「―――さんって、のこと?」
 放課後の二年教室前廊下で、眉をひそめて問い返したのは雨宮と同じクラスの新聞部に所属しているらしい女生徒だった。
 彼女は怪盗団の面々を除けば校内で唯一雨宮とまともに会話をしてくれようとする貴重な人材だ。
 また校内新聞を定期刊行する彼女は校内随一の情報通でもある。有益と言っては味気無いが、彼女もまたこの少年の少ない頼りのうちの一人だった。
 この女生徒であればのことを少しは知っているかと期待して声をかけたのだが、下の名前で呼ぶくらいだ、思っていた以上の成果を期待できそうだ。
「彼女、野きゅ……ソフトボールやってたって聞いた。どうして辞めたんだ?」
 この問いに、しかし女生徒はまた眉を寄せた。
「あんまり大きな声で話したくないんだけど……」
 前置きに雨宮はわずかに距離を詰める。
「……たしかに中学のころ、ソフトボールはやってたらしいよ。でも、才能が無いからって……その……」
 言い淀む彼女に雨宮は首を傾ける。
 女生徒はしばらくもごもごと言葉を詰まらせていたが、やがて他に耳を傾けている者がいないかを確認するかのように辺りに視線をさまよわせてから言った。
で楽しんでたみたいなんだけど、才能が無いやつがいると雰囲気が緩むとか、士気が下がるって言われて……それで辞めさせられたんだって」
 雨宮は軽く目を見開いてまばたきを繰り返した。
 雰囲気だとか士気だとか―――そんなもので部活を辞めさせられるというのは、彼には想像がつかなかったのだ。
 それとも全国大会を目指すような部活動ともなれば違ってくるのだろうか? ここのバレー部はどうだったっけ?
 思い返そうとした脳裏に鴨志田の顔が過り、少年は思い切り顔をしかめた。
 するとこれをどう受け止めたのか、女生徒はまた声を潜めて、
「私が知ってるのはこれだけ」と会話を打ち切ろうとする。
 去り際彼女はこう言い残した。
「彼女にとってもいい思い出じゃないみたいだから、言いふらしたり、直接この話をしたりしないでよ」
 ……その言葉は、できればもっと前に聞いておきたかった。
 思えど特別反論はせず、少年は頷いてみせた。
 また取り残された彼は教室前廊下の壁に背を預けて物思いにふける。その前を不審げな目をしたクラスメイトたちが幾人も通り過ぎたが、声をかけるものは一人とていない。それは彼にとって都合のいいことだったが、寂しいことでもあった。
 やがて放課後の教室がすっかり空になると、おもむろに彼は誰に向けるわけでもない声を漏らした。
「三島も使えないな」
 活動停止状態に追い込まれたバレー部の、それでも一部の者が集まって自主練めいたことをする中に交じっているであろう級友の姿を思い描きながらのこれを、鞄から半ば身体を抜き出して窓枠に手をかけていたモルガナが咎める。
「最低かオマエは」
「自覚はある」
 抑揚なく応えて、雨宮は次にのことを思い描いた。あの冷たい目……
 しかし一方で彼は少しだけ安堵もしていた。彼女が指南役を拒絶したのはどうやら己が嫌われているからというだけではなさそうだ、と。
 雨宮はまた誰に向けるわけでもなく呟いた。
「ひどい話だ」
「そうだな」
 同意したモルガナの揺れる尾に目を向けて、彼はまた続ける。
「できない奴はやっちゃいけないのか?」
 まっとうなそのご意見にしかしモルガナは今度は同意せず、ひげを震わせながらわずかに身を伏せた。
「考え方次第じゃないか。できないことをずっと続けるのは、それはそれで辛いことだろ」
 少年の目の前で猫の尾が垂れる。それはどんなものよりも雄弁だった。
 この猫の言うことには、彼―――それすらも定かではないが―――は本来なら人間であるらしい。この少年らと出会う少し前の記憶が無く、そのための手がかりをずっと探して彷徨っていた。
 寄る辺どころか自己すら定かではないとは、どのような心地なんだろう? 解らないが、しかしきっと己がつい今しがた感じた寂しさなどちっぽけなものだと思えるような感覚に違いない。
 雨宮は手を伸ばして猫の尻を撫でた。
「ぎえっ! どこ触ってんだ!」
 そして彼はまた手を引っかかれる。
 傷を押さえて呻く雨宮を横目に、モルガナは猫の顔にしわを寄せてするりと鞄の中、己の仮の牙城に避難する。
 そこから鼻先だけを覗かせて彼は問いかけた。
「オマエにはそういう経験ないのか?」
 出血こそないものの、赤く腫れた掻き傷に息を吹きかける少年はこれに視線を斜め上に投げた。記憶を探る動作は、やがて猫に「ノー」と答える。
