Life is an exciting

 『助けて』という救援を求める声に応じて、坂本竜司は全速力で夕方の道を駆け抜けていた。
 すっかり通い慣れた小路をいった先にある流行らない喫茶店のドアを乱暴に―――開け放とうとして、しかし直前、ドアの向こうの店主の渋い顔を思い描いて、少年は努めてゆっくりと、殺しきれない勢いにドアベルが非難の声を上げる程度には乱暴に扉を押し開けた。
 香ばしい匂いに包まれた店内では、老夫婦客が奥の席で向かい合う形で座して夕方のニュース番組を箸休めにそのコーヒーを嗜んでいる。またカウンターの向こうではこの店の主である佐倉惣治郎が夕刊を片手に顔を上げてちょっと驚いたような表情を晒していた。
「なんだよ、お前さんか。一人か? 珍しいじゃねえか」
 声に動揺や不安の類は感じられない。
 もしもそれらを隠しているのだとしたら、坂本にはこのずいぶん年上の男のポーカーフェイスを見抜くことなんてできないだろう。
 彼はそのことを悔しく思いながら、それでも小さく頭を下げて本題を突き付けた。
「あの……あいつは? 」
 あいつとはほんの少し前にこの少年に助けを求めた者のことである。
 しかし惣治郎はそんなことなどつゆも知らぬと言わんばかりに首を傾げているではないか。
 では現場はここではないのか―――
 坂本は慌ててスマートフォンを手繰り、メッセージの詳細を確認した。
 それは以下のようなものである。
『助けて。もう無理。お前に頼るしかない。四茶まできて』
 このうちの四茶とはてっきり彼の自宅を兼ねるこの店のことかと思っていたが、この様子ではそうではないらしい。
 今更ながらに『なにがあった』と返信をしようとして、しかしそんな彼に惣治郎が声をかけた。
「そういや、なんだか妙に気合入れて出てったな」
「気合ぃ?」
 怪訝そうな顔をする彼に、男はまた記憶を探るようにこめかみを指先で撫で、うーんとか、あーとか唸って、それから手をぽんと叩いた。
「バッティングセンターじゃねえかな。最近よく遊びに行ってるみたいだしよ」
「バッティングぅ〜?」
 またオウム返しにして顔をしかめる少年に、惣治郎はちょっと大げさに肩をすくめた。
「なんだか分からんがハマってるみたいだな。お前さん、それで来たんじゃないのか?」
「あー……よくわかんねっす。とにかく来いって言われて……」
「はー、ったく、親しい中にも礼儀ありって言葉を知らねぇのかあいつは。悪いね、いつも付き合わせちまってよ」
「や、それは別にいいんスけど……」
 バッティングセンターってどこだ。と問いかけようとする前に、老夫婦がテレビから顔を少年のほうに向けて言う。
「出てすぐの角を曲がったところにタバコ屋さんがあるでしょ? その隣りの階段を上がった先ですよ」
 しわの寄った穏やかな笑みに、坂本は頭を下げた。名前もろくに知りはしないが、ルブランの常連客となれば何度か顔を合わせている。気安くおしゃべりをし合う間柄ではないものの、顔見知り程度の関係ではあった。
「ありざっス! 行ってみます!」
 再びドアをくぐって飛び出していった少年に、店内の年寄りたちはやれやれと小さくかぶりを振った。
 自分たちの若いころってどうだったかしら。しばらく店内はそんな話題に終止した。
 そんなふうに話の種にされているなどとは露知らず、坂本は首尾よくタバコ屋の隣りのいくらか錆が浮いて塗装も剥げた階段を駆け上がった。
 そこは確かに防球の緑色をしたネットに囲まれた空間で、目的の人物を探すのに受付らしい小窓の向こうでテレビを見ている老人に尋ねるまでもなかった。
 なにしろ階段を上がってすぐ、野球場で言うところのバッターボックスに当たる場所に、少年が二人肩を落として項垂れているではないか。どちらもが坂本の見知った顔だった。
「えぇ……なにこの雰囲気ぃ……」
 坂本は踵を返して帰りたくなる気持ちをぐっとこらえて、この世の終わりのような顔と姿勢で固まる二人に歩み寄った。
