いざ尋常に、

 まだまだ厳しい冬の寒さが続くものの、陽射しは穏やかな春のものに切り替わろうかというころ。襖を横に引いた双葉は口を思い切りへの字にしてそれを睨みつけていた。
 石油ストーブによって暖められた八畳ほどの居間の中央には、使い古された渋い色合いのちゃぶ台が置かれていて、床の間にはまだ新しい仏壇が佇んでいる。線香立てにはいつやったのか、すでに短くなった線香が香煙を燻らせ、前には鮮やかな包装紙に包まれた手土産が二つ置かれていた。
 先客が居ることは明らかで、双葉にとってはそれが兄のような男ではないことが問題だった。
 仇敵と言うには近しく、友や仲間と言うには忌々しい。それは喜多川祐介という名の少年だ。
「おイナリっ! てめーなんでここにいんだこらー!」
 煎茶がなみなみと注がれた湯呑を手に、うっすらと雪の積もった狭い庭を眺めていた喜多川は、さも今彼女がやって来たことに気がついたかのように緩慢にふり返った。
「なんだ、うるさいぞ。人様の御宅で騒がしくするんじゃない」
 それこそ口喧しい兄のような風情だった。双葉は猿の鳴き声に似た奇声を発しながら大股で部屋に踏み入り、座りがてらちゃぶ台をバンと叩いた。
「なんで、ここに、いるんだって訊いてんだっ!」
 バンバンと叩かれるたび、置きっぱなしにされたこの日の朝刊とテレビのリモコンがわずかに動いた。
 そんな彼女の慌てふためき苛立った様子に、喜多川はどことなく恍惚とした笑みを浮かべる。喉からは愉悦に満ちた低い笑い声さえ漏れ出ていた。
「フッ……双葉、一つ教えておいてやろう───」
「な、なに……?」
「俺は───」
 湯呑を置き、ゆったりとしたやたらと余裕のある動作で彼は立ち上がる。元より二人の間には大きな体格の差があったが、双葉が座した今その差は象と蟻、あるいはエベレストとファールゼルベルグの如くだ。
 遥か高みから蒼褪める少女を見下しながら喜多川は恐ろしい事実を告げる。
「なんであれば貴様よりこの部屋に足を踏み入れているッ!」
「ムギャーっ!!」
 怒れる猿の鳴き声そのものが家中に響き渡った。
……
 台所でその声を聞きつけた雨宮は、焦るでも苛立つでもなく、かといって呆れるわけでもなくただ平坦に語りかけた。
「なあ、木べらどこ?」
「そこ。上から二番目の引き出しの中」
 受けたもまた。
 二人はそもそも喜多川がここ───家に来ていることを知っていたし、その上で双葉が彼らより遅れてやってくることも把握していたから、どうせそんな反応になる───なるように、喜多川が双葉をおちょくるような言動をとることは想定済みだったから、驚きはなかった。
 今も曇りガラスを隔てたむこうで二人は喧嘩なのかただのじゃれ合いなのか判別し難い言い合いを続けている。
「祐介ってフタバのこと好きだよなー」
 双葉の分の茶と菓子を用意してやりながらが言った。
「えー、あいつに双葉くれてやるの嫌だ」
「どこ目線だよ」
 呆れた視線と声をくれたのは調理台の隅に座るモルガナだった。きちんと揃えた前脚も後ろ脚もきれいに拭われているが、反面毛並みは乱れている。
 その声への答えか、それともただの独言か、雨宮は取り出したへらで鍋の中身をかき混ぜながら言った。
「やっぱり稼ぎの安定したヒトのとこにやりたい。双葉の手に職があっても女のひとには出産とかあるし……」
「父親かよ。マスターを差し置いてよくもまあ言えたもんだぜ」
「そんなら蓮が嫁げばいいんじゃないの。ルブランも継げて一石二鳥じゃん」
 極めて無責任なの言に、しかし雨宮は難しい顔をして頷いてみせる。
「やぶさかじゃない」
「へー」
「けどそれは最終手段だ。嫁の貰い手が見つからなかった場合か、万が一にでもマスターが倒れたときとか……」
