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30:Finishing Touch
……
武見診療医院の診察室奥、事務作業が行われる小さなスペースで、は女医師と向き合っていた。
「これね、麻酔薬だよ」
持ち込まれた粉末が何かという問いに答えた武見は、しかし剣呑な表情を崩さず少女を睨み付けている。
「どこで、誰に貰ったの」
脅すような、叱るような声色に、は安いパイプ椅子から転がり落ちそうになりつつ答えた。
「その、知り合いというか敵というか、一時的な協力者というか……」
「ヤバい連中?」
「と言われれば、そうですとしか。ただ、集団ではなく個人です」
ふうんと納得した様子を見せて、武見は重苦しい嘆息を漏らす。
その細く長い指は粉末の納められた筒を弄んでいた。
「麻酔薬は麻酔薬だけどね、これ、乱用薬物として麻薬に指定されてるから」
「うえっ」
「知らずに受け取ったの? パクられずに済んで良かったね」
短く呼気をついて、武見はまた少女を睨んだ。
「でも、次も上手くいくとは限らないよ。分かってるの? モルモットくんと同じ目に遭いたい? 違うでしょ」
呻いて俯いた少女に容赦する理由を女は持っていなかったし、大人として彼女の行動を嗜める義務がある。
もそれは理解しているのだろう。呻きはしても決して反論も言い訳もしなかった。
武見は何度目かも分からぬため息をついて違法薬物を手の平に握り込んだ。
「これは私が処分してあげる。二度と馬鹿な真似はしないこと、いい?」
頷いて、少女は深々と頭を下げた。
それは謝辞を示してもいたし、反省を示してもいる。感服の意もあった。
しかし顔を上げた少女は何事かを深く思案する様子で問いかける。
「それを渡してきた輩は、私が必ずそれ……のようなものを使うだろうと言いました。先生はこの意味が分かりますか?」
真剣な姿に武見は気圧されたようにわずかに身を後退る。
少女が冗談やからかいの類いをこのような状況で好んで口にする質でないことは理解しているからなおのこと戸惑いは強かった。
それでも武見は組んだ足先を揺らして答えてやった。
「……麻薬として指定されてはいるけど、医療の場ではやっぱり麻酔として用いられるおクスリだからね。国によっては強いうつ症に対する使用が認められているし……」
「ということは、沈静作用があるんですね」
「何度も言うけど、本来は麻酔薬だから。精神は沈静化される。ただ間違った使い方をすると幻覚症状が表れるの」
つまり、と前置きして武見は己の結論を述べてやる。
「このクスリを必ずしも使うとは言わなかったんだよね。なら、トランス状態に入ることを示唆している、とかかな」
「トランス状態か……」
おうむ返しに肩を竦めて、武見は鼻を鳴らした。
「チベット僧や山伏みたいに修行してみる? 極めれば魂だけを飛ばして悪人・悪霊退治、なんてことも出来るらしいじゃない」
冗談めかした言葉に、しかしは深く考え込んだ。武見はしまったと舌打ちしそうになるのをこらえて、黒塗りのマグカップに手を伸ばす。こういう冗談が通じる子じゃなかったんだ。
「……なんにせよ、こんなものを渡してくる時点で相当タチが悪いよ。そいつとは二度と会わないこと、いいね」
は自嘲とともに応えた。
「私だって会いたくありませんよ。失態はたくさん重ねてきたけど、彼を取り逃したことはきっと死ぬまで一番のやらかしです」
そもそもがこの厄介な品を投げて寄越したあの少年と再会の約束をしたのは獅童正義の殺人教唆の立証のためだ。
彼は獅童を嵌めることに心血を注いでいたのだから、証拠はそれこそ山のように持っているだろう。
実際、彼が寄越した封筒のほうには、メールや通話、SNSを介したやり取りの記録に、走り書きのような指示書、ターゲットの詳細といった、二人にまつわる因縁のおおむねほとんどが詰め込まれていた。
これはいまだに獅童のクリーンなイメージを信じて擁護する声を多少なりとも押さえ、救い出そうとしている少年への心証を回復させることに役立った。
しかし一方で、獅童正義の殺人教唆の証拠としては難しいものがあった。
肉声や肉筆で獅童が殺害を指示した対象が複数人にわたって死亡しているのだから言い逃れできようもないが、実行犯たる彼を取り逃したことが痛恨であった。
考えようによっては実行犯の逃亡は有為でもある。
なぜなら怪盗団がそうであるように、一連の精神暴走及び廃人化事件の実行犯である彼もまた不能犯だからだ。
認知世界における心の破壊と現実での暴走・廃人化の因果関係を証明できなければ立件は難しい。
一方で、証明できてしまうとなれば、それは救い出そうとしている少年こそを窮地に追いやる結果になるだろう。
彼がただの非行少年と見做されているのは単に犯行が物理的に不可能だからだ。この世の誰にも。
彼の心証を回復させ、獅童の社会的信頼を失わせたことでよしとすべきなのだろうか……
悔しさに歯噛みすると、憎っくき実行犯たる少年の顔が頭をよぎる。
あの薬……
何故彼はわざわざ危険をおかしてまでしてあれを寄越してきたのだろう。
どんな手を使って入手したのか、そもそも何故数ある違法薬物の中からあれを選んだのか。
幻覚やトランス状態を体験させたいなんてかわいい理由では決してないだろう。
では単純所持による補導や逮捕が目的か。
そんな単純な話ではない気がする。少なくともの知るあの探偵が、こんなストレートな嫌味や嫌がらせを好むとは思えなかった。やるならもっと搦め手を用いて、毒を染み込ませるような手法を取るのではないか?