 すると揃って顔を上げた彼らは、表情によく似合った泣き言を彼にぶつける。
「俺はゴミだ……屋根裏のゴミなんだよ……」
「俺たちは一体、なにをしくじったんだ……?」
 うだうだと後ろ向きに全力疾走する二人をどうにか宥めすかして落ち着かせて、事の次第を聞き出すのに、坂本は多大な労力を支払った。
 さて、雨宮蓮が言うことに。
『百三十キロだよ。百三十。確かに早いかもしれない。でも超高校生級ってほどじゃない。打てないんだよそれが。俺は平凡な男なんだ。いや男ですらない。もう女子になるしかない。今日から蓮子って名乗るから、お姫様みたいにチヤホヤして』
 坂本は縋り付いてくる彼を蹴っ飛ばしてもう一人、喜多川に事情聴取を行った。
『俺は自分自身のことを正しく見つめられていると思っていた。だがそれは勘違いだったんだ。なんて浅ましいやつだろうか。己を買い被り、それを疑うことすらなく生きてきたとは。こんな辱めには耐えられん……!』
 彼はまた、二人を正気に戻すのに多くの時間を費やした。まったくの徒消であった。
「つまりなに? ホームランが打てなくて泣いてンの? バッカかお前ら」
「そう言うんならやってみろ! サードアイなんて全然役に立たない!」
「二千円をドブに捨てたんだぞ! 二千て! ひと月生きられるじゃないか!」
 まとわりつく二人を坂本は再び蹴り飛ばした。
 致し方なし。坂本は二千円を支払ってバッターボックスに立った。
 全部で五球出てくるのだと雨宮は言う。なるほど確かに、二千支払ってたったの五球ぽっちでは暴利かもしれない。
 頷いて、坂本は一球目を見送った。
「ヘイヘイりゅーちゃんビビってる?」
「集中してるから黙ってろ」
「はい」
 防球ネットの向こうから煽ってくる雨宮を黙らせて、坂本はしばらく借り物の金属バットをゆらゆらと振り、手首の調子を確かめる。またその目は、通常のマウンド間より狭い距離の『感覚』を掴もうと細められている。
「二球目出していいか」
 裏で操作パネルに手を触れていた喜多川が囁いた。
「いいよ。頼むわ」
「ん」
 ピッと横から音がして、前方のピッチングマシンが唸る。ちょうど三つ数えるのと同時に、機械はきっちり百三十キロの軟球を吐き出した。
 今度こそ坂本はバットを振り抜いた。
 しかしインパクトには遠く、彼の腕はすっぽ抜けるような感覚を覚えるに留まった。判定はシングルヒット、景品は無しだ。
「こんなもんか」
「当てるだけなら祐介でもできる」
「おい、俺でもとはなんだ。俺でもとは」
「黙ってろ」
「はい」
 坂本は一度肩を回して、今度はなにをするでもなくすぐに次の球を要求した。
 三球目。やや下にブレたこれを、彼は過たず芯で捉えて打ち上げた。
 キン、と甲高いが耳に心地よい音が響いて、ネットが揺れる―――球はホームランの標的の真上。天井に突き刺さっていた。
 雨宮と喜多川は声を失って呆然とする。
「あーちっくしょ、もうちょいだったのに」
 二人は、悔しそうに頭を振るこの少年がフィジカルにおいて並々ならぬものを持ち合わせていることは承知していたはずなのに、今この現実の世界でまでまざまざ見せつけられて恐怖に似た感情さえも抱きつつあった。
「でも今のでだいたい解ったわ。祐介、次」
 喜多川は無言でボタンを押した。
 そして放たれた四球目。坂本は見事なインパクト音を響かせて、標的のど真ん中をぶち抜いてみせた。
「っし! どーよ見たか!?」
 ガッツポーズを取って振り返った彼に、雨宮と喜多川は再び激しく落ち込んだ様子を見せた。
「そんなバカな。ちゃんと厳選したペルソナ付けてきたのに。ステ的には完全に俺のほうが上なのに……」
「竜司以下とはな……ふっ、そうか。俺はあいつ以下か。……せめて美しく散ろう。蓮、介錯を頼む」
「わかった。辞世の句読む?」
「……石川や、浜の真砂は尽くるとも……」
「骨はちゃんと京都大川の中洲に置いといてやるからな。イイ人に拾われろよ」
