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小雨の降る春先のことだった。
都立洸星高校に美術科の特待生として入学したばかりの喜多川祐介は、己が新たに通うこととなった校舎の内部を着想を得るための散策と称してさまよい歩いていた。
校内の構造はすでに把握していたし、あちこちに校内見取り図が配置されているから迷子になった訳ではない。ただ目新しい環境や風景が楽しくて、あちこちを見て回っていると言うだけだ。
その指が時折思い出したように擦り合わされる。彼の手はまったく無意識に絵筆を求めているようだった。
帰ったらこの光景をキャンバスに描き出そう。何気ない日常の光景にだって己の描きたい美しさへの手掛かりは宿っているに違いないはずだ、と。
新一年生としてはすでに大きく成長しつつあった喜多川の歩幅は大きく、意識せずとも他の者と比べれば歩く速度は大きくなる。あっという間に校舎内を一巡し、小脇に抱えた美術書とクロッキー帳や筆記用具がそろそろ帰ろうと訴えかけたそのときだった。
曲がり角を早足気味に進んだ喜多川の正面から一人の少女がなんの受け身も取らずにぶつかり、弾かれたように真後ろに数歩後退る。突然の出来事に混乱したのか、その足がもつれて絡まるのが喜多川の目にも映った。
このままでは少女は後頭部から硬いコンクリ製の床に倒れるだろう。そう思うと彼の体は素早く反応した。
美術書やクロッキー帳を放り出して少女の華奢な腕を掴み、ぶつけそうになった後頭部を左手でカバーする。後は掴んだ腕を引いてやれば彼女は怪我をせずに済むだろう。
そのようにして、喜多川は己の腕の中に収まった少女のつむじを安堵して眺めた。周りに目撃者がいないのは全くの幸運であった。
「え、あ……」
驚愕と混乱に声も出せない女生徒は小さく震え、間近に迫った喜多川の顔を穴が空くほど見つめている。
「大丈夫か? すまない、こちらの注意不足だった」
左手に絡む黒髪の感触を確かめながら言えば、ようやく女生徒は己の状況を理解したのだろう。そしてまた、喜多川も女生徒の顔を見つめ、息を呑んだ。
特別美人と言うわけではないが、艶のある黒髪と大きな瞳は題材としては面白い。己の描きたい美人画のイメージとは少し違っているが……しかしそれ以上に目を引いたのは年頃の娘らしからぬ痛々しい青あざが口元に刻まれているそのさまだった。
「その傷は?」
無意識のうちに問いかけた喜多川の目は女生徒の傷に注がれている。
「え……」
ぎくりと身を強張らせて傷を隠す彼女の反応に喜多川は既視感を抱いた。
嫌というほど見覚えがある。師と仰ぐ男に『躾』を施された同輩たち、あるいは己自身、そのものであった。
「な、なんでもないんです。その、階段で転んで」
おどおどと答える様子もまた。
未だ血の滲む唇の端に刻まれているのは打撲痕とそれに伴う裂傷と見受けられる。誰かに強く頬を張られたかのような……
喜多川はこれを追求したって良かった。階段で転んだふうには見えないとして。
しかしあえてしようと思えなかったのはそろそろ次の題材を決めて取り掛からなければならなかったからだ。早くあのあばら家に帰ってキャンバスに向かいたい。
それに……
本当にただ階段で転んだだけなのかもしれない。よしんば誰かに頬を張られたのだとして、それはこの少女自身に原因があるかもしれないではないか。
なによりも置かれた環境によってすり減りつつある喜多川の心にそんな余裕はなかった。ゆっくりと少女から身を離し、乱れた襟を整えてやるのが精一杯だった。
「ありがとう」
それでも少女は照れくさそうに微笑んで、足元に散らばった喜多川の持ち物を拾い始める。その笑顔が心からのもののように見えて喜多川は放心した。やはりこの少女は虐待などを受けているわけではなかったのだと。
「すまない。先をよく見ていなかった。ああ、気にしなくていい、自分で拾うから……」
喜多川もまた身をかがめて美術書に手を伸ばす。自然と二人の距離はまた近くなる。
だからこそ彼は幽かな少女のつぶやきも聞き取ることができた。
「お母さん……」
はっとして、少女の目線の先を見る。喜多川が取り落とした美術書が開かれて、ちょうど栞の挟んであったページがあらわになっている。そこには『サユリ』が大きく掲載されていた。
彼女は今なんと言った? お母さん、と言ったのか?
