外の世界でなにが起ころうと、メメントスの内部はいつも通りだ。薄暗く陰鬱な雰囲気に満ち、吹き抜ける風の音は怨嗟か苦悶の声にも聞こえる。
 その闇を切り裂くようにモルガナカーのヘッドライトが閃き、追うように車体が突き進む。
「んー、ここ。この階層のどっか……もうちょい……」
 こめかみに指をあてながら唸るナビの声に応じて、運転席のクイーンがハンドルを切った。
 うっすらと開かれたナビの目には不思議な光が宿っている。そのものではなく、目の前に輝く『何か』があって、その輝きが映り込んでいるような様子だ。とはいえそれはゴーグルの下のことだから、周りの者には窺えない。
 曰く、直感と数値から対象の位置を割り出すのだとか。やっていることはどうやら三角測量に近いようだが、彼女は頑なに「ダウジング!」と言い張った。
 実際のところ、手段と手法はどうだっていいことではある。獲物の位置が掴めるのであれば、やり方なんてなんだっていい。
 このような本音を言い出してはナビの機嫌を損ねかねないし、ここに凝り性のフォックスが加わって、また長い問答が始めることは目に見えている。
 ハッカーだとか芸術家だとか、なにかしらの技能を持った人間というものは得てして取り扱いが難しいものだと仲間たちは己のことをそれぞれ棚に上げて思ったりする。
 その内に獲物は間近に迫っていた。
 モルガナカーから下車した彼らは一際闇の濃い通路の奥を睨み付けながら各々の得物に手を伸ばし、戦闘に備える。
「間違いない、この先にいるよ」
 ナビの小さな手が暗闇を指し示した。
「よしよし、じゃあ……最終確認だ。スカル―――」
 パチンと鳴らされたジョーカーの指先が、長物を担ぐ髑髏面に向かう。
 首を傾げた彼に、ジョーカーは真剣な瞳で問いかけた。
「いいんだな?」
「いいに決まってんだろ」
 あっさりと返された答えに、どうしてかジョーカーは肩を落とす。おそらく彼の中ではもう少し葛藤や戸惑いが返される想定だったのだろう。
 あてが外れてガッカリする彼に、スカルは不敵な笑いを差し向けた。
「ナニしょぼくれてんだよ、らしくもねぇ。こっから先は俺らのケンカだろ、シャキッとしてくれよ、リーダー」
 音が鳴るほど強かに背中が叩かれる。
 ジョーカーは呻いて、しかし、すぐに背筋を伸ばして仕返しとスカルのすねを蹴りつけながら前に出た。
「行くぞ」
「へえへえ、さっさと終わらせちまおうぜ」
 続くスカルの後、数歩遅れて仲間たちも続く―――
「素直に心配してるとか頼りにして欲しいって言えばいいのに、ほんと男子ってわかんない」
「プライドの問題なんでしょ」
「言語の介在しないコミュニケーションってことか? しょーもな」
「うーん、河原で殴り合ったりしないといいけど……」
 あけすけな女性陣の本音に、殿を行くモナとフォックスは口を結んだ。
 女には解らないものがあるんだと言ってやっても良かったが、口答えするには彼女たちはあまりに強大すぎた。


 通路の行き止まり、路線の終着点に、男が独り佇んでいる。
 明滅する幽かな灯りの下に乱れた髪と薄汚れたスーツが浮かび上がり、その男の尋常ならざる様子を強調しているようだった。
 俯いた口からはまた、誰に言うでもなく虚しい呟きが断続的に続いている。
「もう終わりだ……なにもかも……ぜんぶ……あの女のせいで……」
 誰かを責め立てる声は恨みに満ちている。
 これを放置すれば現実の世界にもやがて溢れ出して、スカルのよく知る女性に向かうことは明らかだろう。
 だから、彼は『俺らのケンカ』とジョーカーに返したのだ。
 スカルは歩み出て、男に―――小早川秀樹のシャドウに向かって言ってやる。
「自業自得だろうが」
 ぴたりと呟きが止まる。
 静寂の中、シャドウの首だけがぐるりと動いて彼らの姿を捉えた。
「違う……! あの女が……金になんかならなくていいなんて抜かすから、なら、俺がって……アイツがあんな馬鹿なこと言わなきゃ、俺だって、魔が差したりなんかしなかった……!」
 口角に泡を飛ばして否定する姿に憐れみの籠った目が向けられる。
 事の全体を顧みたとき、責任の所在をこの男だけに求めるのは確かに酷な話だろう。現場単位でなにがあったのかまでは流石の怪盗団にもうかがい知ることはできないが、この男独りの意思によって進められてきたことではないことは明らかにされている。
 さりとて彼を放置することもできない。そもそも怪盗団は初めから一人の女性が顔を引っ叩かれたという事実を念頭に動いているのだから、すべきことに変わりはなかった。
 スカルは得物をシャドウに突きつける。
「そこで踏みとどまれなかったのがお前の運のツキってやつだよ」
 立ち並ぶジョーカーはまた、真紅のグローブを弄りながら泰然とした様子で問う。
「反省する気は?」
 もちろん答えは決まっている。
