いつも通りの日常のはずだった。
 というよりかは、鴨志田の脅威が去った今、積極的に騒ぎを起こそうとするのでなければ学生生活は平穏無事そのものだ。
 まだ目線や囁きは気になるが……
 気にしなければいいだけのこと。
 雨宮は気合を入れるように力強く蛇口を締め、くしゃくしゃになったハンカチで手から水気を拭き取った。
 七月の爽やかな日差しに包まれた秀尽学園高校の普通教室棟二階、その男子トイレから、雨宮蓮は雄々しく一歩を踏み出した。
 時刻は午前の授業が終わった昼休み、昼食を取る前にちょっと小用と洒落込んだ彼はここですべきことを済ませて、スッキリとした気持ちで今日も健康であることを噛み締めていた。
 腹具合もまた健康そのものだ。登校途中に購入したコロッケパンとシュガートーストが教室で待っていると思うと、単純なもので気分はまた浮かび上がった。
 しかし彼の一日を台無しにしようと―――目論んだわけではないだろうが、台無しにさせる者が現れる。
 それは一人の少女だった。
 同じく二年、クラスは別。廊下ですれ違ったことくらいはあるかもしれない。その程度の間柄の女生徒だった。会話したことどころか、目を合わせたこともないような存在だった。
 男子トイレから意気揚々と踏み出した雨宮と彼女は、その時初めて互いの姿を正面から確認し合った。
 雨宮はぶつからないための前方確認として、少女のほうもそのためにだろう。のんびりとした足取りで、手には購買で入手してきたらしき戦利品が抱えられている。
 目と目が合った瞬間、雨宮は静電気が火花を散らしたときのような音を聞いた気がした。
 それは例えばラブロマンス映画のような激しく劇的な恋の始まりだとか、サスペンスやスパイアクション映画のような妖しい男女の駆け引きの始まりというわけではなかった。
 何故なら少女は雨宮の顔を見るなり顔面を蒼白にして
「ギャッ!」と撃ち落とされた怪鳥のような声を上げてその場にへたり込んでしまったのだ。
「えっ」
 驚きの声を上げるとともに、雨宮は冷や汗が背中を伝うのを感じた。
 だって、トイレから出てきたばかりの悪い噂の付き纏う転校生が、同学年の女生徒に悲鳴──の・ようなもの──を上げさせて座り込ませた、なんて……
 どう考えたって雨宮が圧倒的不利な状況だった。またへたり込んだまま彼を見上げる女生徒が、顔を青くしたまま涙目になって震えているからなおのこと。
「だ、大丈夫?」
 一先ず人目が集まる前にどうにかしようと語りかける。
「ひえ……っ」
 逆効果であった。
 女子生徒は座った姿勢のまま器用に足裏と手でもって後退り、対面の壁に背を付ける格好になった。廊下の横幅がもっとあれば、見えなくなるまでその姿勢のまま後退していただろう。
 その怯えようはまるで悪魔か幽霊でも目撃したかのようだった。
 そして最悪なことに、その奇妙な動きによって周囲の視線が集まり始めている。
 ヤバいと思いつつ下手に動くことは出来なかった。背中には嫌な汗がにじむ感覚すらあった。
 こんなことでなにもかもが終わってしまう日が来るなんて──
 諦観すら抱き始めたその時、双方にとっての救い主が現れる。
 それは一人の女教師であった。名前を川上貞代という妙齢の女で、雨宮のクラスの担任教師だ。雨宮にとっては縁浅からぬ相手でもある。
 というのも、雨宮は彼女の教師生活に差し支えのある秘密を知っていて、その上で彼女をある意味で『援助』し、彼女のほうもまたそれを受け、雨宮のシゴトを様々な方面で支えている。薄ら寒い相互扶助の関係であると言えた。
 そしてこのときも川上はよく雨宮を助けてやった。
 ずかずかと足音も荒く二人の間を遮るように割って入り、女生徒を庇い立てるようにして雨宮を睨み付ける──
 少なくとも教員の登場によって向けられる目は薄れ始めた。教師が入り込んだのなら、我々が検知する余地はないだろう、と。
「雨宮くん、なにがあったのか説明できる?」
 しかし眇められた川上の目に宿された意思──『面倒ごとを起こすな』という怒りのこもった感情は演技などではないだろう。雨宮は慌てて首を左右に振った。
