十二月二十四日。
四日前に唐突に現れた少年が言うことには、通常授業も後期試験も終了した田舎の普通校には特別カリキュラムなどありはしないため、それならもう卒業式まで好きにさせてもらう、ということだった。本番までまだ数ヶ月の猶予があるというのに、その間の宿はどうすると問われれば、彼は自信満々に佐倉惣治郎の名をあげてみせた。
もちろん彼にしたって両親や惣治郎、教師陣を説き伏せるのに相当な苦労があったのだが―――
彼はそれを仲間たちには語らなかった。
一人前には少し足りなくても、彼は一人の男として、みんなと一緒にいられるために頑張ったなどと、口が裂けたって言えなかった。
それは今回彼が持ち込んだ案件には関わりのないことだったから、誰も深く追及したりはしなかったし、言われなくたって彼が本当に求めているものくらい皆知っていた。
さて、クリスマス・イブである。
懐かしいルブランの屋根裏部屋に昼を過ぎたころから三々五々に集まり始め、三時になってやっと全員が揃う。こうやってこの場に全員が集まるのは実に半年以上ぶりのことであったが、各々のマイペースぶりは少しも変わっていなかった。
「タイガーマスク運動とか、あったよなー」
まず、坂本が漫画雑誌に目を落としながら言う。
「あーあったね。なんか懐かしい……なんて言うのもどうかと思うけど」
そして同じく、こちらは女性向けのファッション誌を広げた高巻が。
「派手に報道されないだけで、するやつはしてるぞ。わたしたちが知らないってだけだ」
一年前より若干グレードアップされたラップトップをいじる佐倉が。
「目に見えないからといって、存在しないわけではないということか。ふむ……」
テーブルの上に広げられた菓子に延々手を伸ばして口に運んでいた喜多川などは、なにかに深く納得して頷いている。
「二番煎じってことになるのかしら。私はそれでも構わないとは思うけど……」
窓際に立って外の路地をどこか感慨深げに眺めていた新島がつぶやいた。
「大切なのは行うことじゃないかな。誘い方は最低だったけど、内容に不満はないよ」
石油式のストーブの前に手をかざしたが応える。
「そうだね、私もいいと思うな。クリスマスだもん。怪盗よりサンタさんのほうが喜ばれるよ」
その隣では奥村が、ストーブの上で蒸気を吐き出していたやかんを持ち上げて、すでに暖められていたティーポットに湯を注いでいる。
「まあ、オマエらがそうしたいってんなら、すりゃいいんじゃねえか。ワガハイには止める理由もないしな」
くわ、とベッドの上に横たわったモルガナがあくびをしながら漏らす。
屋根裏部屋の主はそんな光景に満足げにして、指を鳴らした。
たったそれだけで好き勝手にしていた若者たちは居住まいを正して自分たちの頭領に向き直る―――
「ではやろう。作戦名は……ラット・ボーイだな!」
自信満々に言い放った彼に、しかし佐倉が
「ねずみ小僧」と冷めた目で応じ、
「白浪講談」とが揶揄するように言って、
「しじみ売り」と新島がこれに乗る。
すると高巻が明るい声で
「去年の今はまさにそれだよね」と混ぜっ返して、
「俺らにとっちゃ逆人情ものだったけどな」と坂本が首を振り、
「その後が大変だったもんね」と奥村が結ぶ。
首を傾げたモルガナに、子どもたちは落語の演目の一つである「しじみ売り」のあらすじを説明してやった。
そして少年は床に膝をつく。
「もう許して」
再び菓子に手を伸ばし始めた喜多川が追い打ちをかけた。
「そもそもねずみ小僧がばらまいた金子のほとんどは幕府を恐れた民衆によって返却されたそうだぞ」
「マジか。もったいねー」
こちらもまた漫画雑誌を開いた坂本が。
「不浄金だからね。賢い選択だ」
奥村が淹れてくれた紅茶に息を吹きかけながらが言う。
少年は汚れるのも構わず床に転がった。
「なんだよ……みんな反対だったの……?」
