打つも撫でるも

 すずしのの通りは日本でも有数の歓楽街だ。長期休暇となれば日中は観光客で賑わい、夜は地上も地下も酒精を帯びた人が絶えず行き来する。
 そんな状態にあれば人いきれでうんざりするような不快指数に見舞われそうなものだが、そこに吹く風は本州に比べればずいぶん快適で日陰の中にいればそれだけで涼が取れるほどだった。中央を通る大きな通りから一つ外れてみれば、喧騒も薄れて静かなものだ。
 涼と気晴らしを求めた彼はその見慣れない景色の中に見覚えのある姿を見つけてふと足を止めた。
―――」
「ん?」
「こんなところでなにしてるんだ?」
「そっちは?」
「さんぽ」
 出発の時間までにすることも、すべきこともすでに済ませている。あとは他の面々の支度が整うのを待つだけだ―――と、そう語って歩み寄ると、彼女は導くように脚をにじって己の隣を空けた。
 実際のところ、ここがスーパーマーケットの目の前で、彼女がエコバッグを抱えている時点で何をしているのかなんてことは明らかだ。今日の夕飯か、明日の朝食用に食料や調味料の買い足しを任されたのだろう。
 持つよと言って差し出した手にその荷物が預けられたことに彼は密かに息をついた。それはこの程度の雑事すらこなせない男と思われたくないという、たいへんささやかなプライドから出たものだった。
 それを見抜いているのか、は小さく喉を鳴らすと少しだけ意地悪な目つきで彼を観察しはじめる。
「君って本当に、人を甘やかすのが好きだねぇ」
「え……そう? 普通だろ、こんなの」
 普通誰か―――女性や子供、老人が重い荷物を抱えていたら手を差し伸べるものじゃないのか。多少の躊躇くらいはするだろうが、結局は見ていられなくなって声を掛けるくらいはしてしまうだろう。たぶんそんなのは竜司や祐介だってやるし、モルガナだって可能であればなんだかんだ言いながら猫の手を差し伸べるに違いない。あるいは、彼女自身も含めた女性陣だって、己の手に負えそうな範疇であれば同じことをするだろう。
 と、そう自信をもって語ると、はまたどこか微笑ましげにして笑声を響かせる。
「それもある意味の甘やかし発言かな」
「ええ……?」
 なんで? と首を傾げるのと彼女が追撃をするのは同時だった。
「そういえば、杏と竜司のためにあちこち走り回ってたよね。パフェやらラーメンやら……」
「あー……」
 それは間違いなく彼の記憶にも刻まれた出来事ではある。仙台では高巻にご当地スイーツをおねだりされ、ここ札幌では坂本のためにジェイルに足を運びさえした。それを甘やかしていると言われると……そうなのかもしれないとも思うし、特別なことをしたつもりはないとも思えた。
 素直にそれを伝えるとはますます楽しそうにして肩を震わせはじめた。
「それが君の善良さの顕れなのか、それともあの二人が君にとって特別なのか……ふふっ、面白いね」
「特別って―――」
「違う?」
 少年は肩に下げたエコバッグを抱えなおしながら、うーんと唸った。
 違うかと問われれば、それはもちろん違っている。同じ教室で過ごした高巻と、同じ学舎、同じ学年で同性でもある坂本とは昨年一年を通してほとんどの時間を同じくしたのだから、単純に接触の頻度が違う。そういう意味ではモルガナが最も長い時間をともにしたことになるが―――そうした差が二人と一匹への気兼ねのなさに繋がっているという自覚は彼にもあった。けれど一方で仲間のうちに優劣もありはしないとも、確信とともに言い切ることができる。
 なんにせよ意地の悪い質問だと少年は顔をしかめ、意味もなく反逆の精神を燃やしたりする。
「……やきもちか?」
 牽制のつもりで放った軽いジャブは冷笑で迎え入れられた。
「私が? 君たちにぃ? フフッ、面白いね」
 実際にの瞳は愉快そうな色を湛えていたが、今回ばかりはそれがより少年の―――プライドと言うには安っぽく、やたらと幅を利かすものが刺激される。
 彼は大仰に頷いてみせると、半歩距離を詰めて低く囁きかけた。
「わかった」
「なにが?」
も甘やかしてやる」
「なんで?」
