説明してやった。
「あ、ご心配なく。箱買いや法人契約の必要はないですよ。個人向けの小ロット販売もしてますし、数はけっこう融通きかせられます。もちろんお値段も勉強させてもらいますから、そのへんのコンビニやスーパーで買うより断然お安いですよ?」
 例えば、との手は丸喜からボールペンを奪い取り、チラシに掲載された数字に横線を引いては新たな数字を書き加えていく。
「えっ……そんなに? 大丈夫なの?」
「ギリギリですね。だから、えーと、先生十一月までですよね? 夏休み抜いて、三ヶ月くらいうちで買ってくれるんなら」
 ボールペンは再び丸喜の手に戻されたが、金銭、倫理、世間体、あらゆる問題をかい潜ってまだ彼は迷っていた。
 ―――本当にいいのか? これは正しいことなのか? 自分の弱さに付け込まれているだけなんじゃないのか、あるいは自分が彼女を利用する結果になるんじゃないだろうか……?
 迷いは彼の人のよさから生じている。極めて真っ当な、余人にお人好しと囁かれる彼の善性は、しかし悪しき商売人に突き崩された。
「先生のとこに相談しに来るコたちも喜びますよ」
 たぶん、と無責任にも小さく付け加えられたことに彼は気が付けなかった。
「ああぁ〜っ」
 情けない悲鳴のような、うめき声のような、法悦のあえぎ声のような奇妙な鳴き声を発して彼は申込用紙に署名した。
「毎度あり〜!」
 ごきげんに言ってのける少女の姿はもはや丸喜にとって悪魔と相違なかった。
 とはいえ、どことなく誇らしげな彼女の姿はいかにも健康的で彼を安堵させる。
「商売熱心なんだね」
「いやぁ、新規顧客獲得でお小遣いアップするんですよ、うちんち」
 丸喜はのけ反って天井と見つめ合った。座面に広く触れていた尻はもはやずり落ちかけてもいる。
「……ひょっとして僕、ダシにされたのかな……?」
「へへへ……今後ともぜひご贔屓に……」
 媚びるような笑みと揉み手は彼をさらに大きく脱力させたが、しかしどうしてか不快感は覚えなかった。

 の与えた恩恵は彼女の思惑―――といえるほどのなにか高尚な考えが彼女にあるかは甚だ疑わしいが―――より、また丸喜が想定していたよりずっと大きかった。
 まず第一に自主的にカウンセリングを受けに……丸喜と他愛のないおしゃべりをしにやってくる生徒がいくらか増えた。
 そのほとんどは女生徒で、数少ない男子生徒らも皆口を揃えて遠慮していたのだと丸喜に語った。出される茶菓子が自腹だと知って、あんな良い人に余計な負担を掛けてはいけないと思いこみ、足が遠のいていたのだと。
 ところがが彼女の友人にそこの問題は取り除かれたと教えると、その友人の友人に、友人の友人の友人に、友人の友人の友人の友人にと都市伝説のように話が広まり、一人また一人と丸喜のもとを訪れるようになった。それでも大した悩みがある訳でもないのに時間を奪ってはと自制する者もいたが、丸喜自らが気軽に来てほしいと願っていることが、やはり人づてに伝わるといよいよ障害は無いと保健室は盛況になる。
 彼らには安物の菓子と薄い茶が平等に振る舞われ、保健室はにわかに家庭にも学校にもなんとなく居心地の悪さを感じる少年らの寄り合い所と化した。
 これに本来の保健室のあり方としていかがなものかと苦言を呈する者がいないわけではなかったが、新たな問題が出来るより前に、また丸喜が手を差し伸べるまでもなく、生徒らの間に互助会めいたコミュニティが自然に発生し、連日の賑わいは夏休みを待つことなく失われ、元の通りに戻ってしまう。
 丸喜はこれを喜んだ。
 頼りにされること自体は、年齢や職業柄、なにより丸喜という男の精神性からして喜びにほかならない。
