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事件の概要はこうだ。
まず、過去の四件。現場はすべて都内だが、場所や時間帯に規則性はこれといって見られない。ただし被害者や建築物は概ね単一か複合家庭であり、子供が最低でも一人は養われていた。
一件目は飲食店を兼ねた住宅の店舗部分が半焼。初報ではこれは失火によるものとされていたが、後に連続放火犯によるものと認定された。続いて住宅が全焼し死者が一名。次が最も大きな被害で、住宅二棟と店舗一棟が全焼し、二名の死者が出ている。最後の一件は沿線沿いの小さな集合住宅である。ただしこちらは日中の犯行であったため住民はほとんど出払っており、人的被害はゼロに抑えられた。
「プロファイリングによる犯人像は十代から二十代の男性。日中から深夜まで、位置的にもかなり幅広く活動していることから無職かフリーター、あるいは不真面目な学生ね。燃やされた住宅や店舗のほとんどに当時高校一年になる子供がいたそうだから、その関連じゃないかって」
梁の上に積もった埃を落としていた新島がマスクの下から滔々と語る声に、窓から身を乗り出してガラスを拭いていた坂本が首を傾げる。
「その学生って同じ学校なの?」
「いや、たしかバラバラだったはずだよ」
新島の足元で梯子を支えていたが「当時ニュースで見た覚えがある」と答えてやると、坂本は「わかんねー」とぼやいて天を仰いだ。
表の路地では高巻が、喜多川が支えるベッドマットになにかのうっ憤を晴らすかのような打撃を加えている―――
坂本はそれから目をそらして次の問いを投げかけた。
「ていうか、なんでそんなこと知ってんの?」
「テロの可能性も考慮されてお姉ちゃんも捜査に加わっていたのよ」
なるほどと頷いて、坂本は脚を支えに外に投げ出していた身を屋内に滑り込ませた。窓を引いて己の仕事の成果を確認して満足げに息をついていると、モルガナを抱えた部屋の主が隣に並んで、きれいになったばかりの窓に猫の肉球を押し付けて跡を付けさせた。
「あ! せっかくきれいにしたのに!」
「ワガハイのせいじゃねーぞ」
身を捩って腕から逃れた猫は、フンと鼻を鳴らして踵を返す。掃除となるとどうにも居所のない彼は、すぐに階段を降りて暇を持て余す惣治郎のところに駆け込んでいってしまった。
見送った新島もまた梁の掃除は終わりとマスクを外して床の上に音もなく降り立った。
「一応、犯人の目星は付いてはいたみたいなのよね。それに当時、あの―――明智吾郎が、いたわけじゃない」
「ああ……そういえば。そうだね、彼なら確かに犯人を見つけ出すことは容易だったはずだ」
「そう。実際、彼も関わっていたみたい。そして犯人は逮捕されるはずだった……」
「でもどうしてか、されなかったのね」
言ったのはバケツを手に階段を上ってきた奥村だ。新島は礼を言って手の中の雑巾をそこに放り込んだ。
「だからリーダーはこのシゴトを持ち掛けたの?」
問いかけられて、棚の上のほこりを落とし始めた少年は小さく肩をすくめ、顔半分を覆っていたタオルをずらして答える。
「別に関わって無くてもどうにかしてやろうとは思っていた。ただ、真にこの話をしたら芋づる式に冴……さんの話も出てきたから」
偶然だよ。
言い切って、彼はまた口元を覆って高いところのほこりを落とす作業に没頭する。
本当にそうだろうか? 仲間たちは少しだけ不安を感じたが、あえて掘り下げる話題でもないかと各々の作業に手を戻した。
さて、二年前の四件以後、犯人は沈黙する。この理由は明らかになっていないが、噂によれば『目的を達成したから』か『病死』か『焼死』である。しかし現在、十一月の半ばごろから似た手口による犯行がすでに三件発生している以上これはあり得ない。あるいは模倣犯という可能性もあるが―――どちらにせよ、何故二年の月日が置かれたのかに焦点が当てられる。
「まーでも、そのへんはどーでもいいことだよな。興味はあるけど」
表で高巻らとともにかつて少年が置き去りにした書物の類に積もった埃を払っていた佐倉が会話に加わる。彼女の腕の中には段ボールいっぱいの雑誌や文庫、ハードカバーが抱えられていた。ジャンルも形も一貫性の無いそれをどすんと乱暴に床に下ろし、佐倉は手を払って更に言を重ねた。