……『サユリ』を見て?
問いかけようとする前に本は閉ざされ、喜多川の手元に差し出されてしまう。
「こっちこそごめんなさい。本、どこも折れたりしていないといいんだけど」
「あ、ああ……気にしなくていい。少しくらいは元々傷んでいる」
「そっか」
またにっこりと笑って、少女は立ち上がる。スカートの裾が翻り、膝小僧が喜多川の目に映った。そこにも青あざと擦り傷がある。
やはりこの少女は本当に転んでしまっただけなのだろう。そう思うことにして、喜多川もまた立ち上がった。
「俺は喜多川祐介という。美術科の一年だ。君は?」
「私は。……同級生だったんだね」
頭一つ分は差のある長身を眺めては笑う。
「ああ。さん……で、いいか。今、君はあの絵を見て『お母さん』と言ったか?」
「えっ?」
「この絵だ」
一度閉ざされた美術書をまた開き『サユリ』を見せつけると、少女は困ったような顔をして喜多川の顔と『サユリ』とを見比べた。
やがて喜多川の瞳に宿る真剣さや必死さに気がついたのだろう。幾度かまばたきを繰り返した後、こっくりと頷いてみせる。
「なぜだ? なぜこの絵を見て「お母さん」と? サユリは君の母に似ているのか?」
「えっと、似てるわけじゃないよ。ただ……」
「ただ?」
歯切れの悪い言葉を一つたりとも聞き逃すまいと身を乗り出した喜多川に、は戸惑いつつ答えた。
「この女の人、サユリさん? の表情が、優しくて……お母さん、みたいだなって」
「お母さんみたい……」
反芻しながら喜多川は『サユリ』を見つめる。
『サユリ』は喜多川に画家を志させた彼の人生における分岐点そのものだ。この絵のような美を描きたい、表現したい、生み出してみたい。その時、己の手の中には絵筆以外に何があるのだろう。一体何を見つめていたらこんな美しいものを描き出すことができるんだろう……喜多川は常々そのように模索してきた。
『サユリ』そのものを描きたい訳ではない。しかし、『サユリ』を初めて見たときのような感動をキャンバスに映し出したい……その為になるのであれば、喜多川はどんなことだってできるとすら考えていた。
だから、に詰め寄って『サユリ』の絵を前に出すのは当然のことのように思えた。
「表情のどの辺りだろうか。この感情の読めない笑みか? それとも何を見つめているのか分からない目線か?」
ずいずいと前に出る喜多川に対して、は一歩また一歩と後退る。喜多川が余人に「変人」と言わしめる片鱗がこの時すでにに晒されていた。
そうとも、片鱗である。
「全部、かな」
辛うじてがそう答えるや否や、喜多川は喉を鳴らして笑いだした。
「全てか。そうか……ははは……」
「き、喜多川、くん?」
驚きを通り越して怯え始めるに構いもせず、あるいは気が付いてすらいないのか、喜多川は少女の華奢な肩をがっしりと掴み、顔を寄せた。
「ありがとう、さん。大変参考になった。君の言うとおりだ。美は細部に宿るとは言え、それは全体の調和があってこそのこと。『サユリ』の細部を眺めて何かを掴もうなどと考えるのが愚かだったんだ。一目見て人に訴えかけるものがあってこそ……まずはそれを理解しなければ」
うん、うん、と少女は訳も分からず頷き返す。その度に喜多川の長い前髪が額に触れた。それくらいの距離だった。
「喜多川くん、あの、ごめんなさい、い、痛い……っ」
しかし苦痛を訴える声に喜多川は瞬時に我に返った。慌てて手を離すと、は肩を抑えてよろめき息をつく。
「すまない。夢中になってしまった」
喜多川としてはそれほどの力を込めたつもりもなかったのだが、しかし素直に頭を下げるとはまた笑顔を浮かべて両手を振る。大丈夫だということらしい。
の一連の表情や受け答えと動作はお人好しという印象を喜多川に抱かせるには十分だった。
彼はまた頭を下げる。
「時間を取らせてしまったな。帰るところだったんだろう?」