「覚悟するんだな」
「なんの?」
「ぎゃふんって言わせてやる」
「はあ」
 堂の入った脅迫者ぶりには怪訝そうに眉をひそめるが、少年はただ怪しく喉を鳴らすばかりだ。ただ彼のポケットで会話に耳を傾けていたAIだけが訳知り顔で深く何度も頷いている。どちらの意味も、には知りようがなかった。

 札幌を発った一行は紆余曲折と一〇以上のインターチェンジを経て京都に辿り着いていた。本来の目的地とは違うのだが、長時間の運転を務めた新島を慮って長谷川善吉がハンドルを握ったところ、その彼の事情からご自宅に一晩ご厄介になることとなった。
 彼には中学三年生になる娘がいて、怪盗たちはその緊張した親子関係をわずかにでも解すべく、また自分たちが与えてしまった誤解への謝罪の意味を込めてと、さらに自らの飢えを満たすため人様のご自宅の台所を拝借する―――
「ずるいっ!」
 双葉の非難がましい声が上がったのはそんな折、京野菜をふんだんに使用したカレーが完成した直後のことだった。
 人数の関係でダイニングとリビング二つのテーブルに別れ、その内のリビングルームに腰を下ろしていた善吉は家中に響かんばかりの大声に咎める視線を向けている。夕飯時とはいえ閑静な住宅街だ、あまり大声を出されて近所トラブルなど呼び寄せたくない、と。しかし双葉は構うことなくさらに喚き立てた。
「なんでの皿だけそんな大盛りなんだ!? 山になってるじゃねーか!」
 余すことなく状況を伝えて、双葉は右手でテーブルを叩き、左手で善吉の隣に座るを指差した。確かに、彼女の前には皿から溢れんばかりに注がれたカレールーと、山のように突き出す白米がそびえ立っている。ただし彼女自身は三、四人分はあろうかというその量に閉口している様子だ。
「双葉、やめなさい」
 人を指差すのも食事中に騒がしくするのもテーブルを叩くのも。お叱りの声が高巻から飛び、それで双葉は頬をいっぱいに膨らませはしたが停止する。……と入れ替わりに喜多川が音もなく立ち上がった。
「……ちょっと? なに便乗しようとしてんの? 座んなさい」
 これもまた高巻の鋭い視線とお言葉を頂戴して轟沈する。皿を手にしていたところからして、おそらく増量を目論んでいたのだろう。
「まったく……おかわりできる分はあるんだから、まずは出されたものをちゃんと食べる! 双葉も!」
 ごもっともだと我を取り戻した喜多川の隣で、双葉はスプーンを握りしめながらまだへそを曲げている。たった今叱られた原因はの前にある山盛りのカレーであり、それを拵えたのは―――恨みがましげな視線はカレーの仕上げと配膳の一部を担った少年に向けられる。彼はリビングのほうのテーブルについて、なにか微笑ましいものを見つめる視線をせっせとに注いでいるところだった。それは情熱的と言うには生ぬるい、親鳥が子を見守るような、そんな眼だ。
 彼は双葉の……今や長谷川家に集う全員の疑惑に満ちた視線を受けながら言った。
「たくさん食べて大きくなるんだぞ、
「親御さんか!」
 坂本のツッコミなのか罵倒なのか、はたまたからかっているだけなのか、いまいち判別しがたい声に何故か善吉が肩を震わせた。親という単語に反応したらしいが、娘の茜は一連の展開にスプーンを握ったまま不思議そうにするばかりで、父親の複雑そうな眼差しには気がつきもしない。あるいは気がついていて敢えて―――という可能性もあるが、ここで指摘して拗らすよりは様子を見たほうが良さそうだと、は生ぬるい視線を目の前の山盛りのカレーに顔を戻した。
「……いや、大きくなるって言っても普通に食べきれる量じゃないし……これはちょっと違うでしょ……」
 こちらは罵りの意味をたっぷり込めての言葉だったが、言われたほうは意味深長に、必要もないのにやたらとキザったらしく笑うだけだ。
 結局、山のように盛られたカレーは手を付ける前に山分けされ、皆の胃にきれいに収まった。

 長谷川宅、ないし京都を発った怪盗たちは引き続き善吉を交え、大阪からフェリーに乗って沖縄を目指す。猫とAIを除いた九名とキャンプカーの輸送費はなかなか高くついたが、車中より広々とした船上、また運転に集中する必要もないとなれば支払う価値もあるだろう。