「まことのおねーさま、その目星の名前は教えてくれたんだろ」
新島は少しだけ困った顔をして手を止めた。
「あれ? 真、その件は問題ないって……」
倣って手を止めた少年が首を傾げると、新島はほこりによってすっかり黒ずんだ雑巾を絞りながらぺろりと舌を出した。彼女にしては珍しい、いたずらっぽい仕草であった。
「リーダー、ごめんね?」
「え?」
「掃除はやっておくから、あなたは接待してきてもらっていい?」
「え?」
誰の、などと訊く必要はなかった。その人物の名前は既に明かされている。
ちょうどトントンと軽やかな足音と共に高巻が上ってきて、彼を指し示した。
「お迎えが来てるよ」
「えっ?」
高巻の後ろから、どことなく疲れた表情をした喜多川もまた顔を覗かせる。
「くれぐれも機嫌を損ねるんじゃないぞ」
「えっ!」
「行く前に風呂入ってったほうがいいんじゃねーの? いや、変な意味じゃなくて、汚ねぇからさ」
「えーっ!?」
少年は手からはたきを奪い取られて、顔を覆うタオルを剥がされ、仲間たちによって屋根裏部屋から蹴り出された。
「ねえ、終わったらみんなで鍋パしない?」
「いいな。今度こそシメのおじやを……」
「あれ? うどんじゃないの?」
「両方用意すればいいんじゃないか。それより何鍋にする? 肉? カニ? 魚?」
「寄せ鍋でいいんじゃねーの。一々好みに合わせてたら決まんねーよ」
「それじゃあ、買い物行ってくるね。誰か荷物持ちに来てもらってもいい?」
「わたしも行くっ! おかし買って、おかし!」
階段を駆け下りた少年は、階下の喫茶店で猫の頭を撫でてやりながら優雅にコーヒーを楽しんでいる新島冴に泣きついた。
「あいつら俺抜きでなんか楽しそうなことしようとしてる」と。
冴の反応は冷たかった。泣き言を吐く前に身なりを綺麗にしてきて頂戴。
少年は涙目になりながらルブランを飛び出して行った。
明けた翌日。前日の深夜から呼び出しを受けていた少年たちは、新宿御苑の前に集められていた。
「え、まさか、ここ?」
目を丸くして問いかけた高巻に、集合をかけた少年はにっこりとして、落ち着きなく身体を揺らしながら
「いや、行ったことなかったから、入ってみたいなって」と答えた。
「ジジイかお前は!!」
坂本の腕が伸びて散策路から続く門へ向かおうとする彼の首根っこを掴まえた。
「おのぼりさん、私帰って勉強したいんだけど、いい?」
少年とはまた別の理由で身体を揺らす蓮美の腕の中で、珍しくモルガナが大人しく抱かれている。とはいえそれはすぐ隣で佐倉が彼の耳の下を優しく掻いてやっているからだろう。
そうでなければ蓮美もモルガナも、とっくにこの場を逃げ去っていたかもしれない。
さておき、少年は引きずられて遠ざけられて、彼らはやっと本来の目的に近づくことができた。
「東京観光したい」
「終わってからにしようね」
いまだぼやき続ける彼に奥村が優しく言ってやって、それでやっと彼も真面目にやる気になったのだろう。
背筋を伸ばした彼に先導されて一同が辿り着いたのは一つの公共施設だった。白い外壁とRC構造建築。堅牢な印象を与えるそれはどこかの学校の寮施設のようだ。
少年たちは先導者を除いて顔をしかめた。
「ちょい待ち……え? ここなの? またジョーク?」
「いや、今度は本当」
こたえて、少年はどこからともなく手帳を取り出して、彼だけが読み解ける崩れた字体のメモを読み上げる。
「放火魔は俺たちと同い年の高校三年生で、名前は……あー、双葉」
「言っていいのか? 大声で? ド派手にいくかっ?」
「小さい声で」
「ちぇっ」
つまらん、と唇を尖らせつつ、佐倉は一同を手招きして己の前に皆の耳を揃えさせた―――
小声で囁かれたのはこの国における行政府の長、その歴代に名を記したひとと、連体修飾語、そして『ひ孫』という単語であった。
たいへん結構なことに、これには『全員が』驚きを示した。
「マジかよ。えー、だから隠蔽されたってこと?」
そして彼らは、坂本がこのように驚く姿を見せることにこそ最も強い驚きを露にした。
「竜司……ちゃんと勉強しているんだね。じゃ、じゃあついでに国家公務員法によって退職後も課せられる義務を……」