 実際彼は何もしていない。接触すら無かった。ただ、あの女生徒が雨宮の顔を正面から眺めるなり震えて悲鳴を上げ、へたり込んだ、それだけだ。
 それを説明しようとして口を開くのと、女生徒が震える手でもって川上の服の裾を引くのは同時だった。
「あ、あ、あの、川上先生、ち、違うんです」
 彼女は相変わらず、怯え、惑い、雨宮の顔を見ない為にか、床を見つめて震えている。
さん、どういうこと?」
「私が、勝手に驚いて、転んだだけなんです」
 真の救世主はこの女生徒……というらしい……であったか。雨宮は瞳を輝かせて彼女を見つめたが、はそれに気が付いて川上の背に隠れてしまったし、そもそもこの事態を招いたのは自身だ。
「本当に、なんでもないんです。ただちょっと、怖くて……」
 やっぱりは雨宮にとっての救世主などではなかった。怖いと言われて肩を落とした少年に、川上は重々しいため息をついた。
 この事態をどう収集したものかと思い悩んでいる様子で、その瞳はやっぱり『面倒』だと語っている。
 そしてまたここにもう一人、今度こそ調停者が現れる。それは新島真という名の女生徒で、この秀尽学園高校の生徒会長を務める教師陣の覚えめでたい最上級生にして、学園一の才女であった。
 一方で彼女もまたこの悪い噂の付きまとう前科持ちの転校生、雨宮と一つの秘密を共有する人物の一人でもあった。
「川上先生、どうしたんですか? 彼がまたなにか?」
 雨宮はやっぱり渋面を浮かべて閉口した。またって、またなにかって言った。
 想いを込めてジトっとした目を向けるが、新島はどこ吹く風と優等生然とした佇まいを崩さずにいる。
 川上はそんな二人のやり取りを見ていたのか、見ていなかったのか、それとも見た上で見なかったことにしたのか、ふっと口元を緩めて新島に向き直った。
「ちょうどいいところに~……新島さん、私、これから午後の授業の支度があるの。ここ、お願いしてもいいかな?」
 疑問系ではあったが、有無を言わせぬ裏があった。
 とはいえ新島のほうは初めからそのつもりであったから、渋々という態度を崩さないまま快諾するという奇妙な真似をしてみせた。
「まあ……いいですよ。ケンカやトラブルというわけではなさそうですし。生徒間のことはこちらで処理したほうがいいでしょうし」
「さすが生徒会長、頼もしいわ。じゃッ、あとはよろしくね~」
 言って、川上は軽やかに撤退した。
 雨宮はその縞々の背中を、なにをしに来たんだあの人は、と恨みがましげに見送った。後でこき扱ってやるとも思った。
 さて、残された二人は生徒会長殿に引っ張られて生徒会室に連行される。
 と言っても、二人同時にあの狭い室内に押し込まれるわけではなかった。せめて昼食を取りに一度戻りたいと訴える雨宮を室内に押し込み、新島は廊下でに軽く事情聴取を行うこととしたが、これは大した時間は掛からなかった。二言三言なにかを確認して、は釈放された。
 しかし雨宮はそうもいかない。空きっ腹を抱えてパイプ椅子に腰掛けていた彼に合流して、新島は開口一番
「なにをしたの?」と冷たい声で問いかけた。
 げんなりして、うんざりして雨宮は答えた。
「なにもしてない」
 真実であった。これ以外になにもありはしなかった。そもそも彼には後がないのだ。校内で迂闊な行動をして、あらゆる活動に支障をきたす訳にはいかなかった。
 新島のほうもそれは分かっているだろうに、まだ疑わしげな目を彼に向けている。
「本当に?」
 雨宮はがっくりと肩と頭を落として、長机に額を押し当てた。
「そりゃないよ、真……」
 消沈した彼の様子に、新島は小さく笑い声を上げてみせる。
「ふふ、冗談よ。でも、本当になにも無いのよね? 昔どこかで会ったことがあるとか……」
「うーん……記憶にないなぁ」
「そう? それにしては、彼女、さん、妙にビクビクしていたっていうか……私にも態度が少し変だったっていうか……」