 とはいえ船員に注意されるほどはしゃぐのはやりすぎたと自省し、大人しく海の旅を楽しもうとめいめい別れてしばらく、は仲間たちから離れて後部デッキに足を運んでいた。
 手すりに寄りかかって水中のプロペラが立てる泡を見るともなしに眺めるのは退屈だが、不思議と見飽きることがない。なにより、陽射しは強いが風は冷たく、波音と相まってまどろみそうな心地よさがそこにあった。
 かといってこのまま手すりに身を預けて眠りこければ干物になってしまう。ちょうど喉も乾いてきた頃合いだ。船室に戻って売店でも覗きに行こうか―――
 そんなふうに思っては身体を起こした。するとちょうど背後にまでやってきていた少年の、その手に握られていた清涼飲料のペットボトルが首の後ろに吸い込まれるように当たる。
「うひぃっ!?」
 奇っ怪な悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ彼女を失笑が包んだ。
「ぷっ、くくっ、うひーって、驚きすぎ……っ」
 身体をくの字に負ってあえぐたび、癖のある黒髪が風と震えによって揺れている。は彼の手からペットボトルを奪い取って床を踏み鳴らした。
「なんなのこの間から。怒らせるようなことした?」
 激しくはないが確かな怒りのこもった声と視線に、彼はしかし微笑んで首を振った。
「まさか。……あ、こないだシャドウと一緒くたにふっ飛ばされたのはちょっと根に持ってるけど」
「それは、ごめん。……すいません」
 数日前のジェイル攻略中、彼らは雪風吹き荒ぶなかで大量のシャドウと対峙する場面に遭遇した。視界も足場も悪いからと、焦らず一つ一つ潰していこうと指示が飛んだが、は面倒くさがって哀れな雪だるまたちを吹き飛ばした。目の前の少年も一緒に。それはもちろん故意ではないのだが、じゃあ許せるのかと言われれば……少しくらいは恨みがましく思ったってバチは当たらないだろうとは彼自身の弁だ。
 とはいえ、加害者はダンダンと鳴らしていた脚を止め、今やしおらしく項垂れてしまっている。なによりその場での叱責はたいへん厳しいものだったから、今さら自分が言えることもないと彼はまた喉を鳴らした。するとそれがやはり彼女の癇に障ったのだろう、プイと顔が逸らされ、丸い頬が陽光を柔く反射させて彼の眼を焼いた。痺れるような微かな痛みに目を細めている間に彼女はペットボトルの蓋に手をかけている。
「もらうね」
「どうぞ」
 元々渡すために来たんだと語尾に添えるようにして告げると、はくすぐったそうに笑ってボトルに口をつけた。
 うっすらと汗の滲んだ細く白いのど首が嚥下に動く様から少年が目を逸らすと、「ぷはー」とどことなく年寄りめいた彼女の満足げな呼気がその耳に触れる。遮るもののない船べりで過ごす間にずいぶん汗をかいていたらしいと、奇しくも二人は同時に思った。
 思考の一致に気がついているはずもなかろうが、今度はのほうがクスッと小さく笑った。
「おごり?」
「うん」
「ありがと」
 軽い調子で礼を告げた彼女の頭上にふと影が差した。見れば、少年が手をかざして影をつくってやっている。
「なに?」
「暑いだろ、ここ」
「まあね。でも風が気持ちいいよ」
「焼けるぞ」
「日焼け対策くらいはちゃんとしてるって」
 まだなにか言い重ねようとする彼を手で制して、はどこか気恥ずかしそうに身をよじる。
「赤ちゃんじゃないんだから」
 自分にとってはそんなようなものだ―――とは辛うじて言わずに済ませて彼は腕を下ろした。再び降り落ちた日差しには眩しそうに目を細めつつもホッと息をつく。そのまま二人の間に沈黙が横たわろうとしたとき、不意にが思い出したように呟いた。
「もしかして、例の『甘やかし』?」
「バレたか」
 ニヤッと笑って答えた彼に対し、は呆れた様子で肩をすくめる。
「茜ちゃんの前でまで変なことして」
「あの子なら構わないだろ」