「苦手なことってなかった。やってみればだいたいなんでもできたもん」
「もんて。まあいいけどよ」
 呆れたような猫の言葉を聞き流しつつ、少年はポケットに手を入れて背を壁から離した。
 ちょうど廊下の先、別のクラスからジャージ姿の女生徒の群れが騒がしくおしゃべりをしながら出てきたところだった。その中に一人だけ制服のままのの姿を見つけて、モルガナはフンと鼻を鳴らした。
「でも百三十キロはダメだったんだな」
「うっぐ……」
「少なからずあのコはオマエよりよっぽど知識と経験を蓄えているんだ。もう一度懲りずに頭を垂れてみちゃどうだ?」
 諭すような猫の言葉に、雨宮は幼い子供のようにこっくりと首を縦に振った。
 情報に間違いがなければ現在のは運動部には一切所属していないことになる。であれば、ともにいた女子生徒たちとは早々に別れるはずだ。
 早足で階段を駆け下りた雨宮の目に、果たして昇降口で級友たちに一人手を振るの姿が映る。
 その表情がどことなく寂しげに思えるのは、あんな話を聞いてしまったからだろうか。
 思いつつ、雨宮もまた玄関扉を押し開けて前を行くに追いすがった。
さん」
 そっと声をかけると少女は警戒を隠しもせず、立ち止まることもなく首だけで後ろを見やる。その目には相変わらず剣呑な輝きがあった。
 尻込みしそうになるのをぐっとこらえて並び、少年は語りかけた。
「君のことを聞いた」
「……だからなに?」
 幸いなことには『誰に』とは問わなかった。約束のうち半分を守れたことに安堵しつつ、雨宮は冷たい目線に負けじと言を重ねる。
「いやあの……俺にバッティングを―――」
「嫌」
「あう」
 けれどこれは最後まで口にすることは叶わなかった。
 鋭い切り返しに項垂れた彼からぷいと顔を逸し、は前方を睨みつけながらアスファルト舗装された道を踏んだ。
「どっか行ってよ。そもそも、聞いたんならどうして私に言うの。私が万年ベンチで、足手まといだから追放されたって知ってるんでしょ。そんなやつからなにを教わりたいの?」
 自らを卑下するような物言いに雨宮はムッと眉を寄せた。
「でも知識はある」
「だから?」
「その時点で俺より上だ」
 ぴくりと少女の肩が跳ねた。視線は前方から足元へ落ち、唇はわなないている。
 怒りと苛立ち。それから―――
 なる少女は、震えるか細い声で応えた。
「やめてよ……どっか行って……」
 声に籠められていたのは拒絶というより諦観だった。
 『どうせ』という言葉が飛び出さないのが不思議なくらいの重く沈んだ感情の波を感じ取って、雨宮は小さく唇を噛んだ。
 これまでいくつか目撃してきた、他者の歪んだ欲望によって打ちのめされてきた人たちも、こんな声や姿をしていた。
 雨宮は立ち止まって背を丸めて先を歩く彼女に問いかけた。
さん、君は本当にもう諦めたのか?」
 艶のあるよく手入れのされたローファーの踵が地を蹴った音がいやに響いた。
 雨宮の言葉には歩みを止め、己の足元を睨みつけて小さく震えている―――
 やがて少女はふり返ると、再びあの、仇敵を見るような目で彼を睨めつけた。
「そんなの、雨宮くんには関係ないでしょ! いい加減にしてよ!」
 頬は怒りに紅潮し、眉は釣り上がり、拳は震えている。どう見たって彼女は激昂している様子だ。
 しかし今度こそ、これは雨宮の意図したところであった。
 本当にもうすっかり諦めてスポーツを楽しむことから遠ざかっているのなら、怒り出す必要はないのだ。ただ肯定して、この場を立ち去ればいい。
 雨宮は企みとともに口角を上げ、
「そうかもな。じゃあ、また明日」
 拍子抜けするくらいあっさりと引き下がると、彼女を追い越してさっさと大通りを先に行ってしまった。
 今度は置いていかれる形になった少女は、ぽかんと口を開けたまま呆ける他ない。
 けれどそれも視界に同じ秀尽学園生の姿が映ると我を取り戻し、歩くことを思い出したかのようにぎこちなく動き出す。
 猫の鳴き声が聞こえた気がして、は顔をしかめた。
 彼は確かに『また明日』と言ったのだ。

 そしてまた翌日の放課後、雨宮は校門前の電信柱に背を預けてが通りかかるのを待ち伏せた。
 そろそろ不審者認定を受けて教師等に相談されたらどうしようかとも思うが、しかしまた彼は確信もしていた。
 は昨日、なんなら一昨日からの自分とのやり取りをも、誰にも明かしてはいまいと。
 そして思惑通り、は誰かと連れ添うことなく一人昇降口に姿を現した。
さん!」
