Falling cat problem

 梅雨入りを果たした六月、秀尽学園の図書室は一種静謐と呼べる静けさに満たされていた。
 蔵書を守るため空調の効いた室内は肌をくすぐるような湿気があるのみで、ノイズに似た微かな雨音だけが外から忍び込んでいる。屋内にあるのは自習スペースに籠もる勤勉な生徒らが参考書にかじりついてペンを動かす音くらいのものだ。
 ところが―――
「へっ……へっ……へぃっくしょん!」
 間の抜けた大きなクシャミが静寂を乱暴に破って鳴り響いた。誰もが驚き、手を止め、しかし途切れた集中を取り戻そうと再び机に向かうが、そのたびに「くしゅん! はっくしゅ!」と濡れた鼻の音が邪魔をする。
 それ自体は生理現象だ。悪意があるわけでもなし、迷惑がっても積極的に咎めるのも気が引けてしまう。室内の者は皆沈黙を守り、それが治まるのを耐えて待った。
「はっ……くしゅん!」
 ところがこれがなかなか止まらない。苦笑いで済ますには長すぎると苛立つ者も現れ始めていた。
「ちょっと、大丈夫……?」
 ついには潜められた声がクシャミの主にかけられる。おそらく知り合いなのだろう、気安いそれにクシャミを連発していた女生徒が鼻声で応じた。
「あ゛〜……ごめん、うるさいよね。ごめっ……くしゅ!」
「風邪?」
「そういうんじゃ……くしゅん!」
 互いの声は周囲と環境を気遣って小さいが、合間に挟まるクシャミは如何ともし難い。
「じゃあなんか、花粉症?」
「花粉で……っ、くしゃみ出ることは……ふぁ、ふわ……」
 はっくしゅん。
 クシャミが図書室じゅうに鳴り響いた。受け付けのカウンターで見守っていた図書委員がそろそろ注意すべきか悩み始めている。
「……アレルギー、とか?」
「ん、んー……いちおうあるけど、ここで?」
「なに?」
 鼻を押さえた女生徒は簡潔に答えた。
「猫アレルギーなの」と。
 おかしな話だった。彼女が言うには衣類や持ち物に毛が付着している程度ではここまで反応することはないのだという。『猫そのもの』が居でもしない限り……
「でも図書室に猫なんて……はっ、は……」
 ―――ここ一番、特大のクシャミが響いて、彼女は慌ただしく立ち上がった。
「ご、ごめん。うるしゃくしひゃうかあ、わたひ、さきにかえりゅにぇ」
「なに言ってんのかすらもうわかんない」
 先から受け答えをしていた相手からポケットティッシュが差し出される。どうもやはり、二人は友人同士のようだ。
「あぃがとー……」
「先行ってて。すぐ行くから」
「ん゛ー……」
 その証拠に、小走りになって図書室を出た彼女に倣い、その女生徒のほうもノートや筆記用具を片付けている。
 やがて彼女もまた部屋を辞し、図書室には静寂が取り戻される。あとにはどことなくゆるい空気と――― 
「……ワガハイせいかな?」
「たぶん……?」
 空になった二つの自習スペースの隣で顔を見合わせる少年と猫の間に気まずさだけが残った。
 左右を塞ぐパーティションに挟まれたテーブルの上、置かれた鞄から顔を覗かせる黒猫はモルガナといって、特定の条件を満たした相手にはその鳴き声が言葉として受け止められる。少年もそんな一人で、彼の耳には猫の言い訳がましい声が続けて届いた。
「でもワガハイ、ネコじゃねえし……」
「カラダは猫だ」
「あう〜……」
 カバンの中に伏せた猫の言を信じるのなら、彼の今の姿は仮のもので、本当はニンゲンなのだという。
 確かに、モルガナはなんでも器用にこなす。箸こそ持てないが、ピッキングくらいはお手の物だ。その姿と相まって侵入できない所などないかもしれない―――ただし、入ったあとは状況次第だ。
 さておき、モルガナが今のところ食肉目ネコ科ネコ属の姿形をしていることに間違いはない。
「……さっきのヒトが居るときは、ここ利用しないほうがよさそうだな」
「すまん」
 少年の下した決断に、猫は鞄の中から申し訳無さそうに小さく鳴いた。

 ところが話はそれで終わらなかった。
「ちょっといい?」
 梅雨もまだ明けきらぬ七月初頭、しとしとと降り続ける雨に髪を押さえて下校しようとしていた少年と、その鞄の中の猫に声がかけられる。
「なに」
 ふり返って目をやった先に居たのはこの学園の生徒会長を務める人物だった。名を新島真といって、少し前までは彼と猫に話しかけようという気すらないような人柄と間柄だった。
 とはいえこのときもあまり友好的と呼べる態度でもなく、彼女はサッと素早く周囲に目を走らせるとそのまま歩を進め、すれ違いざまに声を潜めて告げた。
「あなたに……いえ、モルガナに少し用があるの」
 ついてきて、と囁いた新島に、一人と一匹は顔を見合わせた。
「それで? どうしたんだ?」
 連れ込まれた無人の生徒会室、折りたたみ式の長テーブルの上に乗ったモルガナが尋ねた。もちろんそれは聞き取れる言語として彼女の耳に届いている。
「実は……というほどの話でもないけど、少し前から校内に猫がいるって噂があったのよ。その時はあまり気にしていなかったけど、今思うと……」
 彼女の眼はいくらかの躊躇を伴いつつもモルガナに注がれている。話中に登場する猫とは即ち彼のことだと言いたいのだろう。
 少年はゆったりと首を縦に振って同意を示した。
「実際にいる」
 伸ばされた手が猫の背の緩やかな曲線を揉むように撫で下ろしていく―――モルガナの爪が横一文字に走り、彼の手を小さな傷とともに追い払った。
 二人―――少年と猫の出会いというものはあまり褒められたものではなかった。なにしろそのとき少年はもう一人とともに逃走中で、猫は牢屋の中に囚われていた。彼らは利害の一致、あるいは緊急避難のため手を組み、今も多少形は変わったが継続中だ。猫のほうはなんのつもりか少年のお目付け役か教育係を気取って鞄の中に入り込んできているが、少年のほうは、さて……
 新島は少なくとも、校内に人間以外の動物が入り込む事自体を歓迎していない様子だった。例えそれが頼もしい仲間の一人だとしても。
 どちらにしてもモルガナの主張は一つだ。
「ワガハイ猫じゃねーし!」
 ただしそれは通らない。
「少なくとも見た目は猫よね。声だって、私たちにしか聞こえないのだし」