 対面の椅子に腰を下ろしてうーんと唸る彼女に、雨宮は復讐の機会はここしかないと顔を上げた。その口元には年頃の少年らしいイタズラっぽい笑みがある。
「なにをしたの?」
 それはつい先ほど新島に投げかけられた問いそのものだ。
 これに彼女は少しだけムッとして、口を尖らせて
「なにもしてないわよ」と答えた。
 我が意を得たり。雨宮は上体も起こして勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「本当に?」
「ちょっと」
 ばかばかしい冗談はやめてと訴える新島に、雨宮は相変わらず空腹を訴える腹をさすりながら大仰に肩をすくめた。
「冗談だよ。なんだろうな。俺も本当に……ぶつかってすらいないんだけど、なんであんなに怯えられたんだろう」
「また変な噂を立てられてるんじゃないでしょうね?」
 軽い冗談のつもりであろうが、雨宮はこれにまた机に突っ伏した。
 慣れたつもりでもすれ違うたび、目が合うたびにヒソヒソと何事かを囁かれるのは楽しいものじゃない。転校当初よりはよほどマシだが、それでも彼にとって学校は、あまり居心地のいい場所とはまだ言えなかった。
 それでも、雨宮は一人の、一人前に少し足りない半分と少しの男であった。凹んだとしても、すぐそばにいる少女に己の心中を悟られるわけにはいかなかったし、悟られたくもなかった。
 重苦しい心地を一息で吐き出してしまうと、新島はもう彼が落ち込んでいたなどとは気付けない。あるいは気が付いていて、目を逸らしてくれているのかもしれない。
 どちらにせよ彼女は再び顔を上げた雨宮に微笑みかける。
「とりあえず、彼女もちょっとびっくりし過ぎたってだけだけと言っていたし、色んなタイミングが重なっただけって報告しておくわ」
 雨宮は子供のように素直に首を縦に振って「うん」と応えた。
 そして被るように昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いて、彼に昼食のお預けを告げた。

 長く辛い午後の授業をなんとか乗り越えた放課後、相変わらずの空きっ腹を抱えた雨宮は、ねぐらであるところの四軒茶屋に直帰する気にもなれず、『相棒』を背負ったまま定期内の渋谷の駅に降り立った。
 これといった目的があるわけではなかった。とにかくなにか、腹に入れてエネルギーを摂取しなければ夜まで持たない。
 ふらつく足を叱咤しながら同じく学校帰りらしき若者たちの間をすり抜けていると、ふと背中の鞄の中から声がかかる。
「なあオイ、大丈夫か?」
 同時にモゾモゾと動く気配と感触がして、鞄の中から黒猫がニュっと鼻を突き出した。
 これこそ、雨宮蓮―――『心の怪盗団』の首魁にして、にわかに世を騒がせる怪盗の一人、ジョーカーの『相棒』。謎の猫型生命体、モルガナである。
 通常彼の声は、多くの人々にとって「ニャー」としか聞こえない。しかし雨宮をはじめとした仲間たちには彼の声が言葉として耳に届くのだ。選択的聴取のようなものだろうかと雨宮などは考えているが、しかしモルガナの外見を見ていると魔法やファンタジーと言ったほうが相応しいような気もする……
 さておき、少年は応えて言った。
「駄目。無理。今すぐカロリーを摂取したい」
「これじゃ駄目なのか?」
 と、モルガナの前足が鞄の中の昼食となるはずだったパンたちをつつく。
 雨宮は決然と首を左右に振った。
「作りたてのものが食べたい。できたてホヤホヤの。甘いもの。いや、しょっぱい系でも。もうなんでもいい」
「重症だなこりゃ―――と、あれは……」
 モルガナの声に釣られるように雨宮は視線を前方へ向けた。元々前は見ていたが、頭の中の食物への欲求に気を取られて、ほとんど認識はしていなかった。
 だから彼はそこで初めて改札のすぐそばに見知った顔があることに気が付いた。
 痩躯の長身に一般的に整っていると評して許される面立ちが乗っている。通りすがる女性たちがチラチラと彼を盗み見ていくことこそがその証明だろう。
 しかし雨宮もモルガナも知っている。そいつ、中身は相当なポンコツですよ、と。