按じて、はまた別の調べものに走り出した。
……
一月が経過する。
多くの人の手を借りて帰還した少年は、暖かな出迎えと手荒い叱責のどちらにも喜んでみせた。
心の底から、彼は幸福を実感していた。
自分を信じてくれる人がこんなに居たのかと知って心から満たされた。
そして迎えたバレンタインデーに、彼はこの世の地獄というものを知った。
苦痛や屈辱、失望や恥辱などこれに比べたらなんということはない。
差し出された無数の、きれいにラッピングされたチョコレート。笑顔か、あるいは不安げな顔を見せる少女と女たち。
彼女たちは言った。
もう分かってないなんて言わせない。私たちみんな、キミのことが好きなの。
だから、選んで。どれでも。一つだけでも、二つでも三つでも、幾つでもいい。なんなら全部取っても構わないし、全てを拒絶してもいい。
心配しなくていいよ。フラれたからって恨んだりしない。もしも恨むとしたら、それはなんにも言わないで、一人でかっこつけて、どこかに消えちゃうことに対してだけだから―――
少年は応えて言った。
チョコ『は』欲しい、と。
……
明けた翌日、若者たちは渋谷の連絡通路に集合していた。
「それで、どうなったの?」
「やめろ聞くなって。どうしてもってんなら俺がいないとこで話して。関わり合いになりたくない」
場にはすでに七人が揃っている。話題の中心にされた少年とその相棒の靴下猫は今改札を出たところだと連絡があったばかりで、姿を見せるのにはもう数分かかるだろう。
「この場の人間関係にも関わることだし、確認しておくに越したことはないでしょう」
「いやいや、シゴトにワタクシゴト持ち込んだらダメだろ……」
なおも言い募るに、坂本はげんなりとしてそばの手すりに寄りかかる。
こたえたのは新島だった。
「一応、現状維持ってことになったわよ」
「というと?」
興味深げな声を喜多川が上げる。
「そのまんまだって。今まで通り」
肩を竦めて高巻が答えるのに、奥村と佐倉が補足する。
「期限付きだけどね」
「あいつが二十歳になるまでは不可侵」
坂本は両手を耳に押し当てて聞こえないよう努めた。俺は普通の、お前らと関わり合いにならない相手を見つけてやると言いもしたが、誰もそれには反応してやらなかった。
「つまり全力で逃げ切ったのか。さすがリーダー」
「あの全力疾走とそれを維持する体力には目を見張るものがあったな」
うんうんと頷きあって、喜多川とは妙に納得してみせた。
前日に二人はちょうど逃亡する件の少年に遭遇していたのだ。また彼は「匿ってくれ」と懇願もしたが、二人は揃って彼を蹴り出した。
自業自得で、因果応報だ。と言えば無慈悲かもしれないが、彼がした裏切りとそれによって被った謹慎―――仲間の危地に受かれた真似をすべきではないと逢瀬を禁じた期間を考えれば、それもやむ無しと言うものだろう。
この上やっと手に入れられた二人の時間を邪魔されてなるものか、ということだった。
「そういうあんたたちはどーなのよ?」
矛先は唐突に二人へ向かう。
は直ちに明後日のほうへ視線を投げたから、窓口は喜多川が務めるしかない。
「どうと言われてもな……こちらも大差ないぞ?」
疑問符はに向けられていて、同意を求めていた。彼女は少し考えるように虚空を睨んでいたが、やがて
「まあね」と軽く首肯してみせた。
「ふぅ~~ん」
じっとりとした目線が己に集まるのを感じて、少女はすり足でもって喜多川の背後に隠れて彼を盾とした。
「言いたくないそうだ」
その行動の意味するところを通訳してやって、喜多川は肩を竦める。
「むむ……、覚えてなさいよぉ」
「それ年末にやったし、洗いざらい吐かされたし……もう言うことないからね。黙秘するからね」
つんとそっぽを向いた友人の横顔に高巻は歯を剥いた。不思議な力関係を見た気になって少年二人は顔を見合わせる。
「年末……?」
「ホントなにやってんだよお前ら」
秘密、と答えて、高巻は通路の先に目をやり、ちょうど待ち人が現れたのを見て瞳を輝かせた。
「あ、来た! 遅いよ!」
だらだらと足を引きずるようにして合流を果たした彼は、まだ眠たげな目をこすっておざなりな挨拶を返した。
「うーっす」
「反省くらいしろ、オマエというやつは」
背中に担いだ鞄の中から小言とともに靴下猫が顔を出す。
すると、が即座に鞄ごと彼を奪い取った。
「ぐえっ」
「ウニャっ」
猫さらいは呻き声も悲鳴も構わず、鞄ごと彼を抱き締めて熱っぽく訴える―――
「待ってたよモルガナ。今日こそきみを口説き落としてみせるからね!」
「うああぁぁ……」
「うちの子になれば毎日彼の家より良い食事を提供するし、お触りもほどほどにする。きみのためにリビングにキャットタワーの設置を検討してもいい。住みやすくするための投資は惜しまない!」
だからうちにおいでよと訴えて力を籠める少女に、モルガナは前足を振り回して悲鳴を上げる。
「確かにワガハイは猫だが! でももうアイツについてくって決めたんだってば!」
「そんなの一時の気の迷いだよ! 私と暮らせばもれなく杏もついてくるよ!」
「ちょっと、私を交渉材料にしないでよ」
「、俺は? 俺はついてこないのか」
高巻と喜多川が呆れたような目を向けるのにも構わない。はなおも言い募る。
「私と一緒に暮らそう? 必ず幸せにする!」
情熱的な言葉である。
鞄を奪われた際に突き飛ばされてずれた伊達眼鏡を直しながら、少年は一人と一匹に背を向けて仲間たちに向き直った。