自分の存在が彼女の行動を阻害しているとやっと気がつくことができたのは目の前の少女に幾ばくかの興味を抱けたからだろう。
「あ、うん。喜多川くんも?」
「いや、俺は……」
否定しておきながら帰ろうと思い立ったことを思い出す。
「ああ、俺もだ」
改めて首肯してから、しまったと思う。目の前のお人好しの少女が少し困ったように眉尻を下げたのが分かったからだ。
このタイミングで「それじゃあさよなら」と言うのも妙な話ではないだろうかとは思っているのだろう。しかし初対面の異性、しかも変人と仲良く並んで帰れるタイプとも思えない。
喜多川は少し迷って、己から「さよなら」と言うべきだろうと判断し口を開いたが、の方が決断は早かった。
「一緒に帰ろうか?」
困り顔ではあったが、彼女のお人好しさがよく現れた笑みだった。断って別れるべきだろうと思えた。
しかし喜多川の目には少女の口元の青あざが映り、先ほど触れた細い肩の感触が手の平に、そして「痛い」と訴える声が耳に残っている。
喜多川祐介という少年は一般的に見て正義漢と言ってよい人物だ。きょうだいはいないが、長男気質でもあった。遅生まれではあるが体の大きさ故か、小さい者の面倒をよく押し付けられていた。最も、それらは大抵上手く運んだことはないのだが……
いずれにせよ、を見て喜多川の胸には一つの感情が生まれつつあった。
それは恋慕や親愛の情と言った暖かなものとは言い難い、なんとも後ろ暗いものだ。
傷と細い体、怯えた目つき、曖昧な態度。これらから恐ろしい想像が幾つか想起され、頭を過る。もしかしたら彼女は自分と似たような境遇なのだろうか。
決定づけるものは何一つないが、もし彼女が己ならば、己が彼女ならば……縁もゆかりも無いどこかの誰かが手を差し伸べてくれたら、どう思うだろう。迷惑がるだろうか、ありがたがるだろうか……
喜多川には彼女の傷に踏み込む気概も気力もありはしなかったが、しかし、並んで歩くくらいはできるはずだと思えた。
それは素晴らしい善行だとも。
だがその一方で、喜多川のよく形の整った唇の端には自嘲的な笑みが浮かんでいる。
(彼女に自分自身を投影して慰めようと言うのか……)
が本当に誰かから傷つけられているのかも分からないと言うのに、勝手な想像を押し付けて同情し、寄り添うことで自分自身への慰めとする。
浅ましいと思えた。しかし……
「構わない。鞄を取ってくるから、少し待ってもらえるか」
そう告げると、は嬉しそうに笑うのだ。許されたような気持ちになって、気が付かぬうちに緊張していたらしい肩からするりと力が抜け落ちる。
笑うをまじまじ眺めて、喜多川は感嘆の息をもらした。
小柄でやせっぽちの少女の身体は煙るように降る雨によって拡散された陽光を背後から浴び、そのもの自体が微かに発光しているように見えた。
は描きたい理想とはかけ離れているが、しかしそれと美しいと思う心は別だった。喜多川はただ単純に、なんの打算も思惑もなく、目の前の少女がきれいだと感じた。
「喜多川くん?」
「ああ……すぐに戻る」
小さく頭を振って踵を返す。
二人は少し距離を置きつつも、並んで駅までの帰路を共にした。
……
一年が経過する。
二年生になった喜多川は縁もゆかりも無いどこかの誰かに救い出されていた。
彼らは『心の怪盗団』を名乗り、人の精神に入り込み歪んだ欲望を盗み出した。喜多川ではなく、その師である班目の悪しき心を奪ったのだ。
これによって喜多川の生活は一変した。
元より人を寄せ付けぬ人物であるから人間関係において大きな変化は訪れなかったが、しかし住屋を移ることになったのは大きい。物心ついたときから暮らしたあばら家を出ることに寂寞とした思いを抱いたし、学校が管理する寮は狭い上に騒がしく、喜多川にとって好ましいものではなかった。
それでもそこに住まおうと思ったのは、自ら世界を閉ざすことを彼自身が良しとすべきではないと気が付けたからだ。
精神的な面で彼は大きく満たされるようになったと言える。