 もう怪盗団の一員みたいなものだ。と彼は軽い調子で言ってのけた。それ自体はにも異論はない。なにしろあの熱烈な怪盗団への傾倒ぶりだ。問題は茜が怪盗団の正体を知らないという点にある。つまり、彼女の主観からすれば二人を含めた一団は一介の学生、ないし父親の捜査協力者に過ぎない。
 ―――そうとも、『捜査』への『協力』だ。
 視線を少年の黒髪から水平線に移して、声も低くは訴えた。
「あの子の『お父さん』は公安だ」
 眉間にしわを寄せて囁かれたことに、しかし少年は軽く肩をすくめる。
「善吉なら信用してもいいと思うけど。俺たちのためにもう何度か危ない橋を渡ってくれてる」
「それはあの人とあの人の所属する組織のためでもあったでしょ。君って本当にお人好しなんだから……」
 の唇からは重苦しいため息がもれるが、それでも彼は屈託のない態度を崩さない。それどころか口元にあった笑みを深くして表情を緩めてすらいる。
「俺の代わりに疑り深くしてくれてるやつがいるから」
 だから気楽に人を信頼できるんだと悪びれもなく言ってのける姿には一種のさわやかささえあった。は相変わらずの不機嫌顔で唇を尖らせるが、今度は彼のほうがそんな彼女を手で制した。
「そういう意味じゃ俺のほうが甘やかされてる。皆にだって他の予定くらいあったはずなんだし」
 彼が言っているのはすでに数週間は経過した夏休みの日程そのもののことだった。
 元より遊びに行く計画自体は立てていたが、よもやこうまで長期の一貫した、そのくせ行き先の確定しない旅程になると誰が思っただろうか。
 実際に坂本や高巻は今回の旅が決定してすぐどこかへ慌ただしく連絡していたし、喜多川も一度寮へ戻って某かの手続きを行い、他の荷物は最小限に画材を山ほど車に積み込んだ。双葉は出立前の行動こそいつもどおりだったが、行く先々で小さな土産物を買っては鞄に詰め込んでいる。おそらく、ルブランで待つ父に土産話とともに渡すのだろう。新島や奥村も幾つかの連絡に少なくない時間を費やしていた。はといえば、短期の夏期講習の予約をキャンセルしている。そのツケが後々どれだけ響いてくるか―――想像するだに恐ろしい。
 こみ上げる怖気をぐっと呑み込み、は遠くを見つめる彼に対してこれ見よがしにため息をついてみせた。
「君ってなんにもわかってないんだね」
 ともにこぼれ落ちた言葉には嫌味がたっぷりと籠められていたが、彼のほうはその真意を掴みかね、前髪に指をやって首を傾けている。長い前髪と手と、度の入っていない眼鏡は懸命に彼の表情を隠そうとしていたが、からは丸見えだ。その困り顔は彼女が溜飲を下げるのには充分なものだった。
 少年のほうは言葉の真意を尋ねたが、結局彼女は答えることなく船室に引っ込んでいってしまった。
……
 さて、辿り着いた沖縄の地で一行は立ち往生を強いられる。目的の施設が閉鎖中で、責任者の戻りは明日とご丁寧に貼り紙がされていた以上、待つほかにできることは無かった。となればすることは一つと若者たちは海にくり出し、いかにも夏らしい遊びをやっと満喫する運びとなった。
 元々海なり川なりに行こうとは計画していたのだから、誰の口からも文句など出ようはずもない。遊びで同行している訳じゃないと辟易とした態度を示した善吉も、結局は水着に着替えて短い休息を堪能していた。
 一方では仲間たちからは少し離れた岩場で、バケツを片手に沖合いに浮かぶ船を見つめていた。視界の中にある船はいずれもクルーザーやフェリーのような大型船舶ではないが、かといって帰途にある漁船でもないだろう。時刻はとっくに正午を過ぎ、もう間もなく夕方という頃だ。となれば船釣りを楽しむ観光客向けの小・中型船か。そういえば港には船宿らしき施設がいくつか見受けられた―――そんなことを考えながらしゃがみこむと、岩の影を小さなカニが素早く横切った。
「ほい」
 気の抜けた掛け声に反し俊敏に伸ばされた腕は素早くそのカニを捕まえる。哀れな甲殻類は脚とハサミを振って抵抗するが、いずれも摘まみ上げる彼女の指に掠りすらしなかった。
「……なにしてるんだ」