「それは別に」
直ちに新島が答えて、全員が同意するように首を縦に振った。
「クリスマス・イブだからね。念のため釘を刺しとこうってこと」
優雅に脚を組んで髪をかき上げた高巻に、少年はぐうの音も出ないのだろう。顔を伏せたまま腕を伸ばして佐倉に指を突き付けた。それはゴーサインである。
「おk。んじゃやるぞー」
小気味の良い音を立てて、佐倉は手元のキーボード、そのエンターキーを力強く押した。
―――四日前、紆余曲折を経てドライブに繰り出した彼らは、少年から一つの提案を受ける。
いつものシゴトではないけれど、せっかくのクリスマスなんだから、なにか一つ、怪盗団名義でやらかしてみないか、と。
彼はまた無数の予告状を示して言った。
『怪盗じゃなくてサンタしよう』
つまり、彼は、子どもたちにプレゼントを配らないかと提案したのだ。
もちろん、年齢的にも世間的にも彼らもまた子どもの範疇だし、全国すべての子どもたちにプレゼントを配るのは物理的に不可能だ。
だからある程度限定的な範囲の子どもたちに、ということで話はまとまった。
そこから、それじゃあなにを配ろうかという話になる。
『やっぱゲームじゃね? 3DSくばろーぜ!』
坂本の案は金銭的な理由で却下された。そもそも本体だけ貰ってもどうしようもない。
『んじゃ、お菓子? あの長靴に入ってるやつ』
高巻の案は発注と流通の関係で却下された。やれなくはないが、それならばもう少し早い段階で計画すべきだった。
『では絵筆はどうだ! 子どもたちに芸術の楽しさを知ってもらうまたとない機会だ!』
喜多川の案は彼のテンションの高さとともに一蹴された。悪くはないが、絵を描くのが苦手な子どももいる。
『うーん、ランドセル……?』
新島の案は一瞬採用されかけたが、クリスマスに配るものでもないとして保留となった。
『じゃ、参考書』
の案は夢が無いとして却下された。そもそもそれは彼女が欲しいものだった。
『うーん……あっ、お花はどうかしら。苗なら育てる楽しさもあるでしょう?』
奥村の案は皆の心こそを和ませたが、しかし施設によっては場所の確保に難があるとして残念ながら却下された。
モルガナは『ワガハイにはニンゲンの子どもが喜ぶ物なんてわかんねーよ』と言ってパスを申し出た。
そして最後に佐倉が
『無理にカタチにしなくても、金でいいだろ。それで本当に必要なものをむこうで用立ててもらったほうが、きっとわたしたちが下手に考えるよりよっぽど役に立つよ』と正論過ぎる正論を叩きつけて、決定となった。
さて、しかし、金とは。
怪盗団の頭領は応えて言った。
『今年に入ってから地味にやってたシゴト、打ち上げもあんまりできなかったから使わないでとっておいてあるけど』
そして彼は鞄から無防備にいくつかの通帳を取り出して、助手席の坂本に向かって放り投げた。
―――絹を裂くような悲鳴が上がる。
数字を見て、若者たちは少しだけ、ほんの少しだけ、心の隅で考えた。これをそれぞれ怪盗団内だけで分配すれば、欲しかった靴が、服が、本が、PCが、あれやこれやそれがいくらでも手に入る。
でも、それは本当に、心の底から欲しいものじゃなかったから、彼らは少しと大いに名残惜しく思いながら決定に従った。
その後、怪盗団の金庫の中身は佐倉の手によって一度海外に渡り、いくつかの国境を超えて『バラけて』日本に戻り、たった今、日本各地の児童養護施設に送り出された。
それぞれの先には予め送りつけた予告状がある。赤と黒の強烈なコントラスト。いつもならシルクハットが描かれる部分はサンタ帽にすり代わり、仮面の下にはヒゲが蓄えられている。
たぶんきっと、こんなものは怪盗団を騙ったいたずらや、先に坂本が語った運動の亜種として受け止められるだろう。
それで良かった。今さら誰も、大衆からの称賛の声なんて望んではいなかった。