 早速と声をかけることにもはや戸惑いや躊躇は存在していないようだった。周りを彼女と同じく帰宅の途につく生徒たちが行き交っていたが、それすらも意図的に意識から切り離しているかのような。
 はそんな彼のにこやかな様子にたじろぎつつ、律儀になんの用だと足を止めた。
「な、なに」
 ただしその腰は引けている。
 雨宮は顔に笑みを乗せたまま、肩から下げた鞄に猫を、胸には企みを、そして手には住処の近くの中古洋品店で揃えた『用具』を詰め込んだ紙袋を下げて、彼女に詰め寄った。
「一緒に帰らない?」
 は一歩後退った。
 それは雨宮に対して嫌悪を抱いたというわけではなく、ただ彼女の第六感とでも呼ぶべきものが嫌な予感を覚えてそうさせたのだ。
「い、嫌だよ。一人で帰る……」
「どうしても?」
「どうしても」
 すげなく返すに、しかし雨宮は食い下がった。
「大事な話がある。二人だけで話がしたい」
 いくらか大きめの声で訴えられたこの言葉はかすかなざわめきとともに辺りを通りゆく生徒たちの間に広がった。
 放課後の校門前、一組の男女、大事な話―――
 これらから想起されるものはいくつかあるが、最も多数を締めているのはこの年ごろの少年少女たちの関心を強く引くものだろう。
 誰もが好奇心でもってチラチラと二人の様子を窺い、人によっては立ち止まって耳を傾けもした。
 ……偶然通りかかった坂本などは、驚きのあまり手にしていたスマートフォンを地に落とす始末だ。幸いなことに画面にヒビは入らなかったが、そこに貼り付けられた保護シートには大きな傷が入った。
 視界の端に坂本が慌ててスマートフォンを拾い上げるのを捉えながら、雨宮は目を細めて口元に底意地の悪そうな笑みを湛える。
「嫌だっていうのなら今ここでする」
 これに坂本は再び拾い上げたものを取り落とした。彼以外の生徒たちも再びどよめいている。
 は慌てた様子で手を振り、逃れるようにまた彼から一歩退いた。
「ちょ……! やめてよ! なんなの!?」
「俺は君と二人になりたいだけ―――」
「やめてって言ってるでしょ!?」
「じゃあ一緒に帰ろう」
 朗らかにそう告げた彼は、明らかにこの状況を意図して作り上げていた。鞄の中の猫が思わずとため息をつくくらいに、下衆な『作戦』であった。
 もはやに残された道は無条件降伏のみだ。あるいは遁走という手もあるだろうが―――
 それは一時的な対処にしかならないと気が付けるだけの賢明さを持ち合わせてしまっていた少女は、目の前で愉快そうに両手を広げて首を傾げている少年をきつく睨みつけた。
「さいてー……!」
 これは即ち『イエス』である。
「自覚はある」
 じゃあ行こうと先導して歩き出した彼は、すれ違いざま坂本に向かって軽く片目をつぶってみせた。

 そのようにして二人が訪れたのは少し歩いた先にある公園だった。
 人の姿もまばらな中、雨宮はここでいいやと立ち止まるなりの手にこの日のために購入してきた物品を押し付ける。
「はいこれ」
 それは軟式のボールだった。新品らしくピカピカに輝いて、空から降り注ぐ柔らかな日差しを受けて輝いている。
 またこちらは中古らしい、軟式用の投手グラブもあった。青く染色された革にはいくつもの傷や染み込んだ汚れが付着している。
 は手の中に押し付けられたこれらを呆然と見下ろしながら、独り言のようにつぶやいた。
「話って、これ? なんのつもり?」
 対する雨宮の手には捕球用のミットがすでに装着されている。
 彼はから少し遠ざかって、楽しそうに振り返った。
「キャッチボールしよう」
「……嫌だよ」
 戸惑いつつも首を左右に振る少女に、雨宮は拗ねたように口を尖らせた。
「少しだけ」
 そしてその瞳には断固とした光がある。
 言葉は無いのになにかをはっきりと訴える強い輝きは、の目をひどく痛めつけた。
 それから目を逸らし、右手に収まったボールの感触を確かめるように指先で撫でる。
 やがて少女はため息をついて顔を上げた。
「わかった。少しだけね」
 少年は目を細めて口元を綻ばせた。念のためと眼鏡を外しまでして、見様見真似にミットを構える―――
 は大きく息を吸い、ゆっくりとこれを吐き出してからボールを放った。ソフトボールでよく見られる下投げではなく上投げだった。
 パシッと軽い音を立ててボールは少年のミットに収まる。
 は息を呑んだ。ずっと忘れていたものが、遠ざけて封じ込んでいたものが胸の内側から、乱暴にドアを叩くような幻聴を聞きもした。
さん?」
 いつの間にかさらに距離を空けた少年が不思議そうな顔をしている。
 少女は再び息を呑んで首を振る。