「閨中のお伽などしに参上仕らないといけないのか……」
「これがホントのお釜掘りってか」
「なんてオチだ……ぷっ……くく……っ」
「お前のペルソナだよ」
 落語の話でいつの間にか盛り上がる友人たちをよそに、坂本は一人でパネルを操作して最後の一球を打ち返した。これは二塁打であった。
 くだらない。こんなことで放課後の貴重な時間と二千円を無駄にしてしまったのか。
 思いつつ、坂本はせしめた景品を雨宮に流そうとしたが、彼はこれを断固として受け取らなかった。
「自分で取る」
「あっそ。祐介、いる?」
「貰えるものは病気以外貰うが、なんだこれ、風呂敷か……?」
 諦め悪くさらに二千支払って再びバッターボックスに立った雨宮は、振り返って坂本に縋るような目を向ける。
「さっきのどうやった? 当てるだけじゃ駄目なんだろ?」
「あーっと……」
 ブースの外で腕を組み、坂本は先ほどの手の感触を伝えようと唸るが―――
「なんかこう……ブンッてしてガッ! って感じ……?」
 彼は優秀な師匠とは呼べなかった。
「感覚派ってこれだから」
「まったくだ。竜司、お前も理論というものを身に着けたほうがいいぞ」
「祐介のことも言ってる」
「えっ……」
 未だ手の中の正方形の布を弄っていた喜多川は、雨宮のこの発言に打ちのめされたような顔を作って布を被った。どうやら三度、落ち込んでいるらしい。
 そこに雨宮が加わるのに時間はかからなかった。
 ヒットが三、スカしたのが一、あらぬ方向に打ち上げたのも一。せめて猛打賞が欲しかったと雨宮は涙した。

 結局この日はここまでとしてバッティングセンターを辞した子どもたちは、これといった目的もなくダラダラと駅に向けて脚を運び始めた。
「はあ……やっぱりああいうのってセンスなのか?」
「とりあえず腕力とか器用さだけじゃダメではあんだろうな」
 猫背気味の背をさらに丸めて雨宮は肩を落とす。彼の隣では喜多川がすっかり気に入ったらしい布を頭から被ったまま歩いていた。
 気にするまいと目を逸らして、雨宮はまた坂本に問いかける。
「こういうの教えてくれる人いない?」
 こういうのというのは、打者としての心得や正しいフォームを指している。
 うーんと唸った坂本に、雨宮は前を向いたまま付け加えた。
「できれば女子で」
 すかさず喜多川が布から顔を覗かせて、どことなく楽しげにしながら指摘する。
「徳川吉宗かお前は」
「家光じゃないだけマシだろ」
 切り返しに喜多川は両手で口を抑えて再び布の下に顔を隠した。ブルブルと震えているのを見るに、どうやら笑いをこらえているらしい。
 坂本には、さて、この二人の迂遠なやり取りの意味がさっぱり解らない。あまり解りたいとも、彼は思わなかった。
 なんにせよまともな意味ではなさそうだとかぶりをふりふり、彼は
「俺そういうのわかんない」とちょっと拗ねた心地で吐いた。
 雨宮はわずかに首を傾けて問う。
「どっちが?」
「どっちも」
 雨宮と喜多川は揃って坂本に冷たい目線をやった。
「役立たず」
「勉強しろ」
 そんなことを言われる筋合いは一つもない。坂本はまなじりを釣り上げて二人に向けて腕を振り上げた。
「うるっせぇよ! ヒト呼び出しといてなんだこの扱い!」
 怒鳴りつけた彼に、雨宮と喜多川は笑って諦めを促すばかりだった。

 翌日の秀尽学園高校、その中庭にある休憩スペースで、雨宮はクラスメイトの三島由輝がやってくるのを待っていた。
 クラス内で話をしてもいいが、あまり彼と親密な様を見せて周りを困惑させるわけにもいかないと呼び出しをかけてから、かれこれ十分は経過している。
 昼休みの時間帯だ。三島の交友範囲がどの程度のものかは知らぬが、彼にも昼食を共にする相手くらいいて然るべきだろう。
 雨宮は出掛けにコンビニで購入した三色パンをつまみながら、傍らの鞄に手を突っ込んだ。
「フギャあっ」
 悲鳴とともに指先に鋭い痛みを与えられて、雨宮はすばやく手を引っ込める。