「浮気じゃない? あれ」
額を付き合わせて判定に迷う行う若者たちの背後でモルガナの助けを求める声が虚しく響いた。
一番難しい顔をして腕を組む喜多川がなにも言わないで小さく首を左右に振るので、少年は処置なしかと相棒を見捨てることとしてまた話題を転換させる。
「それで、今日はなんで呼ばれたんだ」
全くいつも通りに問いかける彼に感心すべきか呆れるべきか、はたまた頼もしさを感じるべきか。迷いつつこたえたのは坂本だった。
彼は少年の鼻先に己のスマートフォン、その画面いっぱいに映し出された一枚の画像を突き付ける。
それは二十代後半らしき痩せた男を隠れて撮影したもののようだ。どこか遠くを睨むような眼は鋭く、細面と相まってまるで蛇のような印象を受ける。
奇妙なのは少年に見覚えがないことだ。突然こんなものを見せられて、なんと反応したものやら。迷ったあげく、少年は率直に問いかけた。
「誰だ?」
「武藤一志ってやつ、知らねぇ?」
「知らない」
見たこともない、と目を細める少年の裾を佐倉が引く。彼女の手元にはタブレットPCがあって、その画面にはびっしりと文字が浮かび上がっている。
「……なんだこりゃ」
軽く目を通してからの感想に声を潜めた新島が答えを与えてやる。
「金城は覚えているでしょ。その後釜かなにかは知らないけど、近頃この辺りでまた違法薬物の流通を取り仕切り始めた者がいるのよ」
なるほどと頷いてタブレットに再び目を落とす。羅列された暗号のような文字列はそいつが扱っている薬品の名称とその流通量―――被害者数のようだ。
「基本は合成麻薬。そっち方面に明るいやつと、量産できるだけの施設をどっかに抱えてるっぽい。あと、材料になる薬品を横流ししてるのも一人か二人はいるだろうな」
同じく声を潜めて佐倉が述べる。
その隣で奥村がまた、彼に己のスマートフォンを差し出してみせた。
「そちらも目星は付いてるの。恐らくはこの内のどなたかが流しているはず」
カメラロール上で指をスワイプさせ、五人の男女を順番に表示させてみせて、奥村は許しがたいと小さく唇を噛んだ。
それを見て思わずと安心させるように微笑んでしまうのだから、少年はやっぱりちっとも反省していなかったし、どうして昨日彼女たちに詰め寄られたのかも根本的には理解していなさそうだ。
とはいえ今それを詰る必要も理由も己には無いと目を逸らして、喜多川は坂本の手の内でいまだ表示されたままの武藤何某の姿を指し示して告げる。
「この武藤とやら、次のターゲットにどうかと思ってな」
言葉に少年は顔を上げる。
そう言うからには彼が持ち込んだ案件なのだろう。確かに被害者の中に洸星高校の生徒であると注釈された名が見受けられたし、近隣の高校名が他にもいくつか並んでいる。
学生以外にも見知らぬ誰かの名がいくつも連ねられているのを見て少年は無意識のうちに眉を寄せていた。薬物の乱用に関しては彼も思うところがある。そうでなくたって、ろくなものじゃないことは誰だって知っているだろう。
怪盗団の唯一の掟は全会一致だ。ぐるりと一同の顔を見回すに、どうやら少年といまだ撫でくり回されてあられもない声を上げる猫以外は承認済みらしい。
しかし……
「でも、もう俺たちに改心は出来ないだろ。証拠を集めて通報でもするのか?」
あの日、巨大な敵を撃ち倒したあの雪の降る日、不思議な冒険はこれで終わりとなにもかもが夢のように消え去った。
イセカイナビはスマートフォンの中のどこを探しても見つからなかったし、怪チャンは閉鎖の運びとなった。少年においては謎の老人から憩いと賛辞の言葉とともに別れを告げられている。
喋る猫の存在だけがあれが夢ではないと教えているが、しかし猫は本当にただの猫だった。あるいは猫になってしまったと言うべきか。
寂しげな表情を浮かべた少年に、しかし仲間たちは忍び笑いをもらし、隠し通せずにくすくすと漏らしてしまう。
「え……なに……」
「へへっ、お前がオツトメしてる間に、こっちも色々やってたってことだよ」
怪訝な顔をする少年を置いて、やっと落ち着きを取り戻したらしいがそれでもまだモルガナを抱きしめたまま佐倉に指示を飛ばした。
「論より証拠。双葉、彼にも渡してあげて」
「あいよ。スマホ借りるぞ」
「あ! こら!」
返事も待たずにポケットからスマートフォンが抜き取られるのに咎める声を上げるが、取り返すよりマイクロUSBケーブルが差し込まれるほうが早かった。
「妙なもの仕込もうとしてるんじゃないだろうな」
「失敬な! おまえ以外の全員のにもう入ってるし!」
タブレットにではなくラップトップと繋げられたケーブルを通ってデータが送り込まれ、今度はスマートフォン上でちまちまと作業を行うこと十数分。
出来たぞ、と言って手元に戻ったそのホーム画面には見慣れないショートカットアイコンが新たに設置されている。
しかし彼はこれに見覚えがあった。意匠化された赤と黒のトップ・ハット……
名称は無く、ただバージョンらしき数字が名前代わりに記されただけのそれは間違いなく怪盗団のマークであった。
「これは……でも、なんで」
「いいから起動して。少しすると通話が繋がるから、向こうの音をよく聞いて」
見ればは己の耳をモルガナに寄せ、そこへ器用に己のスマートフォンを押し当てている。仲間たちも同様にしているのを見て、わけが分からぬまま彼もそれに倣った。
アイコンに触れると直ちに通話画面が立ち上がる。
―――見知らぬ番号だけど、いったい誰に繋がるんだ?