「縁起でもねぇこと言うんじゃねえよ」
「前者も前者でフタバに失礼だよな……?」
 前から後ろから嗜められても雨宮の眉間のシワは消えないままだった。彼なりに妹のような少女を心配してのことなのだろうが、まったく余計な世話以外のなにものでもない。十年後どうなっているのかなんて誰にも分からないし、ここで論ずることでもないだろう。
 は盆の上に菓子と茶を乗せると、雨宮を放って賑やかな居間に移る。
「ほらフタバ、あんまりうるさくしないでちょうだい。お茶とお菓子あるからこれ食べて大人してて」
 甲斐甲斐しく茶と豆大福を差し出したに、双葉は素早く指を突きつけた。
! おまえなんでこやつをここに上がらせてんだ! ヘンタイが伝染るぞ!」
 指にも言にも、彼は困りきって眉尻を下げる。伝染った実感はなかったし、どうしてと言われても……
 差し向けられた困惑の視線に、喜多川は鷹揚に頷いてみせた。そうとも、何故だと問うのも答えるのも粋じゃない。沈黙は金だと。
 受けても首を縦に振る。
 それが、双葉には面白くない。歳も違えば性別も学校も違う間柄にあって、しかし同じ怪盗団の括りの中で最もと付き合いが長いのは他でもない彼女だ。少なくともその枠組みの中で、あるいはその外でだって、『一番の友だち』は自分だと───そうありたいと願う双葉には、ただ歳と性別が同じというだけの輩にイニシアチブを取られることは大変に面白くない。
「目と目で通じ合うな! ちゃんと言葉で説明してよっ!」
 ささやかな悋気に自身は気がついていないが、しかし求められれば彼はすぐに応えた。
「なんか、うちの佇まい? がいいんだって」
 なんの抵抗さえ見せず上げられた白旗に気を悪くするでもなく、喜多川はやたらと重々しく頷いた。
「ああ。このヤニや油で渋い色合いに変化した壁や柱、日に焼けた桟、障子の修繕跡……」
 なによりも、と前置いて彼の手は畳を愛おしげに撫でる。労るような慈しむようなそれは、見る者を精神的に後退させた。
「この年季の入った畳の毛羽立ち…… あ〜っ、たまらん……!」
 崩れ落ちるようにして畳の上に倒れた彼に、双葉とは冷たい視線を送った。
「ヘンタイ……」
「ね、伝染んないでしょ」
「うん。ごめん」
「いいのよ。ほら、豆大福食べて」
「うん───」
 大ぶりな大福に齧りつく双葉の様はハムスターのようで、は思わず目尻を下げる。
 すると今度は喜多川が不満げにし始めた。
「おい、俺にはなにもないのか? 茶菓子をいただいた覚えがないんだが」
 頬に残る畳跡を見つめながらは応えた。
「お前今日来る予定なかっただろ。双葉と蓮と、モルガナの分しか買ってないよ」
「なんだと……!?」
 大仰に驚いてのけ反る彼をあざ笑うように双葉は餅を伸ばしていた。彼女はまた、塩気のきいた赤えんどう豆とつぶあんの確かな甘みが堪らない、と食レポを投げつける。そうやって片一方にやられる程度の相手ではないと見せつけるからこそちょっかいを掛けられるのだと、彼女自身は気がついていないのだろう。喜多川は呆れ半分、喜び半分、溢れて歯噛みしながら腹をさすった。
 その眼にふと、仏壇の前の差し上げ物、その一つが映る───
 それは喜多川こそがなけなしの銭を叩き、いらん気をつかうなとが言うにも関わらず月一程度で持ち込む手土産だった。
 は預かり知らぬことだが、これで喜多川は師に連れ歩かされた経験によってこの手の土産物にも通暁している。双葉が頬張る豆大福もいつか彼がここへ持ち込んだものをが気に入って選ばれたという経緯がある。
 つまり、双葉の反撃は実質あまり効果はない。
 そうした水面下の意味も意義も価値もない戦いはにはどうでもよいことであった。こいつらほんと仲いいなと妬くでもなく微笑ましく思うだけだ。