 投げ返されたボールを受け取ると、また内側から叩かれているような感覚は強まった。
 しかしそれが解放されることはないだろう。彼女には確信があった。
 ―――だって、厳重に鍵をかけて呼び起こされないようにしていたんだから。
 ボールは幾度も二人の間を行き来した。
 複雑な面持ちのに対し、雨宮はどうやら純粋にこの子供の遊びを楽しんでいるらしい。がどれだけ暴投をしたって、愉快そうにボールを追ってはすぐにまた投げ返した。
 草の上に放り出された鞄とブレザーの上で、普段彼の顔を隠す眼鏡のグラスが鏡のように二人の姿を映している。鞄から抜け出した猫はその隣で丸まっていた。
 やがて少女の息が上がってくるころ、ひときわ大きく、心地よい音を立ててボールがミットに収まった。
 雨宮が使っているキャッチャーミットというものは、軟球であれ硬球であれ、他のものより革が厚く作られている。箇所によっては内部に綿が詰め込まれて、衝撃を和らげ球を弾きにくくなっている。
 そしてこのときボールは、このミットの中央、芯と呼ばれる場所にきれいに収まっていた。
 受けた雨宮のほうも上手く捕れたと感じたのだろう。響いた音と手の感触にはじめは少し驚いたような顔を見せ、次に手の中のボールをまじまじ眺めると、すぐに顔中を綻ばせた。
 そして彼は一端の野球少年みたいな顔でボールをの手元へ返して言った。
「ナイスボール!」
 それはにとっての鍵そのものだった。
 ずっと彼女が胸の内側に抑え込んでいたものが、この少年の手によって暴かれたのだと認めざるを得なかった。
 しばらく呆然として投げ返してこない彼女の様子を不思議に思って、雨宮は汗を拭いつつ歩み寄る。
「どうした?」
 顔を下げてグラブの中を見つめる少女の表情は窺えない。
 彼は首を傾げたままわずかに身を屈め、無遠慮にそこを覗き込んだ。そして彼は驚きに目を見開き、ミットを放り捨てて震える肩に手を触れさせた。
「ご、ごめん! そんなに嫌だったのか!? それともどこか痛む? だいじょうぶ!?」
取り乱して矢継ぎ早に問いかけたり心配したり、謝罪したりする少年に、は辛うじて首を横に振る。その頬には涙が伝っていた。
「ちっ……ちがう……っ」
 すんと鼻を鳴らした少女に、雨宮は小さく安堵の息をつく。どうやら己が泣かしたわけではなさそうだ、と。
 けれど落ち着くことはできなかった。女の涙なんてものを見慣れていない少年は、今さらになって肩に手を置いていることに気が付いてまたさらに動揺する。かといって慌てて離れるのもなんだか失礼なような気がして、雨宮はしばらくそのまま突っ立っていた。
 すると二人の足元から猫の「ニャー」という鳴き声が響く。彼はその口に、雨宮が鞄の中に押し込んだハンドタオルを咥えていた。
 紳士然たるをよく心得た猫はくぐもった声で「ほら、使えよお嬢さん。ちっと汚えかもしれないが、無いよりゃマシだろ」と述べたが、しかしこれを聞き取れたのは悲しいかな、この場では雨宮だけだった。
 猫の言葉が解らないの変わりにタオルを受け取り、手近な木陰に座らせてから手渡すと彼女は小さな声で礼を言った。
 それから雨宮は、落ち着かない様子で立ち尽くしながら彼女が泣き止むのを待った。それは彼にとって二度目の経験である。
 雨宮は本当に、心の底から強く願った。
 三度目はごめんだ、と。
 そんなふうにどこかに存在しているのかもしれない神や運命とやらに恨み言を並べていると、足元で鼻をすする小さな音とまだかすかに濡れた声がする。
「なんか、ごめん……急に泣いたりして、キモいよね……」
 どうやら小康状態に落ち着いてくれたらしいと息をつく。
「ビックリはした」
「ぐすっ……ごめん……」
 いいよ、と内心はともかく軽く答えて、雨宮はゆっくりと彼女の隣であぐらをかいた。
 またじっと傍らでを見守っていたモルガナがゆったりと身体を彼女の脚に擦りつける。
 それは大いに効果があったようで、少女はほっと息をつくと完全に平静さを取り戻したようだった。
 モルガナ、やっぱりお前が俺の守護天使だったか。
 思いつつ、雨宮は彼女に問いかけた。
「どうしたんだ?」
「……なんか……昔やってたときの、楽しかったこととか、感覚とか、空気とか、そういうのがワーッて頭に戻ってきて……」
 頷いて続きを促す少年に、は抱えた膝の上に乗せた拳をぎゅっと握りしめた。それはかすかに震えている。
「悔しかったことも思い出して……」
「辞めさせられたときのこと?」
「うん……」