 けれど己ばかりが頼みになってしまう状況は決して健全とは言い難い。肉体とともに精神が成熟するに伴い、多く依存関係は分散していく。母親から家族へ、家族から友人、学校、近隣住民や所属するコミュニティで知り合う人々……依存先はある程度分散されていることが望ましく、そしてそれはその人にとって身近であったほうがいい―――
 そんなことをに語って聞かせたのは、彼女が残念そうに「また静かになっちゃいましたね」などと言うからだ。
「だからね、たしかに寂しいけど、この状況は僕にとって嬉しいことでもあるんだ」
 優しく説き伏せるように告げてやるとも納得した様子で首を振った。彼女は隔週で行われる商品の納入にやってきて、前述の通り人気のない保健室の有り様を見てなにを思ったのかソファを占拠して居座っている。
「本来なら丸喜先生だけが、じゃなくて、担任やら親やら、あと自分自身? あ、あとトモダチとかも。色んな相手と相談できるんなら、そっちのほうがいいってことだよね」
 そのとおりだと丸喜は重く頷いて、膝の上で手を組んだ。
 彼はまた彼女が己の言わんとするところを正しく理解してくれていることに安堵していた。
 ―――彼女が返したとおり、色んな人に相談できるのなら、そのほうがいいに決まっている。何故なら人はその立場や環境、相手への感情によってたやすく意見を翻す生き物だからだ。それが良いことか悪いことかはさておき、視点は多いほうが総合的な判断は下しやすく、結果その人にとって最適な答えは得やすいだろう。
 だから丸喜は、秀尽学園の生徒たちの拠り所がここに集中することを手放しには歓迎できなかった。それが不信の証明になってしまっているからだ。この学園においては先の教師による不祥事のせいか、事件とは無関係なはずの教師との信頼関係さえ薄く、また親やPTA、教育委員会といった『大人』という属性そのものへの不信感が生徒たちの心に滞留している。このため『事件とは完全に切り離された潔白が明確な大人』は、今の秀尽には丸喜だけだ。もちろん、教師という属から離れ、個に焦点を絞れば他にも当てはまる者はいるが、それを生徒たちに見極めさせるのは酷というものだろう。今はなにより、吹き積もった不信感が彼らの眼を曇らせてしまっている―――
 丸喜の眼はの、冷たいお茶をちびちびと舐めるようにすする口元に向かった。その口から不安や憂いがこぼれたことは今のところないが、これまで幾度か行われた納入に際して彼女がこうして居残ったことはなかった。今日はどうして帰らずにいるのだろう。
 ―――もしかして彼女もカウンセラーに打ち明けたい悩みなどあるのだろうか?
 そう思うと、丸喜はごく自然に、
「君はどう? なにか相談事はある?」と問いかけていた。
 は直ちに、
「いえ特には」と簡潔にしてこたえた。
 杞憂であったことに安堵すると次の疑問が湧く。
「じゃあどうして」
「居ちゃダメなんですか?」
 言葉を遮られて丸喜は眉尻を下げた。どうにも彼女は性急でよろしくない。
 ところがのほうは気にした様子もなく茶をすすり続けている。
 あるいは―――と丸喜は思う。
 この太平そうな少女にもやはり人並みに悩みがあって、しかしプライドや恥じらい、遠慮によって言い出せずにいるのではないか……と。
 それは彼の職業柄というより、性根による使命感じみたおせっかい精神の賜物といえる。
「じゃあなにか……不満はある?」
「不満ですか」
「うん、そう。不満だよ」
 不安や憂いではなくあえて不満と表した自らと、彼女が敏くそこに反応したことに丸喜は苦笑する。
 は訝しげに沈黙したが、やがて極めて落ち着いた声で応えた。
「そりゃ不満なんて山ほどありますよ。予告なしで小テストすんなとか、もうちょっと解りやすく教えてくれとか、……」
 言い始めると、指折り数えて並べる学校や教師、家族への不満は両手では足りないほどだった。