 冷たいわけではないが冷静な新島の言い様にモルガナはテーブルの上で平くなった。
「うう……」
「それで?」
 再び伸ばされた少年の手を今度ははね退ける気力も失せたのか、猫はただ呻いて毛皮を触る指に毛を逆立てている。
 新島は向けられた視線に応えて語った。
「どうもその噂が先生たちの耳にも入っているみたいなのよね。捕まえたほうがいいんじゃないかなんて話も出てきていて……」
「あらまあ」
 少年の手が猫の毛皮ではなく己の癖のある髪を掻いた。自由になったモルガナは伏せたまま、しかしフンと居丈高に鼻を鳴らす。
「ワガハイを捕まえようなんて百年早いぜ」
 新島はやはり冷淡だった。
「問題になっていることが問題なの」
 猫は再び平らになり、少年はごもっともと首を縦に振る。
 そもそも新島の目的は問題提起や注意勧告ではないのだろう。彼女の話はまだ終わらなかった。
「しばらくの間、彼から離れていてもらえる?」
「ワガハイこいつのお目付け役だぞ!?」
「ずっとじゃないわ。噂が消えるまでよ。こっちで手を打っておくから」
 もはや決定事項と取り付く島もない新島の説得を諦め、猫は縋るものを求めて少年のほうへ目をやった。
 ところが返されたのは、
「俺も寂しい」というとんちんかんな反応だけだ。モルガナはツンと顔を逸らして子どものように彼を罵った。
「うっせバーカ!」
「そうだ。モルガナが捕まったときに備えてカバーストーリーも考えておかなくちゃ」
「いらねーっつーの!」
 追い打ちに涙目になる彼に味方する者が現れるはずもなく、伝達は済ませたと新島は彼らを生徒会室から追い払った。

 それで結局、モルガナは不服に感じながらも日中は物陰に潜んで隠れて過ごす羽目となり、校舎の屋上や前庭やら中庭の茂みの下が日中彼の主な居場所となった。アイツの鞄の中にいるのといったいなにが違うのかと再三にわたって訴えてもみたが、切実な訴えはいずれも無慈悲に聞き流されてしまった。
 見てくれは確かにネコかもしれないが、ココロはニンゲンだと主張する身だ。この仕打ちに彼は大変に腹を立てた。必ず、かの邪智暴虐の頭目に牙と爪を突き立て、待遇の改善を敢行せねばならぬと決意した。
 固い意志とともに足元の芝草を掘り荒らす彼の耳に、授業の終わりを告げるチャイムが届いた。やっとかと寝転がる彼の目にはまた、慌ただしく行き来する生徒たちの脚が映る。モルガナにとって苦痛なのは、そうして生徒たちが行き来する間は身動きが取れない事だ。もちろん見つからずに別の場所に移動する事自体は容易だが、そうした場合連絡手段を持たない彼はかの邪智暴虐ナントカとの合流が難しくなる。
 あるはずの自由―――つまり、待つ自由と待たない自由というあるはずの選択のうち一つを外界からの圧力によって潰された猫は、己の内の心理的リアクタンスと見つめ合って長い時間を過ごした。それは彼にとって苦痛と不毛の時間だった。
 けれどそれもやがて終わりが近づき、行き交う脚は減りもうじきにあの少年もやってくるだろうとモルガナに予感させる。
 ちょうどその時、見計らったかのように彼が潜む茂みそばのベンチに誰かが腰を下ろした。
 モルガナの鼻は彼の主張に反して猫に近い。ニンゲンなどよりよほど鋭敏で、周囲に無数に漂うニオイを嗅ぎ分けることに長けている。
 それ故彼にはそばに腰を下ろした人物が待ち人ではないと判っているはずだった。
 だというのに飛び出してしまったのはひとえに重大な怒りによるもの―――
「はっくしゅん!」
 大きなクシャミをして背を丸めたのは、先日図書室の自習スペースで猫と少年の隣に座った少女だった。
「あ!」
 しまった、とモルガナは身を低くして硬直する。ワガハイとしたことが冷静さを欠いてなんて迂闊な真似をしてしまったんだと、それもこれもぜーんぶ、ワガハイの主張を聞き流してネコ扱いしてくるヤツらのせいだ、と。
 ひどい責任転嫁と自己弁護を胸の内で展開しつつ、モルガナはゆっくりと後退った。とりあえず逃げ果せてしまえば、あとは野となれ山となれ、だ。モルガナにはニンゲンの理屈など知ったこっちゃなかった。
 ところが、そうやって姿を消そうとする彼を目にして、女生徒は慌てて腰を浮かせて前屈する奇妙な姿勢を取った。どうも視線を合わせようとしているらしいが、中空に尻を突き出した格好は滑稽だった。
「あー、逃げないで。大丈夫だよ。おいでー……っくしゅ!」
 優しげな言葉は、クシャミに遮られる。
 その様子にはさしものモルガナもハードボイルドを貫けず、ヒゲを下げてしまう。彼は自らをニンゲンだと主張する一方、今の己の肉体がネコであることも不満ながらに理解している。彼女のクシャミが自分のせいなのだとも、そのために彼女を図書室から追い払ってしまったことも。
「……こないだは、悪かったな」
「ん?」
 ほとんど無意識的に彼は謝罪を口にしていた。いたたまれなさをごまかすための無為な行いと知りつつ、それでも彼は言い重ねた。
「勉強の邪魔しちまっただろ。そんなつもりじゃなかったんだが……とにかく、悪かったよ」
 女生徒は、ウニャウニャと呼びかけるようにして鳴く猫に目を丸くしている。
「……なんてな」
 モルガナの口からは皮肉っぽい笑みとため息が漏れる。自分の言葉はそうと認知した相手にしか届かないと彼こそがよく知っているからだ。なんと告げたところで彼女に伝わるわけがないんだと、一瞬虚しい気持ちにすらなった。
 けれどどうしたわけか、彼女はフッと目元を緩ませると、こころのこもった声で彼にこう返した。
「気にしなくていいよ」
「え……?」
「この間のも、きみのせいじゃないからね。きみをここに連れ込んだヤツが……」
 ついに芝草の上に膝をついた少女は、汚れるのも構わず地に手をつけ、もう一方を伸ばしてモルガナの首元にやった。指先は確かな意思をもって彼の首輪に触れている。
 モルガナは目を皿のようにして瞳孔を収縮させ、ごくっと唾を飲み込んだ。
 ―――ワガハイを『ここに連れ込んだヤツ』だって? それはアイツのコトを言ってるのか、それとももうすこし前、カモシダのパレスに囚われていた場面を指して言っているのか?