 頷いて、の手が恐る恐るとモルガナの背を撫でる。猫は小さく「仕方がねぇな」と漏らして、大人しくその場に身を伏せて彼女の手を受け入れた。
 そしてやはりこの声は、には「ニャー」としか聞こえない。
「んニャー……言い訳するわけじゃないけど、そこまで下手だったわけじゃないよ」
「それはもう解ってる」
「ありがと……」
 軽く投げ合った内、はたしかに暴投こそすれ、捕球に関しては雨宮のどこへ飛ぶのか判らないような球のいずれも見事に捕えてみせた。現状スタミナはともかく、瞬発力と瞬間的な判断力においてはなかなかと言っていいだろう。
 これが毎日練習に明け暮れていたのであろう頃ならばいかほどだったか。
 想像して、雨宮は首を傾げた。
「それならどうして辞めさせられた?」
 これにモルガナの背を優しく撫でる手がピタリと止まる。
 少女は歯を噛んで、胸の内側、すっかり開け放たれてしまったその奥底にあるものを睨んだ。
「失敗したから」
 どういう意味だとさらに深く事情を知りたがる雨宮に、はもう今さら隠すこともないと自らそれを掴み取った。
 そうして引きずり出されたのは過去の記憶だ。
「中学のとき、前からいたコーチが仕事の都合で辞めるから、新しい人を外部から呼んで、それで来たのが、ほんとに最悪だったの」
 曰く、が通っていた中学に新たな指導者としてソフトボール部に現れたコーチはかなりのスパルタ―――昔ながらのやり方や考えを採用するタイプだった、とのこと。
 いわゆる根性論かと納得してみせた雨宮に、しかしはさらに語る。
「とにかく数をこなせようとしてくるっていうか……土日併せて四試合とか入れたり、それは別にいいんだけど、その後にもピッチャーの子に投球練習させたりして」
 多いときには日に百球以上を投げさせられる選手もいたという。
 上投げに比べ下投げは比較的負担が小さいとは言われているものの、数がかさめば当然疲労は蓄積して痛みや怪我に繋がる。あくまでも比較的小さい、というだけなのだ。
「たしかにその子はすごい子だった。私なんかとは比べものにならないくらいの才能があったよ。その子が投げられれば勝てたかもって場面はいくつもあった」
 けれどやがてその少女は過投球によって肘や肩を痛め、無理を重ねた結果、以前と同じようには投げられなくなってしまった。
 それで反省するのであれば、今日のこの場面は無かっただろう。
 これが表沙汰にならなかったのは故障した生徒がこの一人のみで、他にも控えの選手が大勢いたからだ。
「本当の意味で追放されたのはその子なのかもしれない……」
 マウンドに立てるのはほんの一握りの者だけだ。どれだけ優れた投手であろうと、まずはそこへ立たなければなにも始まらない。当然そこにはそれなりの覚悟やプレッシャーに耐えられるだけの精神的な強靭さも求められるのだが……
 いずれにせよ、才能をもつ者への嫉妬心が皆の口を閉ざしていた。そしておそらく、指導者はそれをよく理解していた。
「だから……だから私、保管してあったスコアボードを盗み出して、球数記録してあるから、それを証拠に無理させてたって認めさせようと思って」
 そこで彼女は失敗した。
 盗み出す現場を抑えられ、逆に有りもしない窃盗をでっち上げられて追放させられたのだ。
 ―――その年の大会で彼女の所属していたチームは惨敗した。
「結局それで、その年の三年はみんなソフトボールを辞めちゃった。当時の一、二年や、その後入ってきた子らは続けてるらしいけど……」
「そのコーチはどうなった?」
「まだいるよ。相変わらず、『上手く』やっているみたい。あの子ほどひどいことにはならなくても、故障した子が出たって話はよく聞く……」
 でもそれは珍しいことではないのかもしれない。スポーツにある程度の怪我はつきものだ。自分が過敏になっているだけかもしれない―――
 膝の上に顎をのせて、はどこか遠くへ視線を投げた。
「私はまだ楽しむことができる。それが今よくわかった。けど、やられたことは変わらないし、やり返すこともできないと思うと……悔しい……」
 再びにじみ始めた涙に、雨宮はふむと唸って深く熟考した。
 過去の出来事はさておき、現在に関してはあやふやな伝聞に過ぎない以上鵜呑みにするのは危険だろう。
 であれば、『彼ら』は確かなところを正確に把握する必要があった。
 そのために先んじてもう一つ彼女から訊き出しておきたいこともある―――
「名前は?」
「えっ?」
 涙を払って彼へ顔を向けたの驚きと当惑に満ちた瞳を正面から見つめて、彼は再び問いかけた。
「そのコーチの名前は―――?」