一方で金銭面における援助者でもあった師を失ったことにより、生活は困窮を極めるようになった。ただ学生をするだけであれば問題はないのだが、彼はあくまでも画家であった。これまで意識せずにいた画材への出資のため、彼は食費を犠牲にした。
これに関して大きな手助けとなったのがであった。
世間や余人があれやこれやと噂するのもどこ吹く風と喜多川をよく気遣い、空腹に耐えかねていれば弁当を手渡した。それも一度や二度では無かった。
「いいのか? 俺は何も返せないぞ」
問いかけた喜多川には
「お弁当箱は返してくれるよね?」と少しだけ不安げに尋ね返した。
知り合ってみればなんということはない、は少し遠慮がちなところもあるが世間一般的な年ごろの女の子に相違なかった。
冗談を言い、笑い、人間関係やテストの結果に頭を悩ませ、時折菓子などを作ったりする。弁当も彼女の手製であるとのことだった。
だからこそ彼女が関わろうとしてくるのが不思議で、喜多川は再び問いかけた。
「なぜここまでしてくれる?」と。
はなんてことないと言わんばかりに
「高校に入って一番初めにできた友達だからかな。あと、少し意地もあるのかも」と答えた。
意地とはなんだという疑問には答えてはくれなかった。
変化はもう一つあった。
すれ違えば声をかけたり帰路を共にする程度の間柄であったのが、が喜多川の昼食を用立ててやるようになると昼食の時間を共にする程度に変化した。
そうしている間、は決して多くを知ろうとはしなかった。知りたがっているのだろうということは様子から察せられるが、しかし喜多川が望まないことをしようともしない。これまでの生活や師から受けた手ひどい扱いのこと……友人と言う立場を利用し、振りかざせば彼の口を割らせることもできただろうに、彼女は己の欲求を見事に抑え込んでそれをこらえた。まるでそうすることに手慣れているかのように。
他愛のない話題に終始し、喜多川の話に耳を傾ける彼女の態度は喜多川にとっては救いになった。余人の言うことに興味も関心も無い喜多川ではあったが、極めて貴重な友人らしい友人である彼女と疎遠になるどころかかえって親しくなれたのは僥倖とも言えた。
有体に言えば喜多川はという少女をよく気に入っていた。穏やかで物静かな気性と確かな知性は喜多川にとっての甘雨であった。
だからこそ、夏に差し掛かったある日、彼女が一年前のように顔に大きな青あざをこさえてきたことに喜多川は打ちのめされた。
……
その日はちょうど昼食の時間になってから驟雨に見舞われた。
晴れている日は校舎の屋上で、雨が降っていれば裏庭の庇の下でというのが習いであったが、その日に限っては中々姿を現さなかった。
珍しいことではあったが空腹には勝てず、前日に閉店間際のスーパーで購入した78円のパンに噛り付いた。
半分ほど平らげたところで雨が上がり、はやっと姿を現した。彼女は手ぶらだった。
「遅かったな」
咎めるつもりでもなく言うと、少女はか細い声で
「ごめんなさい」と謝罪する。
俯いているためその表情はうかがえない。喜多川は奇妙に思って首を傾げた。
「?」
一向に歩み寄ろうとしない彼女の様子を不審に思い、立ち上がって喜多川のほうから歩を詰める。するとその分彼女は後退った。
「ごめん喜多川くん。明日から私、ここに来れない」
「ん……?」
「もう一緒にご飯食べたり、出かけたりできない」
再び首を傾げる。言葉の意味は理解できたが、意図するところが掴めなかったのだ。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味。明日からは誰か別の人と食べて。私は来ないから、待ったりしないで」
「……?」
飲み込めない。彼女の発言は唐突過ぎた。己は彼女の不興を買うようなことをしでかしただろうか? それとも彼女もまた犯罪者の弟子というレッテルに怖気づいたのだろうか?