 するとバタバタと鞄が揺れて、中で丸まっていた猫―――モルガナが鼻先を引くつかせながら顔を出した。
「いい夢見てたとこだってのに、まったく! ふわぁ〜、おいワガハイにもそれくれ」
 血こそ出ていないがひりつくような痛みを訴える手の甲に息を吹きかけつつ、雨宮はカバンの中に三色パンのうちチョコレートクリームが詰まっている部分を放り込んだ。
 程なく三島が息をせき切らせてやって来る。
「ごめん、購買混んでてさ!」
 荒い息の中そうと告げて、三島は詫びと言わんばかりに雨宮の膝の上にカレーパンを放り投げた。
「賄賂?」
「どっちかっていうと救援物資?」
「ありがと」
 いいよ、と気安く答えて三島は紙パックのジュースにストローを挿し込んだ。
「で、なんの用? なんかあった?」
 雨宮が肯すると、何故か三島は瞳を輝かせた。
「もしかして新しいターゲット? また校内にいたりすんの……!?」
 身を乗り出した三島を軽く押し返して首を振ると、三島は露骨にがっかりした様子を見せつつ器用に片手でコロッケパンの包装を剥いた。
「じゃあなに? ていうかアレの話でないならカレーパン返せよ」
「ヤダ」
 応えて、雨宮もまたカレーパンの包みを破る。貼り付けられたシールには豆カレーと記されていた。
 そして雨宮は昨日の事の次第を軽く、そのための教師役が必要なのだと熱く語って聞かせた。
「しょーもな」
 それに対する三島の態度は冷淡だった。飲み干した紙パックを潰してそばの屑入れに放り投げると、踵を返して立ち去ろうとまでする。
「待て三島」
「なんだよ」
「杏とデートさせてやる」
 これに三島はピタリと動きを止め、鞄の中の猫が驚愕に目を見開いた。
 そして少年はふり返る―――
 雨宮はニヤリと口角を釣り上げて下劣な笑みを浮かべた。
「待てコラ! なぁに勝手にアン殿をダシに使ってるんだ! 彼女とで、で、デートなんて、ワガハイの目の黒いうちは許さ、ふぎゅ!」
「……今猫の鳴き声しなかった?」
「気のせいじゃないか」
「そう? まあいいや。マジなの? た、高巻さんと……マジで?」
「うん」
 雨宮は満面の笑みを三島に向けた。
 もちろん―――この少年が≪情報≫のためだと言えば、高巻は渋々でも三島とデートまがいのことくらいはこなしてくれるだろう。
 ただしそれが、本当に一対一であるとは限らない。
 たった今猫が吠えたように、怪盗団にはもう一匹、番犬のようなものがいる。彼もまたこの少年が一言『頼む』と言えば、喜んで高巻に随行してくれるに違いない。
 企みを胸に、雨宮は両手を三島の前に差し出した。それは早く≪情報≫を寄越せと訴えている。
 果たして三島は、ちょっと鼻の下を伸ばしたまま咳払いを一つ、我を取り戻してこれに応えた。
「でも、こんなの、坂本に訊いたほうが早いんじゃないの」
「竜司? なんで?」
「だって」
 三島はコロッケパンの最後の一口を口の中に押し込みつつ肩をすくめる。
「そういう人あいつのクラスにいるよ」
 これに雨宮は渋い顔を作って伊達眼鏡のブリッジを押さえた。鞄の中で猫がまだ怨みの言葉を吐き続けていたが、それも軽く押し潰すと消える。
 ため息とともに雨宮は胸中の渋いものを吐き出した。
「竜司ってバカなの?」
「知らなかった?」
「知ってる……」
 そこが彼の魅力の一つであるとも、最大の欠点であるとも。
 さておき、詳細を求めた雨宮に三島は語る。
「なんて名前だったっけかな、たしかソフトボールの全国大会にも出たことあるって話だったけど」
「へー……」
 そんな人がいたのかと感心するのと同時に、雨宮ははてと首を傾げた。
 ソフトボールというのは軟球を用いた野球に似た球技のはずだ。
 思い出すのも忌々しいが、確かな実績を持っていた鴨志田が教員の一人として雇用されていたことを思えば、この秀尽学園高校がスポーツにもかなりの力を入れているのは間違いないことだろう。
 けれどこの私立の進学校に女子ソフトボール部なんて存在していただろうか?