不気味さを感じるが、それでも彼は受話口を耳に当てた。
コール音が鳴り響いているのが耳にはいる。少年は電話にまつわる都市伝説系の怖い話があったことを思い出してごくりと唾を飲んだ。
なんだっけ? 電話が繋がると死ぬとか、願いを叶えてもらえるとか、未来の自分と繋がるとか。色々あるではないか。
考えている間にコール音が消え、プツっと一瞬ノイズが走る。
次の瞬間、金属のボールを金づちで力いっぱい叩いたような重く甲高い音が響いて少年は肩を震わせた。目眩のような、一過性の意識消失のような感覚を覚えてきつく目をつむる。耳鳴りがする直前に周りの音が小さくなるような状態が続いてたたらを踏むと、ふっと周囲にあったはずの人の気配が喪失した。
「お久しぶりですね」
聞き覚えのある声にはっとして目を開く。
少年の前には蒼いワンピースを身にまとった少女が分厚い本を抱えて笑顔で立っていた。
見慣れた顔と風景がある。冷たい石畳に開かれた牢。しかしこの空間の主人であるはずの老人の姿は見当たらない。
「主は現在席を外しております。もしや何か御用がありましたか?」
「いや……」
首を振って初めて彼は己が仮面を着けていることに気が付いた。見下ろせば目に馴染む赤と黒。どう見たって着慣れた私服はどこかに消え、怪盗活動時の衣装を身にまとっていた。
くすくすと少女が小さな笑い声を上げている。
「どうやらゲームはまだ終わらないようですね」
「いいのか?」
問いかけに、蒼い少女は楽しそうに身体を揺らして答えた。
「主はまだなんとも。けれどお咎めにはならないでしょうし……あなたの意思一つですよ、トリックスター」
「俺の意思?」
「はい。続けますか? それとも降りますか?」
少年は少しだけ考えて、それからまた問いかけた。
「降りたらどうなるんだ?」
「大した影響はありません。ワイルドたるあなたが望まないのであれば、ここで接続を切って終わりにします」
「続けたら?」
少女は笑って恭しく、バレエダンサーがするようにお辞儀をしてみせた。
「もはやあなたを縛るものはなに一つありません。あなたがしたいように、求めたものを、欲したものを、お好きなだけ盗み出せばよいでしょう」
これまでと変わりませんよ。
与えられた答えに、気が付けば少年は口角を上げていた。
「行くのですか?」
「あまり待たせるのも悪いから」
踏み出された一歩に少女は少しだけ戸惑ったように一度俯いて、それから意を決したように顔を上げ、少年の服の裾を引っ張った。
「お待ちください、トリックスター」
振り返ると、少女が両手になにかを持って掲げている。
小さな手に納まる程度の小さな蒼い箱だ。艶のあるサテン生地の明るい黄色のリボンが三枚羽根を作って結ばれている。
「この上またかと思われるでしょうが……」
きょとんとする彼に、少女は照れつつ述べる。
「私たちのようなものは、あなたのようなものに惹かれるようにできているのかもしれませんね。だからお姉様たちも……ああ、いえ、なんでもありません」
少女は背伸びをして、ぐっと両手を前に突き出した。
「あの……もうたくさん、他の女性から頂いていることは存じています。それでも……私からも受け取っていただけますか?」
これを拒絶できる男がどれほどいよう。
少年は差し出された最上の好意の証を受け取って、静かに頷いてみせた。
「大人になるまで待ってる」
少女は瞳を輝かせて喜びに頬を紅潮させる。
そして穏やかに笑い、また頭を垂れた。
「お待たせはいたしません。きっとすぐに……大好きです、私のトリックスター」
言って、少女はまばたきする間に燐光を放つ蒼い蝶に変じて飛び去った。
ほのかな輝きは少年の目を強く焼き、そして―――
ギラギラとしたネオンの光の溢れる街並みが現れる。
彼の目の前には仮面を着けた仲間たちが一様にいたずらな笑みを湛えて揃っていた。
「……やってくれたな」
首の後ろを掻いて言ってやると、ブレイドが薄い胸を張って自慢げにこたえた。
「気に入らないとは言わせないよ」
「まさか。よくやった」
気安く肩を叩いて進み出る。ナビがその腰に突進するようにしがみついた。
「プログラムしたのはわたしだかんなっ!」
褒めろ! と声を上げる彼女の頭をおざなりに撫でてやりながらまた歩を進める。建ち並ぶビルの合間に見える夜空は街の明かりに照らされて一つの星明かりも見せてはくれなかった。
「うーむ……これは確かに、パレスのようだな」
足元で二足歩行の姿に変じたモナが言う。彼が言うのだからそうなのだろう。
「だが、どうやったんだ?」
仲間たちの視線はブレイドに集中する。
少女は再び胸を張り、腰に両手を当てて待ってましたと語り始めた。
「仕組みとしては大したものじゃない。ターゲットの番号にかけると、相手には繋がらないで別の番号へ転送するようになっているんだ」
そこを作ったのがわたし! とナビがまた挙手をして訴えた。
「繋がると、特定の周波数を持った音が鳴る」
「あのすごい音か。クラっときたけど、なんだったんだ?」
「あれは……簡単に言うと失神させるための音。イセカイナビ自体はバックアップを取っておいたから簡単に再現できたんだけど、起動……いや、起動もしたけど、上手く動かなくって……」