 唐突にかけられた声にとカニがふり返ると、日よけに大判のタオルを被った少年が立っていた。癖のある黒髪から水が滴っているところを見るに、どうやら海から直接ここへ上がってきたらしい。
「いたんだ」
 大した関心も驚きもなさそうに告げられると、彼は大仰な仕草で肩を落とした。
「姿が見えなかったから、探してたんだ」
「ふーん。あ、こいついる?」
「カニ?」
「うん。フタバカクガニ」
「双葉?」
「フタバカクガニ」
「……双葉ガニ」
「爪はたしかにオレンジっぽいけど」
 陽に透かすように掲げられ、カニはますます嫌がって脚をバタつかせる。
「かわいそうだ」
 愛護の精神を発揮した少年は眉尻を下げるが、は無慈悲にも手にしていたバケツにカニを放り込んだ。
「双葉にあげよう」
「喜ばないとおもう」
「そしたら逃がす」
 食用じゃないからとこぼすように呟いて、は満足げに息をついた。
 そもそも彼女が皆と離れて一人で岩場にまでやってきたのは地元では見られないような生き物を求めてのことだ。フタバカクガニ自体は本州でも観察できるが、これは告げた通り双葉に見せるためだろう。
 緩く羽織ったパーカーのポケットからはみ出ているものがマリングローブだと分かると、彼はますます脱力してしまう。もっと言えば、彼女の足元はこの旅の始まりから今に至るまでずっとサンダルやミュールなどではなく、水陸両用のマリンシューズだ。沖縄にやってくることまで想定していた訳ではないだろうが、磯遊びの機会は伺っていたのだろう。実際に視線をバケツへ向ければ、携帯サイズのエアーポンプが引っ掛けられている。準備のいいことだと感心しきり、続いて中を覗いた途端、彼は「うわっ」と悲鳴じみたうめき声を上げて後退った。
「なぁにそれぇ……」
 乙女のように身を強張らせた彼の視線の先には、バケツの内側にべったりと貼りついた脚の長い星形の生き物がいる。
「ウデフリクモヒトデ。ほら、君の足元にもいるよ」
「ヒッ」
 下がりつつある潮位の中、海水を蹴立てて飛びのいた足元には確かに黒い腕を振る同種が見える。
「アハハ、ビビりすぎ―――」
 は快活な笑い声を上げて背を逸らした。少年はため息を吐くが、口元は苦笑気味ではあっても緩んでいる。その脳裏には出会ったばかりのころが思い起こされていた。
 ―――校外学習の一環というお題目で公園清掃の奉仕活動に駆り出された日のことだった。茂みの下に潜り込んだ空き缶にしゃがんで手を伸ばしていると、ちょうど鼻先を一匹の蝶が横切った。黄色い翅を揺らすその前に戯れ半分指を差し出すと、こちらもなんの気まぐれか、蝶は吸い寄せられるように脚を留めた。珍しいこともあるものだと気を良くしていたせいか、彼は同じ班の女子が後ろから覗き込んでいることに気がつけなかった。
「器用なことするね」と、前触れなく声を掛けられて初めて接近されていることに気がつく有り様だ。それを情けないと思うのと、屈託のない彼女の笑みと白い歯に目を奪われるのは同時だった―――
 今も同じものが眼前にあると思うと、言い難い居心地の悪さを覚えて彼は頭を掻いた。
「初めて話したときも」
 その耳にのやわらかな声が触れる。
「こんな感じだったよね」
 彼女のほうも同じことを考えていたらしい。奇妙な一致に少年は照れくささを覚えて曖昧な反応を返すに留めたが、これが良くなかったのか、あるいはすっかり見透かしているのか―――はニヤッと笑って、
「ちゃんと憶えてる?」と意地悪な声で問いかける。
「憶えてるよ」
「ほんとにぃ?」
 妙にねっとりとした声音に彼はうんざりしながら首を振った。
「当たり前だろ」
 意趣晴らしに強い語調が返されるが、はますます楽しそうに笑うだけだ。徒労感に彼は今度こそ脱力して肩を落とした。
「あの公園から思えば、ずいぶん遠くまで来たもんだ」
「……この先どこまで行くのやら」
「え? どっか外国……?」
 さあなとそっけなく応えて彼は再び、果敢にもバケツの中を覗き込んだ。先に驚かされたヒトデ以外にも素手で触りたいとは思えない生き物たちが静かに佇んでいる。
 ―――それで、彼女はこれをどうするつもりなんだろう。