「今日も暇なのか」
 改札を抜けて声をかけてやると、長身はやっと彼の存在に気が付いたと言わんばかりに驚いてみせた。
「うわっ! ……なんだ、蓮とモルガナか。驚かすな」
「普通に声かけただけだろーが」
 呆れた様子の黒猫に、長身はムッと形のよい眉を寄せた。しかし彼がなにかを言う前に、雨宮の手が彼の背中を引っ掴んだ。
「ちょうどいいや、祐介、奢ってやるから飯付き合って」
「行く。どこ? なに?」
 一拍もおかずに了承してからどこへ何を食べに行くのかと問いかけるあたり、どうやらこの少年―――喜多川祐介もまた空腹らしい。
 そうとも、様々な事情からだいたい常に腹を空かせているこの少年もまた、新島やモルガナと同じく秘密を共有する一人である。『心の怪盗団』における芸術方面担当の―――変人だ。と、雨宮は彼を己の中で位置付けている。それは多分きっと、他の仲間たちもそうだろう。
 ただ、悪いやつではないという認識もまた共通している。人の心の機微には疎いが、気遣おうという気概は大いに感じられる。
 変なやつだけど。これは喜多川少年の枕詞でもあった。
 しかし、少なくとも黙って大人しくさせておけば良い誘蛾灯だ。雨宮は悪い企みを胸に秘めて彼を引っ張り、セントラル街の方へ足を向けた。

「ありがとうございました~ッ」
 弾んだ声に送り出されて、雨宮は企み事が上手くいった証明をいささか複雑な心境で手に掴んだ。
 ……雨宮らが目指したのは通りに面したクレープ屋であった。何故なら平日の午後、学校帰りの学生が増え始めるこの時間帯、店頭には同じか少し上の年頃の女性が店頭に立つのだ。そしてそこに金を握らせた喜多川を向かわせ―――答えは通常よりいくらか増量された生クリームが教えてくれていた。
 やらせておきながら、雨宮は釈然としない気持ちでフルーツと生クリームとチョコレートの塊に齧り付いた。
「はームカつくわ。ほんと神はなにを考えてこいつを作ったんだろう」
「人に使い走りをさせて言う台詞か? ほら、釣りだ」
「やるよ。お駄賃。それでお菓子とか買いなさい」
「俺をどの立場から見ているんだお前は」
 言いつつ、喜多川はちゃっかり手の中の小銭をポケットに押し込んだ。
 実際のところ雨宮が喜多川に渡した金は彼個人ではなく怪盗団としての活動資金から取り出したものだったから、渡してしまってもなんの問題もなかった。電車賃がないとしてシゴトに参加できなかったり、飢え死にされるくらいなら多少の支出は目をつぶろう。それに、渡した金は本当に『お駄賃』だった。
「買えて金塊チョコだな」
「あー、最近見ないな」
「生産してるのかなぁ……」
 人の少ないところを選んで立ち止まり、少年たちはしばし甘味に舌鼓を打った。モルガナもまたツナフレークの包まれたおかず系クレープに鼻先を突っ込んでにゃぐにゃぐと味わっている。
 男子高校生と猫がそうしている姿はいささか目立つのか、そばを行く者は物珍しげに彼らを見つめたり、クスクス笑って通り過ぎたりした。
 小さく呻いて、雨宮は手と口を止めた。場所を移動しようと訴えることもできたが、喜多川がまったく平然と咀嚼しているところを見ると言葉が出てこない。
 提案すれば彼もモルガナも従ってはくれるだろう。しかし喜多川はきっと「なぜ?」となにも解ってないような顔で問いかけてくるに違いない。
 雨宮は思わずとため息をついた。
 そうするとまた昼間の、今こうして甘味にがっつく羽目になった出来事が胸に蘇る。
 怯えた女の子の顔なんてものによろこびを感じられるほど彼は捻じくれていなかった。それは幸いというべきだろう。
 けれど気持ちが落ち込んでしまうことばかりはどうすることもできないでいる。
 普通にしているだけであんなふうに拒絶されるなんて。噂というものは、無責任な風聞というものは、なんて恐ろしいものだろう。
 またため息がこぼれる。
 すると隣の喜多川が、いかにも鬱陶しいと言いたげに目を細めた。
「どうしたさっきから。鬱陶しいぞ」