必要なのは、ただ、誰の心の根底にも眠る叛逆の灯火を絶やさないこと―――
そのための種火としてはこれで十分だろう。
「んむ、送金完了! ミッションコンプリートだ!」
高らかな佐倉の宣言に、屋根裏部屋は安堵と若干の気だるさが漂った。
「なんかあんまりやってやった感ないね」
正直な感想を高巻が述べる。苦笑しつつも誰もそれを否定しなかった。
特別なにかや誰かのパレスに挑んだわけでも、現実の世界で調査に乗り出したわけでもない。やったことといえば案出しと予告状の送付くらいだ。
頭目もまた苦笑して頭をかいた。
「まあ、一年の集大成ってことで。来年はもっと派手に稼いで、社会に還元すればいい」
「打ち上げやらの分も考えっと、相当キバんねーとな」
ニッと口角を上げつつ、坂本は立ち上がって鞄を取り上げる。
「竜司、帰んの?」
「ん。おふくろに買い物頼まれてるし、ちょっと人と会う予定もあるし、ベンキョーもしなきゃだしィ」
「うわ、竜司が勉強とか言ってる。雪降るんじゃない?」
「寒ぃんだからやめてくれよー」
朗らかに笑って同じく立ち上がった高巻に、冬毛で少しだけ膨らんだモルガナが名残惜しげに尾を垂れ下げた。
それを見て、彼女は柔らかな手で彼の狭い額を一撫でして、それからそんなものよりもっとずっと柔らかなもの―――唇を軽く触れさせてキスをしてやった。
「んニャっ!? あ、あ、あ、アン殿……!」
「ふふっ! またね、モルガナ! あ、それから……」
ふにゃふにゃと力が抜けて液体のように平べったくなるモルガナから手と身体を離して振り返る彼女の瞳は、をしっかりと捉えていた。
「楽しいこと、期待してるからね!」
こちらにはウインクを一つ残して、少女は軽やかに階段を駆け下りていった。
「はにゃあん、アン殿……ワガハイは……ワガハイはぁ……」
後にはどろどろに溶けてぽーっとするモルガナが残される。とんでもない置き土産で、クリスマスプレゼントだった。
ハッとして、新島が奥村の手を引きながら彼女のあとを追った。
「私は二人を送ってくわ。それじゃあね、メリークリスマス!」
「まこちゃん、引っ張らないでぇ……あっ、じゃあね? ごきげんよう、素敵な夜をお過ごしになってね?」
また女子二人が慌ただしく退場して、一番はじめに立ち上がったはずの坂本がそれに続く。
「みんな予定があるんだね」
「は? あっ! おイナリなんか捨ててわたしたちとクリスマス飯するかっ!? ケーキとチキンと、あとな、わたし、昨日からおでん仕込んでて……」
「なんでおでん?」
「こいつがおでんが良いって……」
と、言いながら、佐倉の手が伊達眼鏡を指し示す。彼は小さく肩をすくめて「双葉でも失敗しそうにない」とその理由を明かした。
「なんだと!」
「メシマズはこの世で最も強烈な悪だ。お前にそんな罪を負わせるわけにはいかない」
「いや、今どきレシピなんてそこら中に溢れてるし……ちゃんと手順通りにやれば失敗なんてしないぞ?」
やろうと思えばもっと他のものだって作れたのにと頬を膨らませる佐倉を小突いて、少年はぐんにゃりしたモルガナを抱え上げた。
「俺んちは昔からクリスマスに大鍋でおでん食うの。佐倉家を侵略してやる」
「ルブランのメニューにおでんを入れるつもりか!?」
それは別に企んでないとこたえて、少年はを振り返った。
「どうする? なんならここ、使ってもいいよ。俺この後佐倉さんちの大掃除手伝うことになってるし……」
「はあ?」
これに何故か佐倉のほうがハッとして、ソファの裏とベッドの下、観葉植物の下と棚の裏にそれぞれ手を差し込んで、親指の先ほどの小さな機械を取り出したかと思うと、自分のポケットの中に押し込んだ。
「……よし! じゃあな、頑張れよ!」
「なにがかな、双葉。いや、それより、今隠したものを見せなさい。なんだかそれに見覚えが―――」