 いいや、それ以前に『どうして会話ができている』んだ―――?
「オマエ、もしかしてワガハイの声が……」
 聞こえているのか? だとしたらいつから? いったいいつ、ワガハイが喋るのだと認識するに至ったんだ?
 そう続けて問うはずの言葉は、少しばかり焦ったような足音に遮られた。
「あっ……」
 かすかな声を上げたのはモルガナか少女か。いずれにせよ二人は立ち上がって闖入者に目を向ける。
 癖のある長めの前髪と伊達らしい眼鏡で目元を隠した少年は、少女と猫が向き合っていることに驚いた様子で足を止めていた。
 奇妙な緊張感で満たされたのは様々な理由からだ。モルガナは、己がひとに見つかってしまっていることと、どうもその相手が声を聞き取れるような素振りをみせていることに。少年のほうは、自分が猫と知り合い、つまり校内に生き物を連れ込んでそこに隠していることがバレるかもしれないことに。
 少女は……サッと膝についた土と草を払うと、身を翻してその場を走り去っていってしまった。
 言葉もなく遠ざかる背に少年は肩をすくめた。通り抜けざまに睨みつけられたような気がしたのだ。
 猫と同じかそれ以上にこの少年の身上は複雑である。それを肴に囁かれることも大分減ったが、一部の生徒と教師は未だ疑惑の眼差しを向けてくる―――それら視線と声に対して彼ができるのはただ己に言い聞かせることだけだ。自分は間違ったことはしていない、と。
 肩をすくめたのもその一環だった。ノソノソと這い出た猫になんてことないふうを装って声をかけるのも。
「帰るぞ」
 しかし猫は広げられた鞄の口にすぐには飛び込まず、今度はベンチの下に潜って彼に着座を促した。
「……どうした?」
 眉をひそめつつも促されるまま腰を下ろした少年に、モルガナはつい今しがたのやり取りを語った。
「会話ができたって、それはつまり―――」
「ああ。あのコもどこかでワガハイの声を聞いたってことだ」
 少年の足の間から響く猫の声はどことなく苦々しい。声の届く状況にあって感知しそこねていたことを悔やんでいるのだろう。
 一方の少年はといえば、指先で己のあごを叩いてはふーむと唸り、ここ三ヶ月ほどの記憶を探っている。
「あるとすれば、やっぱり『ここ』でか」
「その可能性が一番高いだろうな。『カネシロ』や『マダラメ』も無いこたないだろうが……」
「あとは『メメントス』もか」
「だな。ワガハイとしたことが……」
「一度ならず二度までも、か」
 ふう、と息をついた少年に、猫は呻いて箱をつくった。
 彼らの言う『ここ』だとか『カネシロ』、『マダラメ』に、『メメントス』というのは、いずれも人名や施設名、現実足をつけているこの場のことではなく、この現象界に隣接した異世界の場所を指している。
 そこは特定の人物、あるいは大衆の『認知』によって形成される摩訶不思議な空間だ。核となる人物次第でこの学園が王城になったり、古ぼけたあばら屋が美術館になったり、あるいは渋谷の街に浮かぶ巨大な銀行施設になったりする。
 少年にせよ猫にせよ、生徒会長と他数名の少年少女たちは、その異世界の空間にある程度自由に出入りが可能で、それにはスマートフォンにいつの間にかインストールされていたアプリを使用する必要がある。
 少年が一度ならずと言ったのは、このアプリを使用した侵入に際して移動する人員が限定されないところにある。
 今でこそ彼らは『心の怪盗団』を名乗り、仲間として行動しているが、もちろん以前はそうでなかった。まだ怪盗団が結成されるより前、仲間の一人、高巻杏は少年らの跡をつけ、半ば巻き込まれる形で異世界に侵入してしまった。これを一度目としてカウントしている。場合によっては高巻の一件こそが二回目の可能性さえあった。
 とはいえ、場所や時期はこの際さしたる問題ではない。
「彼女もペルソナ使いなのか?」
 少年の関心は強くそこに向けられている。
 異世界には神や悪魔、妖精や妖怪といった伝承の存在らが独自の思考、あるいは核となる人物の意思に従って闊歩し、たいていは敵対的な態度で侵入者に接してくる。それらに対抗できる唯一の力がペルソナだ。それはその人の心―――各々の反逆の意志が形を得て顕現したもので、人それぞれ方向性は違えど間違いなく大きな力を有している。
 だから、少年はまずそこに注目する。友好的な相手であれば心強いが、そうでないとすれば……
 しかしモルガナは彼ほどの懸念は抱いていない様子だ。
「ペルソナ使いかは、どうだろうな。これまで接触がなかったことを鑑みれば、何事もなくパレスから脱して夢だと思い込んだのかもしれん」
 もちろんペルソナ使いとして覚醒していて、その力の使い方や使い道を知らぬままという可能性もある、と話を締めて、モルガナは鞄の中に滑り込んだ。
 少年は彼が尻尾の先の白い部分までしっかり収まるのを確認してから鞄を肩にかけて立ち上がった。
 ―――どちらにせよ、まずは皆と相談したほうがいいか。
 鞄に押し込んだスマートフォンを探すために差し入れられた手は誤ってモルガナの尻を揉み、少年の指と猫の心に小さくない傷をこさえた。

 招集された仲間たちに事情を告げると、彼らは一様に驚きこそすれ焦りはしなかった。
 これまで重ねてきた活躍によるものか、怪盗団への世間の風当たりは悪くない。そのやり口に疑問を差し挟む者が全くいないわけでもないが、少数派だ。加えてモルガナに対する彼女の態度もある。