……
 一月が経過する。
 季節は冬に入ってすっかり肌寒く、雨宮はいっそう忙しく駆けずり回る必要に迫られていたが、そんなことは預かり知らぬとは彼を呼びつけた。
 このひと月の間、二人は時折挨拶や軽い雑談こそすれ、まともに顔を突きつけ合うのはボールを投げ合って以来のことであった。
 鍵のかかった屋上に繋がる階段の踊り場に積み上げられた予備の机に腰を下ろして雨宮が来るのを待っていたは、彼が現れるなり不思議な表情を見せた。
 安心したような、怒っているような、困惑しているような……
 雨宮はそれらのいずれにも構わず問うた。
「用ってなに?」
 果たしては立ち上がり、顎を上げてどことなく挑戦的な口調でもって述べる。
「前に話したこと、憶えてる? 中学のとき肘を壊しちゃった子……昨日、その子から久しぶりに連絡があったんだ」
「へえ」
 そうなんだ。と頷いて、雨宮は癖のある前髪を指先でいじった。いかにも「そんな話には興味がありませんよ」と言わんばかりの態度で。
 これには鼻を鳴らす。
「それで、例のあの……コーチが、辞めたって教えてくれた。無理をさせてたって認めて、私のこともでっち上げだって言い出したんだって」
「ふぅん」
 たからなに? と少年はそっぽを向いた。いかにも「そんなどうでもいい話をするために呼び出したのか?」と言わんばかりの態度で。
 はじっと彼のその横顔を見つめている。
「まるで≪改心≫でもさせられたみたい」
「それは怖いな」
「私、あのコーチの話、誰にもしてない。……君以外には」
 確かに情報源であった新聞部女子も正確なところは把握していなかった。おそらく他の友人たちも、誰もという少女がどうしてソフトボールを辞めたのかなんて、本当のところを知りはしないだろう。
 事実を知るのは張本人たる彼女自身と当事者、そしてこの少年のみだ。
 ……少年は眼鏡のブリッジを押さえながら、冷たい声で
「だから?」と返した。
 これにから戻ったのは、心のこもった優しい声だった。
「だからね、ありがとう」
 雨宮は意外そうな顔をして彼女に目を戻した。
 対するはそれがおかしくてたまらないと笑う。
「よくわからないけど、君がなにかしたんでしょ?」
 これは明らかな偽りだった。彼女の瞳は確かに雨宮を捉え、少しの変化も見逃さないと光っている。それは彼のもう一つの顔を探ろうとしているかのようだった。
 雨宮にできることといえば、ただ小さく肩をすくめて誤魔化すことくらいだ。けれどその口元にはと同じように笑みが湛えられている。
「……あの子がね、またやらないかって。前みたいに大会目指してってのは無理かもだろうけど、一緒に遊ぶくらいはできるからって」
「よかったな」
 祝福の言葉にはゆるく首を左右に振った。つややかな黒髪が合わせて揺れるさまを雨宮は目に焼き付けるような心地で見つめた。
「それがそうでもないの。ずっと基礎練すらやってなかったから、身体が完全になまってる。ただでさえ才能なんてものは無いのに……」
 愚痴っぽいこの言葉に、少年は口にする意味のない、しかし意義のある問いを投げかけた。
「諦めるのか?」
 当然、首は再び右に左にと振られる。
「まさか」
「だよな」
 そして二人の間には沈黙が横たわった。
 けれどこれは心地のよいものだった。気まずさは無く、ちょうどよい強さの陽の光が窓から射し込んでくることも相まって、午睡にまどろんでいるときのような感覚が二人にはあった。
 空を漂う埃が光を反射して輝いている。
 それを眺めながら、は再び口を開いた。
「どうして?」
「え?」
「私、君に冷たくしてたのに、なのにどうしてこんなに親切にしてくれるの?」
 それは雨宮にも分からない問いかけだった。あるいは答えを忘れていると言い表したほうが正確だろう。
 彼はしばし熟考する。
 親切にする理由……調べてみれば例の指導者の被害者が想像以上にいたから。を泣かせてしまったから。間違っていると思ったから。下心があったから。その下心は一つの目的のために生じたものだった。
「あっ!」
 雨宮はやっと一つの目的を思い出して素っ頓狂な声を上げた。

 しばらくぶりの緑のネットに囲まれた空間にやってきて、雨宮は貸し出されたバットを手に、背後のから投げつけられる指示に従ってぎこちなく身体を動かしていた。
「もうちょっと腰落として。膝に力入れないで―――そう、そこでキープ」
「うぐ……」
「硬いよ。リラックスして」
「んー……」
「はい崩れた。やり直し」