「失礼な反応!!」
瞳をきらきらと輝かせて腕を掴む蓮美を放り投げて、坂本は彼女ほどではないにせよ感心したような目をする連中を追い払うように腕を振るった。
「とにかく! 行くんならさっさと行こうぜ。時間ねーんだからさ」
ごもっともな意見であった。
少年たちはただちに人目の少ない場所を選んでスマートフォンを取り出した。
……
テレビの中で、一人の男がカメラのフラッシュを浴びながら震えている。色の薄いサングラス、剃り上げられた頭部に、質の良さそうなジャケットがそのたびに光を反射して瞬いた。
当選に対する喜びや感謝の言葉を誰もが待ち構えていたが、男の口から語られたのは己の罪に対する呵責だった。
映像は途切れる。テレビには白を基調とした清潔そうなスタジオに並んだ二人の姿勢を正した男女が映し出された。
十二月二十四日―――クリスマスの先に迫る年の瀬に際した気だるい午前のころ、テレビは衝撃ニュース百連発と題して、今年一年テレビと世間を賑わせた報道内容を面白おかしく刺激的に編成して垂れ流している。
その番組の司会者を務める男女は、先ほどの録画映像を指して淡々と語る。
去年の終わりごろにあった獅童正義の突然の自白と、今年に入って行われた自供とそれに関する捜査の様子―――来年の春ごろには事は法廷に移るだろうと予測されているが、獅童正義が指示した八件の殺人と去年の四月に起きた電車暴走事故、これらを行った実行犯は未だ捕まらず、行方も正体も公にされていない。
このことから実行犯は未成年なのではないかと司会者たちは難しい顔で語り合っているが、いずれにせよ獅童正義への判決が決定されるにはまだ月日がかかるだろうし、状況もその間に変わってくるだろうと結ばれる。
つまり、なんにも分からないってことじゃないか。
リモコンを手にじっと身を固くしていた少年は、やれやれと息をついて寝台に横たわった。
テレビはまた次の事件の紹介に取り掛かっている。少年は薄目でそれを見るともなしに覗った。
都内で起きた合計七件の連続放火事件、その犯人は―――
「お、やってんじゃねえか」
あかあかと灯る石油式ストーブの前で丸まっていたモルガナが顔を上げた。
その声がどことなく弾んでいるのは、彼の右ひげが焦げて短くなっていることと深く関連している―――
三日もかけて攻略した連続放火犯のパレスは、表すのであれば『地獄』であった。
紅い空と大地、そこかしこに空いた底の知れぬ穴からは断続的に焔が吹出し、一歩進むだけで汗が流れたかと思った次の瞬間には蒸発して塩だけが残される。そうでなくたって、立っているだけで火傷しているような気になるくらいの灼熱地獄であった。
そしてなにもせずに立っていると靴の底から煙があがる。
モルガナはずっと誰かの肩の上か背中に乗っていなければならなかったし、常時火炎によるスリップダメージを受けているようなものだったから、フォックスは使いものにならなかった。
かといって火の扱いを得手とするパンサーが役に立ったのかと言われれば、彼女の攻撃はほとんどの敵に吸収、無効、反射されてしまった。
結局、体力に余裕のあるスカルに牽引される形でどうにか突き進んだ彼らは、パレスの中でいくつもの犯罪の証拠品を発見する。それは着火具であったり、袖が焦げたジャケットであったり、熱によって歪んだポリタンクや、何某かの記録媒体であった。
何故そんなものがパレスにあるのか。オタカラというわけでもなく、厳重にしまい込まれるわけでもなく、とりあえず他に捨てるところが無かったからここにとでも言わんばかりの無造作さで。
答えはすぐに判明した。
パレスは人の心の具現化だ。心とはすなわち、記憶と深く繋がっている。
彼らは程なくして、少年にとっての因縁の相手が放火魔を優しく諭している姿を発見する。
『証拠は私が誰にも見つからない場所に捨てさせた。なにも案ずることはない。だが、しばらくは大人しくしていなさい。君のひいお祖父様もとても心配していたよ―――』
ジョーカーは一人で突っ走ってその男の顔に拳を突き入れたが、記憶から創り出された幻影に触れることは叶わず、一人で焼けた岩肌の上に転がって喚いていた。
なるほどそーゆーことね。
額にひどい火傷を負ったジョーカーを治癒してやりながらパンサーがまとめて曰く。