 彼の関心はただ、気を遣うなと言うものの、あれば嬉しい付け届けにある。こいつの選ぶ物にハズレ無しだ、と。
「……じゃ、祐介の手土産開けちゃうか」
 ちゃぶ台の下で喜多川がこぶしを握った気配を敏感に感じ取ったのか、はたまた彼女も『ハズレ無し』に共感しているのか、双葉は座布団の上で小さく跳ねた。
「あっ! わたしもそれたべる!」
「むっ……まあいいだろう」
「祐介が許可するのかよ。いやまあ買ってきたのお前だから間違ってもないんだろうけど……」
 苦笑しつつもは仏壇前に足を向け、手土産の一つと、ついでに供物台の上のみずみずしい苺が詰まったパックを手に取った。
 喜多川が足繁く家に通う理由には一つ、この家の年月を感じさせる佇まいがあって、二つ目に自らが持ち込まずとも食い物が潤沢に振る舞われることがある。居心地の良さと飯。それは概ねルブランにも共通している。これに関しては台所の雨宮も、早く早くと急かす双葉にしても反論の余地はない。もちろんそれはこの上ない賛辞ではある。
 期待のこもった視線を一身に受け、は苦笑する。
「出すけどさ、あんまり食べ過ぎるなよ。これからカレー出すんだからさ───」
……
 三ヶ月か四ヶ月ほど前のことだった。
 同じ場所、同じ時刻に、
「カレーなら得意だ」と雨宮は言った。
 受けては応えた。
「カレーなら俺もちょっと自信あるし」と。
 二人は静かに火花を散らし、そして、互いに振る舞おうと気安い約束を交わした。
 すぐにとならなかったのは当時の一方に果たすつもりがなかったのと、もう一方がその後死亡報道をされた挙げ句少年院送致の処置をくらっていたからだ。
 けれど今やの身にまとわりついていた障害は去り、雨宮は帰還した。やらない理由のほうがなかった。
 この前日はお互いの謎の遠慮と牽制によって避け、翌日の放課後、雪の中、雨宮は家にやって来た。手にはカレーの材料と、帰還祝いの席で聞かされたの父親の退院祝いを携えて。
 その時にはもう喜多川が上がり込んで寛いでいたのだが、この時も雨宮は特別驚くことなく済ませた。どこに居てもどれだけ馴染んでいても不思議な感じがしない───その姿はさながら、帰り道を見失ったハスキー犬がその人懐っこさと純真さによって次々に新たな住処を確保する様に似ている。
 その後に双葉が到着する。驚くことにルブランからここまで、一人で、公共交通機関を利用して。実際には四月からの登校の予行練習だから、こちらからヘルプを出すまで救援は必要ないと大見得を切った手前、気軽に要請を出せなかったというのが正しい。人の多さにまごまごしている間に一駅乗り過ごし、慌てて反対側のホームに駆け戻ったりしている間に到着予定時刻が過ぎていた。遅れたのはこのためだった。
 彼女の役目は雨宮と、どちらのカレーが優れているかを審査することだったから、完成までにたどり着ければ問題はなかった。
 雨宮はまだ台所で鍋の様子を見ている。完成にはもう少しかかるだろう。はといえば、件の手土産を手にまた居間へ戻っていた。
「はいどうぞ」
 切り分けられて小皿に乗った重量感のあるガトーショコラに双葉は歓声を上げる。
「おおっ!? おイナリが空気読んだ!?」
「野郎から貰ってもなぁ。しかも先に二人が食うっていうね」
「なにか問題が?」
「ないよ。あ、お茶のおかわりは?」
「わたしはいい。まだあるし」
「貰えるか」
「おう、ちょっと待ってろ」
 は残り少なくなった喜多川の湯呑を手に、三度台所に消えた。
 居間は静かだ。しんしんと降り積もる雪の音と、ストーブの上に乗せられた加湿器代わりのやかんの鳴き声のほか音はない。
 ぬるめに入れられた茶を一口、双葉はさっさとガトーショコラにフォークをつける。
「気になっていたんだが……」