 念入りなことに口にもした。
 雨宮は口をへの字に曲げて言い返す。
「うるせえやい。どうせ祐介は女子に黄色くない悲鳴を上げられたことなんてないんだろ」
 顔を逸して顎を上げた彼に、しかし喜多川は最後の一口を放り込みながら不可解そうな顔で答えた。
「あるが?」
 返答に雨宮は目を丸くする。足元の猫も意外そうにヒゲを揺らしていた。
「えっ、あるのか。あ、そうか、そうだな。それもそうか、お前だもんな。やーい」
「失敬な。あのときはただ目があっただけで……つい最近。ちょうどこの辺りだ」
 少年と猫は思わずと顔を合わせた。雨宮が昼時に遭遇した経験と似通っているように思えたのだ。
「まさかそれ、うちの学校の女子だったりする?」
 雨宮もまた最後の一口を放り込みつつ問いかける。
 すると喜多川は、口の端に付いた生クリームを親指の腹で拭いつつ「うん」と頷いてみせた。
「同じヤツだったりしないよな?」
 これはモルガナが。彼はしきりに手袋をはめたように白い手で己の口元を拭っていた。
 併せて雨宮があの女生徒……の特徴を伝えてやると、喜多川は少し考え込んだ後、怪訝そうな顔を一人と一匹に向けた。
「奇妙なことだが、おそらく俺を見てギャッと鳴いたのはその子だ。覚えている限りの特徴と一致している」
「ええ? なんで? マジでナニをした?」
「知らん。触ってもいない」
 ぶ然とした様子でこたえる彼に、雨宮とモルガナは腕を組んでそれぞれ右と左に首を傾けた。
「アン殿とリュージも悲鳴こそ上げられていないが、妙に避けられていると言っていたぞ」
「え、初耳なんだけど。そういえば、真も態度が変だったって言ってたな」
 モルガナが言う『アン殿』こと高巻杏と『リュージ』こと坂本竜司もこの二人と一匹、そして新島と同じく怪盗団の一員だ。この二名は怪盗団の立ち上げに関わったスターティングメンバーでもある。
 ここまでに奇妙な反応を示された面々は偶然なのか、怪盗団の面々ばかりだ。しかしこれは懇意的な情報の選択と言える。そもそも雨宮の触れた情報がまだ怪盗団内に留まっているのだから、さもありなん。
「まさか俺たちの正体に勘付いているわけではないだろうが……」
 喜多川の発言もまた、推測の域を出ない。判断するには明らかにサンプル量が足りていなかった。
 舌先に感じるもったりとした甘みの記憶と、急激に血流の中に糖が流れ込む錯覚に、雨宮はやっと心が再浮上するのを感じていた。
 雨宮蓮というひとは、元来忙しくするのが好きな男であった。
「ちょっと調べてみよう。もしかしたら楽しいシゴトになるかもしれない」
 喜多川は力強く頷いてみせた。
「よく調べておいてくれ。お前や竜司はともかく、杏や真に、俺までが怯えられたのは納得いかん」
「どういう意味だコノヤロー」
 細長い脛を軽く蹴っ飛ばして、少年はモルガナを抱え上げた。

 調査の結果解ったことは、の下の名前はで、同い年の女子高校生で、進学と同時に都内に越してきた、趣味は読書で、成績は普通で、そしてちょっと人より『そそっかしく』て『ビビり癖』があるということだった。
 なにもない場所で転んだり、唐突にボケーッとして動かなくなったり、暗いところをやたらと怖がったり、怪談話などされた日には涙目になって逃げ出すほどなのだとか。
 しかし、雨宮や怪盗団の面々のように顔を合わせただけで「ギャッ」と鳴かれる程ではないらしい。
 これを受けて一つの結論を導き出した雨宮は、最終確認のため、猫型生命体に一つの指令を下した。

 ギラギラとした暑い夏の日差しが照りつける日中。黒い毛並みを焼かれながらモルガナはじっと身を潜めてを待っていた。
 次の授業、嬢のクラスは体育で、女子は体育館でバスケをするということだから──
 渡り廊下をかしましい女子の集団が通りかかる。
 モルガナは今だと狙いを定めてその集団の足元へ、わざとらしく媚びに媚びた鳴き声を上げて、コロンと愛らしく寝転んでみせた。
(覚えてろよ……! ワガハイに色仕掛けをさせるなんて……クソぉ、あんにゃろー!)