 唯一の不安は少年への態度のほうだが……
「もう一度会って話をしてみたらどう?」
 モルガナ一人……一匹……であれば致命的な展開にはならないだろうとはして、接見のための計画が練られることとなった。

 計画などと言ってもそう大それたものでもない。彼女が一人になるタイミングを見計らって接触するというだけだ。モルガナ単身であればこの上なく容易な作戦だった。
「……よう、久しぶりだな」
 放課後の帰り道、雨の上がった夕暮れの薄闇に紛れてかけられた黒猫の『声』に、少女はわずかな驚きに警戒を伴って立ち止まった。
 けれど相手が記憶にある黄色い首輪と白い手袋をしているのが目に留まるとすぐに相好を崩して膝を折る。モルガナはいくらか歩幅を大きくして彼女に歩み寄った。
「やあ、また会ったね。おいでおいで」
 その手はまた、間近に迫った彼をさらに手招いては触れようと伸ばされる。
 相手が女性とはいえ―――女性だからこそ、モルガナはヒトでいう眉尻あたりを下げて後退った。
「おい、あんまり気安く触ってくれんなよ」
 ―――そういうのは親しい相手とするものだぜ。ましてワガハイには心に決めたひとがいるんでね。
 などと、固く身持ちを保とうとする彼の態度を見て、少女はますます頬を緩ませる。
「そうだよね、知り合いでもないヒトにベタベタされたら嫌だよね」
「まあ、そりゃあな。ていうかオマエ、アレルギーとやらは……」
「っくしゅん!」
「ほらみろ」
「アハハ……ごめん、驚かせ、っくしゅ!」
「あー、あー、あー……」
 やわらかい肉球によって足音さえさせず、モルガナはさらに後方へ退いた。
 すると少女のほうは鼻を押さえながら悲しそうに瞳を震わせる―――
「行っちゃうの?」
 いかにも寂しげな口調と台詞だった。モルガナは目的があろうがなかろうが足を止め、尾を振ってそこに留まる。
 彼ははっきりと困惑した眼差しを少女に向けていた。
「オマエ、やっぱりワガハイの言葉が―――」
 聞こえているのか?
 問いかけに少女は曖昧に笑って、肯定とも否定とも受け取れきれない頷きをしてみせる。それは猫をますます戸惑わせ、ほうきのように尾でアスファルトを掃かせた。
 彼女はただ、己の胸に手を置いて目を細めている。
「あのねぇ、私、っていうんだ。丹羽。よろしくね」
「ン。ああ、そうかよ」
 自己紹介は唐突だったが、調べる必要もあると話し合われていたから有用ではあった。
 深く頷いてみせた猫に、丹羽と名乗った少女は今度は照れくさそうに笑ってみせた。
「これで知らない仲じゃないよね。次に会ったら触らせてくれる?」
 モルガナは、眉間に深いシワを寄せる。
 ―――ニンゲンの、とみにオンナってやつは、どうしてこうもみだりがましくワガハイに触りたがるんだ。オトコに触られるなんぞ想像だけで毛玉吐きものだが、オンナはオンナで困りものだぜ。ワガハイにはただ一人と決めた美しい乙女がいるんだぜ。
 などと。
 胸の内でやたらとハードボイルドを決め込んだ挙げ句、それをやたらと誰彼語っては男が下がると彼は言葉少なに応えた。
「……考えとくぜ」
 フッ、とニヒルに決めてみせた彼の横顔に、丹羽は嬉しそうに言った。
「うん。よろしくね。ふふふ、ふっ……ふゎ……っくしゅん!!」
 接見は今日一番のクシャミによってお開きとなった。

 と別れたその足でルブランに戻ったモルガナを、彼の帰りを待って手遊びに励んでいた一同が出迎えた。
 テーブルの上に散らかるトランプカードと小銭を蔑んだ目で眺めて蹴散らし、居所を確保し終えて、さて、モルガナは少年らの品のなさを叱りつつ報告を行った。 
 受けて一番に応えたのはこの日の帰りの電車賃と夕飯代を首尾よく確保した喜多川祐介だった。
「明確な解答はなかったが、会話は成立したということか。興味深いな」
 機嫌の良さは懐の暖かさに比例するのか、その声と眼差しはいかにも浮かれている。さてはコイツ、明日の飯代もせしめたな、とモルガナは眉をひそめた。
 真相はさておき、そんな喜多川少年に次いで勝ちを得た高巻が、やはり浮ついた様子で続ける。
「丹羽さんって、えっと……どこのクラス? てか何年?」
「三年よ。たしか隣のクラスだったと思ったけど」
 答えたのは新島だ。彼女は勝ちこそしなかったが、堅実な指し手で損害も出していない。手の内の読み合いだけを程よく楽しんだ彼女は、普段あるお硬い雰囲気をいくらか和らげている。
 そして勝者がいれば必然、敗者も存在する。負けの込んだ二人のうちの片割れであるところの坂本竜司は、いくらか拗ねたような態度で椅子の背もたれに身体を預けて新島に問いかける。
「で? どういうヤツかとか、知らねぇの?」
「クラスが違うとさすがにね」
「あ? ああ、はぁ……そりゃそうだよな……」
 坂本の性質か、はたまた関係性故か、舐めた口を利く後輩に、新島は寛大にして応えた。
 傍ら一人別の学舎に通う喜多川は、なにがおかしいのか妙に気取った仕草で長い前髪に指を絡めて笑っている。
「フッ、俺に至っては学校さえ違うからな。顔すら未だに知らんぞ」
「そりゃそうでしょ……まあでも、私も顔くらいは見たことあるかも? ってくらいで、名前聞いても思い浮かんだりしないなぁ」
 その点で言えば大差ないと高巻は肩をすくめる。

 坂本もまた同意だとちして肩を揺らした。
「ま、とりあえず聞いた感じ、やっぱ敵ってことはなさそうじゃね? なあ?」