「俺のせいじゃない! あの女が悪いんだ! どいつもこいつも俺のせいにしやがって、あの女が、あの―――」
 熱を帯びる言葉とともに男の身体が膨張し始める。汚泥に湧き立つ泡のように膨らみ、手足が呑み込まれていったかと思えば、いくつかの気泡が弾けてその内から無数の赤子の手がぞろりと吹出した。
 密集する手指の中に押し込まれるようにこれもまた胎児のような未発達な顔がいくつか泣き喚いて生まれ出る。
 それらは異口同音に訴えていた。
「お、お、お、俺のせいじゃない、い、い、い―――」
 不気味なその様相にパンサーが引きつった悲鳴を上げる。
「ぎゃあっキモいキモいキモい!」
 最後尾に控えたナビは半身に己が身を預けながら同意して然りと頷いてみせた。とはいえそれは誰の目にも映っていないから、彼女は声でもって訴える。
「肥大した自意識と幼児性の顕れって感じか? やる気満々みたいだぞ」
「こっちはとっくにその気だってんだよ!」
 威勢のいいスカルの声がメメントスの仄暗い通路に反響すると、それに呼応するようにシャドウの泡立つ表皮と小さな腕たちがさざめき立つ。
「くるぞ!」
 モナの警句と気泡が弾けるのは同時だった。
 形容し難いおぞましい音とともに不可視の力が怪盗たちのもとへ去来する。それは真っ直ぐに先頭に立つスカルのもとへ飛び込んだが、これは歩み出たジョーカーが涼しい顔で受け流した。
 ふっと鼻で笑った彼の手の中には拳銃が握られている。
 今や浮遊し、複数の小さな口から恨み言めいた呟きを漏らすシャドウの顔目掛けて牽制の射撃が叩き込まれた。
 ギャッと濁った悲鳴が上がるが、いびつな球体は軸を傾けもしない。これはなかなか骨が折れそうだとナイフに持ち替えたジョーカーの脇を一陣の風が疾走る―――
 薄闇の中煌めいたのはフォックスの一刀であった。鋭い刃は泡立つ表皮に蠢く赤子の手をいくつか斬り落とし、鞘に収まる。
 しかし背後に着地した彼を追うように、斬り落としたところからは直ちに汚泥を撒き散らしながら再び小さな手がずるりと伸びる。これを目撃したパンサーがまた後方から「ひえっ」と色気のない悲鳴を上げた。
 振り返って体勢を整えたフォックスは鍔と鞘でもって腕を払うが、その柔らかな赤子の手の感触に嫌悪の表情を浮かべ、彼もまた悲鳴じみた声を上げる。
「うっ、これは……気持ち悪い!」
 これにやれやれとモナが応じて駆け寄り、掴みかかる腕をその曲刀でもって打ち払ってやった。しかし彼もまた大きな瞳を細めて毛を逆立てる。
「んニャっ、これはたしかに、ぶにょぶにょしてイヤな感触だな」
「叩かないほうが良さそうね」
 言うなりシャドウと接敵していた一人と一匹の肌を焼くような閃光が迸った。クイーンが己の半身を従えて核熱の力を叩き込んだのだ。
 シャドウはこれをまともにくらい、悲鳴を上げながら吹っ飛んで苦悶に身悶えた。
 気泡が弾けるたびに汚泥が撒き散らされ、その奥から赤ん坊の手と顔が現れる様は若者たちから若干の交戦意欲を削ぎ落としたが、武器を降ろさせるには至らない。
「気持ち悪ぃってどんな感触だよッ」
 吼えて、スカルは追って長物をシャドウの中心に叩き付けた。途端彼は顔をしかめる。
 なるほど確かに、グニャリとした、粘性のある液体をいっぱいに満たした袋のような柔らかな感触が手に返される。
 それはシャドウの見た目通り、赤ん坊の頬をつついたときとよく似ていた。
「うへ……こりゃたしかにあんま殴りたくねぇな……っと!」
 喚きながら掴みかかろうとする小さな手の群れから飛び退って逃れ、スカルは軽やかに道を譲る。
 彼の背後にはジョーカーとパンサーが仮面に手を添えて半身とともに射線が通るのを待っていた。
「行け!」
 号令とともに二人の背後に立つ心像が手を掲げる。研ぎ澄まされた集中力は常よりもより強い力を伴い、炎として顕れた。
「あああ―――ああ、わあああぁ! 熱い! あづいぃ!」
 悲鳴もまた赤子の声のようにあどけなく、甲高い。パンサーは仮面の下の顔を青ざめさせて口元を手で覆った。
「ちょい、私コレ無理かも……グロい、キモい、エグい……」
 涙目になって訴えて、パンサーは震えながらぬたくるシャドウから目を逸らす。ジョーカーは肩をすくめて退避の許可を示したが、シャドウがこれを許さなかった。
「パンサー! 後ろ!」
 ナビの警句にハッとして振り返った彼女の視界に無数の小さな手が迫る。
「ひっ、や―――」
 その光景の不気味さに身をすくめた彼女の肩に、柔らかくしっとりとした指先が触れようとする。咄嗟にジョーカーの手がそれを掴んで防いだが、途端、手指は彼の手の中で弾け、ヘドロと異臭を撒き散らした。
「ぐ……ッ!?」
「いっ、た……!?」
 まともにそれを浴びた二人の皮膚に鋭い痛みが襲いかかる。ジョーカーの手を中心に飛び散ったドロリとした液体が、二人の身体のあちこちに貼り付いていた。