「気のせいだよ!」
「僕は森の精」
「は?」
少年のつぶやきはスルーされて、は再び佐倉に向き直る。
「いいからそれを見せて。早く」
「あっあー……わたしも部屋の掃除しなきゃ! モナ、おまえも手伝え!」
「ふにゃふにゃ」
佐倉は素早く少年に抱えられてだらりとするモルガナを奪い取ると、慌ただしく階段を駆け下りていった。階下から、元気な声で「こんにちは! ごゆっくりどうぞ!」と客に呼びかける声まで響く。
「待ちなさい双葉! それ……ッ、似たような物が以前私の鞄から出てきた件について説明なさい!」
もまたそれを追って慌ただしく駆け下りて、客と惣治郎に向かって「お騒がせしてすみません」と律儀に頭を下げてから飛び出していった。
取り残された少年たちは顔を見合わせて、しかし笑い合うわけでもなく無言で階段を降り始めた。
そして彼らもまた惣治郎と客に騒がせた謝罪をしてから店を辞す。
表には北西からやってきた強く冷たい季節風が吹き荒れていて、一瞬で体温が奪われてしまう。思わずと身を縮こまらせた少年たちは、さっさと退散しようと互いを見やった。
「……まさかとは思うが……」
「なに?」
「このために来たのか?」
主語の見つからない問いに、しかし少年はニヤッと口元を歪めて笑った。その手が度の入っていない眼鏡のブリッジに当てられて、。
「杏がさ、面白いことないかって聞いてくるから。あいつが一番面白がるのは、やっぱりかなって」
「あいつはお前たちのおもちゃじゃないぞ」
「自分のだって?」
「遊ぶなと言っているんだ」
「アハハ、でも、竜司もも煮詰まってたし、よかっただろ」
「ふうん?」
「予告状の件でネットでいくらか話題になってるし、夜になればネットニュースくらいには取り上げられてトレンド入りするんじゃない? そしたら、ちょっとはテンションも上がるだろ」
「そのために子どもたちを利用したのか。この悪党め」
「利害の一致と言え」
「ものは言いようだな」
「美しくない?」
路地の先で未だふにゃふにゃのままの猫を挟んで言い合う少女たちに目を向けて、喜多川もまた口角を上げた。
「いいや、絶景だ」
視線の先では、の手がモルガナを取り上げている。猫はまだ夢見心地のままだった。
十二月二十六日。
「いや、そーいうんじゃなくてさ」
「なにが?」
「なにがじゃなくて。だからさ、結局、二人でなんかしたの?」
「さてどうかなー」
「あっ! 生意気な反応!」
クリスマスは終わった途端に撤収させられて、街はあっという間に正月仕様にすり替わった。
それはまた集まったこのファミリーレストランにしても同じことであるが、しかし今日は、筆記用具も参考書も、ルーズリーフも単語帳もテーブルに並べられてはいなかった。
二人はただ、おしゃべりのためにここへ来ている。
それぞれの前には温かそうな湯気をたなびかせるジンジャーミルクティーとホットコーヒーが置かれていた。
「ギブアンドテイクだと思わない? 私ばかりが話をするのは、フェアじゃないよ」
の指が手持ち無沙汰と言わんばかりに紙ナプキンに伸びる。
「ぐぬぬぬ……私のほうでなんにも進展がないって知ってるくせにィ」
「へへ、ごめんね。でも、口止めもされてるから」
「祐介に?」
「それも秘密だ」
「んもー、祐介のやつ……」
がっくりとうなだれた高巻の頭の上に、折り上げられたウサギを置いて、は静かに微笑んだ。
……
駅に向かう道を二人で歩き出す前に喜多川はうやうやしく少女の手を取ったが、どうしたことか彼女は不満げな顔をしてしまっている。
首を傾げると手は振り払われて、代わりに腕を取られた。
「……どうしたんだ。珍しいな」
腕を組んで寄り添う形になったを見下ろしながら言うと、彼女はいかにも恥じらって
「もういいやって思ったんだ」と答えた。
「なにが?」
「みんな自由すぎる。きみもだけど。色々我慢して、抑え込んでたのがばかばかしくなった」