おそらく、と挟んでナビが言うに曰く、イセカイナビは一種のエミュレーターでしかないとのこと。なんらかの魔術的儀式をスマートフォン上で擬似的に再現している、と少女は語った。
繋げてブレイドが述べる。
「この魔術というのが『境界』を越えるためのもので、これは本来は幻覚症状をもたらすような薬物や修行によって……ええと……そんな目で見ないで欲しい」
「ごめん」
魔術や薬物、幻覚という単語に気が付かぬうちに顔をしかめていたのだろう、ブレイドが微妙な顔をするのに少年は頭を下げた。
とはいえ、仲間たちも似たような反応をそれぞれ示している。こうして実際にパレスに足を踏み込んでなお納得できてはいないのだろう。
しかしそんなものなのかもしれない。自分たちがほぼ日常的に使用しているスマートフォンだって、仕組みを完全に理解しているのかと言われれば分からない部分のほうが多いのだし、からくりが解らずとも使用に不便は無いのだ。
「簡単に説明してくれ」
「わかった、ざっくりいこう。本来なら膨大な時間を修行に費やしてやっと辿り着ける変性意識状態を無理やり作り出すためのツール。それがこの……」
詰まって、ブレイドはナビに目を向けた。
「イセカイ……コール……か?」
「言うほどコールしてるかぁ?」
スカルの指摘に、仲間たちは揃って唸る。
「んじゃ、異世界転送装置……?」
「状態としては転送と言うより転移と言ったほうが正確じゃないか?」
「実際に私たちは移動しているわけだしね。イセカイコンバーターとか?」
「イセカイシフト、チェンジ……ううーん、しっくりこないね」
「まとまらんな。どうする、ジョーカー」
なぜ俺にと思いつつ、少年はふむと考え込んだ。
コールでも転送でも転移でもコンバーターでもシフトでもチェンジでもなんでもよかったが、どうせならそれらしいほうがいいに決まっている。
ならばと少年は指を鳴らした。
「転移だろ、それならメタスタシスだ」
「それ癌なんかの転移……」
思わずと控えめにツッコんだブレイドに、少年は分かってないなと小さく頭を振ってやる。
「大事なのは語感だ。それにギリシャ語なら悪性腫瘍は関係ない」
「えー……イセカイメタスタシスって言い辛いよ」
「省略すればいい」
なるほどと頷いて若者たちは再び額をつき合わせる。
イ・セ・カ・イ・メ・タ・ス・タ・シ・ス……
嫌な予感を覚えて少年は思い切り顔をしかめたが、それは遅きに失した。彼のすぐ隣でフォックスが息を呑んだのだ。
「ハッ……イカメシ!」
堪え切れなかったらしいパンサーとスカル、そしてナビが噴き出して肩を震わせた。噴き出しこそしなかったものの、クイーンとブレイドも小刻みに身体を震わせている。
「お腹空いてるの?」
眉尻を下げたノワールが優しく問いかけると、フォックスは素直に首を縦に振った。するとノワールの手が荷物を探り、小さな包みを取り出して配り始める―――
「一日遅れだけど、これバレンタインのチョコね。はい、スカルもどうぞ」
「センパァイ! あざーッす!!」
ガッツポーズと共に飛び跳ねる彼に、そういえばと女子一同は揃って荷物を漁り始めた。集まることになるのならばと持ってきていたのだ、と男子二名に義理が投げつけられる。
「あーあ、もうイカメシ決定だぞコレ。復帰一番やっちまったな?」
しゃがみこんで頭を抱えたジョーカーの肩にモナの肉球が触れる。そんな彼のもう片方の手にはスティック状のパウチが握られていた。猫にチョコレートは厳禁だ。液状おやつが彼へのバレンタイン用プレゼントということだろう。
少年は立ち上がって、力いっぱい元凶の長身を突き飛ばした。
「うわっ」
「覚えていろよフォックス!」
「なぜ怒ってるんだお前は」
困惑も色濃く早速包みをといて義理を頂く彼にダメージは無いらしい。少年は歯ぎしりをした。
「なんか体幹良くなってる」
「お前が不在の間、散々スパーに付き合わされたからな」
「格技研の仕業か」
「だってお前いなかったし。一人じゃ試合形式の練習は無理だし。女子に頼むわけにもいかねーし」
「その割にニイジマ式の技が多かったようだが」
「かけられるだけならいいだろ……」
「ああ、気にされてすらいないんだな」
「うっせ!」
喚くスカルはさておき、周辺のサーチが終わったらしいナビが友チョコを口に運びながら唸る。
「むむ……入り組んでるな。街全体がパレスになってて、ゴミや瓦礫でごちゃごちゃのぐちゃぐちゃだ。中央に辿り着くにはけっこーかかるぞ」
腕を組んでどう進むのがいいかなと思案する彼女の隣で、同じくチョコをくわえたクイーンがなにかに気が付いて制止を訴えるように手を掲げた。
「ちょっと待って……むぐ、んん……こほん、一応確認しておかないとね。掟を破るわけにはいかないし」
「あ、わふれてた……もぐもぐ……」
美味しい、と頬を押さえるパンサーはさておき、クイーンは一人と一匹に向き直って真剣な表情を作った。唇の端に溶けたチョコレートが付着している。
「このシゴト、どうする? やる? 決を採っていないのはあなたたちだけなんだけど……」
「あむあむ……ワガハイは……はむはむ……構わんぞ……うみゃあん、ゴロゴロ……」
ブレイドが手に持ったパウチから液状のおやつを舐め取りつつモナが答える。