「これは……ッ、ペルソナ!」
 ジョーカーは再び蒼い炎を伴って、先とは違う仮面を招来する。一輪の花を手にした女の姿が現れたかと思うと、パンサーの頬や胸元、手や脚、あるゆるところにこびりついた泥を払い落とした。
 しかしジョーカーの手や腿に落ちたものはそうはいかないのだろう。苦痛の声とともに彼の手や身体のあちこちから煙が上がり、ツンと鼻を突く臭気が立ち昇った。
「ヤダ、これ……なにっ!? ジョーカー!」
「い……ったぁ! なんだこれ……酸……?」
 見れば、少年の手はグローブごと皮膚が溶け落ちて肉を晒している。
「わああ、やっぱグロい! キモい!」
 喚いて震えながらもパンサーの手はすぐさま彼の傷を塞いで元通りにしてやった。軽い調子で礼を告げながら、ジョーカーは仲間たちに向かって声を張り上げる。
「気を付けろ! こいつの中身はどうやら腐食性の液体のようだ」
 これにフォックスとモナが己の手元に目を落とす。
「しまった」
「ニャんてことだ」
 二人の武器は刃先が溶け、錆びたかのように腐食してしまっていた。
「うへ……斬撃や射撃による攻撃は避けたほうが無難だな。モナ! フォックス! パンチだ、いけっ!」
「ええい、気軽に言ってくれるな!」
「爪が出ちまうよ、無茶言うんじゃねぇっ」
 シャドウ越しに言い合う三者はさておき、ここまで沈黙とともに動向を見守っていた女帝がついに進参する。
「では、こういうのはいかがかしら?」
 ゆったりと斧を担ぎ、大ぶりな羽飾りのついたハットの縁をひと撫で。ノワールはマスクに指先をやって無貌の女を呼び寄せた。
 甘やかな香りとともに現れた無貌の女が手の中の扇を優雅に振ると、空間そのものが拗じられたかのように収縮、膨張し、シャドウの手を捩じ上げ、折り畳む。
 泣き叫ぶ声の裏に何かが折れるような音が重なった。
「効いちゃいるが弱点ではなさそうだよ」
 ナビの声に、ノワールはおっとりと小首を傾けた。
「う〜ん……なんにせよ悲鳴がちょっと……これは、困るな」
 難しい顔をして腕を組む彼女の目線がスカルに向かう。それは次はあなたが試してみてと訴えていた。
「電気ビリビリもヤバそうな気ぃすっけど……」
 接敵した彼を狙っていくつもの腕が伸ばされるが、いずれもが触れる前に手にした得物によって叩き落とされている。時折スカーフや髪を引っ張ったりはするが、弾けるより彼が身をよじりその剛力によって離れるほうが早かった。
 間隙を縫ってスカルもまた仮面に手を当て、己の半身を呼び起こす。
「っし! いっけェ!」
 ひときわ強く、強肩打者のように振られた長物のひと振りとともに雷撃が迸った。同時に彼は大きくその場から飛び退る。
 紫電はシャドウの身体の中心に吸い込まれるように直撃した。閃光が奔り、悲鳴と痙攣を起こして、シャドウの体表に浮かび上がる顔のいくつかが膨れて爆発する。
「うわっ、うわーっ!」
「夢に見そうだ……」
 最も間近でそれを目撃したモナとフォックスが両手、あるいは両前足で顔を覆う。
 水風船のように膨らんで弾ける赤子の顔などというものは、正気では見たいとはとても思えない光景だった。
「あら、まあ……ご、ごめんなさい。モナちゃん、フォックス、大丈夫……?」
「別にノワールが謝る必要なくない? ちょっとスカル! やめてよね、飛び散ったじゃん!」
「俺のせいかよ」
 足元にまで飛散した液体を忌々しげに睨みつけながらぼやく。
 とはいえこうなるとスカルに打てる手はあまりない。殴打による攻撃が功を奏しているとは思えないし、電撃に関しても先の通りだ。溢れた液体を浴びてどうなるかはジョーカーが体を張って証明してくれている。
 となれば援護に回るべきか―――
 思いつつスカルはちらりと背後の頭領へ目を向けた。
 ジョーカーは手持ち無沙汰に手の中のナイフを弄びながら思案顔を見せている。うーんと唸ったり、いや違うかと呻いたり、これじゃないなと呟いたり。これ自体はいつも通りの彼の姿だ。問題はすぐ間近に迫ったシャドウの手であって彼ではない。傷はすぐに塞がれたようだし、放っておいても構わないだろう。
 そしてそんな彼が命じるのであれば、スカルはいくらでも殴りかかってもよかったし、なんなら―――好んでやりたくはないが―――あの体液を浴びる羽目になったって構わなかった。
 その意図を感じ取ったのか、ジョーカーは顔を上げてスカルに目を向ける。
「とりあえず、その場に押し留めろ」
 上から指図するような言い方は癪に触るが、小気味よくもあった。
 スカルは応とこたえてその場に立ち塞がり、挑発するようにシャドウに指を突き付け、クイクイと招くようなジェスチャーをしてみせた。
「どいづもごいづもォ、バカにっ、しやがってェ……!」