 彼の目はテーブルの中央を占拠するモルガナに投げられる。猫は然りと頷いてみせた。
「そうだな。あの様子ならもう少しツッコんだ話をしても良さそうだと思ったが……」
 そしてまた猫も視線を別に飛ばす。
 ひどい敗北を味わって天井と睨み合っていた少年は、それでやっとノロノロと顔を一同のもとに戻した。
「……わかった。次は俺も一緒に行って、話をしてみようか」
 伊達眼鏡の下の瞳は剣呑な色を湛えているが、口調はこれなら任せても大丈夫かと皆に思わせる程度には落ち着いていた。
「じゃ、よろしくね」
「タイミングはあなたが決めてくれていいわ」
「迂闊な真似は避けろよ」
 忠告も含めて肯して、彼はまた天井に視線を戻した。
 モルガナは小声でどれほどの負け具合かを他の面々に尋ねたが、皆揃って首を横に振った。聞かないほうがいい、と。

 それで翌日の放課後、昼食を抜いた少年は校舎裏に陣取って待ち人を待っている。
 オフィス街に舎を構える秀尽学園の校舎裏となれば、敷地を区切る金網のフェンスの向こうは窓もないビル壁で、日当たりは悪く、景観は悪い。風通しもあまり良いとは言い難く、梅雨明けを過ぎた七月の半ば、すでに夏日を超えたこの日の状態ときたら、空きっ腹でなくとも吐き気を催すような環境だった。
 ―――失敗した。
 早くも後悔し始めるが、使いはすでに出したあとだ。待たねば不義理だと彼は辛抱強くそこで時間を潰した。
 そうして一時間もしたころ、悠然とした足取りでモルガナがやってくる。当然、一人の少女を引き連れて。
 その様はさながらブレーメンの音楽隊か逆ハーメルンの笛吹き男だと忍び笑う彼を目に、は隠す気もなさそうに眉をひそめた。
 ―――その態度の真意を確かめよう。
 猫と目配せを交わし、少年は立ち上がる。しかし場所と時間と状態が悪かった。制服を汚したくないと長時間膝を折ってしゃがんでいたのもあるだろう。
 彼は立ち上がりざま目眩をおこし、意のごとくならぬ足が勝手に一歩を踏み出してしまう。悪いことにいつもの癖でポケットに両手を入れたままで、足の裏には滑るような感覚があった。
 このままコケたら間抜けな印象を持たれてしまうという危惧は少年と猫の双方にあって、猫は慌てて駆け寄ろうとしたが、小さな身にいったいなにができようか。結局彼の間抜けな転倒を防いだのは、黒猫を追い抜いて詰めたの手だった。
「ちょっと、だいじょうぶ? ねえ……」
 想像していたよりずっと力強く肩を掴んだ手はそのままぐいと彼の姿勢を正させまでする。あるいは、少年のほうが鍛え足りないのかもしれない―――
 悪い想像を振り切ってゆるく首を振る彼に、は困り顔をしてみせている。
「顔色悪いよ。ほら、座ってなって」
 やはり見た目以上にパワフルなのか、ぐいと腕を引かれて、それで少年は抵抗らしい抵抗もできずに湿っぽいコンクリートの上に腰を落とした。
 すると彼女はすぐに踵を返し、サッと身を翻して小走りにその場を離れようとする。
「おっ、オイ! 待てよ―――」
 呼び止めようと鳴いたモルガナに、彼女は足を止めることなく応えた。
「すぐもどるー!」
 そのまま声だけを残して角に消えてしまう。
 困ったのは残された一人と一匹だ。これではなんのための待機と招待か。
 責任の所在を求めてふたりはしばしにらみ合った。オマエがアホなことするから、そっちが長々待たせるから……
 決着がつくより先に、は言葉通り駆け戻った。
 意外そうに目を瞬かせる少年に少しムッとしながらも彼女は手に握ったペットボトルを差し出してくる―――
「えっと……」
 どういうつもりなのかと呆然とする彼に、は苛ついた様子を隠しもせず、仏頂面でボトルを彼の手に押し付けた。
「アンタ、いつからここにいたの? この子がついてこいって言ってくれなかったら、熱中症にでもなって、倒れてたかもしれないんだよ」
 口からは説教が押し付けられる。
 確かに、生ぬるい東京の初夏の陽気を舐めていた節はある。風通しの悪さへも。だけどそれはすべて、あんたに話を聞くためなんだ……と伝えようとするが、しかしいつまでも開けられないボトルに業を煮やしたからきつい一睨みをくらい、彼は慌ててボトルの蓋に手をかけざるを得なかった。
 与えられたのはどこにでもありそうなスポーツ飲料だった。中庭に置かれた自販機で購入したのだろう、よく冷えたドリンクはスッと喉を通り、彼に息をつかせた。
 それを見てよしとして、はフンと鼻を鳴らす。どういう感情が込められているのかは、傍らで見守っていた猫にも当の少年にも解らなかった。
 いずれにせよはそれですぐには立ち去らず、所在なさげに尾を振るモルガナに向き直るとその場にしゃがんでチッチと舌を鳴らし始める。
 モルガナは戸惑った様子で彼女と少年とを見比べたが、
「触らせてくれるって約束したよね?」と言われると項垂れて彼女のほうに歩み寄る。
 気安く触られるのはもちろんごめんだったし、約束したつもりもなかったが、しかし実際にやり取りする現場を確かめてもらおうという意図はあった。
「あのな……考えておくとは言ったし、コイツのことは貸しの一つにはなるだろうが、約束なんてした覚えはねぇからな?」
 差し伸ばされた手が触れるか触れないかの距離で立ち止まった彼に、は首を傾げる。
「ダメなの?」
「決まってんだろ」
「ケチ」