つまり、放火魔はなんらかの理由から犯行に至ったが、その決定的な証拠の類は獅童の手から明智吾郎の手に渡ってすべて隠滅されてきたわけだ。
だから二年前、逮捕から遁れることができた。そして今また犯行を再開させたのは―――おそらく当時彼を直接嗜めに来た獅童正義がついに逮捕起訴され、押し留めていた存在が消えたことによるものだろう。
口やかましく言って監視する大人がいなくなった末の暴走にしては、少し規模が大きすぎる。
そう結んで、パンサーはしおれた菜っ葉のように項垂れるフォックスの尻を蹴って先を急がせた。
ナビが語って曰く―――『人が死んでんねんで』とのこと。
まったくその通りであった。容赦する理由も、手心を加えてやる理由も、同情を寄せてやる理由もなかった。
そもそも彼らは同年代である犯人の動機を積極的に探ろうとはしなかった。窺い知れる限りではフラストレーションの発散だとか、中学時代に気に食わなかった相手だったとか、そういった訳が垣間見えたが、もはやそんなことはどうだってよかった。
三名の死者と寂しがっている少女と辺りを包む灼熱と天秤にかけたら、そんなことはまったく汲み取る必要のないことであった。
そのようにして怪盗団は首尾よくオタカラを奪って帰還し、拾い上げた証拠品の類をキレイにラッピングして警視庁に送り付けた。差し込んだメッセージカードには『メリークリスマス』という文言と共に、常ならばシルクハットが描かれる部分がサンタ帽にすり代わり、仮面の下にはヒゲが蓄えられているマークが記されていたとかいないとか。
そして長らく文字通り地獄のような暑さの中にいた猫は、現実の世界の冬の寒さに耐えかねてストーブに必要以上にくっついてヒゲを焦がして失った。
少年は短くなってしまった靴下猫のヒゲを引っ張って弄び、激しく手を蹴りつけられる。
「いていて、いてて、モルガナ、痛い」
「触るんじゃねえっていつも言ってんだろうが」
「俺にもお前をモフモフする権利があって然るべきだ」
「ねえよそんなもん」
つんと顔をそらした猫に、少年はがっくりと肩を落として、またテレビに目を向ける。すべての事件を紹介し終えたらしい番組は、最も注目すべき件として再び獅童正義の顔を映し出している。
―――始まりはいつもこの男だと思うと、少年は忌々しく思う。こんな男のせいでと、憎しみが湧き上がってくる。
けれど、すべては終わったことだ。もはや決着は付き、もうあの男は手の届かない場所に行ってしまった。彼の手の中にはまだ、あの男のパレスの中で『ブチ込んで』やった拳の感覚が残されている。それで十分とすべきだ。失ったものは多く、取り返すこともできなかったものもたくさんあるけれど、それは、引き換えに得たものの価値が失われるという意味では決してない。
そして少年は、ふともう一人、同じようにもう手の届かないところへ行ってしまった者のことを思い出した。今回の事件にも深く関わっていた『彼』のことだ。
この数日怪盗団が奔走したあの熱気溢れる場は、いわば彼の残務処理であるとも言える。まったく忌々しいことだ。
それから彼はまた、依頼人の少女のことを思い返してスマートフォンを取り上げた。彼女にも任務完了の報を送ってやろうと思い立ったのだ。
しかし……
送ったはずのメールは、送信先不明で即座に舞い戻る。
「あれ」
どういうことだともう一度送信を試みるが、やはり悪魔が返信するばかりだった。
そこには宛先が存在しないと記されている。少年はこれに心当たりがあった。
すぐさまストーブの火を落とし、テレビの電源を消して、ジャケットを羽織って猫を引っ掴んで階段を駆け下りる。向かう先は佐倉家の二階。双葉の自室であった。
果たして彼女は少年の疑問に答えた。
「いやそのまんまだよ。相手先のメアドが存在しないんだって」
「なんで?」
「わたしが知るかよ。ロリコンだってバレてメアド消されたんじゃね?」
「誰がロリコンだ」
わずかな時間冷たい外気に晒されただけで膨らんだモルガナを抱えた双葉の言い様に、少年は思い切り顔をしかめた。
「そもそもさ、どーいう知り合いなんだ?」
「それは……去年の間にこっちで知り合って、アドレス教えてって言われたから教えて……」
「ふうん? それで?」