 低く囁くような喜多川の声に静寂は破られた。それ自体は不快ということもないが、双葉は(またそれか)と眉をひそめる。
「どした?」
 とはいえ相手をしたくないほど険悪な仲でもなし。フォークを止めて応えた彼女に、喜多川は意味もなく首を振った。
「ああ……が俺や蓮、あるいは他の者に語りかけるときと、双葉にするときとでは、妙に口調が違うなと思ってな」
「あー、それなー」
 双葉はなんとも言えない渋い顔をつくった。彼女にも実感がある。が己と口を交わすとき、紋切り型な女口調になっていると。
「なにか理由が?」
 臆すことなく喜多川は尋ねた。双葉は、うーんと呻いて腕を組む。
「理由っていうか、最初にあったころのクセがそのまんまになっちゃってるんじゃないの? ネトゲで遊ぶとき、あいつのアバターだいたい女子だし」
「ああ、なるほど───……ん?」
「おまたせー」
 喜多川がはてと首を傾げるのと同じタイミングでが戻り、わずかな違和感は差し出された温かい茶に押し退けられる。
「なんの話?」
 おまけに彼がそのまま腰を落ち着けると、新たな疑問に取って代わられてしまう。
「大した話じゃないっていうか、カレーは?」
 双葉が知る限り、家の台所はかつてそこで辣腕を奮っていた女主人を思わせる程度には広い。ガスコンロも三口あって、カレー専用とまではいかなくとも、調理に適した鍋だっていくつもある。雨宮が使用中だからといってがその完成を待つ必要はないはずだった。
 喜多川もまた同じことを思ったのだろう、瞳に不思議そうな色を湛えてをじっと見つめている。
 二人の疑問に彼はすぐ答えた。
「俺のはもう昨夜から電気圧力鍋にかけてるから。かれこれ……一十五時間以上? 煮込んでるよ」
「それは……手抜き、か……?」
「いやいや、ブイヨンとか玉ねぎあめ色にするやつとか、下味つけた肉焼いたりは手動だって」
「手間かかってんだかかかってないんだかわかんねーな」
「かかってるのよ」
 煮込みの前段階だけで二時間三時間は取られるのだとは懸命に訴えるが、どちらかといえば食べる係の二人にその労力は理解しがたい。双葉に至っては『カレーをつくってくれる人』の雛形が今は亡き母と義理の父、そして雨宮という面々で固められているせいか、『カレーとはそういうもの』と認知している節さえある。
 とはいえ味となればまた別の話だ。供された二つの皿は程なくすっかり平らげられて空になった。
「オマエらよくそんな食えんな」
 猫舌のモルガナは二人と比べれば幾分かペースも落ちる。それでも二つの皿はそれぞれ半分ずつ減っているから、体積比を鑑みれば彼も十分『よくそんなに』と言えた。
 対して料理人ニ名はお預けをくらう身となっている。これはのほうが「自分たちは皆の審査結果を待ってからにしよう」と提案したからだった。雨宮は不平を言うでもなくこれを承諾したが、時刻はすっかり夕飯時になっていて、彼の手はすきっ腹をしきりにさすっていた。
 そろそろ自分たちもさじをつけていい頃合いじゃないか───
 そう訴える視線には含みのある笑みを浮かべて頷いた。
「それじゃあ聞かせてもらおうか。俺と蓮のカレー、どっちが『好みの味』だった?」
 なんてことのない、はじめから定められていた問いかけに、何故か喜多川が器用に片眉だけを顰めた。
「それは当然、蓮のカレーに決まっているだろう」
「まあな、これじゃあな」
 低く唸る調子で答えた喜多川に、同じく渋い顔のモルガナが続いた。
 二人の答えは雨宮に首を傾げさせた。もちろん二人にそう言わせる自信はあったし、選ばれて嬉しいとも思うのだが、二人の反応はどうにも……に対して批判的だ。
 ところがは悔しがるでも悲しむでもなく、ただニヤニヤとするばかりで、雨宮をますます困惑させる。
 スプーンを置いた双葉の答えは彼をさらに驚かせた。