 顔に出た思考に答えてが言う。
「ソフィアに見せてあげようと思って」
『うん? 呼んだか?』
 少年のポケットから少女の声が発せられた。ほとんど反射的に引っ張り出されたスマートフォンの画面には、『人の良き友人』を自称するAI、ソフィアが鮮やかな赤毛を揺らしてこちらに寄りかかっている。不思議そうに小首を傾げた彼女に向けて、は微笑んだ。
「うん。ほら見て」
『おお〜……いっぱい捕まえたんだな』
「あとでみんな逃がすけどね。この黄色の縦縞がコシマヤタテガイでしょ。この丸いのがキバアマガイ、ピンク色のがコンペントウガイ……」
『ごま模様の変なやつはなんだ?』
「ゴマフリイロウミウシ」
 そんなものまで捕まえたのか―――少年はスマートフォンの角度を調整してやりながら乾いた笑い声を漏らした。とはいえ興味がない訳でもなし、にわかに始まった生物の授業に彼も耳を傾ける。
「大潮のあとに来れれば一番よかったんだけどね」
『大潮……潮の満ち引きが最も大きくなる時のこと。満月と新月のころに起きる』
「そうそう」
『新月なら五日後だ』
「五日か……」
 明日の調査次第ではあるが、流石にそこまでこの島に留まることにはならないだろうと少年はあごを撫でる。しかし……
のために滞在を伸ばしてもいい」
 冗談めいた提案には首を横に振った。
「まーたそういうことを」
「すぐに調査が終わるとも限らない。仙台も札幌も、結局一週間くらい滞在することになってたし」
「そういわれれば、まあ、そうだけど」
「もしそこまで掛からなくても、干潮の時間にまた来るくらいはできる」
 優しげな声音だが、は困惑した様子だ。目的のある旅なんだから、と彼女は拒絶と説教めいたことを告げようとするが、善意でも悪意でもなく、ただ淡々と必要な情報を検索し終えたAIが口を挟むほうが早かった。
『気象庁のホームページで潮位の予測データを見つけた。明日は一〇時前に干潮になるみたいだぞ』
 彼女の『手』にはPDFファイルが掲げられてさえいる。
「ソフィアまで……」
『うん? 必要なかったか? いろんな生き物を見せてくれるんじゃないのか?』
「それはやぶさかじゃないけど」
 照れた様子で目を伏せたの姿を肯定と受け取ったのだろう、スピーカーからはソフィアの嬉しそうな笑声がこぼれた。無垢な幼子そのもののこれに抗える者は多くない。は完全に屈服して、力なく両手を上げた。
 それに今度は彼が笑い声を響かせる。
「それじゃあ明日。研究所に行く前にでも時間を作ろう」
「はいはい。わかりましたよ、もう……」
 いかにも渋々、不満げな言葉と声色だったが、彼女の表情は緩んでいる。どうやらお気に召したようだと少年は密かに息をついた。
「じゃ、今日はもう戻ろう。真がスイカ割りたいってさ」
 優しげな口調と手招きに応じて、はやっと足を砂浜に向けた。

 ところが現実とはままならないもので、彼らが再びの磯遊びに興じることはなかった。同日の深夜から朝までジェイルを突貫で攻略し、そのまま疲労に身を任せて昼過ぎまで寝入ってしまったからだ。目が覚めたら覚めたで現実での調査に時間を割く必要もあり、その後も戻りの船の運行スケジュールの関係で磯まで足を延ばすほどの余裕はなく、結局一行はそのまま福岡行の船に車両ごと乗り込んだ。
 その船上で、はまた仲間たちと離れ、一人で海を眺めている。
 それ自体は珍しいことでもない。協調性を欠くわけではないが、必要がなければ怪盗団の仲間たちとも一定の距離を置くのが彼女の立脚点だ。話し合いとなれば物怖じせず積極的に意見を言うし、時にはなんてことのない雑談にも興じるから、別段誰もこれを問題視していなかった。
 それが彼女にはありがたい。自らの歩調を乱さずに済む仲間との旅は彼女にとって安らぎ以外のなにものでもなかった。
「なにか面白いものでも見えるのか?」
「海が見える……」
 ぼうっとしながら応えたの隣に、彼は当然のような顔をして並んだ。それもやはり、彼女にとって不快なものではなかった。
 癖のある前髪に指を絡めながら彼は言った。