 けれどそのいずれもがただの愚痴の範疇で、中傷や悪言とは程遠い。微笑ましささえ覚える苦労話に近いものだった。身近な大人であるところの教師や両親への他愛のない愚痴は大抵の場合は親密さの裏返しで、一種の承認欲求ともいえる。もっと甘やかしてほしい、構ってほしいという願いの現れだ。
 つまり、目の前のこの少女は自立の階に脚を掛けつつも、まだふり返って親の庇護や無償の愛情を恋しく思う、普遍的な女子高生の定型の一つに過ぎない。
 相槌を打ちながら観察をしていた丸喜は今度こそ本当に胸をなでおろした。どうやらただの杞憂だったようだ、と。
「なに笑ってんですか」
「ん? あ、ごめんね。君の話が楽しくてつい」
「楽しかないですよこっちは」
 ムッと寄せられた眉根も今の彼には愛らしく感じられた。
 この年ごろの子のコロコロ変わる表情や感情の豊かさといったらどうだろう。欠片も似てはいないが、どこかあのころの『彼女』の面影を感じる―――
「……先生?」
「ん? どうかした?」
 首を傾げて柔らかく応えた彼には眉をひそめるが、丸喜が何事もなかったかのように不思議そうな表情や身振りを取り繕ろうとたやすくそれに流されて、元の調子を取り戻してしまう。
「まあ、とにかく……私の話なんてそれくらいですよ。小遣い上げてくれってことです」
 先生が心配するようなことはなにもないと言外に告げる言葉に、丸喜は深く頷いた。彼もまた声なく、それは理解できたと伝えている。
 は緊張させていた肩肘から力を抜け落とし、背もたれに身を預けて彼を見上げ、少しかすれた声で続けた。
「別に、相談したいことがあるからとかで残ったんじゃないんです」
 そういえばと丸喜は目を丸くした。相談事があって居残ったのかと思っていたが、そうではなかった。ではなんだろう、と男の胸にまた疑惑がムクムクと膨らんでいく。
 保険医はまた不在だ。今日はいつもの備品管理のためではなく、隔月で行われる施設確認に出ているから、戻りはまだ少し先になるだろう。
 丸喜は沈黙して熟考した。
 彼女はこの時間を狙ってここを訪れたのだろうか? わざわざ二人きりになれる、それも短くない時間を狙って?
「……ええと……」
 丸喜がこのように言い淀んだのはなにも彼の自意識過剰というだけではなかった。彼を見つめるの眼に、正体の知れない不思議な熱心さが垣間見えたからだ。もちろんそれは、以前見た、普段見られる商売っ気に燃える商人の情熱とは少し違っている。
 放課後の一室に、男女が二人きりだ。丸喜は足元がフワフワするような期待感と、職と社会的立場をいっぺんに失う絶望感に包まれて顔色を悪くした。
 このときもは素早く、性急だった。
「あ、別に先生のことが好きで告白するつもりとかでもないです」
「はい」
 心底からの安堵とほんの少しでも期待してしまった己への気恥ずかしさに丸喜は項垂れた。彼自身に全くそんな気がなくとも、じゃあといって『ない』と明言されてしまうと落ち込むものだ。こればっかりは男の……人間の性と言うべきものだった。
 一方ではそんな煩悶には欠片も関心がないようで、相変わらず丸喜には理解のできない熱心さを湛えた瞳でもって彼を見つめている。
「私はただ……」
「ただ?」
「……」
 二人の間に沈黙が横たわった。十秒かそこら、長い時間のことではなかった。
 やがては脚を振ってバネのように立ち上がると、いたずらっぽく笑って素早く鞄を取り上げた。
「暇だったんだよね。ちょうどバイト行くのにいい時間になったし、そろそろ行くね」
 にこやかに手を振ってソファを離れる彼女の唐突さに目を白黒させながら、丸喜は辛うじて問いかけた。
「つまり、僕は暇つぶしに使われたってことかな……?」
「そういうことです。じゃあね、先生!」
 快活な笑い声を残し、スカートを翻しては保健室から走り去っていった。止める間もないその身のこなしはやはりどうにも性急で、丸喜は苦笑しながら天井に顔を向けた。