「わたしは……んまあ、これはだなぁ……」
 雨宮の身を小さくない衝撃が貫いていった。惣治郎から手ほどきを受け、一年を通して修練を積んだルブラン秘伝のレシピだ。完璧とまではいかなくとも、そこそこ以上のものにはなっているはずだった。その味は双葉にとって母の味同然のもののはず───
 親離れ、という言葉が雨宮の脳裏を過ぎった。娘を嫁に出す父親の心地とはこういうものかとも。
「……ぷっ……」
 すぐ間近にこぼれた失笑と、双葉と喜多川、そしてモルガナのため息が重なって雨宮を現実に引き戻した。
「ごめん、ほんとごめん……悪かった、蓮。なんて顔してんだよ……」
「え、え、なに。なにを笑ってるんだ……?」
「食えばわかる」
 短く応えた喜多川の鋭い視線に気圧されるようにして、雨宮はさじを手にカレーを口に運んだ。
「この味───」
「やっぱわかる?」
「そりゃあな。この場でわからんヤツなんぞいやしねぇよ」
 あきれ返りつつも二つのカレーを交互に口にするモルガナには、この上なく事の次第が把握できていた。
 雨宮は自らの味覚と記憶を深く慎重に探り合わせながら言った。
「……これ、ほぼルブランのカレーだよな……?」
 答え合わせを求める子どものように不安げな彼の様子に、はまた快活に笑った。
「さすが。マスターのカレー『そのもの』じゃないってとこまでちゃんと分かるんだな」
「まあ。ちょっとトマトが強い」
「そこはうちのカレーの特徴が出たんだろ」
 うんうん、と一人でなにかに納得する様子を見せる偉丈夫に冷めた視線が突き刺さる。
 何故なら今日はカレー対決のために足を運んだのであって、その勝負は公平なものであるはずだからだ。喜多川はいざ知らず、双葉やモルガナ、雨宮だっての作るカレーを楽しみにしていたのもある。
 だというのに出てきたのはルブランカレーの・ようなものだ。これでは勝負にならない。
 さしものも室内の空気が剣呑なものになりつつあることを察して訳を語り始める。
「いや───昨日、仕込みを始めるくらいのタイミングでさ、おじさんから連絡があって」
 この場合、彼の言う『おじさん』は双葉の義父であり、ルブランのマスターでもある佐倉惣治郎のことだ。そっけない態度の中に深い情を宿す人であることは皆承知しているから、その目的は言わずとも知れる。双葉と、ついでに雨宮とモルガナが夕飯をごちそうになると聞いて、先んじてお礼の連絡をしたのだろう。
「その時ちょっとね、フタバの好みを……少しだけ」
「カンニングか」
「チートだチート」
 罵倒を受けてもは苦々しくも笑うだけだ。あまり悪いとは感じていないらしい。
「だって、ねぇ? 祐介はともかく、フタバがジャッジって時点で、ズルでもしなきゃ蓮には勝てないじゃん。戦術レベルじゃなくて、戦略の段階で手を打っておくべきかなーって」
 そこまで言い募ってやっと、は窺うような視線を雨宮に寄越した。
「……怒ってる?」
 雨宮は再びさじを手に二つのカレーを食べ比べながらうーんと唸った。
 自分のカレーはいつも通りだ。この一年を通してすっかり食べ慣れたルブランの味……よりも少し辛い。どうやら愛情を込めすぎたらしい。
 対するのカレーも似たような味がする。旨味とコク、折り重なった複雑なスパイスの香りと、そして強めの酸味───これは先も述べたトマトによるものだろう。それも不快ということはない。よく炒められた玉ねぎの甘みと絡んでちょうど良いところに収まっている。
 雨宮から言わせてもらえば、わざわざ双葉の好みに寄せるような真似をせずとも充分勝機はあったはずだ。なんとなれば彼女はが作るカレーを求めていたのだから、言わずもがな今日の自分は添え物だと。
 しかしどうやらそうではなかったらしい。