「ごめんな。一緒に遊ぶって約束したのに」
 そのくせ出立前に喜多川が出したリクエストには応じていたからか、彼はどうにも顔を合わせづらいと横目で慎重に彼女の様子を窺っている。
 の表情はいつもどおりだ。遠くを見て、瞳をきらめかせている。じっと見つめていると吸い込まれそうな不思議な魅力がそこにはあった。普段の彼ならばその瞳が向けられることを願ってやまないが、今ばかりは少しこのままでいて欲しいと自分勝手な望みを抱いてもいた。
 彼にとっては幸いなことに、は水平線を見つめたまま微動だにしない。ただ彼女の猫のような細く豊かな髪だけが潮風を受けて揺れている。
「……たしかに、一緒に行けなかったことも、ソフィアに色々見せてあげられなかったことも残念だけど……」
 ソフィアは相変わらず少年のポケットの中で話に耳を傾けていたが、少しだけ考えて沈黙を守った。これは人が俗に言う『空気を読むってやつだ』―――と彼女は深く、一人でなにかに納得して頷いていた。
 ポケットの中の大きな成長には気づかず、は言を重ねる。
「でもそうできなかったのは別に君のせいじゃないよ。だから謝る必要なんてない、でしょ?」
 抑揚のない声の調子は如実に彼女の感情を物語っていた。怒りはなく、ただ心底残念がっている。磯遊び云々を除いても、もう少し海を満喫したかった、そんな風情だ。
 彼は手すりに肘を置いて彼女に向き直った。
「そうかもな。俺も遊びたかったし、ソフィアもすごく残念がってた」
 言葉にの目尻がわずかに下がった。ご機嫌をとろうというつもりでもないだろうが、彼はさらに重ねて告げる。
「だからなるべく早く今回の件を解決して、また海に行こう。東京に戻ってからでもいいし、戻りのついでにどこか立ち寄ってもいい。もしそれも駄目だったら、来年また暖かくなってきたら。そのころには自分もまたルブランにお世話になっているだろうから―――」
 言い進めるごとに少女の背すじと肩ひじから力が抜け落ち、最後には手すりの上に腕を組み、そこにあごを乗せてすっかりだらしない姿勢になっていた。喜んでいることは見るからに明らかだった。
「ぎゃ……」
「ん?」
「ぎゃふん」
「うん?」
 突然副詞のみを口にして顔を伏せたに、彼は目を白黒させながら首を傾げた。閉じた視界でそれを確認する術はないが、船腹が海原を切る音ばかりが返される沈黙が続くと状況を察したのだろう。モゴモゴと不明瞭な発音になりながらも彼女は言った。
「君が言ったんでしょ……ぎゃふんと言わせてやるって……」
「ああー」
 そういえばそんなことも言ったっけ、と彼は手をポンと叩いた。どうやらすっかり忘れていたらしい。
 それ自体に怒りや呆れは湧かなかった。が気がかりなのはただ、彼がどの段階で『甘やかし』の件を忘れたのかということだけだった。長谷川宅の一夜においては明確にその意思が垣間見えた。その後の船上でも。だけど上陸したあとはどうだっただろう……磯で約束をしてくれたのは意図してのことだったのか、それとも全くの素か―――
 潮風を含んだ髪をくしゃくしゃとかき混ぜながら、はゆっくりと顔を上げる。
 ―――どちらにしても、今このとき、彼が自身の矜持を満たすためのおためごかしを告げるような人物でないことだけははっきりしている。
「でも……ちょっとやりすぎ……」
 警戒していない状態のモルガナのようにぐんにゃりとした彼女に、少年はやはり首をひねる。
「そう言われても、そもそもそんなつもりはないし」
 事のきっかけからして、の邪推から始まったんだと彼は訴える。パフェにせよラーメンにせよ、スイカにせよシーサーにせよ……そうすることに悪気もなければ善意もない、と。
 は肺腑の空気をいっぺんに吐き出すような、重く勢いと量のあるため息をついた。
「本当に底抜けなんだね。だから怪盗なんてしてるんだろうけど……」
もだろ」
 置いた肘で頬杖をつき、彼は快活に笑った。
「これとそれとじゃ全然違うよ」
「そう?」
「お互いの顔が見える」
 ああ、と感嘆の声を漏らして、彼は今度こそに視線を注いだ。そこにはもちろん、瞳をこちらに向けて欲しいというネガイが籠められている。