「だいたいオマエ、こっちは名前を知ってたって、そっちはワガハイのことなんにも知らねぇじゃねーか」
 ツンとそっぽを向いてみせると、釣られるようにもそちらへ顔を向ける。そこにはまだボトルを傾けて喉を潤す少年がいて、一人と一匹のやり取りを見澄ましている。
 は口をへの字にして、眉間にしわを寄せ、少し不機嫌そうに彼に問いかけた。
「ねえ、この子の名前は?」
 視界にかかる前髪を指先でいじりながら彼は答えた。
「モルガナ」
 半ば呼びかけでもあるこれに猫は耳を寝かし、は複雑な面持ちで彼に目を戻した。
「モルガナ……ちゃん?」
「ワガハイはオトコだよッ」
「あ、男のコか。ごめんごめん……モルガナくん?」
「フンッ……触らせてはやらねーぞ」
「ケチ」
 再び伸ばされた手から逃れて退いた猫に唇を尖らせる様は一学年上と聞かされていた少年からすればひどく幼い仕草に思えた。ただし似合っていないのかと問われれば、それはノーだ。決して小さいとは言えない親切を受けてはなおのこと。
 モルガナから急かすような視線を感じて、彼はやっとこの日の目的を果たすために口を開いた。
「そいつの言ってることがわかるのか?」
「は―――?」
 返された声と眼差しは冷え切っていた。呆れているのはもちろん、怒りや軽蔑すら感じさせる、思わずと尻をにじって退がるくらいには厳しいものだった。
「いきなりなに? アンタは分かるって言いたいの? この子にあんなことしておいて……」
「えっ?」
 あんなこと、と言われても心当たりがない二人は揃って目を見開いてみせるが、そのうちの片方にはますます蔑んだ眼を向ける。
「なにその顔……知ってるんだからね、あんたがこの子カバンに詰めて連れ回してるの。ぼっちが寂しいからって、そんなの虐待と変わんないから!」
 半ば叫ぶように述べられたことに、少年の全身を驚愕と衝撃が貫いていった。
 確かに―――この少年にとって友人と呼べる存在は校内にさほどいない。二人か三人か、その程度だ。だけど大切なのは数ではなくその質であって、その点でいえば自分はひとよりよっぽど恵まれている……そう自らに向けて言い聞かせようと試みてはみるのだが、これはあまり実を結ばなかった。
 そうこうしている間には驚いて硬直するモルガナを己の胸に抱き上げている。発言の内容を顧みるに彼を守るためなのだろうが、しかしそれは一種の自爆でもあった。
「うっ……くしゅ! くしゅん! はぶしゅッ!」
 モルガナは抱えられた状態でも器用に身をよじってしぶきを躱しつつ、ひどく実感を込めて呟いた。
「まあ、待遇に不満がねえわけじゃないけどよ……」
 それもまた棘として少年の心に突き刺さる。モルガナお前、そういうこと言うのか。
 つまり彼女はかねてよりこの少年がモルガナを鞄に隠して学校に通う姿を目撃しており、曰く『連れ込んだ』はこのことを指していたのだろう。もしかしたら、校内に猫がいるという噂も彼女が発信源なのかもしれない。
 少年はどうにか己の中の体裁を整えなおし、まずは疑念を晴らすべきと彼女とその腕の中の猫と、自らの痛みに向き直った。
「……そいつは病気なんだ」
 それはあらかじめ用意され、暗記を強要されたカバーストーリーだ。
 怒りに歪んでいた表情は困惑に一変する。モルガナのほうは、『やっぱりソレ押し通すつもりなのかよ』と言いたげな渋い顔になった。
 どちらにも構わず、彼は『設定』をつらつらと並べ立てた。
「ええと……数時間おきに薬をやらなきゃないけない。けど、家には誰もいないし、入院させるような金もないし……」
「だ……だから、連れてきてるの……?」
 喰い付いた、と笑い出すにはあまりに神妙な顔をしてみせたに、少年は慎重に首を縦に振った。
「ああ」
 彼女の視線は己の腕の中、気まずそうに目を逸らすモルガナに落とされる。
「いや、まあ、うん……そうだな。ワガハイには、コイツから離れるわけにはいかない理由があってだな……」
「そうだったんだ……」
 ゆっくりとした瞬きを二度、は悲しげにモルガナを抱きしめた。
「おっ、おいッ、だからワガハイには、心に決めた相手が! ニャーッ!」
 振り回した肉球が頬を叩くと、毛皮に埋められていた顔はすぐに上げられる。
「……ふわ……ふぁっ……」
「あ! コラ! 待て、離せっ、我慢しろよッ!?」
「はくしゅん!!」
 特大のクシャミをまともにくらい、モルガナは恥も外聞もなくその腕から逃れて座る少年の足の下に潜り込んだ。
「ご、ごめ……っくしゅ! ふわっくしゅん!」
 クシャミはしばらく止まらなかった。
 少年は律儀に治まるのを待ってやり、己が見えない猫の毛だらけであることを自覚して精一杯腕を伸ばし、ティッシュを手渡してもやった。それは決して、小さな相棒のように被害を被りたいからではない。
 丸められたティッシュが彼女の制服のポケットにしまわれるのを見届けて、やっと彼は、今度こそ目的を果たすために口を開いた。
「……さっきの」
「えっ? あ、ごめん。ぼっちとか言っちゃって……」
「そっちじゃない」
 思い出させないでくれ―――
 脱力感に腰が抜けそうになるのを堪え、彼は未だ足の下でうずくまるモルガナを引っ張り出した。
 毛づくろいの最中に元凶と対面させられた猫はぶすっとしながら、それでも忠実にして彼の意図に応える。
「ワガハイの言葉がわかるのか?」
「あ……」