「……そこまで俺に負けたくなかったのか?」
 さじを咥えたままの雨宮が尋ねると、はその意図を汲み取って低く喉を鳴らした。
「二度も土をつけられちゃ堪らない」
 強烈なエゴを彼は感じとった。負けたくもないが、かといって雨宮が負けるところも見たくない───そんないくらか歪んだ欲望だ。あるいは対等でいたいという真っ当で誠実な願いでもあるのかもしれない。
 曖昧な笑みを湛えて沈黙する友人に雨宮は似たようなものを返した。その気持ちは分からなくもないよ、と意図を込めて。
 果たしてそれは伝わったのだろう。は小さく笑い声を漏らすと、やっとカレー皿に添えられたスプーンを掴んだ。
「だから、わたしを置いて目と目で通じ合うな! もーっ!」
「お、牛になった」
「おイナリうるさい!」
 騒がしいまま夕飯を済ませ、そのまま二人は食後の片付けに入って居間にはデザートの苺と食べる専門の二人と一匹が残された。その内、帰り支度か己の鞄を漁る双葉を横目に、喜多川とモルガナは膝と脚をつき合わせて静かに語り合う。
 洗い物を担当するほうの二人はあれで満足したようだが、じゃあ結局、勝負は引き分けということになるのか? それとも単なるノーゲームか? 正直に言ってしまえば、どちらが勝とうが負けようが大した関心はないが、仕合がああいった形で済んだのであれば───
「勝者はマスターということになるか」
「もうそれでいいだろ。あのヒトに勝てるヤツなんてそういやしねぇさ」
「フッ、それもそうだな」
 オブザーバーの意見が揃ったところで、目当ての物を掴んだ双葉がもの言いたげに台所に視線を向ける。
 洗い物と片付けにせっせといそしむ二人の少年は水音の下で何事かを言い交わし、時折肩を震わせては笑い合っている。それはやはり双葉にとってあまり面白いものではないが───
 フン、と鼻を鳴らして双葉は鞄から手を引き抜いた。その手には円筒状の小箱がそれぞれ一つずつ握られている。
「蓮、、ちょっと〜……」
 モニョモニョと妙にこもって舌っ足らずな発声に、しかし二人の少年はすぐに気がついて身体ごとふり返った。
 双葉は、手を使うわけにもいかず、かといって面倒がって立ち上がりもせず膝をにじって彼らのいる方へジワジワと近寄っていく───上体を掲げたイモ虫のような彼女の姿に、雨宮とは揃ってシンクに尻をぶつけた。姿勢もあるが、なにより顔が怖い。
「ん!」
 勢いをつけて差し出された手に二人は同時に震え上がった。
「爆弾か!?」
「えっ!? やめてフタバ! ローンはないけど建て直すようなお金も無いの!」
 なんたる言い様かと、双葉はこれ以上はないほど頬を膨らませる。その手にあるのはもちろん爆弾などではないし、丁寧にラッピングされてすらいる。
 なんなら双葉の背後で様子を窺っていた喜多川とモルガナのほうがよほど状況を理解していた。
「あれワガハイも手伝ったんだぜ」
「ほう。これが本当の猫の手というやつか」
「気安く触んじゃねー……ってかネコじゃねぇよ!」
 ペチッと小さな音が響くころになってやっと、二人の少年は今日が何月の何日かということと、双葉が渡そうとしている物の正体に気がついた。
「あ、あー、チョコか……」
「びっくりしたぁ。やめてよもぉ〜」
「なんだよその反応! やっぱあげない───」
「くださいください」
「欲しいです欲しいです」
 小さな手が引っ込められかけて、少年たちは慌てて両手を差し出してみせる。双葉はしばらくブスッとした様子で二人を睨みつけていたが、やがて渋々といった様子で両手をそれぞれに突き出した。
「どっちが本命だ?」
 受け取って早速軽口を叩く雨宮に、双葉はプイと顔をそらしてあごを上げた。
「どっちも義理に決まってんだろ!」
「一日遅れてるもんね」