「……そういえば、十月くらいにメアド変えたって連絡が来て、それで今のになった」
佐倉はモルガナを放り出してひっくり返った。長い髪が床に着くのも、首にかけたヘッドホンが落ちるのにも構わず、足をばたつかせてそのまま床に落ちて転がる。
「おまえ……おまえソレ……オレオレ詐欺の常套手段じゃねーか!」
少年は息を呑んで、床に頽れた。
「犯罪の被害に遭わない一番の方法は?」
寝そべったままのかっこうで佐倉が問いかけるのに、少年は消沈した様子で「その手口をよく知ること」と答えた。
「引っかかってんじゃねーか」
「話すことも依頼内容もあの子の環境と一致してたんだ……」
「はぁん? ちょい、貸せ」
貸せと言いつつ、佐倉の手は素早く少年からスマートフォンを奪い取る。彼女はじっと少女から送られてきた依頼のメールを眺めていたかとおもうと、ばね細工のように起き上がってご自慢のすーぱーましんに取り付いてキーボードを叩き始めた。
「フタバ? どうしたんだ?」
きょとんとした様子のモルガナにも応えない。少年と猫は顔を見合わせて、これは彼女の思い付きが終わるまで待つしかないかと肩を竦めた。
手持無沙汰になった少年は、いつもの如くちらかった佐倉の部屋の整理整頓に努めることとする。床に積み上げられた本や雑誌、ゲームの山を分類し、埃を落として棚に収め、少女の肩にブランケットをかけてやってから窓を開けて掃除機を回す。寝台の上でくちゃくちゃになった布団と毛布、シーツを剥がして入れられるものは洗濯機に、そうでないものはとりあえず物干しざおに引っ掛けておく。それから、予備のシーツを失敬してベッドメイクと枕カバーの交換と―――
佐倉が「んあぁ!!」と奇声を上げるころには、部屋はすっかりピカピカになっていた。
「おいっ! これってうわあ! 部屋がきれいになってる!?」
「一応部屋が汚いって自覚はあるんだな……」
唸るモルガナを佐倉の膝の上に預けて、少年は問いかけた。
「それで、なにか分かったのか?」
「ん。あー、これ、送信主。間違いなくおまえの知ってるロリじゃないぞ」
「ロリって言うな。どういうこと?」
「普通メールって、送信用のメールサーバーに送られて、そこからアドレスのドメイン名から相手のメールサーバーのIPアドレスを求めるようにスタブリゾルバを使用してDNSサーバーでドメインとIPを紐づけを行って……」
「ごめんちょっとよくわからない」
「んもう! だからぁ、このメール、日本から送信されてないんだよっ」
少年は首を捻った。彼女の言わんとしているところが理解できなかったのだ。
その理解の遅さに佐倉はまた足をばたばたと揺らして、モルガナを困らせた。
「あわわわわ……フタバ、ゆれゆれゆれ……」
「だからな、つまり……海外をあちこちを経由して、最終的に日本国内から送信されたように偽装されてるんだよ」
「なんのために?」
「そりゃ……自分の正体を明かさないため?」
少年は同じ問いを重ねた。
「なんのために?」
「それはわかんない……」
佐倉は困った様子でモルガナを抱きしめた。
「ぐえ」
「優しく」
「あい」
「ふう」
さて、少年と少女、それから猫は額を付き合わせて唸る。いったい誰が、なんの目的で己の正体を伏せたまま、連続放火犯の改心を依頼したのか―――
答えは薄っすらと見えていたが、しかし、少年たちは目をつむってそれから目を逸らした。
ただ、少年はポシビリティーに向かって呟いてみせる。
「あいつ六歳女児のふり上手いな」
佐倉の腕に鳥肌が立った。
「このキャピキャピした文章とスタンプと絵文字どういうことだよ……ちょっと追跡して通報するからな」
「よしやれ、双葉」
「ラジュ!」
ビシっと敬礼してみせて、佐倉は再びキーボードに取り付いた。
……
喜多川祐介は困惑していた。
いったいどうしてこんなことになったのか。昨日まで挑んでいたパレスで使いものになれなかった報いか、はたまた日頃の行いが悪かったのか―――
彼の前には剣呑な目つきをして腕を組み、彼の頭の上からつま先までをじっと眺める少女が立っている。
喜多川は意を決して彼女に呼びかけた。
「、どうしたんだ」
「ちょっと黙っていて」
言論は即座に封殺された。なんという横暴か。喜多川は目を閉じてこれに耐えた。