そう思うと、喜多川の胸は重油を流し込まれたように重く粘ついたもので充満する。
「理由を教えてくれ」
それでも決然と問えば、はまだ俯いたまま首を左右に振った。
「納得できん。承知しかねる。俺はなにかお前を傷つけるようなことをしたのか? それとも誰かに何か言われたのか?」
首は左右に振られる。
「ではなんだ? 教えてくれ」
「き……喜多川くんのせいじゃない。それは間違いないから……」
「では、お前が間違っているのか?」
「そうかもしれない……」
か細い声と上げられない面が喜多川の不安を強く煽った。立ち尽くす少女のスカートの裾から、膝小僧が覗いている。そこには青あざと擦り傷があった。
「」
「ごめんなさい……」
逃げようとする少女の腕を掴む。大した力を込めたつもりはなかった。しかし―――
「痛い……っ!」
上げられた悲鳴に喜多川は硬直する。
「それ程力を込めたつもりはなかった」
言い訳ではなく確認であった。
「、顔を見せてくれ」
少女の首が激しく左右に振られる。艶やかな黒髪が乱れて肩の上に舞った。
その、黒髪の間から覗くうなじを見て、喜多川は息を呑む。
「なんだこれ」
指先で黒髪を払い除ける。少女はギクリとして身を翻したが、遅かった。
喜多川の目は確かに彼女の首、襟の下に隠すようにガーゼが張られているのを目撃したし、正対することによって露になった顔には青あざと裂傷が刻まれている。
「あっ」
声を上げたのはだった。しまったと口元を手で覆い、すぐにまた喜多川に背を向ける。小さな背中は見て取れるほどに震えていた。
喜多川は己の頭にかっと血が上るのを感じていた。もはや間違えようも―――いいや、思い込みようが無かった。彼女は転んでしまったのではない、誰かに暴力を振るわれている。その誰かに対する大きな怒りの感情が血流を操作し、目眩を起こしている。
怒りはまた喜多川自身にも向けられていた。
本当は気がついていたのだ。あの小雨の降る春の日にはもう。廊下ですれ違うときも、他愛のない雑談に興じるときも、飢えに苦しむ喜多川に弁当を差し出してくれたときも、一緒に昼食をとるときも、駅までの短い距離を並んで歩くときも、互いの気晴らしにどこかへ出掛けたりするときも……
彼女の身体にはいつもどこかしらに大小の傷があった。それが絶えた日はなかった。
それらから目を逸らしていたのは喜多川に彼女の事情を抱えきれるほどの余裕が無かったからだが、しかし今、彼は様々なしがらみから解放されているではないか。それだと言うのに、初めて触れた自由に浮かれ、夢中になって忘れていた。
お前はなんて阿呆な男なのだ、喜多川祐介!!