それを見つめるブレイドの目の恍惚ぶりに隔離は早いほうがいいと判断されたのだろう、保護者を兼任するフォックスがすでに彼女の首根っこを押さえていた。
少年の目の前に立つクイーンにはノワールの手が伸びて唇の端を拭ってやり、その背後ではいまだにパンサーが甘いものに幸せそうな顔をしてスカルに周辺の警邏を命じている。渋々と彼が従えば、それにナビが小鴨のようにくっついていく。
一月半くらいでこの連中のまとまりのなさが改善されるはずもない。しかし、これこそ少年の居場所だろう。変な奴らが集まって、好き勝手に行動して、奇妙な光景を作り出している。
少年は小さく息をついた。
このシゴトをやるかやらないか、だって? 聞かれるまでもない、ずっと考えていたことだったのだ。まだもうちょっと、遊び足りない、どうしたら続けられるかな、と。
「やるに決まってるだろ。食べ終わったら行くぞ!」
よく通る声で宣言してやると、一同は声を揃えてばらばらの返事をする。
「タイミングだけは揃うんだよな、タイミングだけ」
やれやれと肩を竦めて、少年はこの上なく楽しそうに笑った。
目の前に広がるのは己が知るよりもはるかに汚れきった街並みだ。違法薬物の製造と流通を取り仕切る男にとって、ここはこのように捉えられているということだろう。
いかにもな光景に思えるが、かすかな違和感もある。
武藤某の前任にあたる金城はこの街を銀行として捉えていた。金の集まる場所として、そして厳重なセキュリティに守られる場所として。
つまり、パレスの持ち主にとって少なからずその欲望が表わされるはずのなのだ。城にせよ、美術館にせよ。墓場しかり、楽園しかり……
しかしこの武藤某のパレスはどうだ。光害によって星も月も姿を見せず、さりとて街を照らし出すネオンの輝きは強いばかりでデザイン性とも利便性とも程遠い。道にはゴミや瓦礫が散乱し、道路にはひびが入り、廃車らしき車やバイクが放置されたままになっている。
こういった退廃的な光景を好む輩がいないわけではないが……
どちらかといえばこの光景からは失望や怯えが垣間みえる。初めから人の姿が見えないことがなによりそれを示しているように感じられた。
「武藤某は下っぱで、強制されてて、実は裏にでっかい黒幕が糸を引いてたりしないだろうな」
ひとり言を聞きつけたモナが口回りを拭いながらため息をつく。
「映画の見過ぎだ。現実にンなことあるわけねーだろ。どうせ小者だって」
これにフォックスに抱えあげられたブレイドが同意する。
「武藤の率いる組織はまだそこまで大きなものじゃないし、別の組織やらと定期的な連絡を取った痕跡もなかったよ。あの、フォックス? 降ろして?」
「いや、さっきのはそろそろ浮気のラインだろう。許さんぞ。……もしもジョーカーの言うような事実があれば、尻尾の先すら掴めさせない相手がいるということになるな」
想像して、少年は閉口した。
復帰ののっけからそれはちょっと荷が勝ちすぎるように思えたのだ。
「なんだか嫌な予感がする……」
まさかぁ、と仲間たちは頭目の心配を笑い飛ばした。
……
そして予感は的中した。
「やめてくれ! 助けてくれ! 命令されてやっていただけなんだ、資金の調達が俺の仕事で、本当はこんなことしたくなかった―――」
痩せ細った顔色の悪い男、武藤一志のシャドウ曰く、急激に勢力を伸ばした某国のマフィアがこの辺りを仕切る指定暴力団組織に入り込み、新派として着実に力を付けていっているとのこと。
武藤はもともと暴力団組織側の人間であったが、たまたま手を付けた女が上の者のお手付きで、それを新派に捕まれて利用されていたのだという。
嫉妬深い相手の男に知られれば殺されるだろうと吹き込まれた武藤はまんまと資金調達係として新派に組み込まれたという訳だった。
「うわあ……」
呆れてものも言えない女性陣を尻目に、ジョーカーは武藤に問いかけた。
「お前が手を出した女はそんなに美人なのか?」
彼は四回殴られた。
「あー……で、どうするよ?」
「改心はするとしても、厄介だな。まさか本当に黒幕がいるとは」
「ていうかヤバくない? マジなら最悪私らまで命狙われるやつじゃん」
「かといって放置するわけにもいかないわよ」
「だよなー。未来あるわかものにまで被害が及んでるわけだし」
「しかし根本まで辿るとなると日本を出ることになりそうだよ」
「みんな、パスポート……あ、持ってるよね。ナビはある?」
「オマエは行く気満々だな、ノワール……」
引っ叩かれた箇所を押さえつつジョーカーが立ち上がる。彼の手には武藤のオタカラ、金と宝石で作られた星座盤が抱えられている。
「……今後どうするかは戻ってから考えよう。とりあえず帰るか」
そんな、と情けない声を上げる武藤に構わず、仲間たちはやっぱりタイミングだけ揃えて各々好きなように返事を返した。
そのようにして、怪盗団は新たな巨悪に立ち向かうこととなる。
暗がりの中に身を横たえているのはどうやら巨大な怪物のようだが、怖じ気づく者は一人とていなかった。
何故なら彼らの手元には切り札があって、そしてその切り札が言うのだ。
『それがどうした、大したことない』と。
それは明らかな強がりだった。本当はいつでも怯えていて、信じきることができず、震えるばかりだ。