 それでもやっと彼の言わんとするところを察したのだろう。わずかに目を見開き、こぶしを作って胸に置き、猫と見つめ合って沈黙する。
「……こいつの言葉が分かるわけじゃないのか?」
 焦れた少年が控えめに、それでもしつこく問うと、は弾かれたように顔を上げて彼の眼を真正面からじっと見つめた。
「わかるよ!」
 声は上ずってこそいたが明瞭で、二人に驚きと喜び、そしてわずかな緊張感を与える。
「マジかっ!?」
 モルガナなどは抱え上げる少年の腕から飛び降り、自ら彼女に駆け寄りさえした。
「う、うん。そう、わかる。今も……」
「じゃあ、あんたも―――」
 少年もまた。腰を浮かせ、ゆっくりと立ち上がる。瞳には期待が揺らめいていた。
 少なくともモルガナの待遇に苦言を呈するような人物だ。怪盗団へ迎え入れるかの判断はまだできないが、事情を話せば力を貸してくれるかもしれない……そんな期待だった。
 しかしそれは儚くも揺るぎない価値を持つものに壊される。
「その……ありがとうって言ってるよ」
「ん?」
「モルガナくんが、きみにいつもありがとうって。たくさんお世話してくれて嬉しいって……」
 それは善意と言う名の、抱き続けるには重く大きな荷物だ。
 もちろんモルガナはそんなことは一言も喋っていないし、これから先も言うつもりはないだろう。それは礼を述べるような場面になり得ないという意味ではなく、ただ猫が素直になれない性格というだけだ。
 なんにせよ少年を驚かせたのは、じっと見上げてくるの瞳が潤んでいることだった。それは、アレルギーのせいだけではあるまい。
 ―――まさか……
 少年は慌てて足元のモルガナに目を向ける。彼は尾をピンと立て、いくらか膨らませて瞳孔を収縮させていた。
 ―――コイツ、さっきの与太話を信じたのか!?
 与太話という名のカバーストーリーは、実のところ仲間たちが意見を出し合い、それを新島が一貫性のある物語としてまとめたものに過ぎない。聞かされたからといって校内への動物の連れ込みと連れ歩きが以後も許されるかと言われれば微妙なラインの出来だったし、事実関係を調べられれば即座に厳重注意以上の処分が下されるだろう。
 だから二人は信じられないと、目と目で語り合った。
(どういうことだ、ありえない。こんなことがあるのか)
(だが、現実に起きてるぜ。お人好しってレベルの話か?)
(いや、それより―――)
(ああ……コイツまさか―――)
 二人の脳裏に、全く同じタイミングで同じ文言が浮かび上がった。
 ……単なる偶然。
 モルガナはその場でひっくり返って芋虫のように転がりだし、少年は言葉を失って立ち尽くした。あれこれ頭を巡らせて仲間に相談までした結果が単なる猫好きのお人好しとは、なんたることか。
 呆然として沈黙する彼と猫とをどう思ったのか、はつま先で足元の湿った土をにじりながら口を開いた。
「あ……あのさぁ……」
「……なに?」
 やっとのことで応えた彼に、はまだ潤んだ瞳を向け、こころのこもった声をかける。
「その、いろいろ大変だと思うけど、頑張って。難しいことだらけだろうけど……私も協力するから!」
 勘違いのすれ違いでしかない言葉だった。力強く拳を握って宣誓する姿は一種清々しくもある。
 彼女の言う『協力』はもちろん、ありもしないモルガナの病気に掛かっているのだろうことは明白だ。けれど少年は胸を打たれたような気になって、この日初めて、あるいは彼女に向けて笑みを浮かべた。
「……ああ、よろしく」
 つられてもどことなく照れくさそうな、これまでの懐疑的な態度を誤魔化すような笑みを浮かべる。それは少しばかりぎこちなかったが、まあまあ、悪いものでは決してなかった。
 ただし……
「あっ、ふ、ふゎ……はっ……」
 やばい、と思って後退ろうとしたが遅かった。
「はくしゅん! ご、ごめ……っくしゅん!」
 少年は、もう一度ポケットからティッシュを取り出して、彼女と自らに一枚づつを差し出した。

 結果報告のための招集に応じた仲間たちは、聞き終えて各々違った感情を湛えた眼を一人と一匹に向けた。
「つまりなに? 全部偶然だったってコト?」
「互いの独言が噛み合って会話のようになっただけと」
「連れ込んだヤツってのも、猫ギャクタイとカン違いされてたせいかよ」
 明らかに面白がってニヤニヤ笑う高巻やまれな偶然に感心してしきりに頷いてみせる喜多川、呆れながらも結果よしと苦笑する坂本はともかく、侮蔑的な目つきで二人を睨みつける新島はどうしたものか。
「なにか言い分は?」
 おまけに彼女は、左右ともに拳をつくってこれ見よがしに打ち合わせている。
「待て! その拳を引げろ!」
「しゃーねーだろ! 噛み合いがよさすぎたんだよ!」
 命乞いというにはあまりに居丈高な態度だ。新島は足音すら軽く二人に歩を詰めると、鋭く拳を振り上げた。
「問答無用!」
 軽いと言い切るには重く、しかし重いというには軽すぎるげんこつが二人に見舞われた。
 それで仕置きは済んだが、起きたことは無くならない。モルガナと少年との繋がりがに知られた今、あちらから持ちかけられた同盟の申し出は受け入れるべきとなった。

 ただし彼女のアレルギーを考慮して、少年と猫は月に幾度かの試練をこなす必要がある。

「やるぞ、モルガナ」
「おう……や、優しくしてくれよ? ワガハイ、イテぇのはイヤだからな?」
「わかってる。いくぞ……」
「ムッ、むむ……んんッ、んなぁ~!」