自分自身を心の中で激しく罵りながら、喜多川は音が鳴るほど歯を食いしばった。
「―――それは―――その怪我は―――誰に―――」
歯の間からやっとのことで問いかけるがは答えなかった。それこそが己の無力の証明に思えて、喜多川はますます強い怒りを覚えた。
「……喜多川くんは」
消えそうなほど小さな声がから漏れる。聞き逃すまいと沈黙する喜多川に、少女は淡々と語った。
「ずっと聞かずにいてくれたね、今まで。私の事情に興味が無かったのか踏み込むのが面倒だったのかは分からないけど……でも、私にはそれがありがたかった。クラスの子たちも先生も皆、私を腫れ物みたいに扱うのに。喜多川くんは普通の友達みたいに接してくれて、すごく嬉しかった。きみといるときはいつも安心できた」
は振り返って喜多川を見上げた。改めて喜多川の眼前に晒されたその右頬はやはり痛々しい痣が浮いている。唇の端にはまだ血が滲む傷も見受けられた。
「今までありがとう。急にごめん。お昼ご飯、なんとかしてちゃんと食べて。さようなら」
わずかに首を傾けて笑うと、は踵を返して駆け出した。壁に貼られた「廊下は走らない」という警句のそばを通り抜けて角を曲がり、すぐに姿は見えなくなる。
追いかけることは容易だったのにそれをしなかったのは明確な拒絶を感じ取ったからだった。
が気弱そうな笑みを浮かべるときは拒絶を示しているのだと知ったのはほんの少し前のことだ。進路指導で教師に呼び出しを食らったと語ったときもあのような表情を浮かべていた。
呆然と立ち尽くす喜多川の頭はすっかり冷え切っていた。先ほどまでの怒りが嘘のように消え、空っぽになっている。
何故彼女は逃げ去ったのか。何故彼女はもう一緒にはいられないと語ったのか。それらは彼女が暴力を振るわれていることと関わりがあるのか。そうでないのだとしても、一体誰が彼女にそのような無体を働いているのか。
疑問が渦のようにぐるぐると回り空を満たす。
やがてそれは喪失感として現れる。喜多川の手から食べかけのパンが落ちて、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
漫然としたまま季節は夏に突入した。
夏休みに入るなり怪盗団の一員として新たなパレスの攻略に取り組むこととなった喜多川はしばしの一件を頭の隅に追いやった。
これは喜多川にとって幸いだった。
仲間たちと共に行動することは彼の心を大いに慰め、またその道程には幾つかの閃きも存在した。
パレスの攻略は一週間ほどで完了したが、直面した問題のキーマンである佐倉双葉は体力を使い果たしたとかで昏々と眠り続けている。
このぽっかりと空いた時間の隙間が喜多川を後押しした。
『少しいいか』
怪盗団メンバーで構成されるSNSのチャットグループにまずそう語りかける。
ちょうどスマートフォンに触れていたのだろう、「パンサー」こと高巻杏が真っ先に反応した。
『どしたの?』
『皆に相談がある』
『珍しいわね。なに?』
次に応じたのは「クイーン」新島真だった。
続けて「スカル」坂本竜司が反応する。
『なになに? オマエが相談なんてなにごとよ』
最後に怪盗団を率いるリーダー「ジョーカー」と彼の下宿に同居する摩訶不思議な生命体にして怪盗団の面々を精神世界へ導く存在、モルガナが発言する。
『モルガナも気になるって』
『そうか、猫の手も借りたい』
『猫じゃない』
ジョーカーの茶目っ気かモルガナに対する嫌がらせかはわからぬが、語尾には肉球マークの絵文字が添えられていた。
さて、喜多川はこれまでを仲間たちに説明し始める。
『俺の友人がもしかしたら虐待されているかもしれない』
『本当なの? だとしたら許せない』
『かもしれない、というのは?』
感情的なパンサーと理性的なクイーンは全く正反対の反応をする。これでこの二人は仲が良いというのだから、性格の相性というものはわからないものだ。
『知り合った当初からあちこちに痣や傷をつけていた』
『転んだとかじゃねえの?』
『頻繁すぎる。俺が記憶している限り常にどこかしらに怪我を負っていた。酷いときには顔にも大きな痣がある』
『虐待の根拠は?』
クイーンが再び慎重に問いかける。喜多川は決然と答えた。