 考えた末三島にも確認したが、彼もまた「無いよ」と簡潔に答えた。
 そうなるとますます疑問は深まる。全国大会にも出場経験のある選手が、もったいない。もしかして出場経験などと言ってベンチを温めていただけなのだろうか?
 あまり期待しないほうがいいのかもしれない。そう結論付けようとした雨宮の耳に、三島の何故かひそめられた声が届いた。
「ほら、あそこ。真ん中の子。思い出した、さんだ」
 まっすぐに伸ばされた腕が中庭の向こうを指し示している。
 いずれにせよスポーツを一定以上極めようと嗜んできた女の子だ。きっとたくましい身体つきの偉丈夫に違いない。
 雨宮は示す先に目線を向け、そして裏切られた。
 中庭に弁当箱を広げた少女たちがいる。その中央、箸を手に朗らかに笑う一人―――
 日焼けなんてしたことありませんと言わんばかりの白い肌に、腕や首はほっそりとしていていかにもやわらかそうだ。膝丈まで詰められたプリーツスカートから伸びる脚もまた。
 雨宮は思わずと立ち上がり、肘で三島の脇腹をつついた。
「ウッソだろお前三島こいてるだろ」
「なんでだよ」
 大して力の込められていない肘がくすぐったかったのだろう、三島はちょっと笑い顔をしながらすり足で距離を取る。
 雨宮は、陽光に照らされて輝くの艶やかな髪を見つめながら呆然と呟いた。
「だって今、完全にゴリラがシュージンの制服着てるの想像した……」
「失礼すぎるだろ!」
 今度は三島が雨宮を肘でつついた。
 それにも構わず、雨宮はじっと中庭で友人らに囲まれて昼食を楽しむなる女生徒を見つめ続けた。
「……ほんとに彼女が野球やってたの?」
 呆けた様子のつぶやきに答えつつ、三島はまたパンの袋を丸めて屑入れに放り投げた。いつの間にか彼の両手はすっかり空になっている。
「ソフトボールね」
「似たようなものだろ」
「サッカーをフットボールって呼ぶのとは違うから」
「イギリス人にキレ散らかされるよ、それ」
 雨宮の目はまだに向けられている。その瞳孔は開いて、陽の光の当たるところにいる彼女を映してキラキラと瞬いていた。
 けれど三島がそういえばと手を打つと、彼もまた現実に引き戻される。
「サッカーで思い出したんだけど、お前の地元のチーム、J2に降格したって?」
 ビシッとヒビが入るような音がした気がするとは、雨宮の残りの昼食を鞄の中で平らげていたモルガナの弁だ。
 雨宮は、錆びた機械のようにぎこちない動きで三島へ顔を向けた。
「は?」
 その表情は伊達眼鏡と長い前髪に隠されて窺えない。
 三島はからかうような口調でもって続けた。
「ていうかなんでホームゲームで負けるの?」
 今度はこめかみあたりの血管が千切れる、ブチッという音を聞いたと、後にモルガナは語る。
「三島ぁ……!」
 雨宮は地獄の底から這い出たような低い声でクラスメイトの名を呼んだが、呼ばれたほうは素知らぬ顔でスマートフォンを覗いて直ちに踵を返した。
「あ、次の授業始まる。じゃあねっ」
 そして彼は走り出した。意外なくらいに俊敏なその動きに、そういえば彼はトロくさくて二軍だとしても、全国大会を目指す運動部の一員だったのだと雨宮は思い知らされた。
「覚えてろよ! すぐにJ1に返り咲くからな!」
 小馬鹿にしたような笑い声が返される。