それでも彼は立ち上がるから、仲間たちはついていくしかない。
先頭を行く彼が立ち止まらない限り、その歩みは止まることはないだろう。
……例えばこういう場合であっても。
「オペレーション:オーバーバイトタートル、ツーだ!」
ブイサインを掲げて高らかに宣言した少年の前方、百メートルほど先には手を繋いで楽しげに歩く喜多川との姿がある。
仲間たちはまたかとげんなり、うんざり、がっかりしつつ、それでも膨らみ始めた桜のつぼみの下、寄り添って歩く恋人たちの後を追った。とはいえ一部の者は途中の屋台での食べ歩きやうららかな春の日差しを楽しむことを主としていて、最初から興味もなにもない様子である。
「なあでも前回みたいなことになったらどうすんだよ」
ご多分に漏れず大した興味もなさそうな坂本が問いかける。彼の手には焼き立てのたこ焼きが湯気を上げていた。
「あれは不意打ちだったから。今ならもう見抜けないことはない」
こたえて少年の手がたこ焼きに伸びる。坂本は彼が食べやすいようにと手を前に出してやった。
「いや、あんときしたフリだったのはあいつらがまだ付き合ってなかったからだろ?」
「え? あちっ!」
「あーもうバカ、おらこれ飲んどけ。……んで、今はもうあいつら付き合ってンじゃん? してもいいわけじゃん?」
どうすんの? 目の前でマジでされたら。
問いかけに、手渡された炭酸飲料をあおりながら少年は凍り付いた。
つけられているなどとは露知らずは色づき始めた桜並木を興奮しきりに見上げては目に焼き付けようとする少年を見つめていた。
曰く、満開の桜が美しいのは当然だが、花開く直前のつぼみはこれから最盛期を迎えるために蓄えられたエネルギーの象徴かそのものとしての美しさがあるらしい。
うんうんと言葉の一つ一つに頷いてやると、喜多川はまた饒舌になって語りだす。
退屈なんてことはなかった。彼の目を通して知る世界は、己が見るものよりもずっと生き生きとしていて、光り輝いているように感じられる。
それこそがにとっての宝だった。彼がなにかを見るたび、言うたび、するたびに溢れだすものすべてが。
喜多川は惜しむことも、そもそも与えているとさえ気が付きもせず、次々に彼の基準で美しいものを見つけてはの手の中に放り込むのだ。
そうして、いっぱいになった両手を見て思う。本当にこれは夢じゃないのかと。
いまだに疑う己を後ろめたく思うこともあった。これが現実で、彼の好意が本物であればなおのこと……
だから、信じられるだけの根拠が欲しかった。恋人でなければできないようなことが。
「?」
「はいっ!」
考え込むうちに返事を忘れてしまっていたらしい。慌てて勢いよく返すと、喜多川は怪訝な顔をして首を傾げてしまう。
「退屈だったか?」
「そんなことは!」
「ぼうっとしていたようだが。歩き疲れたか」
「それも違くて」
「ん?」
違うと言ったが、しかし喜多川は手を引いてを手近な木陰に導いた。
三月も中旬に入った暖かな日だ。汗ばむほどではないが、少年たちと同じく気の早い花見客たちがあちこちの木陰で足を止めている。
近くの水辺を通ってやってきた風はひんやりとして、わずかばかりに火照った肌を心地よく冷ましてくれた。
「気持ちいいな」
長い前髪を押さえて、言葉通りに目を細めた喜多川が言う。
「そうだね。今日は暖かくて天気もいいし……」
「眠くなるな」
「寝てもいいよ」
「それもいいが、今は話をしていたい」
「うん」
柔らかな草の上に並んで腰を下ろす。話をしていたいと言ったわりに、喜多川はしばらく己のつま先を睨んで口を開かなかった。
なにか言いづらいことがあるのだろう。
察して、は辛抱強く彼が語り始めるのを待った。
やがて彼はぽつりとこぼす。
「寂しいな」
「え?」
「もうすぐあいつは地元に帰るだろう」
あいつとは、もちろん二人の共通した友人の一人のことであろう。
「俺にはお前がいるのだし、他の連中もいる。最近は、校内にも友人と呼べるような相手もできた」
「頑張ったね」
「うん……だから平気だろうと思っていたが、でも、やっぱり、寂しいものだな。遊びに行こうと言って気軽に出掛けられなくなるのは」
「そうだね。連絡はいつでもできるだろうけど……うん、寂しいね」
「ずっとこちらに居ればいいのに」
「それは、難しいんじゃないかな。ご両親の都合もあるしさ」
「分かっている。そんなに子供じゃない」
どことなく拗ねたような声には苦笑する。
子供じゃないと言うが、しかし今の彼は完全に子供そのものだった。
「大学からはこっちに通うと意気込んでいたし、一年の辛抱だよ。彼がいない間は、ほら、その……」
「ん?」
「わた、私が埋め合わせしてあげるよ」
上から見下ろすような発言だったが、噛んでいたし頬が赤い。明らかな気遣いが見えてしまっている。
今度は喜多川が苦笑する番だった。
「そうか、がか。なるほど」
「そ、そうだよ。大丈夫、なんでも付き合ってやろうじゃないか」
「ふうん……それなら今度、絵のモデルになってくれ」
「モデル? まあ、いいけど……そこは杏じゃないんだ」
「ああ。杏に頼めればそれが一番いいんだが……ヌードとなるとやはりな」
「うえっ!?」
「その点あいつはまったく気にせず脱いでくれるんだ。しかもタダで。比べるのも彼女には失礼な話だが」