 不平不満をおくびにも出さず、腹を見せて甘ったるい声を上げる。
 すると女の子の集団はキャーと鳴いて応えて、モルガナに群がった。悪い気はしなかったが、彼の胸には一人の女性の姿があって、それ以外の女子になびくわけにはいかなかった。
 アン殿、ワガハイはキミだけを……なんて健気な想いは当然想い人に届きはしないが、しかし作戦は悪くなかった。
「あれ、、あんた猫好きじゃなかったっけ?」
 呼び掛ける声に、モルガナはチラリとそちらのほうへ目を向けた。
 そこに体操着で身を包んだが立っていた。しかし彼女の顔面は蒼く、膝はガクガクと震えている。
 モルガナは、駄目押しと起き上がって彼女の足元にすり寄った。
「にゃあぉ~ん」
 尻尾まで巻き付けて、精一杯のかわいい声とともに。
 以外の女子生徒などはその様に目にハートを浮かべて羨ましげにしているというのに、の反応と言ったら……
「ばっ、ば……ば──ッ」
 震え、冷や汗をかいて、目をこれ以上なく見開いて、顔は蒼を通り越して白と化している。
 そして彼女は
「化け猫ォ~~ッ!」と叫ぶなり走り出して、一目散に体育館に飛び込んでいってしまった。
 取り残されたモルガナと女子生徒らは、ポカンとしてそれを見送って、どういうことだと首を傾げあった。
「化け猫……って」
「こんなにかわいいのに、ねえ?」
 女子生徒たちの疑問の声に、モルガナは先ほどまでの不満を忘れてウンウンと何度も首を縦に振った。
 確かにワガハイは普通の猫じゃ──いや、そもそも猫じゃないが! しかし、化け猫なんかではないのだ! こんなに整った姿形を見て、美しい毛並みを見て触れて、それで化け猫とはなんたる言い様か!!