 雨宮は激しく地団駄を踏んだが、モルガナに窘められると程なくして大人しくなった。

 その放課後、雨宮はどうしたものかと思案しつつ校門をくぐる。
 相手が見つかったのなら後は声をかけるなりして接触を図ればいいのだが、さて。
 ―――どうやって声かけよう。
 このように迷うのは三島に語った通り、という少女が想像していたよりずっと愛らしい見た目をしていたからだ。下心込みで声をかけるのにはちょっと躊躇する程度には。
「悩むようなことか? あんな取引持ちかけた時点で恥ってもんを感じろよ」
 背に負った鞄から猫のお小言が飛ぶが、雨宮はこれを聞き流して駅に繋がる道を進んだ。
 そして偶然とか運命とかいうものは、いつもの如く彼に試練を投げつける。
 どうして己ばかりがこのような重荷を背負わねばと思ったことも一度か二度くらいはあるが、しかしこれまでその苦難の尽くを退けてきた少年は、今回もまた受けて立とうと己を奮い立たせた。
 つまり、行きと違って余裕のある車内で空席を見つけた彼が首尾よくせしめたのは、そのの隣の座席だった。
 の肩や腕に緊張がみなぎるのを嫌というほど感じて、雨宮はわずかに尻をにじって距離を空ける。
 どうやらこのなる少女は雨宮のことをある程度知っているらしい。そしてそれはおそらく、楽しいものではないのだろう。
 今更これを気にするほどでもなかったが、それでも心に小さなささくれができるのを感じつつ、彼は奥歯を噛んだ。
 これは『試練』だ―――そして『試練』とは即ち、神なるものが与えたもうた『機会』でもある。成長や進歩を促すための―――
 雨宮はぐっと首を捻ってのほうへ顔を向けると、彼女に向けて言い放った。
「野球やってたって本当?」
 鞄の中でモルガナが特大のため息をついた。共感性羞恥に似たもので小さな身体を震わせもした。
 そしては胡乱な目で彼を見返し、冷たい声を返した。
「はぁ……?」
 ある意味ではこれは当然の反応だった。相手が雨宮でなくたって、ろくに話もしたことのない同級生、おまけに異性に話しかけられれば、繊細な年ごろの女子であればこの反応は普遍的であると言えるだろう。
 雨宮は教室で前の席に座る高巻杏と出会ったばかりのころを思い返した。冷たい目と声、そっけない態度。彼は明確に落ち込みつつ首を元に戻した。
「すいません。なんでもないです」
 がっくりと項垂れもする。
 ファーストコンタクトとしては最悪に近い部類だろう。これをどう取り戻したものかと思案に暮れる彼をどう受け止めたのか、は幾度かつま先で揺れる床を叩き、戸惑いつつ彼に向けて小さく呟いた。
「……ソフトボール」
「え?」
「野球じゃなくて、ソフトボールだから」
「あ、うん、ごめん……」
 返答があったことにも、それが訂正であったことにも驚きつつ辛うじて応えると、はつんとそっぽを向いて口を引き結んだ。それはもう話すことは無いと言わんばかりだ。
 再び声をかけるのも躊躇われているうちに、キーと甲高いブレーキ音が響いて電車はスピードを落とし始める。車内アナウンスが次の到着駅が近いことと忘れ物がないよう促す声に耳を傾けていると、はすっくと立ち上がって無言のままドアのほうへ足を向けた。