「どういう意味だ?」
は答える代わりにグイグイと頭を腕に押し付けた。
これも照れ隠しだと喜多川は理解している。ご機嫌取りでもあると。
そして思惑通り、少年は簡単なスキンシップで簡単にご機嫌になった。もっとも今日ははじめからずっとご機嫌だったから、傍目にはこれといって変化はない。
やがては、あまり人に聞かれたくないのだろう、声を潜めてぽつりぽつりと語り始めた。
「きみといると、本当に際限なく欲にまみれて、するべきことを見失ってしまいそうになる。せっかく自分の欲求をコントロールできていたのに。クリスマスだとか、一年目の記念日だとか、そういうのにかこつけて……馬鹿なことをしそう」
「駄目なのか?」
「よくはないんじゃないかな。ちゃんとしていたいんだ。きみに誇らしく思ってもらいたい。ああ、これも欲だ……」
ふーむと唸って、喜多川はあごをさすった。彼にはが思い悩む理由がさっぱり理解できなかったのだ。
我慢は確かに必要だ。するべきことを見失わないように己を律するのも。しかし、欲望はあらゆるものの原動力でもある。実際に彼女は、彼女の言う通りなのだとしたら、喜多川への承認欲求によって動いているのではないか。
そもそも人間の肉体や精神は多く快楽によって動かされている。こうすると心地よい、こうすると報酬として快楽が得られるという仕組みによって繁殖している。
たぶん―――
喜多川は目を細めて恥じらいに打ち震える少女を見下ろした。
彼女がこのような人間の原始的なプロセスを受け入れられないのは、つい一年ほど前までの経験によるものだろう。最も身近な他人である存在に受容されなかったために、快楽を得るための形が未だにうまく機能していないのだ。
そういう意味では余人に『変』とよく称される喜多川のほうが定形的であると表現できるかもしれない。
「うーん……」
地下駅のホームに降り立った少年は再び唸って空いているほうの腕を伸ばした。
細い手指が少女の柔らかな頬肉を捕まえて優しくつまむ。
「いひゃい」
特別痛くもないのに訴える声はすげなく無視されて、手はまた彼女のあごをわっしと捕まえていささか強引に上を向かせる。
そのまま、喜多川は人目も気にせず腰を折り、少女に口付けてやった。
手から少女が硬直する感触が伝わってくる。
また彼女の手はバシバシとその胸を叩きもした。
軽いタップで済んでいるうちはいいだろう。しかしこれが本気になって拳を作られてはたまらない。喜多川はゆっくりと、名残惜しげに身体と唇と手を離してを解放してやった。
「な、な、なに」
「お前の言う馬鹿なことを実践してみたんだが……どうだった?」
「どうって……」
「ん、違ったか」
「違うとか違わないとかじゃなくて。きみ、人前でなんてことするんだ……」
「気にするな」
「気にするよ。ああもう……」
地下にもひやりとした風が吹き込んできていて、人のまばらなホームは地表と大差ない寒さだった。だから離れられてしまうと寒いと思って、彼はじりっと後退ろうとする少女を押し留めた。
「どうせ俺たちは天才というわけじゃないんだ。なにかを成し遂げようとするのに多大な努力を要する。そんなとき、適宜息抜きをしなければ煮詰まるばかりだ」
だから、と繋げて、喜多川はの家とは反対方向の電車に彼女を引っ張った。
「馬鹿なことをしよう。朝までだ。構わないな?」
は抵抗もせずに引かれるまま従った。そして彼女は、消極的な意思表示をよしとせずに口を開いた。
「もういいやって言ったでしょう。でも、今日だけだからね」
「解っている。今日これからすることは、他言無用だ。杏にも話すなよ」
「なにするつもりなの」
「ノープランだとさっき言ったろう」
なんだそれはと呆れ顔をしつつ、は動き始めた電車の揺れに合わせて腕を解放して手近な手すりに体を預けた。