 きっと惣治郎には当日中に渡したんだろうと微笑ましく思いつつ、は顔中をほころばせた。
 表ではまだみぞれ状の雪が降り続き、日が落ちた今、気温はますます下がりつつある。しかし屋内はやわらかな暖かさに包まれている。腹具合もあって誰もがまどろみそうな心地よさだった。
「……ん?」
 爪を出したモルガナから逃れて三人を見守っていた喜多川ははてと首を傾げた。
「双葉、俺にはないのか?」
「あー? だからさぁ、おイナリ来るってきいてねーし。まあきいてても用意しないけど」
「き、貴様というやつは、呆れ果ててものも言えん!」
「言ってろ〜」
 ばったりと畳の上に倒れた喜多川を無視して、双葉はさらに鞄からもう一箱を取り出した。
「んで、にはこれも───」
 すると喜多川がバネでも入っているのか、勢いよく身体を起こした。
「もう一つあるんじゃないか!」
「ばかもの! これはの親父さんのぶんだっ! なんかタイミング悪くて渡せなかったから、退院祝い代わりにって……」
「くっ!」
 ピシャリと叱りつけられ、顔を伏せた彼はもう起き上がらなかった。
 退院祝いと言われてしまえば、もう打つ手はなにもない。喜多川はもうずっと以前、なんであれば退院から一週間も経たぬうちに進上していたから、本当にすることがなかった。ついでに言えば、雨宮もこの日の玄関先ですでにに手渡している。
 双葉は深々と頭を下げながら、二人に渡したチョコとはまた違う、長方形の箱を息子にうやうやしく差し出した。
「これでどうか、ひとつよろしく……」
「なんの付け届けなのよ」
 妙に卑屈な態度に笑いつつ、彼は丁重にそれを受け取った。
「ありがとうな。絶対喜ぶよ。みんなに若い子からチョコ貰ったって自慢して回らないといいけど」
 パッと顔を上げた双葉はニヤッと口もとを歪めて再びあごを上げる。
「おまえも自慢していいんだぞ? ん?」
「義理でしょ」
 は笑って受け流しているが、雨宮はさっさと包みを開いてチョコレートクランチをつまんでは喜多川に見せつけるようにしている。
「……うらやましいか?」
「この俺がその程度で」
「ついでに言っとくと、ワガハイも手伝ったときに貰ったぜ」
「ッ!?」
 やたらと長い手足をジタバタさせて悔しがる姿は滑稽である以上に憐みを誘ったのか、双葉は重く長いため息をついて諦めたように肩を落とした。
「わかった、わかったよ。家にまだ材料残ってるから……」
 ハッと息を呑む音が部屋中に響き渡った。彼はまた期待に背筋を伸ばしもした。
 果たして双葉ははにかみながら眼鏡のブリッジを押さえて彼に応えた。
「それをやるよ。刻む前のデカいやつだから、そっちのほうが嬉しいだろ?」
 慈愛と憐憫の眼差しを受けて喜多川は沈黙した。こんな屈辱は生まれて初めてだと思うが、しかし、でも、チョコはチョコだ。それに双葉のことだ、ここで自分が受け取らねば用途も思い付かず来年まで冷蔵庫の肥やしにする可能性が高い……と、噛み締めながらゆっくりと己を納得させ、やがて静かに「はい」と子どものように頷いた。
 それで双葉は満足げにして、後顧の憂いなしと二人に───雨宮はすでに遠慮会釈なくチョコクランチを齧っていたから脇に置いて、のほうに向きなおる。
「いいか、。お返しは三倍だからな?」
「えー、義理なのに……」
「双葉、これ硬い。テンパリング失敗しただろ」
「うるさいなー!」
 話の腰を折るなと双葉が床を叩く音と、とてもチョコレート菓子を頬張っているとは思えない咀嚼音が重なった。
 賑やかなのは歓迎だけど、騒がしくしすぎないで欲しいというのがの本音だ。ご近所さんに迷惑をかけたくない。
「あんまりうるさくしないでちょうだい。三倍ね、分かったよ。分かったから……」
「うるさくさせてるやつがたくさんいるのが悪いんだよ」