するとその忍耐の姿勢が評価されたのか、少女は「よし」と呟いて彼を解放した―――
クリスマス・イブの昼前、渋谷の駅前は人でごった返している。
この前日、改心の完了とともに喜多川はを捕まえて思いの丈をぶつけてやった。
すなわち、俺以外の誰とイブを過ごすつもりでいるんだお前は。ということである。
はしばらくあーとかうーとか呻いて困り顔をしてみせたが、やがて
『そんなに私の厄介ごとに首を突っ込みたい?』と問い返した。
もちろん彼の答えはイエスだった。もしも彼女が厄介ごとや困りごとを抱えているというのなら力になってやりたいし、頼っても欲しかった。そもそも問題があるというのに黙っているというのもいただけない。そんなに己は寄りかかるのに不足だろうか。
そのようなことを告げてやると、はやはり困ったような顔をして、それからやっと『わかった』とこたえた。そこには大きな恥じらいと、そして諦観の念が籠められていた。
それから、は喜多川に一つのお願いをする。
『明日、十一時ごろ、ここに来てくれるかな。きちんとした格好……制服でいいよ。寝癖つけてきちゃ駄目だからね』
喜多川はその注文を受けて、首を傾げつつ彼女に問いかけた。
『デートか?』
少女は頬を赤らめて俯いて、
『そうなるといいとは思う』と答えた。
まったく不思議な受け答えだった。
今に至ってもまだその意味するところは掴めていない。それどころか約束の場所に現れるなり値踏みするようにジロジロと眺められて、ますます困惑は深まった。
「なあ、。いい加減どういうことなのか教えてくれてもいいんじゃないか?」
「ん……」
は腕を伸ばして喜多川の襟元を整え始めた。しかし答える気はあるのだろう、伏せ目がちに口を開いて、やっとここしばらく喜多川を苦しめ続けたわけを話し始めた。
「これから、三人の人と会わなきゃならない」
「例の会う予定があると言っていた輩か。三人もいたのか?」
「正確には、一人と一組。同時にじゃない。これから一人と会って、夜に一組と」
「なんだか、忙しいな」
の手はもうすべきことを終えていたが、彼女はその距離を保ったまま話し続けた。
「一人目はその、私のパ……お父さんなんだ」
「え……」
「……帰りたくなった?」
「い、いや、そんなことはないが……」
しかし少しばかり都合が悪いと喜多川は思う。何故なら彼は、一方的に、すらも知らぬ内に彼女の父を盗み見て、会話を盗み聞いて知っている。
それは彼女の父と知らなかったからなのだが―――とても明かすことのできない秘密に、喜多川は少しだけ鼻白んだ。
そしてまた懐かしくも思う。そうだ、あのころ自分は彼女のことをまだ友達だと思っていたんだっけ……
「無理にとは言わない。騙し討ちみたいなことをしたことも謝るよ」
「許そう。それに先約というのも納得できた。報せてくれなかったことは少しだけ腹立たしいがな」
「う、それは。だって、クリスマスにパパとランチなんて、すごくファザコンみたいじゃないか……」
「違うのか?」
「違います。本当なら、断りたいくらいだったんだ」
そうなのか。と喜多川は軽く目を見開いた。彼には父親と会いたくないという気持ちがよく理解できなかったのだ。そもそも父親というものも喜多川にとっては未知のものだ。師である斑目は父と呼ぶには少しばかり歳を重ねすぎていたし……
ふうむと唸って、喜多川は肩に乗せられたままのの手を取った。
「前々から気になっていたんだが、は父親のことが嫌いなのか?」
率直な問いかけであった。またその手は正直であることを望んでいる。
「分からない」
果たしては素直に己の心を明らかにした。
「お母さんは嫌ってる。それは仕方のないことだと思う。問題は私のこの感情が、それをずっと見てきていたからなのか、私自身のものなのか判然としないことなんだ」
「なるほど」
「だから今日、会って、分かるかなと思ったんだ。冷静になった今ならなにか変わるのかもと……」
「俺がいていいのか?」
「居て欲しい」
率直な答えに喜多川は心臓を握り込まれたような心地になった。有り体に言えば、彼は目の前の少女が素直になって己を頼ろうとしていることにときめいていた。
頼られるというのは、とみに相手がこの少女であるとなれば、なんと心地よいことだろう。