 果たしては首を巡らせ、姿勢はそのままに彼に眼をやった。
「ほら―――顔が見えると、なんか―――」
 言い淀む声の述べようとするところを察して、彼は頷いてみせた。
「照れくさい?」
「……まあ、そう」
「気にならないけど」
「するほうはね、そりゃあね」
 はもう一度、今度は軽く息をついてやっと上体を起こした。
「こうしているだけで十分甘やかされてる感じなのに」
「こんなことで?」
 ただ隣同士に立って、海を眺めながら雑談を交わしているだけなのに―――心底不思議そうにする彼に、は口もとを緩めた。
「みんなもきっとそう思ってるよ。また君と、みんなと、一緒に旅をしながら怪盗して……新しくソフィアも仲間になって、善吉さんも馴染んじゃったみたいだし、一ノ瀬さんっていう心強い協力者も増えて……もちろん、被害を受けている人がいる限り、手放しでこの状況を喜ぶわけにはいかないけど……」
 坂本や高巻が家族や世話人、部活や事務所に長期の不在を告げたのも、喜多川が寮に長期の外泊申請手続きを行いに戻ったのも、双葉が血の繋がらない父親や、やっとできた同級生らとの繋がりよりも旅を優先したのも、新島や奥村が多くの人々に断りの謝罪をして回ったのも、が夏期講習の予約をキャンセルしたのも……結局はまた彼とともに冒険に出られるという誘惑が勝ったからだ。この唯一無二のオタカラのためなら、あらゆる手間と出費、怖気すら振り払うことが可能だった。
「そうか」
 そしてそれは彼も同じだ。春先に皆と別れてから過ごした数ヶ月、モルガナは相変わらず鞄の中に居て、連絡自体はいつでも取り合えたがやはり物足りない。こうして目の前で、手を伸ばせば触れられる距離に相手が居ることの充足感に勝るものはなかった。
 改めて実感させられた仲間たちとの絆を胸に返し、照れと喜びに彼は一拍視線を落とした。
「それに」
「うん……?」
 彼の眼は手すりに置かれた少女の手に吸い寄せられるように向かった。その華奢な輪郭をなぞり終えると、対策はしていると言った割に少し日焼けした腕を伝い、なんともいえない感情に震える唇にまで登る。
「こうやって二人だけで一緒にいられるのも、あの……ぅ……嬉しい……」
 途端、の頬に赤みが差した。言わなきゃよかったという後悔と恥じらい、様々な要因から熱を帯びた丸い頬に彼はハッとする。
 言葉の意味を理解できないほどの朴念仁でもなし、彼は船べりの通路に人の姿がないことをさっと確認して、スマートフォンを入れたままのポケットを意味もないのに押さえながら囁いた。
「俺も嬉しい」
 ともすれば海風に吹き飛ばされそうな掠れ声だったが、の耳には無事届いたらしい。彼女はまた脱力して顔中をほころばせた。
 頬にはまだ赤みが差したままで、この上なく嬉しそうに細められた瞳には波頭のような輝きがある―――
 少年は自らの瞳孔がギュッと締まるわずかな痛みに呻きながら辛うじて言った。
「ぎゃふん……」
「え? なんで?」
「いや……なんとなく……」
 おどけたような仕草で頭を掻いている間に、は再び景色へと目を戻していた。追及がないことをありがたく思えばいいのか、寂しく思うべきか―――少年は迷ったが、結局は彼も同じ方向に視線を向けた。
 ―――こうしているだけで充分だというのなら、それに甘えさせてもらおう。
 水平線の向こうに湧き立つ巨大な入道雲を眺めながら、彼は自らに向けて頷いてみせる。その耳をくすぐる潮騒に被るのかすかな息遣いは彼を大いに寛がせた。
 そうやってしばらく会話のない時間が続いたが、二人がいる場所は行きと違って日陰になっていたから、特別なにかに気を遣う必要もなかった。

 彼らの旅は最終的に夏休みを目一杯費やすこととなった。大変に有意義な時間と出会いだったと誰もが胸を張って別れ、各々の途に就いて夏は終わった。
 戻りの切符を手に土産物を物色する彼の元にメッセージが届いたのはそれからすぐのことだった。
『また来年。約束はまだ有効だよね?』
 彼はすぐに『当然だ』と返した。