 わたしのせいじゃないとまた頬を膨らませる少女の姿は、愛らしいが憎たらしくもある。それはこの場にいる男子らの総意であった。
 彼女自身もうっすらとそれを感じ取っているのだろう。行き過ぎれば叱られるが、許容範囲のワガママならば『全て』受け入れられると。
「いいか、
 双葉は自信深げに笑って言った。
「お返しはカレーでいいぞ」
「そんなんでいいの? 三倍なんだから、もっと他に……」
 チチチ、と舌を鳴らして指を振る彼女に、は不思議そうに首を傾げる。
「小細工なしの本気のやつを、わたしのためだけにつくってよ」
 言外に『蓮が間に入ると妙なことになるから』と添えて告げられたことに、彼は頭を掻いた。なるほどそういうことかと。
 同時に彼は初めて申し訳無さを覚える。想像していたよりずっと、彼女がこの日を楽しみにしていたらしいと気がついたからだ。自らの狙い通りにしつつ、雨宮の矜持と彼女の舌、ついでにモルガナと喜多川の腹を満たすことができたと思っていたが……
 双葉の言いたいことはつまり、あまりよそ見をするなということだ。いつもの通り、お前の『一番のトモダチ』は自分だと。
「わかった。今度はちゃんと普段の───いや、普段以上のやつをつくるよ」
「うむ! ……へへ、約束したからな」
「ああ」
 しっかりと頷いて返した彼に、双葉は頬を紅潮させてにんまりとする。
 そのまま、彼女はこれで話はおしまいと帰り支度に取り掛かる。その見送りのためコートを取りに居間を出たを横目に、雨宮はガリガリとチョコクランチを齧りながらふーむと唸る。
ねぇ、かぁ……手に職系だけど、長い目で見たらどうなるか、業界の動向次第じゃ……」
「だからマスターを差し置いて父親気取りすんなってんだよオマエはよ」
「そものほうはどうなんだ。その気があるのかすら疑わしいだろ」
 左右から入る指摘に、雨宮は度のない眼鏡の下でまぶたを降ろした。
「とりあえず……」
 やたらと硬くてもチョコはチョコだ。小さくなれば熱質量が低くなり、口腔内の温度で勝手に溶ける。あとに残るのはコーンフレークの食感と……
 工程の一部に不首尾があったからといって、味そのものが悪くなるわけじゃない。飲み下した後もチョコレートの甘さと香りは強く残った。
「女子のチョコと野郎のカレーじゃどう考えても前者のが強いだろ……」
 ずるい。と言い残して雨宮もまた帰り支度に乗り出した。
 残されたモルガナと喜多川は互いに顔を見合わせて眉をひそめる。雨宮の言ったことはごもっともだ。反論の余地は微塵もない。よほどの物好きでもなければ必然そう思うだろう。
 しかし先ほどの彼の様子を顧みるに、どうやら彼にはそれこそが面白くないらしい。
 それほど自らの腕に自身があったということなのか、それとも、彼もまた『一番の』という冠に価値を見出しているのか。
 いずれにせよ、双葉は喜多川との間柄に同性故の気安さを見出して嫉妬していたが、雨宮からすれば双葉との間にも異性であるが故の特別な───恋愛感情に由来しない繋がりが見えるのだろう。
 そのように説いた黒猫に、喜多川は納得した様子をみせる。彼はまた居間の隅に置いた通学鞄とコートに手を伸ばしつつ、結論を求めてさらに問う。
「つまり、今日の勝者は双葉ということでいいのか?」
「そういうこった。まったく、どいつもこいつも、ガキくせぇなホントに」
 やれやれと頭を振る猫の口からは皮肉っぽい笑いがこぼれ落ちている。喜多川からすればそれこそどの立場からの目線なんだと指摘したいところではあるが……
 ───どうせ次の機会も双葉一人でということにはなるまい。となればこの勝負が続く限り、己は字面通りのうまいおこぼれに与れそうだ。
 ほくそ笑む少年の思惑を見抜く猫の眼は、呆れこそすれ止める気はなさそうだった。