 怒りの籠もった声は表面で泣き喚く赤子からではなく、泡立つ肉の奥から聞こえたようだった。
 その怒りに呼応するように捻れた赤ん坊の顔が一斉にうそぶいた。
 反響する甲高い喚き声は黒板を爪や釘で引っ掻いた音によく似ている。真正面に位置取っていたスカルのみならず、至近距離を保っていたモナやフォックス、クイーンまでもが耳を押さえて後退る。
 頭痛を覚えたのかこめかみを押さえてふらついたクイーンをノワールが進み出て支えてやっているのを横目で確認しつつ、スカルはもう一度己の仮面に手を触れた。
 きらびやかな衣装を身にまとった猿神は調子よく手を打ち鳴らして再び雷鳴を呼び寄せる。
 ただしそれは、今度はシャドウ本体にではなくその足元に撃ち込まれた。
「なにしてんだバカスカル! 外してんじゃねーぞ!」
 土煙の向こうからモナが叱責する声が反響した。
「うっせーよバカ猫! ワザとだっつーの!」
 がなり返すスカルに、相変わらずモナの隣で、抜刀するわけにもいかず鞘で迫る手を払い除けていたフォックスのほうがポンと手を打った。
「なるほど、少しは頭を使うことを憶えたようだな」
「そっちはそっちで一言多いんだよ……」
 スカルはジョーカーの言葉に忠実だった。怪盗団の頭目は、倒せとではなくその場に押し留めろと命じたのだ。
 撃ち込まれた雷撃は彼らの足元、どこへ続いているのかいまだ判然としない路線のレールを剥がし、ひしゃげさせてシャドウの進路を塞ぐように立ち上がらせていた。
 とはいえそれは本当に妨害程度でしかない。巨体とはいえ浮遊する身だ、迂回できるスペースは充分ある。
「ふむ……美しくないとまでは言わんが、不十分とは言えよう」
「だからうるせぇって……」
 猛り狂った蠢く球体をこの上さらにどう足止めしてやろうかと思案するスカルの足元を撫でるように冷たい風が過った。
 それと一緒に「寒ぃ!」とモナが慌てた様子で走り抜ける。
 彼が訴えた通り、冷気とともに霜が降りて柱が立つ。
 迂回しようとフォックスの間近に迫っていたシャドウの身は、分厚い氷の壁によって遮られていた。
「こうだな! 完璧だ!」
 拳を掲げて嬉しそうにはしゃぐフォックスの背後には大刀を構えた偉丈夫。他に考えようもない、辺り一帯を凍り付かせる冷気は彼が生み出したものだ。
 これを見てナビがパチンと指を鳴らした。
「それだ! 弱点でもなんでもないが効果はありそうだ、よくやった!」
 若干言い方が引っかかると狐面の下の眉が顰められたが、彼女は意にも介さず声を張り上げる。
「ジョーカー! 流しで使ってる粘土みたいなアレ!」
「あれは油脂系脂肪酸……まあいいや」
 反論に意味は無いと頭をかきつつ、それでも意図するところを汲み取ってジョーカーは号令を飛ばす。
「フォックス、固めてポイだ」
「曖昧極まりない指示を飛ばすな」
 非難がましげに応えつつも、フォックスは再び己の心像を呼び付けた。
 蒼い炎とともに痛覚にも似た冷感が皆の足元へ広がり、激しい冷却速度によって生じた体積の変化に耐え切れずレールを支えるボルトが弾け飛ぶ―――
 シャドウは逃れようと壁際に退くが、そこも既に氷室と化してこれを絡め取った。
「ちょっと、やり過ぎ! 寒いってば!」
 己を抱き締めながらパンサーが震えた声を上げる。隣でジョーカーが「暖めようか」と腕を広げていたが、彼は素気なく無視されて、パンサーの腕の中にはモナが収められた。
「あっ! パンサー、戦いの最中にこんニャ……んにゃー!」
「あーん、モナ、あったか〜い」
「あ、いいな。モナちゃん、私も」
「ちょっと二人とも……私もいいかな?」
「良かったな、モナ。ハーレムだぞ今だけの」
「夏は嫌われ者」
 女性陣から追い払われてぶすくれたジョーカーにひと睨みをくれつつ、フォックスは務めを果たした。
「まったく、人が働いているときに……美しくない振る舞いは慎め」
 視界に入った長い前髪を払って腕を振った彼が指し示す先には、完全に氷柱に封じ込まれたシャドウの姿がある。
「ちぇっ、美の解釈には個々人の感性が強く出るものだろ。ほら……」
 ジョーカーもまた前方を指し示した。
 そこには既に踏み込んだスカルの背中がある。彼はその重量のある得物を大きく振りかぶっていた。
「スカルはかっこいい」
「それは見方によるな」
 やかましい、というスカルの指摘は、彼自身が氷塊に向けて放った重い一撃と、氷もろともシャドウが砕け散る音に掻き消された。
 大して広くもないメメントスの回廊に断末魔の絶叫がこだまする。
「終わりだ! ざまぁねえな!」
 勝利を確信して浮かべられた笑みは、しかし―――
 次の瞬間驚愕にすり変わった。
 砕け散った氷塊と凍りついた肉片の中から、一本の黒い腕が伸びていた。泡立つ泥が人の腕の形を取り、異臭のする液体を滴らせている。そしてそれは振り抜いた勢いでがら空きになったスカルの無防備な脇腹を掴み、ひとつかみ分の肉と皮膚を焼き切るようにして奪い取った。