 やがて電車が停車し、ドアが開くと彼女は振り返りもせずにホームへ降り立って姿を消した。
 遠ざかる後ろ姿を見送りつつ、雨宮はぼやく。
「同じようなものじゃないのか……」
「あの様子じゃ大分違うみたいだな」
 膝の上に置いた鞄の中からモルガナが囁いた。かすかな猫の声に耳のよい乗客が顔を上げたが、雨宮は素知らぬ顔で続く言葉に耳を傾けた。
「そんな興味があるなら調べればいいんじゃないか?」
 ソフトボールにも、野球にも大した興味があるわけではないが―――
 雨宮は帰りしな立ち寄った書店でソフトボールの専門誌なるものを発見し、これを購入した。
 これは正解の買い物だった。ソフトボール、即ち軟球式における正しいバッティングフォームが図解付きで掲載されているではないか。
 少年は猫が「もう寝ようぜ」と訴えるまで蛍光灯からぶら下がった紐を相手にスイングの練習に励んだ。
 その様は一端の野球少年のようだったが、しかし彼の手にあるのは丸めて棒状になった新聞紙である。

 さて翌朝、幸運なことに混み合う車内で空席にありつくことができた雨宮は、昨晩「いい加減寝ようぜ。な? ほら寝ろよ」と強制する猫に爪を立てられる直前まで目を通していた雑誌を取り出し、折り目を付けたところから読書を再開する。
 用語の説明だとか、大学チームの紹介や成績、近くあったらしい学生大会の結果だとか―――
 こうして目を通してみるとなかなかに興味深い。元来スポーツの類は嫌いではなかったから、彼は集中して雑誌を読み耽った。
 しかしそれも、ふと目線を上げた瞬間に断ち切られる。
「あ」
 思わずと声を上げた彼の目の前に、がつり革に掴まって渋い顔をしている。その目線は窓の外、流れる景色に向けられているが、彼女の意識が嫌でも目の前の少年に向かってしまっていることは、張本人たる雨宮にもよく感じ取れた。
 サッとモルガナが身を伏せて鞄の中に完全に姿を隠すのを膝の上に感じながら、雨宮もまた気まずく思って雑誌に目を落とす。
 するとちょうど示し合わせたように電車が揺れて、と、周りの乗客たちの身体が傾いだ。
 こんなのは見慣れた日常の光景だが、だからと言って黙ったままでいるのも、雨宮には我慢ならないことだった。
「……座る?」
 走行音で満ちる車内で、はこの囁くような少年の声を確かに聞きつけたのだろう。ちょっと意外そうな顔をして、困ったように眉根を寄せた。
 けれどその瞳はすぐに逸らされて、首が緩く左右に振られる。
「いい」
 きっぱりとした断りの言葉に、雨宮は呻いて雑誌に目を戻した。
 けれどその眼は綴られた文章なんて呼んでいなかったし、掲載されているフルカラーの写真やイラストだって情報として脳に入ることはなかった。
 どうしても視線が上にいってしまう。
 つり革に掴まるの腕はやっぱり細く、白い。スポーツをやっていたと言われても、下肢を主に使うものだろうかと勘違いしそうになるほどだ。だからといって彼女の下半身がよく鍛えられているのかというと、それもまた違っている。雑誌の下から覗き見える彼女の細い脚は電車の振動や乗車密度に合わせてふらふらと頼りなく揺れている。
 雨宮はもう一度視線を上げて、つり革にぶら下がる彼女の細い腕を見つめた。かすかに震えているのは本当に電車の揺ればかりが原因だろうか?