 バッターボックスに入ってから十数分、彼は一球打ち返してから後ずっとこうしてあれやこれやと注文を付けられっぱなしだ。
 それは全力疾走や彼が秘密裏に行っている活動よりもよっぽど気力と体力を削り取っている。
さんのほうがよっぽど厳しいんじゃないか」
 思わずとぼやいたこれを、は耳ざとく聞きつけて厳しい目線を送る。
「うるさい。君が要求したことでしょうが」
 叱咤の言葉も飛んでくる。
 雨宮は項垂れつつ、再びバシバシと勢いよく飛ばされる彼女の指導に従った。
 防球ネットで区切られたブースの外、の背後に設置されたベンチの上では、モルガナが鞄から身を出して丸まり、退屈そうにあくびをしている。
 その姿はまるっきり期待をしていないか、そもそも雨宮が打ち込むこの遊びに興味がないかのようだ。
 やっぱりこの猫は俺の守護天使なんかではなかった。
 雨宮は昨晩見た悪夢とその際に感じた胸の上の重みを思い返して小さく歯を噛んだ。
 それすらも構わず、は腰がとか、膝がとか、肘や肩、腕に手と、少年の身体のあちこちに指南を打ち込んだ。
 すでに外は薄暗くなってきている放課後時間、この狭苦しいバッティングセンターにこもっているのは二人の少年少女と猫だけだ。このおかげで雨宮は人目をはばかることなく同学年の女子の指導というちょっと恥ずかしいシチュエーションを満喫できているのだが―――
 いかんせん気疲れは否めない。
 どことなく疲労した彼は、≪脱力≫を意識しろと言われて振ったバットが普段と違う感触を手に返してきたことに目を見開いた。二塁打であった。
「よし」
 背後のからは確信の籠った声が投げかけられる。
 また彼女は医学や心理学にまたがるスポーツ科学的なうんちくを語ってもくれたが、これは雨宮の耳を右から左に通り抜けた。
 ただ彼の手には知識よりも『感覚』が宿っている。それは全身にみなぎり、確実性を伴って彼に教えていた。
 『今ならいけんじゃね?』と。これは何故か彼の交友関係のうち最もフィジカルに優れた『感覚派』の声で再生された。
 雨宮はすぐにさんざ叩き込まれたバッティングフォームを取ると、ぎゅっとバットを握る手に一度だけ力を籠めてまっすぐ前方を睨みつけた。
 直ちにの手が操作盤に触れる―――
 射出された百三十キロの投球を少年はバットの真芯、すなわち重心よりも少しだけ先端に近い箇所で球を捉え、下からこれを打ち上げた。
 するとキン! と耳に心地よい音が鳴り響いて、打ち返された球は見る間にホームランの標的にぶち当たる。
「お……」
 振り抜いた姿勢のまま呆然とした少年は、感嘆とも放心ともとれるような声を漏らして硬直した。彼の耳にはまだたった今耳に聞こえた悦然たる音が反響し、手には完ぺきなミートにより軽く痺れるような感触が残されている。
「おめでと」
 背後からそっけなく、しかしどことなく誇らしげな声をかけられて彼はやっと我を取り戻した。
「や……やった? 今の見た?」
「うん。よかったね」
 雨宮は―――バットを放り捨てて一も二もなく彼女のもとへ走り寄った。
「やった! いけた! 勝った!!」
 なにに勝ったというのか。には解らなかったが、しかし彼が心の底から歓喜しているさまを見て釣られたように微笑んだ。それは彼女にとっても快いものだったからだ。
さん!」
 やがて少年はブースを飛び出してネット越しではなく直接彼女に対面する。その両手は顔の高さで構えられて前に突き出されていた。
「ん? ああ、はいはい―――」
 なにかに勝ったことを喜ぶハイファイブをしたいのかと察してもまた腕を上げると、彼は確かにそれに手を合わせ、しかし音を鳴り響かせるのではなく指同士が交差するように絡ませてぎゅっとその手を握り締めた。
「んあ」
 ぎょっとして固まる少女をよそに、雨宮は小さな子供のように飛び跳ねて全身で喜びを表現する。
「ありがとう! これで景品コンプだ! ほんとにありがとう!」
 握り締めた手をぶんぶんと振る彼の頬は成し遂げた興奮によっていくらか紅潮していた。
 けれどそんなことより、にとっては繋がれた手の感触のほうが重要だった。彼女と比較すると一回りも大きくて、想像していたよりずっと硬く、骨ばっている。
 明確な己との差異を否でも応でも意識させられて、はやっと事態に気が付いて顔を上げた猫のように目を丸くした。
 そして少年もまたその変化によって己が仕出かしたことを認識する。
「あ……ご、ごめん……」
「離して」
「はい」
 ぱっと手を離して後退った少年に、はほっと息をついた。手の中にはまだ彼の手の感触が残り、心の底にはざらついた、しかし不快ではない感覚がある。