 苦痛のサインとして絶叫しようとしたスカルの喉奥、声門が開くが、感じたことのないような痛みによって引き攣った腹の筋がそれを許さなかった。
 変わりに『おこり』にかかったかのように全身を硬直させる。
 一瞬のことではあったが、砕けた肉塊の中から泥が全貌を現すのには十分な時間だった。
 人の形をした泡立つ泥が両の足を地面に着けると、途端砂利や土がその全身から垂れ流される液体と反応して煙と異臭を立ち昇らせる。
 シャドウは手を振って壁にスカルから奪い取ったものを叩き付けた。
 嫌な音とともに広がった肉片もまた壁を溶かし、ともにドロリと崩れ落ちる。
「なにしてくれてんのよッ!」
 真っ先に反応し、怒号を上げたのはパンサーだった。彼女はモナを抱えたまま、己の半身とともに巨大な炎の塊を作り上げる。その熱は彼女の怒りそのものであるかのように膨れ上がり、フォックスがかけた時間の半分にも満たぬ内に凍り付いたものを溶解させた。
 火焔の群れがシャドウに放たれるのと同時にモナがその腕から放り投げられて、スカルの手前に着地する。同じく全員が声もなく見交わし合って素早く展開した。
 轟音とともに撃ち込まれた火焔は確かにシャドウの頭部を吹き飛ばしたが、ほんの僅かな間ブルブルと震えたかと思うと、すぐに形を取り戻してしまう。
 その間こそを求めていたとフォックスが素早くシャドウとスカルの間に入る。彼はチラとモナを一瞥して、その長い脚でスカルを蹴り飛ばした。
「ぐえッ!?」
 奇声を上げて転がるスカルが猫の手に収まるのを確認して刃を抜き放つ。
 彼は言った。
「すまん、ジョーカー……出世払いだ」
「スカルにつけとくよ」
 各々が振るう武器を用立てるのも頭目たるジョーカーの役目だ。そのための先立つものの用意もまた。もちろん彼らはその働きぶりによって十分すぎる支払いを済ませているが、時折こうやって口頭に挙げて冗談の類とすることがある。あるいはジョーカーは本気で取り立てるつもりでいるのかもしれないが……
「なんで……俺だよ……」
 傷に触れるモナの肉球の感覚を確かめながら、スカルは痛苦とともに訴えた。
「オイ黙ってろ。うわー、ニンゲンの中身ってこうなってるのか……」
「見えてんの!? 早く塞いで!」
 うるさいと一喝して、モナは毛を逆立てた。
 他方で、フォックスが振るった刃は確かにシャドウの胴を捉えて逆袈裟に切り上げたが、抜けた刃は完全にその身を失ってしまう。
「やはり駄目か」
 呻いて素早く飛び退る彼の手にはただ柄と鍔だけが残されていた。
 名残惜し気に手の中に収めたまま、先の手が通用するやもと再び仮面に手を添える。
 これにシャドウが前轍は踏まぬと動いた。これといった武器の類は見当たらないが、鋼鉄の刃が溶け落ちたところを見るに少年たちにとってはその身そのものが凶器と同等だ。
 なにより身を固めていた肉塊を捨て去った今、シャドウは驚くほどの俊敏さを見せてフォックスの細い腕を掴み取った。
 息を呑む間こそあったが振り払うには遅く、肉が焼ける音と食いしばった歯の間から漏れる嘆声が重なる。
 間近に迫ったシャドウの顔に目鼻らしきものは見当たらないというのに、フォックスはこれが厭らしい笑みを浮かべて歓喜していることを感じ取った。それを気に食わない、醜悪なものであるとも。
 彼はすっかり短くなってペーパーナイフに成り下がった刃をその顔面に突き立てた。もちろんこれに大した意味は無いが、次の瞬間シャドウは横ざまに吹っ飛んで壁に叩きつけられる。
「ジョーカー、私の分もスカルにつけておいてくださる?」
 柄だけとなった斧をふりふり、ノワールがおっとりとした声を後方へ投げた。ジョーカーは受けて手をひらりと振って了承を示す。その口元には安堵からの笑みが浮かべられていた。
「すまん、助かる」
 どうやら彼女が己の危地を退けたとみて頭を下げるフォックスに、ノワールは常と変わらぬ様子で穏やかに微笑んだ。
「支払いはスカルだよ?」
「む、それもそうか……スカル、すまんな」
 スカルは呻いて地を叩いたが、すぐさま暴れるなとモナに踏みつぶされた。
 壁にへばりついたシャドウはとうに形を取り戻し、焼け爛れた腕を忌々しげに見つめるフォックスへ再び顔を向ける。
 しかし飛びかかる前に鳴動と閃光、熱が同じ場所へこれを打ち付けた。
「すっかり気に入られたみたいね?」
 ノワールの後ろから涼しい顔を覗かせたクイーンが、彼女にしては珍しく悪戯っぽい笑みを口元に湛えて言った。
 向けられたフォックスは嬉しくないと口を尖らせたが、女王陛下は歯牙にもかけずこれを受け流して顎をさする。
「つまり……あれにとってあなたが変わらず脅威であるということよ」