 複雑な心持ちのまま、モルガナはまた触れようと手を伸ばす女子生徒たちの群れから逃れんと走り出した。
「化け猫って、化け猫ってぇ……」
 結論は得ていたからなんの問題はなかった。
 ただただ釈然としない。それだけのことであった。

「やっぱり、モルガナもダメだったんだ」
 生徒会室の書記席に陣取って言った高巻に、モルガナは猫の顔を歪めてこっくりと頷いてみせた。
 彼はテーブルの上に四足を揃えて、尾だけを端から垂らしている。
「ンじゃ、確定か?」
 応じて、副会長席に座した坂本が言う。
 これに会長席にふんぞり返った雨宮が頷いて―――本来のその席の主である新島に椅子から叩き落とされた。
 どの席が誰のものだと決まっているわけではないが、意味もなく偉そうにされるのは納得がいかなかったらしい。
 床に転がった雨宮は悔し紛れにか、垂らされたモルガナの尾の先端の白い部分を魚が釣り針に食い付くように掴んで撫でる。流れるような動作であった。
「ギャッ!」
 悲鳴が上がり、雨宮は強かにその手を引っ掻かれた。
「つまり……ペルソナ使いに反応している、ってことでいいのかしら」
「多分ね」
 会長席に収まりよく落ち着いた新島の声に、爪痕に息を吹きかけながら雨宮がこたえる。
「全部じゃないけど、二年のほとんどには確認したし……三年にもいなかったんだろ」
 自分たち以外に彼女に「ギャッ」と鳴かれた者は。
 問い掛けに、新島と高巻、そして坂本は肯定を示して頷いた。
 またモルガナも首を縦に。
「さっき確認のために接触したとき、あのコは猫が好きなんじゃないかって他の女の子たちに言われてたしな。たぶん、ワガハイ以外の猫……いや、ワガハイは猫じゃねーけど……とにかく、他にはフレンドリーに接してるみたいだぜ」
 これに雨宮は立ち上がって、埃を払い落としつつ頷いてみせる。
「そんで、たまたま偶然駅ですれ違っただけの祐介にも似たような反応を見せた、と。判断材料としては十分じゃないかな。他にもペルソナ使いがいてくれればもっと情報の精度は高められそうだけど……」
 早々簡単に接触できるものでもないだろうと結んで、怪盗団の頭目は楽しそうに笑った。
「でもさ」
 しかし高巻はあまり納得がいっていないようで、腕を組んでその艷やかな唇を尖らせている。
「だからなんだっつー話じゃない? コレ。ウチらがペルソナ使いだって分かったからって、怪盗だとはバレてなさそうだし……」
 たしかに彼女の語る通り、は噂の類や世の潮流にあまり関心が強いほうではないようだった。
 怪盗団の存在を認識していて、また秀尽高校の生徒として鴨志田の一件を目の当たりにしていても、その存在には懐疑的な一派に属している。これは校内で唯一雨宮が会話できる怪盗団以外のメンバー、新聞部所属の女生徒からの情報であった。
 また彼女を取り巻く環境は、その『ビビり癖』を除けばなんの問題も見受けられない。は極めて一般的な家庭環境の上に健やかな友人関係を築く、どこにでもいる女子高生の一人に過ぎなかった。
 それはつまり、彼女が怪盗団にとってなんの障害にもなり得ることなく、また手を差し伸べる相手でもないということだ。
 雨宮は満面の笑みを高巻らに向けた。
「退屈しのぎにはなっただろ?」
 自分だけが特別なにか悪い噂や推測によって「ギャッ」とされたわけではないと明らかになって、彼は心の底から嬉しそうだった。
 それは―――仲間たちにとっても喜ばしいことだ。この頼もしい、しかしいつでもどこか寂しげな自分たちのリーダーが嬉しそうに、安心したように振る舞うさまは、彼らの心もまた穏やかにさせてくれる。
 しかし無駄骨を折らされたことはまた別の問題だった。
「キミねぇ、さんざん私らを走り回させておいて……!」
 怒りもあらわに立ち上がった高巻に、雨宮は慌てた様子で身を反転し、足音も騒がしく生徒会室から逃げ出した。
「あっ! コラぁ! 待ちなさいよッ!」
 それを追って高巻もまた、両手をブンブンと振り回しながら飛び出していく。
「ちょっとあなたたち! 廊下は走らない!!」
 それも新島が一喝すると、二年生二人は直ちに足を緩め、競歩に切り替えて角を曲がって姿を消した。
 まったくと呆れた息をつきつき、新島は生徒会室を振り返った。
「蓮は行っちゃったし、モルガナ、どうする? 私と授業受ける?」