 屋根裏部屋に猫のあられもない悲鳴が響いた。少年の手には猫用の安くないブラシが握られている。
「うわっ、うわぁ……めっちゃ取れる……痛くないのか?」
「痛くはねぇが、あ、ソコもちょっと…… ニャフフっ、くすぐってぇよ!」
 くしけずる度に大量に抜け落ちる細い毛は、季節柄もあってかあっという間に山と化した。
「これ祐介にくれてやったらなんか作りそう」
「やめろぉ……あ゛〜……なかなかウマいじゃねえか……ゴロゴロ……」
「はあ……」
 決して猫嫌いではなく、むしろ好きなほうだが、相手がいちいち憎まれ口を叩く輩では滾るものもない。少年の口からはため息がもれる。
 それでも―――
「まあ、結果的にはよかったんだろう。モルガナ限定だけど校内に協力者が増えたわけだし」
「ワガハイ自身は……ゴロゴロ……あんまり近寄れねーがな……」
「そうね」
 ブラシに絡まった毛の塊を指で引き抜いて山の中に放り込む動作も、すでに慣れたのか淀みない。モルガナとしてはマッサージでも受けているような心地なのか、前も後ろも脚は弛緩し、尾っぽは伸び切っている。
 リラックスしすぎだろうと少年は思うが、そんなかっこうになっていても猫の嗅覚、あるいは勘のようなものは鈍らないらしい。少年の沈黙の裏に何某かの意図を感じ取り、モルガナは首だけで彼を仰ぎ見た。
「どうした? なにか言いたげじゃねーか」
「いや……」
「そうかよ」
 追求せずに猫はまた平らになる。
 ―――そこは掘り下げろよ。
 完全に八つ当たり目的できつくブラシが引かれ、モルガナは再びあられもない悲鳴を上げた。
 少年の耳にはそれとは別に、幻聴めいた記憶の欠片が貼り付いている。
『大変だと思うけど、頑張って―――』
 それは勘違い極まった末に吐き出されたの、どちらかといえば彼にではなくモルガナへ向けられた励ましの言葉だった。
 もちろんそんなことは彼自身も理解している。徹頭徹尾すれ違っていながら奇跡的に噛み合っただけで、なんならそれを理解していないのは当のだけだと。
 それでも、思い返すと少年は己の心が浮き立つのを感じる。
 怪盗と学生の二足のわらじは愉快だが、目を背けたくなるようなものを目にすることも多い。それこそ自らに己こそが正しいと言い聞かせねばならない程度には。その点で言えば、どちらのわらじも大差ない。
 あれこれと考えているうちにモルガナは『今日はもういいだろ』と窓際に逃れていた。
 そこまで嫌ならもういいやと少年もブラシを放り投げ、毛の塊を適当な袋に詰める。芸術的なナニかの材料になるかどうかは別として、捨てる前に仲間たちに見せてやりたくなる程度の収穫量だった。
 さて、手持ち無沙汰になった彼はベッドに寝転がると充電器に繋げてあったスマートフォンを取り、思い付いた単語を幾つか検索エンジンに打ち込み始める。
 結果はすぐに出た。どこかのネットショップの商品がずらりと並んでいる。
「なんだよ、まだ他にも用意するつもりなのか?」
 せっせと毛づくろいに励んでいたはずのモルガナが、いつの間にか枕元に寝転んで手元を覗き込んでいた。
 プライバシーの侵害を平然と行う猫を片手で追いやり、もう一方で適当に目星をつけた商品―――『犬・猫・ペット用毛取りブラシ』の詳細を知ろうと指を動かす。
「……制服もけっこう毛がついてるし」
「そりゃまあ、ゼロとは言わねぇが。そこまで気をつかわなきゃならんほどか?」
 確かに、の症状というものは、クシャミこそ連発していたし目も充血していたが、それだけだ。それだけが当の本人にとってどれほど辛いものか、他者になかなか理解し難いのがアレルギーというものではあるが……
「気くらいつかったっていいだろ」
 万が一にでも距離を詰めたとき、またクシャミをされていろいろ吹きかけられては堪らない。
 彼自身ですら言い訳がましく思えるこれにモルガナはやや卑俗たらしい笑い声をもらした。
「ヘッ……なんだよ、惚れちまったのか?」
 猫の顔でニヤニヤ笑うという離れ業をやってのける彼をまた押しやって、少年は毛取りブラシをカートに入れた。
「さあな」
 そう返すだけに留めて、少年はスマートフォンを放り出した。
 外はとっくに暗くなっている。もう一時間か少ししたら猫に就寝を促される頃になるだろう。不思議なことにモルガナにそうされると、彼はもはや他にできることが無くなってしまうような心地に襲われるのだ。
 その猫は相変わらず枕元に居座って、いよいよ丸く、寝る姿勢に入りつつある。少年は彼を優しく掴み上げて足元に追いやった。不満げな視線を返されるが、そこで寝られては髪や汗ばむ額や頬に、尾や尻をぶつけられる危険性がある。実際幾度かそうされて安眠を妨害されたことがあった。モルガナのほうもその一幕を思い返したのか、なにかを言い返すでもなくその場で丸くなる。
 それで、屋根裏部屋は静まり返る。少年が今のところの仮の宿とする純喫茶ルブランは飲み屋街のすぐそばにあって、こうして口を閉ざすと夜更けでも酔客の声がかすかに漏れ聞こえてくる。
 少年は粗末な寝台から行儀悪く足を延ばして古ぼけた扇風機のスイッチを入れ、今度こそ布団に潜り込んだ。
 眠気はすぐにやってくる。
 明日もモルガナを鞄に入れて登校することになるだろう。そうだ、できれば鞄自体もきれいにしておかなければ―――

 気がつけば彼は眠りに落ちていて、寝惚けたモルガナがその脇腹にしがみついていた。