 言い残してクイーンは軽やかに飛び出した。その背後には猛り狂う豊穣と悋気の女神が手を振り上げている―――
 スポーツや護身術の枠を超えた嵐のような連撃がコンクリ壁ごとシャドウの身を穿ち、核熱などよりよほど強烈な衝撃と爆音が鳴り響いた。
 苛烈という言葉では言い表せられない猛攻に、後方のナビがはしゃいだ声を上げている。
 彼女ほどではなくとも、見ていて小気味良い光景ではある。ところがクイーンはとどめを刺す前にピタリと動きを止めてしまった。
「ひゃっ」
 かわいらしい声まで上げてその場を退きもする。
 見れば抉られた壁に縫い付けられていたはずのシャドウの肉体が流動体と化して壁や配線を焼き溶かしながら這いずって逃れている。
 さながらそれは蛇か脚の多い虫だ。女性陣は再び嫌悪を露わに顔をしかめた。
「くっ、素早い……!」
 腰だめに構えた回転式拳銃からマグナム弾がいくつも放たれるが、人には決して真似できない俊敏な動きですべて回避されてしまう。
「このっ、あンもお! 避けんじゃねーって!」
 パンサーもまた床や壁を舐めるように炎を差し向けたが、シャドウは天井に這い登って逃れ回る。
 倒すための手段は既に判明していると言えるのに、しかしこの動きには人ならざるモナでさえもが追いつけそうにないと尾を下げている状況だ。
「ぐぬぬ……どうにか、どうにかして足止めを……ノワール!」
「はいっ!」
 ナビの呼びかけに応えてノワールが仮面に手を触れされる。彼女から放たれた不可視の力は崩れ落ちたコンクリ壁の瓦礫を起こし、シャドウの進路を塞ぐ即席の壁を作り出した。
 しかしシャドウは水のように小さな隙間に身を滑り込ませてこれをくぐり抜けてしまう。
 更に彼は後方で無防備に浮かぶだけのナビに目を付けたのか、伏せるように床に落ちると少年たちの足元をすり抜け、猛烈な勢いで彼女に迫った。
「ひっ!」
 喉を引きつらせたナビの目前に、シャドウののっぺりとした顔面が肉薄する。
 驚愕と恐怖に竦んだその小さな身を、横からジョーカーが掻っ攫う。彼の背には擦過したシャドウの腕の跡が一文字に残された。
「く……!」
「かっ、かか、カッコつけてんじゃねーぞばかっ!」
 身を呈して助けに入ったというのに罵声を浴びせられて、ジョーカーは思い切り顔をしかめた。言い返すことはしなかったのはナビの声が震えていて、その手がしがみついて離れようとしなかったからだ。
 痛みを堪え、彼女を抱えたままジョーカーは振り返った。
「ううー……足止めが不可能ならアレしかなさそうだぞ」
「問題は誰にやらせるかってことだな」
 ふうむと唸って、ジョーカーは腹に空いた穴がやっと塞がったらしいスカルに目を向ける。
 彼は応えて冷笑を浮かべた。それは了承を示している。
「モナ、後でまた頼むわ」
「仕方がねぇな、あんまり手間かけさせん―――」
 モナの皮肉っぽい声は天井から滴り落ちたシャドウの体液によって遮られた。
 ジュッと音を立てて自慢の毛並みから煙と異臭が立ち上り、彼は慌てて床を転がって半身を呼び起こして傷と泥を払い落とした。
 隙をさらけ出した彼にシャドウの手が向かうが、それは猿神の一撃によって遮られた。
「お前の相手はそっちじゃねぇよ! 遊ぼうぜ、『ここ』でならいくらでもやれるんだからよ!」
 シャドウの全身がぶるりと一度大きく震え、頭部らしき部分に穴が空く。それがどうやら口であるらしいことを、続く発言が教えてくれた。
「お前―――お前はァ、あのときのガキかァ―――」
「今さらかよ……」
 咆哮ともにシャドウは滑り出した。
 スカルはその荒れ狂うシャドウの腕から逃れるようにしてさほど奥行きのない通路の行き当たりに向かって走り出す。
 その無防備な手足や背中を鞭のようにしなって伸びた腕が幾度も叩き、焼き切っては血を溢れさせた。
 先に袋小路が待ち受けていると知っても彼は立ち止まらなかった。それは合理的なものの考えによる行動ではなく、単純明快な原理であった。
 ただ彼の背後には背中を預け得るに足る仲間がいるというだけのこと。
 冷たいコンクリートの壁に手を付けて立ち止まった少年の背に無数の細く鋭い腕が迫る。
「支度は済んだぞ」
 同じく背後から涼しげな声がかかった。
 振り返ったスカルの目前には不可視の盾が構えられ、シャドウの攻撃をすべて跳ね返している。
 また彼自身の肉体にも薄い膜のようなものがまとわりついて、先の猛攻が致命傷とならなかった訳を教えていた。
「同時に行くぞ、いちにの……」
「すまん、もうやってしまった」
「呼吸くらい合わせろ!」
 ジョーカーの喚き声とともに、シャドウの足元から巨大な氷柱が突き上げられた。一拍遅れて天井からも。
 上下から鋭く付きこまれた冷気の塊は、半ば液体と化していたシャドウの肉体を再び、またたく間に凍りつかせた。