 ここ、放課後まで閉めるから。と手の中の鍵を鳴らして告げる彼女に、モルガナは坂本の鞄に忍び込みながら
「今日はコイツを見張っとく。ほら、行くぞリュージ。たまには真面目に授業受けろよ」と尾を振りながらこたえた。
「ええ……おふくろみたいなこと言うんじゃねぇよお……」
 ボヤきながら、それでも坂本は鞄を取り上げて立ち上がる。
 新島はそんな一人と一匹のやり取りに小さく笑いつつ、ホッと胸を撫で下ろした。彼女だって、の一件が何事もないと判明して安堵していたのだ。
の件はこれで片付いたと見ていいし、金城は様子見だけど、しばらくは平和な学園生活を満喫できそうね」
「ンだな。あー、これで期末が無けりゃあなぁ……俺にとっちゃそっちのほうがホラーだわ……」
「それならなおさら、真面目に授業を受けるのね」
 早く行きなさいと促されて、坂本もまたしぶしぶと部屋を出る。
 一人残った新島は室内に忘れ物等はないかと目を配る。そして己のクラスに戻る前にこの場に参加するわけにもいかない仲間の一人、喜多川に問題の解決を教えてやろうとスマートフォンを取り上げた。
「あれ?」
 首を傾げた彼女の目には液晶画面が映っている。
 そこにはやっと使い慣れた出処不明のアプリケーション……イセカイナビが起動されていた。
 イセカイナビは、端的に言えば怪盗団の活動の中核を担うソフトウェアだ。怪盗たちを悪党どもの歪んだ心の中へ導くプログラム――――
 それにはいくつかのプロセスを要する。
 対象者の名前と場所、そしてキーワード。この三つが揃って初めて、若者たちは歪んだ人の欲望が具現化された世界、パレスへと誘われる。
 新島のスマートフォンにはまさしくその三つの入力項目が、すでに『埋められた状態で』表示されていた。
 すなわち、『』『学園』『ホラー』と。
 イセカイナビは周囲の音声を勝手に拾って認識する機能があるらしいことは新島もすでに承知しているから、別段不思議にも思わなかった。ただ、アプリを起動した覚えはないが……これはポケットに入れているうち、知らぬ間に触れてしまっただけだろう。
 自己完結した彼女はイセカイナビを終了させて生徒会室を後にした。
 そのポケットから漏れる合成音声は、昼休みの終わり際になって鳴り響く予鈴に掻き消される。

『案内を開始します。該当者をサーチします。ヒットしました。案内を開始します。案内を開始しました。』

『アップロード中……』

『データの置換を行います……』

『……完了しました』

『すべての案内を完了しました。終了します。』

『終了しました。』


 翌朝、登校するなり雨宮はクラス担任の川上に呼び出されて実習棟の廊下に引っ張られてやってきていた。
 まだ登校途中の生徒の姿が見える時間帯だ。昇降口には眠たげな子羊たちの群れが列をなし、校庭では運動部がコマネズミのように同じところをぐるぐると走り回っている。
 だからこそ川上はまったく人気のない実習棟を選んで誘ったのだろう。
 雨宮はこの気遣いに感謝しつつ、しかしどこか疲れた様子を見せる彼女に嫌な予感を覚えて問い掛けた。
「どうしたんですか、先生。まさか妹さんの容態が思わしくないとか―――」
「ん、あ、いや、それは……」
 別に大丈夫、と気まずそうに口内でこね回して、川上は壁に身体を預けてつま先を揺らした。
 腕を組んでわずかに背を丸めた姿は己の身を守ろうとしているようにも見える。落ち着きのない様子を見てもなにかあったのは明らかだった。
「先生?」
「……あのね、雨宮くん。別に疑ってるわけじゃないんだけど、一応、訊いとけって言われたから訊くんだけど……その……」
「俺は平気だから、言って下さい」
 促すと、川上は悲しそうにまつ毛を震わせた。目の下に影ができているのはまつ毛だけのせいではなさそうだった。
さん、憶えてる? ちょっと前に、君と男子トイレの前でぶつかって……」
「ぶつかってすらいませんけど、憶えてます」
 つい昨日まで彼女の身辺調査までしていたことは伏せつつ頷いてみせると、川上はその返答こそが憂鬱だと言わんばかりに息をついた。
 憂いを帯びた表情は雨宮の嫌な予感を加速させる。
 そして彼女はそれを確信に置き換えた。
「彼女、昨日の昼から姿が見えないそうなの。なにか知っていたりしない─────?」