 そのどちらもが言語化は不可能だった。
 だからというわけでもないだろうが、代わりに彼女は雨宮にこう問いかけた。
「雨宮くんって、誰にでもこうなの?」
「え?」
「女子相手に」
「そんなことは……」
 ない、と思う。
 自信なさげに答えて、雨宮は頭をかいた。己の行動を思い返して、どうだっただろうと視線を明後日の方向に投げもする。
 こういう距離感を間違えた振る舞いをして、異性を戸惑わせることがあったような、なかったような。それは人によりけり、一途な男を貫いたり、あっちこっちに無節操に手を出す屋根裏のゴミだったり、はたまた無計画に遊び歩いてそもそも完遂できなかったり。
 雨宮は突如として脳裏に降ってわいた謎のイメージを振り払った。
「ごめん」
「いいよもう。しつこい」
 満足のいく返答ではなかったからだろうか、そっぽを向いてしまった少女に雨宮は再び頭をかいた。
 なんだか居心地が悪いと少年は思う。ついさっきまで歓喜に飛び跳ねていたのが嘘のようだと。
 けれどそもそもそんな浮かれた雰囲気をぶち壊したのは他でもない彼自身だ。彼は縋るように見上げる猫へ視線をやったが、猫は処置なしとひげを広げるだけだった。
 さておき、雨宮は短くに断りを入れ、念願かなってホームラン章の景品を受け取りバットを返却した。大した時間はかからなかったが、戻ってきたころにはもまた平静を取り戻してベンチに腰掛け、猫のあごを優しく撫でてやっている。
 その右手はスマートフォンを操作している。
「返信してた」
 顔も上げずに彼女は言った。
「あの子に。やろうかって。一緒に遊ぼうって。まずはメンツから集めなきゃだけど……」
 の言いたいことはつまり、ここへ来る前に言っていたかつてのチームメイトからの再招集の件への返答であろう。
 雨宮はほっと息をついて目を細めた。
 少女はちらりと横目でそんな彼を見上げて、すぐにまた目線をそらす―――
 そして猫だけがこれを目撃して、小さくため息をついては尾をぶんぶんと振り回した。


 ―――それから。
 雨宮は忙しい中で暇を見つけてはなんともなしにバッティングセンターへ足繁く通っては時間と金を消費した。
 端的に言ってしまえば、彼はこの棒と球を用いた遊びがちょっと楽しくなってきていた。
 彼の耳と手にはまだ、あの時の最上のインパクトの感触が残っている。幾度か試すうちにこれを得られる感覚は徐々に狭まってきているから、彼はますます夢中になった。
 少なからずスポーツによって流される汗は健全なことの証ではあるから、彼の保護者や友人たちも特別これを咎めるようなことはしなかった。
 景品はすでにコンプリートしているから、この小さな娯楽施設から貰えるのはせいぜい菓子の詰め合わせくらいだが、これはこれで仲間たちに大いに歓迎されている。
 この日も、彼は一人と一匹でいくらか割高のサービスを楽しんでいた。
 そんな彼に隣のブースから声をかける者がいる。
「サッカー少年から野球少年に鞍替え?」
 ちょっとからかうような語調でそう問いかけたのは他でもないジャージ姿のだった。
 雨宮は彼女が先客としていたことに驚きつつも「そんなわけじゃない」と否定してみせる。これには照れが多大に含まれていた。
 しかしやがて少年は、彼女の発言に含まれる違和感に感づいて眉をひそめる。
「……待った、さん、どこで俺がサッカーやってたって―――」
「さあね」
 言葉の途中で断ち切って、は構えを取る。―――シングルヒット。
 雨宮は憮然とした表情で打ち返された球が重力に従って下へ落ちるのを見守りながら、どうやら彼女がどこかから己の個人情報を入手したらしいと当たりをつける。この少年のパーソナルデータを知る人間はこの土地では数少ない。あいつかこいつか、それともあれか。脳裏に浮かぶいくつかの顔に向けて舌打ちをして、彼もまたバッターボックスに立った。
 すると既定の投球数をとっくに終えたらしいが再び彼に声をかける。集中と途切れさせないためだろう、密やかに、押さえられた声で。
「ねえ、雨宮くん。そのゲームが終わったら―――」
 ちょうどそのとき、ピッチングマシンから球が吐き出される。少年はこの百三十キロの投球にもうすっかり目が慣れていた。
 打ち返すのは容易だと腰をひねった瞬間、が今度は大きな声で、どこか照れくさそうに、しかし懸命に告げた。
「私とデートしてくれないっ?」
 少年は盛大に空振った挙げ句、勢いを殺しきれずに回転して足を滑らせ、そのまま床に転がった。