『無い』
『おい!!』
『ないんかい!!』
スカルとパンサーがほとんど同時に反応する。
『それでも祐介はそうだと思ったんだな』
ジョーカーの発言にチャットは一時沈黙する。誰もが喜多川の発言を待っている様子であった。
やがて彼はゆっくりと、己の正直なところを明かした。
『は入学当初からの友人だ』
『斑目の件の後、多くの者は俺を遠巻きにしたが』
『は変わらなかった』
連続する吹き出しを誰もが口を差し挟まずに見つめている。喜多川が雄弁になるのは珍しいことだったし、親交の厚い友人がいたという事実も驚きだった。
『だが、七月の終わり頃に唐突にもう一緒にいられないと』
『理由を聞いても答えなかった』
『顔と腹に大きな痣と、足元、首に傷があった』
『もしあいつが苦しんでいるのだと言うのなら』
『俺がお前たちにしてもらったように救ってやりたい』
『また一緒に昼飯を食べたり、出かけたりしたい』
吐き出された真摯な言葉に、怪盗団の面々はそれぞれの端末の前で深く頷いた。
『いいんじゃね』
『そうだね。メジエドのことも気になるけど……』
『そちらは双葉が起きてくるまで手の打ちようがないものね』
スカル、パンサー、クイーンが賛同する。
『まずはそのさんの周辺調査からだな』
そしてジョーカーの発言に全員が応と答える。
喜多川は謝意を述べた。
『ありがとう。だが、俺自身あまりあいつのことは知らない』
『友達なのにか?』
『個人的な話はお互いに避けていた。俺がわかることと言えば、料理が上手だとかそれくらいだ』
『自炊とかするんだ』
『そのようだ。俺が寮に移ってからは定期的に弁当を作ってくれていた』
『女子力たけーなおい』
『女子だからな』
沈黙。やがて怒涛の勢いで発言が流れ出す。
『え?』とパンサー
『ちょっと待て』とスカル
『どうしたの二人とも』とクイーン
『女子?』とジョーカーが続けて発言する。
喜多川は応えて言った。
『は女だが』と。
『ふざけんな!!』
『弁当? 手作り弁当?』
『一緒に昼食ってんのか!?』
『裏切者』
『なんでお前だけ!!』
『そういえば花火大会のときも一人だけ声かけられてた』
『顔か!?』
『許さない』
『なんでお前だけモテてんだよ!!』
『絶対に許さんぞ!!』
スカルとジョーカーの怨嗟の声は女性陣の一喝により停止された。
『あんたたちうっさい!!』
『落ち着きなさい』
再びの沈黙。
口火を切ったのはパンサーだった。
『いくつか気になることがあるんだけど』
『なんだ』
『さっきそのさんが傷だらけって言ったよね』
『ああ』
『顔とお腹に痣があって、首と足に傷があった』
『そうだ』
クイーンがパンサーの言わんところを引き継いで発言する。
『お腹って、どうやって見たの?』
黙って見守っていたジョーカーとスカルに衝撃が走る―――彼らは食い入るようにスマートフォンに顔を近づけた。
『双葉のパレスに向かう車中、汗で真と杏のシャツが透けていただろう。あれで閃いた』
『聞きたくないけど聞いてあげる。なにを?』
『水で濡れればシャツは透ける』
『そうね……』
『だからに水をかけた』
すかさずジョーカーが反応する。
『何色だった?』
『ねえこれどうやってキックするんだったかしら』
『ユーザーアイコン長押しでメニューが出るよ』
『ごめんなさいもうしません』
陳謝するジョーカーはさておき、喜多川は己の見たことをつぶさに語った。
『腹部に殴打と思われる痣が幾つか確認できた』
『ひどい』
『ちゃんと着替えを渡した。だから今着るものが無い』
『あんたのことじゃなくて』
『全裸なのか?』
『制服を着用している』
『話が進まないわね……』
クイーンのため息が画面越しにまで伝わってくるようだった。
時刻は夜の九時を回っている。喜多川は時計を見つつ提案する。
『アジトに集まれないか』
『明日? いいよ』
『俺も行けるぜ』
『私も午後からなら』
『構わない』
全員が同意したのを見て良しとして、この件に関しての話題はそこで途切れた。クイーンがスカルやパンサーに課題の進捗状況を尋ねたりもしていたが、それも「おやすみ」の一言で断ち切られ、若者たちは早々に寝床に就いた。