 やっぱり席を譲るべきだ。
 思って、雨宮は雑誌を閉じて立ち上がった。
「なに―――」
 瞠目するの声を無視して、身動きすら取れない中で強引に彼女を座席に押し込める。代わりに空いたつり革に手を伸ばしながら、雨宮はほっと息をついた。
 周りからいくらか迷惑そうな視線が突き刺さったが、構うことはない。褒められこそすれ、叱られるようなことは一つだってしていないのだから。
「あ……」
 はまだ少し驚いたような顔をして、膝の上の鞄に下げられた小さなマスコットキャラクターをいじりながら、それでもかすかな声で告げた。
「ありがと……」
 雨宮は小さく首を左右に振った。
 叱られるようなことでなくとも、下心が全く無いのかと言われれば、それはノーだったからだ。

 目的地が同じである以上、雨宮とは同じ駅で電車を降り、同じ通学路を進むことになる。
 仲良くおしゃべりをできる訳でもなく、かといって歩調を緩めるなり早めるなりして離れることもなく。会話はないが、少なくとも昨日や先ほどまでの気まずさはいくらか和らいでいた。
「……なんか声かけたりすれば?」
 鞄の中で身を縮こまらせていたモルガナがひっそり声を出す。それはおそらく、の耳に届いたとしても「ニャー」としか聞こえないことだろう。それはそれで問題だった。猫を持ち運んでいるというのは、ちょっとあまり、大っぴらに知られたくない彼の秘密の一つだ。
 しかしこのときに限っては幸いであった。
「なんで猫連れてるの?」
 気が付けばが不審げに、しかし瞳を煌めかせて雨宮の肩に下げられて鞄を覗き込んでいる。
 雨宮は渋面を作ってなんと誤魔化したものかと思案する。大した時間はかからなかった。
「子猫だから、家で一人にさせるのもかわいそうかなって……」
 もっともらしい理由だろうと己に言い聞かせるが、しかしモルガナこそが不満げな声を上げる。
「誰がだ! ワガハイは立派な一人の紳士だぞ! ていうか猫じゃねーよ! 訂正しろ!」
 紳士が子ども扱いに怒ったりなんてするものか。
 言い返したくなるのをぐっと堪えて、雨宮はモルガナの鼻を鞄に押し込んでファスナーを引いた。完全に閉じ込められた猫が暴れて鞄がバタバタと揺れる。
 するとの腕が伸びて、直ちに彼を解放してやった。
「かわいそうだよ」
 また彼女は咎めるような視線を雨宮に送りもした。
「よしよし、ひどい飼い主だね……うん、まだ一歳いってないくらい? たしかに大人猫じゃないかもね」
 細められた目は愛おしげで、顔を出したその狭い額を撫でる手は優しかった。モルガナさえも黙ってこれを受け入れるくらいだ。
 とはいえ彼の口は「猫じゃねーし飼い主でもねーし」とまだ不満を訴えている。
 その声はやっぱり、の耳には「ウニャウニャ」としか聞こえていないのだろう。ずっと引き結ばれていた口元が微笑ましげに綻ぶのがその証拠だった。
 モルガナよ、お前こそが俺の守護天使だったのか。
 なんてことは思わなかったが、しかし雨宮はこれに小さく拳を握った。
 つけ入るのであれば今ここしかない―――
 少年は努めて真剣な表情を取り繕ってに言った。
「野球教えて」
 返す言葉は早かった。
「だから、ソフトボール」
 その声には呆れが多分に含まれている。雑誌まで購入して熱心に読み込んでいたのにこの上まだ間違えるとは、わざとやっているのか、と。
 雨宮はぶんぶんと首を左右に振った後、頭を下げた。
「お願いします」
 精一杯の誠意とともに告げるが、しかし予想通り、帰ってきたのは拒否であった。
「やだ……」
 しかし昨日と比べればいくらか和らいでいるようにも思える。これはもうひと押しで陥落まではいかなくとも、跳ね橋を下ろさせることくらいはできるのでは―――
 勢い勇んで雨宮は言った。
「選手だったんじゃないの?」
 これは誤りであった。
 彼の足は全力で地雷を踏み抜いていた。
 ―――の瞳には一瞬で剣呑な輝きが宿り、仇敵でも見るかのような目つきで雨宮を見上げているではないか。
「……うるさい」
 けれどそれも、ぷいと顔を逸らされてしまうと見えなくなる。
 彼女はそのまま雨宮を置き去りにせんと歩き出した。
 その歩調はつい先ほどまでと打って変わって大きく早く、気の引けた少年からあっという間に遠ざかってしまった。