「私でも杏に失礼だよっ!」
がなり立てて、は膝に顔を伏せた。からかわれたのだと気がついたのだ。
なにしろ喜多川はおかしくてたまらないと言わんばかりの笑みを湛えている。
「ああもう……気遣って損した……」
「寂しいのは本当だし、あいつが脱ぐのも事実だ」
「何をしてるのきみたちは……」
げんなりしつつ顔を上げ、足を伸ばす。首をそらして真上のつぼみを見上げると、額に冷たいものが落ちた感覚がした。
夜露の名残が落ちてきたのかと思うが、垂れてくる気配はない。気のせいだったかと空の眩しさにまぶたを下ろす。すると、ふっとまぶた越しに影が落ちたのが分かった。
次いで額に暖かなものが触れる。
思わずと目を開くと喜多川の手が目の前にあって、その指先が一人先駆けて開花してしまった桜の花びらを摘まんでいた。
「取らないほうが良かったな」
「……どうして?」
「絵になっていた。桜と少女はよくある取り合わせだ」
「じゃあ戻す? どうぞ」
口元を緩めて言ってやるが、喜多川はすぐに摘み上げた花びらを放り出してしまった。
「あれ、いいの」
「そう簡単に触れさせてなるものか」
言葉とともに伸ばされた手がの前髪をすくい上げて額を露にさせる。触れた手は少し冷たいようだった。
はこの距離を少し近いなと思った。ずいぶん今さらな感想だった。もうずっと前から、二人の距離はこのようなものてま、だからこそ周りはやたらと囃し立ててきていたのだが―――
少女は実感とともに改めて思う。夢のようだ、と。そして同時に夢でないことを願った。
「信じさせる方法は分かってるんだ」
幽かな囁き声に喜多川は目を細めた。
「とっくに知ってた。でも、言い出すのが難しくて……」
「なぜ?」
「恥ずかしいことだから」
得心して、了承して、喜多川は目を閉じた。それは彼にだって恥ずかしいことだったからだ。
しかしやらないわけにはいかない。彼は目の前の少女が己に何を望んでいるのか理解している。そうとも、少年は男としてこれに応える義務がある。
しかし―――
しかし、今や顔を赤く染めた彼はこれまでの短い生の中で、キスなんてしたことがない。それはおそらくきっと、多分、いや、絶対にだってそうだろう。そうに違いない。そう思いたかった。
ぐるぐると回りまとまらない思考に活を入れる声が彼の脳裏にだけ響いた。
馬鹿者。これ以上彼女を待たせるな、恥をかかせるつもりか。
それは己の心から湧き出たものであるはずなのに、何故か幼い頃によく耳にしていた師の優しげな声で再生された。
疑問に思う気持ちが言葉としてまとまる前に彼は動いた。言葉になれば動けなくなってしまうだろうという確信があったからだ。
少年は元々近かった距離を詰めて彼女に口づけをした。
……ただ皮膚と皮膚が触れ合っただけのことである筈なのに心臓が跳ね上がる。あまりの多幸感に、少年のほうがこれは夢かなにかじゃないかと疑ったくらいだった。
「……なんて顔をしているんだ」
「いや……こればかりは、仕方がないだろう」
の口からは吐息のような笑い声のような呼気が漏れた。少なくとも照れていることは確かだろう。
「本当にほんとなんだね。きみのことを疑っていたわけじゃないけど……いや、そうなのかな。もう分からないや。すごく嬉しくて、それ以外のこと全部、なんだかどうでもいい……」
言うなり少女は汚れるのも構わずに草の上に倒れ込んだ。
落ち着きなくつま先をぱたぱたと揺らしているのは、明らかに恥ずかしがっているからだろう。それは喜多川も同じことだった。
「今さらだけど……私を助けてくれてありがとう。あのときのきみは、本当にかっこよかった。大好き……」
別にかっこよくないときも好きだけど。
語尾に添えるように呟いて、己の素直な気持ちを吐露し終えた少女は照れくさそうに微笑んだ。
喜多川の目には少女の姿が映っている。彼女が二年近くそうしていたように、彼はその姿に魅入られた。
ただ単純に、なんの打算も思惑もなく、目の前の少女がきれいだと思う。
でもきっと、余人が見れば彼女はどこにでもいるごく平凡な一人の少女に過ぎないだろう。それでも彼はこの小さな女の子がこの世で最もきれいだと思う。それは好意の認知バイアスだ。
思考の偏りと言えば味気ないが、あばたもえくぼと言えば誰だって納得するだろう。
つまるところ―――
少年は然りと己に対して頷いた。
つまるところ、この目に映るものが全てだ。
彼女の存在も、自分自身も。自分たちを取り巻くあらゆるもの。夢のように茫漠としたこの現実において……
は喜多川の想いが現実かどうか確信がもてないでいたが、それは己が幸福であることが信じられずにまぶたを下ろしていたからだ。
けれど目さえ開けてしまえば、ただこうしてここにいるという事実がなにもかもを教えてくれている。
「なにを考えてるの?」
じっと注がれ続ける視線に耐えきれなくなったのだろう。は喜多川を見上げて問いかけた。
少年は満面の笑みを浮かべ、彼女の隣に寝そべってこたえた。
彼の目は開いている。
「俺は本当に、心底お前に惚れているんだなと実感していただけだ」
なんだ、言葉にするのも案外簡単なことだな。
と、少年は再び顔を赤くして俯いてしまった少女を眺めながら思った。