満足げに「任せろ」とこたえた彼に、はどこか悔しそうに言い募った。
「そ、それに、きみがいかにも彼氏面してそばに居てくれれば、さすがの父も空気を読んで早めに退散してくれるだろうから。うん、だから、そう……」
「わかった」
少年は力強く頷いて、少女の瞳を真正面から覗き込んだ。
そして自信満々に言い放つ。
「娘さんをくださいと頭を下げる準備はできている! たった今整った!」
「そこまでの覚悟は求めてないよ!」
なんてことを言い出すんだ。
は思い切りよく彼を突き飛ばしたが、半歩程度にしか距離は空かなかった。
「あああ、やっぱり失敗だったかもしれない」
「失礼なやつだな。それで?」
「ん?」
「もう一組は……だいたい予想はできているが、誰だ?」
「お母さんとそのカレシだよ。こっちは、あー、本気で嫌だぁ」
言うなりはきれいなジャケットがしわになるのにも構わずに壁に肩と背中をつけて項垂れる。
確かに喜多川は以前から彼女の母親が年下の男性と付き合いを始めたらしいと聞き及んでいたが……なるほど、つまり、そういうことか。
少年は深く納得して少女の頭を持ち上げてやった。
「助けて祐介……」
ぐんにゃりとしたまま見上げてくる瞳はどことなく潤んでいる。
ファザコンではなく、マザコンだったか。
などとはとても口にはできないが、正鵠を射ている自信はあった。過剰に母親を好いているという意味としてではなく、複雑な感情を抱いているという意味で。
喜多川は小さく唸って、首を左右に振った。
「こればかりはどうにもならん。諦めろ」
「はい……」
大きなため息をついた少女に、喜多川はやっぱり彼女は父親が嫌いなんだろうなと思う。血の繋がった肉親ではなく、父親というもののイメージや、それを想起させるような存在がだ。
「なるほどな」
「なにを納得しているの」
「まだ知らないことがあるなと」
「なにが」
「お前が」
少女は沈黙して、また憂鬱そうな息をついた。
「分からないことだらけだよ。きみのことも他の人も。なんでまた今この時期に……」
「え、俺もか」
「きみが一番分からないよ」
どことなく恨みがましげな調子で吐き出された台詞に、喜多川はいかにも困った様子で頭を掻いた。なにを考えているのか分からないとはよく耳にするフレーズではあるが、しかし、まさか付き合っている相手に言われるとは。
とはいえたった今己もまた知らないことがあると言ったばかりだ。
喜多川はふっと口元を緩ませて彼女にならって壁に背を預け、行き交う人波に目を向けた。
クリスマスでなくても、もう年の暮れの近づくころだ。着飾った恋人同士も、そうではない独り者も、誰もかれもが寒さに背を丸めて早足に通り過ぎていく。自分たちのように壁際によってこそこそと声を交わし合う人もいるし、誰かを待つようにそわそわと時計を確認しながら足踏みをする者もいれば、喫煙所で紫煙に巻かれて疲れ切った表情をする者もある。あるいは友人同士で集まって騒がしくする集団も。
それらはやっぱり、喜多川の好奇心と創作意欲をよく刺激した。
ふと彼は己と隣にならぶ少女はどう見えるだろうかと考えた。きっと時間を持て余す若いカップルと見られているだろう。そうだといいなと思う。
白い息を吐きだして、はエナメルレザーのメリージェーンパンプスで足元を叩きながら言った。
「こんなことを言うべきではないんだろうけど、こういう時は君が少し羨ましい」
「うん?」
首を傾げて見下ろしたとき、彼女はじっと彼を見上げていた。
「ある意味できみは自由だ。きみには……こんな言い方はきみを傷つけるだろうけど……きみには、家族がいないでしょう。それはつまり、家族にまつわる面倒ごとを引き受けずに済むと言うことでもあるわけだ」
「そういう考え方をしたことはなかったな」
どことなく感心したように返されたことにだろう、少女の艶やかな唇からは安堵の息が漏れた。
「ないほうが良いに決まってるよ」
「そうだな。でも、俺はお前のその面倒ごとが羨ましい……気がする。いや、どうなんだろう。経験が無いから分からないな」
「そうだね。そういうものなのかもしれない」
ため息を漏らして、はずっと遠くのほうに目線を投げた。