 スカルはやれやれと息をつき、膝をさすって氷塊に歩み寄る―――その向こうでは何故かナビを肩車したジョーカーがフォックスにあれこれとお説教を垂れ、傍ではモナがまた女性陣に囲まれている。
「ンっとしょーもねーな……」
 ぼやきながら、スカルは得物を担ぎ上げた。
 目の無い顔が彼に問いかける。
「俺は……俺はどうしたらいい……?」
 縋るような声。スカルにはその心地がよく理解できた。
 抗うことのできない無力感に苛立ち、誰かに八つ当たりすることしかできない。そんな己の小ささにまた自己嫌悪と、周囲への怒りや拒絶が強まっていく―――
 それでも、とスカルは口元の血を拭いながらこたえた。
 彼の瞳は既に勝利を確信していつもの調子を取り戻している仲間たちを見つめている。
「やり直す機会は誰にでもあるはずだろ」
 振り下ろした長物が氷柱ごとシャドウを打ち砕いた。
 絶叫が響き、その内から現れた男は力なく項垂れたまま、床に溶け落ちるようにして崩れて消えた。


……
 改心を経て、小早川の心境がどのように変化したのかは分からない。
 怪盗団としては彼に強い同情を寄せるつもりもなかったし、その後の身の振り方にも大した興味はわかなかった。
 あるとすればの身上だが、これはどこから手を回したのか、怪盗団の首領が娯楽誌に流した情報からなにも事情を知らぬ小娘と判断されたらしい。今は転学や転部を検討している様子だが、その判断に口を差し挟むことは学費を支払う親以外、誰にもできぬ範疇のことだろう。
 各種メディアは飽きもせず連日大学と研究所の不祥事を盛んに報道している。けれどこれも長続きはしないだろう。大衆は飽きっぽいもの、そしてより強い刺激を求めるものだ。怪盗団の行いを思い出して、再び義憤のようなものに燃え始めるのもそう遠いことではないに違いない。
 それでも一時、人々の目を逸らすことによって得られた休息は貴重なものだ。間近に迫った学園祭を楽しむ余裕くらいは得られるかもしれない―――


 日曜になって、坂本は朝早くから起き上がって日課のロードワークを済ませると、帰りしなちらりと家の二階、の部屋の窓へ目を向けた。
 もうカーテンは開かれていて、部屋の主が規則正しい生活を送っていることを教えている。
 坂本は少しだけそこで足踏みをした。クールダウンのためでもあったし、もしかしたらが顔を覗かせるかもしれないという希望もあった。
 そして待ち人は彼の希望とはちょっと違った形で現れる。
「りゅうちゃん、おはよう」
 声のしたほうに目を向けると、とっくに身支度を済ませたが玄関扉を開けて彼のほうを窺っていた。柔らかな笑みは本当に、一年と少し前そのままの姿であった。
「あ、あー……おはよ」
「早いね。走ってきたの?」
「うん。まあ、うん……そんな感じ……」
 どんな感じだというのか。自分自身に言いながら、坂本は肩にかけたタオルで汗を拭った。
 時刻は八時を回っている。そろそろ家に戻って、今日はシゴトがあるのかないのか確かめねばならない。
 思うが、しかし、新聞受けに差し込まれた朝刊とチラシに手を伸ばすともう少し話をしたいとも彼は思った。
「あのさ」
「なーに?」
「あの……」
 昔みたいに、普通に接してもいいのかな。
 言葉はとっくに決まっていたのに、少年はそれをどうしても口にすることができなかった。なにしろそれは、彼にとってとんでもなく恥ずかしいことだった。
 昔のようにと求めるのは、彼女にまた子供のように甘えたがっているように思えてならない。実際のところ彼はまだ子供で、それが許される年頃だろう。ギリギリかもしれないが。
 俯いて言いよどみ、わずかに顔を赤くして、あーとかうーとか呻いて、やっと彼は小さな声で、
「今度さ、いや、今度っつうか、別にいつでもいいんだけどよ……」
 当初の予定とは大幅に違うことを口にする。
「どっか、どこでもいいけど、遊びに行かね?」
 彼自身が驚くような提案だった。言ってから、なにを言ってるんだろうと首を傾げるくらいだ。
 するとそれを見抜いたのか、はどこか意地悪な笑みを浮かべる。
「お友達も誘って?」
 声と言葉も、表情に倣った色を伴っていた。
「や……あの、だからぁ……」
「うん?」
 坂本は落ち着きなくタオルを引っ張ったり捻じったりしながら体を揺らす。それにまた彼女が楽しそうに笑うからますます落ち着けない。
 それでも彼は、らしくなくか細く小さな声でこたえた。
「ふ、二人で……」
 これには猫のように目を見開いてみせた。それはこの提案にというよりは、彼がそれをきちんと言葉にしてみせたことに驚いているようだった。
「あらまあ」
「ナニその反応」
 ぶ然として口を尖らせる彼に、は声を上げて笑った。彼女は完全に優位に立って、この少年を弄んでいる。
 ―――それも悪くない。なんて思うのは、この頃得た様々なきっかけによるものだろうか?