喜多川は思わずとそれを追ったが、彼女がなにを見ているのかまではわからなかった。おそらくきっと、なにを見ているというわけではないのだろう。彼はそのままじっと言葉の続きを待った。
「でも、私とずっと一緒にいるということは、こういう面倒を今後も背負い込むということだよ。たぶん、私の家は他の、きっと普通とか定型って表現されるご家庭とはちょっと違う。昨今じゃ離婚もシングルマザーも珍しくはなくなってきたけど……それでも、たぶんまだ少数派だと思う」
「数が少ないことは悪いことじゃないだろう。それにこれは、巡り合わせの問題だ。お前にどうにかできるものでもない」
もちろん俺にも。
言い切ることに少しの情けなさを感じつつ、それでも彼は彼女の手を取って強く握りしめた。
「けど、そうだな。うん……」
「なに?」
首を傾げたとその手を握ったままの喜多川の前を、無数の人々が通り過ぎていく。誰も二人に関心などもつことはないようだ。
不思議な感覚だった。目の前の人々と、隣の女の子と、特別なにかが違うというわけではないのに、関わる度合いはまったく違っている。
それは彼が今こうしているように、ずっと前に彼女の手を取ったからだが―――
であれば、歩き去る人々悉くの手を握って回れば、彼女のように関わりは強まるのだろうか。もちろん現実にそんなことをすれば怒られたり気味悪がられたりするだろうが……これは比喩表現だ。
ほんの些細なことで人との繋がりというものは生じて、強まったり弱まったり、時には途切れたりする。そしてそこには、が言うような面倒ごとや厄介ごとや、苦労に苦痛が付いて回るのだろう。
少年は己に対して「しかし」と接続詞を投げかけた。けれど、でも、だけど、さりとて。
そして少女には満面の笑みを向ける。
「お前の言う面倒ごとこそが、俺の求めるものだ」
は怪訝そうな顔をするが、喜多川はまったく構わなかった。
この小さな手のひらが無数の人々と繋がる機会に溢れているのだと思うと、決して離そうとは思えない。彼は素直にそのことを口にした。
「、俺はなにがあろうとお前から離れない。お前もそうしてくれ。そのほうがきっと楽しいことになる―――」
これには驚いたような、困ったような、しかし喜んでいるような表情をして、頬を赤らめもした。
いつもの如く彼は夢中になっていて、己の背後に待ち人が現れていることに気が付かなかった。そもそも彼はその人を待っていたわけではないから、仕方のないことなのかもしれない。
「パパ、ひ、久しぶり……」
喜多川が振り返ると、そこには実年齢よりよほど若く見える背の高い男が立っていた。仕立ての良さそうなスーツに、手には花束―――赤いバラとガーベラ、ヒペリカム―――が握られている。
男はムッとした顔をしてそれを娘に手渡して言った。
「、この子は誰かな」
は―――おそらく、彼女と彼の関係性を正しく説明しようとして口を開いた。
しかし我を取り戻すのは喜多川のほうが早かった。それは彼女にとって手痛い失態であった。
「お義父さんはじめまして、喜多川祐介と申します。お嬢さんとは結婚を前提に付き合っ」
彼の言葉と視界は真っ赤なもので遮られた。がその手に渡された花束を彼の顔面に向けて全力で投じたのだ。
「いつそんな事実ができたの! その準備と覚悟はいらないって言ったでしょう!!」
「えー……」
花弁と実を顔と髪にくっつけたまま項垂れる少年と愛娘の姿に男はしばらく呆然としていたが、やがて莞然として二人の肩を押して促した。
ちょうど時刻は正午になるところだ。どこかでなにかを食べようかと提案すると、まだ赤いものを付けたままの少年が嬉しそうにこれに食いついた。
娘はしばらくああだこうだと文句を付けていたが―――
早くも意気投合し始めた男連中にため息をつきつき、倣って歩き始めた。
は己にまつわる様々なことを指して面倒ごとと表した。
しかし彼女にとって最も大きな面倒は、何故かすでに己の父にすっかり懐柔されてしまったらしい少年だろう。
もまた己に対して接続詞を投げかけた。けど、でも、だって、しかれども。
彼女にしたってそれは求めるものだった。
実のところもう一月前から用意してあったこの日のためのプレゼントをどのタイミングで渡してやるべきか。思案しながら、少女は父から少年を引き剥がしてその手を強く握った。