 考えても坂本にはよくわからなかった。元々考えるのは得意なほうではない。
 それにがまた彼の思考をかき乱すようなことを言い出すから、結局彼がこの結論を得ることはなかった。
「まさかりゅうちゃんからデートに誘われるなんて……大人になっちゃってぇ」
「でっ、で……! っていうか、そういうんじゃ……!」
「違うの?」
「ちっげーよ! 俺はただ……!」
 ぶんぶんと両手を交差させながら振って後退る。
 するとどういう意味が込められているのか、は朝刊もチラシも置いて門扉から一歩を踏み出して彼に歩み寄った。
「そっか、残念だな」
「うえっ」
 これは完全な不意打ちであった。どれだけ身体を鍛えても、心ばかりはそうもいかない。経験と時間を重ねてやっと得られる境地は、この少年にはまだまだ遠いところだった。
 見抜いて、は口元を押さえて笑う。
「ふ、ふ、ふ……」
 ちょっと子供っぽい仕草だ。わずかに身体を前屈させて、小さく肩を震わせている。
 ああ、これは焦らされているか、あるいは―――
「からかうの止めてくれよ! こっちはマジなんだよ!」
 少年は素直になって大きな声を出した。
 日は明けきったとはいえ、家々はまだ朝の気だるい時間の中だ。まして休日ともなれば、静寂はより強く彼の必死さを助長する。
 そしてはその必死さが嬉しいと言わんばかりに目を細めた。
「人を喜ばせるのが上手だね」
 よく見ればその頬は、寒さや朝日以外のものによって赤く染まっている。
「……それどーいう意味?」
「都条例違反で捕まりたくないから秘密」
「マジでどういう意味だよ……」
 がっくりと肩を落とした彼に、はつれない素振りで背を向けて、もう一度郵便受けの中の朝刊に手を伸ばした。
 その背に向けて問いかける。
「……行くの? 行かねーの……?」
 心細さとそれによって拗ねた心地が存分に籠められた声に、は踊るようにスカートの裾を翻して振り返る。その瞳にはもうからかいや嘲りの類は見当たらない。
 彼女は本当に、心の底からこの少年を……
 寂しがってべそをかきそうになるのを懸命に堪えるころとは全く違うのだと理解していた。
「もちろん、行くよ。よろしくね、竜司くん」
 了承の言葉と、子供のころのあだ名ではなく名そのものを呼ばれたことに、坂本はガッツポーズを取って彼女を大いに呆れさせた。
 そういうところはまだまだお子さまなのね、と。
 それでも女は口元を緩め、腕を伸ばしてまだ汗の引かない少年の頬に指先を触れさせた。
「んえっ」
「……竜司くんは……」
 瞳に真剣な光が宿っていることを確かめて、坂本は押し黙った。ただ心臓だけが頬に触れる柔らかな感触によって激しく跳ね回っている。
 は不安そうに彼の頬にまだかすかに残る殴打痕を擦った。
「危ないことをしているんじゃないよね……?」
 不安に揺らぐ声に、少年はバカ正直に口を結んで目を逸らす。答えを言っているのと同じことだった。
 気安く信じてくれなどとは言えなかった。
 世間は今、怪盗団を殺人の容疑者として追っているのだ。そしてはこの少年こそが怪盗の一人であると勘付いている。
 坂本は嘘をつけなかった。
「危ないことは、たぶん、してる」
 彼は己の頬を撫でる手を取って、己の意志が伝わるようにと強く握りしめた。
「でも、姉ちゃんを泣かせるようなことはしてない。絶対に」
 果たしてはじっと彼を見つめた後、うっすらと笑ってみせた。
「それならいいんだ」
 坂本はホッと安堵の息を吐いて手を離す。離してから、彼は己の手が汗で濡れていたことを思い出して、しかし離した直後に拭くのも躊躇われて手をさまよわせた。
 そんな彼の様子にだろう、はくつくつと喉を鳴らし、今度こそ玄関扉に向かって歩き出した。
 そして聞こえるか聞こえないかの境目で言う。
「ありがとう、怪盗さん」
 坂本は聞こえなかったふりをして自宅に足を向けた。
「後で連絡するね」
 背にかかった声にひらりと手を振って応えて、彼もまた玄関扉をくぐった。
 そしてまた、拳を握ってガッツポーズを取る。
 そういうんじゃとか、ちっげーよ等と言いつつ、しかし確かにこれはそういう約束だった。
 そして彼はやっと、どうしてそんな発言をしたのか、どうして了承されてこんなに喜んでいるのか、今更になってその訳を知って床に倒れ込んだ。
 結局彼が一番理解していなかったのは、どこでなにをしているのか想像つかない転校生だとか、その相棒の口やかましい靴下猫だとか、誰にも逆らえない笑顔の持ち主だとか、本当になにを考えているのか解らない芸術家、ちょっと合気道なんかをしている普通の女子高生、クソ生意気な言動が目立つ元引きこもり、土いじりが趣味のふわふわとしたお嬢様―――
 いずれでもなく、己自身のことだったのかもしれない。