絹毛鼠、伏して彼を暖める
暖房を点けていてなお冷える屋根裏部屋で、少女は目いっぱい腕を伸ばして手の中の物を彼に向かって差し出した。
真っ赤なハート型のボックスに、金色のリボンが斜め掛けされている。リボンにはまた、箱と同じ赤色で「CHOCOLATE」と記されていた。
二月十四日のこの日に赤いハートとチョコレートとくれば、どんなに鈍感な輩だってその意味に気が付くだろう。
そして彼女は輝くような笑みと晴れやかな声で言った。
「先輩! オツトメご苦労さまでした!」
そんな言い方があるか。
全力で指摘してやりたいのをぐっとこらえて、雨宮は差し出された物―――バレンタインチョコを受け取った。
「ありがとう」
奇妙な文言とともに手渡されたのだとしても、この年下の恋人からのプレゼントが嬉しくないわけがない。
思わずと口元が緩むのを空いた手で隠しながら、じっと手の中の箱を見つめる。
彼にとってこんな風に気合の入ったバレンタインチョコを受け取るのは生まれて初めてのことだった。義理だとかお情けだとかいうものはこれまでいくらだって貰ってきたけれど―――
本命というものはこれほど嬉しいものなのか。
新鮮な驚きと胸の内からこみ上げるくすぐったさを感じながら、雨宮は目を細めてリボンに指をかける。
「開けてもいい?」
尋ねるとは満面の笑みでまた、今度は空いた両手を差し出して
「どうぞ!」と元気よく彼を促した。
まったくこの底の知れない、あるいは底などないのかもしれないと思わされる明るさと笑顔ときたらどうだろう。釣られるようにして笑みをこぼしながら、雨宮は右手に箱を、左手に蓋をとって中身を蛍光灯の明かりの下に晒し出した。
そういったデザインなのか、大きさがまちまちの艶のあるチョコレートがぎっちりと詰められ、間仕切りの代わりにか隙間には小指の先ほどの粒チョコレートが押し込まれている。
こういったものの見た目の優劣は彼には分らない。ただ、箱を開けた途端にふわりと鼻腔をくすぐった甘い香りはこれがそこらの安物とは違うのだろうことを教えてくれている。
ちらりと見下ろせばは瞳を輝かせて彼の顔と箱の中身とを見比べていた。
それは「早く食べろ」と促している。
雨宮は苦笑して、指先で摘まめるサイズのものを選んで口に放り込んだ。
舌の上に乗ったチョコレートはその血温によって溶け、強く濃い甘さが彼の口の中全体に広がった。その重みのある甘さの奥に、またさらにずしりとした強烈な甘味を感じて首を傾げる。チョコレートとは融点が違うのだろう、遅れてゆっくりと口内を侵食したのはチョコレートとはまた違った甘味と香ばしさ、そしてかすかな塩味だ。それは決して上等なカカオの香りを妨げることなく混じり合い、口から鼻へ抜けて彼の嗅覚までもをよく満たす。
有り体に言えばそこらの百円で買える板チョコなどと比べるのはちょっと失礼に思えるくらいに美味しかった。
彼はそのことを素直に口にする。
「なにこれ、すごいおいしい」
取り繕うということを忘れてしまったかのように飾り気のない感想を漏らした雨宮に、は何故か自慢げに薄い胸を張ってふふんと鼻を鳴らした。
「さすが先輩! 世にはばかる大怪盗は味覚もたしかなものをお持ちのようで―――」
「そういうのはいい。これ、高いんじゃない?」
箱を両手に持ち直してまじまじ眺める。ブランド名がLAという冠詞から始まっているところを見るにフランス発祥のブランドのようだが、いかんせん彼にしてもこういった方面の知識は乏しい。
はちょっと衝撃的なことを口にした。
「一粒単価だいたい五百円くらいだったとおもいます」
「は!?」
思わずと素っ頓狂な声を上げて見下ろす目線に、はそれこそを待っていたと言わんばかりにニヤリと笑う。
「どうです? フンパツしちゃいましたよ!」
嬉しそうな彼女に対し、しかし雨宮はううむと唸った。
高校生が企む個人単位のサプライズとしてはちょっと高価だ。驚きや喜びより、彼女を心配する気持ちが勝った。
「無理してない?」
問いかけると、は唇を尖らせて眉尻を下げ、あまつさえそっぽを向いてしまう。困っているような拗ねているような表情はそんなことを訊かれるとは思ってもみなかったと語っているから、どうやら雨宮は彼女の機嫌を損ねてしまったようだ。
「たしかに財布には大きな打撃ですけど、そういうところを心配して欲しかったわけじゃなくて」
難しい顔をして唸るに、雨宮はしまったなときまり悪く頭をかいた。この少女が求めているのは配慮や気配りではなく手放しの賞賛や喜びだったようだ。
選択肢を間違えた。そんな風に思いつつ、彼はもう一粒を指先で摘まみ上げる。
少なからず彼はこの少女の人となりをよく知っている。ケージの中を縦横無尽に走り回るげっ歯類、もしくはよく芸を仕込まれたニホンザルだ。となればこれくらいの手落ちなら底入れは容易である。
「」
名前を呼んでやると、はいくらか機嫌を損ねたままの表情を彼に向けた。その口が「なんですか」と言わんとして開かれるのを見て、雨宮は手の中の一粒五百円程度の高級チョコレートを親指で彼女の頭上に弾き上げた。
「あ―――!」
するとどういうことだろう。床に落としてしまうのが嫌なら手で捕まえればいいものを、彼女はそれを口でもって見事に受け止めてみせた。
フリースタイルのディスクドッグ、ちょっと間の抜けた顔のコーギー犬だ。もう少し手間をかけられれば、競技犬としても仕込めるかもしれない―――
そんな彼の思考を見抜いたわけではなかろうが、は両手で口を押さえて思い切りまなじりを吊り上げる。
「先輩! またなにかひどいこと考えてませんか!」
「考えてない」
「うそだー!」
雨宮にとって喚いて脚をばたつかせる彼女を落ち着かせるのはもっと簡単なことだった。
その柔らかな唇に指先を押し当てて
「あまり騒ぐとマスターに怒られる」と訴えてやればいい。
たったそれだけのことではピタリと動きを止めてしまう。それは間違いなくよくしつけの行き届いた飼い犬の姿だった。
のほうはこれを自覚していないだろうが飼い主のほうはしっかりと認識しているらしく、堪えきれない笑いがその喉から零れ落ちてしまう。
それにまたが憮然とした表情になるのがおかしいのだろう。雨宮はついに腹を押さえて身体をくの字に折った。
「もー!」
ついにはも牛の鳴き声のような声をあげて怒りを露わにしはじめるが、先の忠告はまだ活きているのかその声量は抑えられている。
なによりその口の中にはきれいにキャッチしたチョコレートが入ったままだ。このしつけの行き届いた『お嬢さん』が口にものを入れたままいつまでも喋っているはずがなかったし、言葉を忘れるほどの美味さであることはつい先ほど雨宮も身をもって知ったばかりだ。
そういうわけで、やっと収まってきた笑いの中から辛うじて告げてやる。
「うまいだろ?」
すると口を手で覆ったはまだどことなく納得がいかない様子で、それでも首を縦に振る。
ダメ押しと雨宮がもう一粒を取り上げて見せると、の輝く瞳がそれを追う。それはさながら釣り堀の中の腹を空かせた魚のようだ。
雨宮は釣り人の心地を思い返しながら腕を引いた。するとまた彼女の目線もそちらへ向かう。腕を上げ下げする度に彼女は倣った。じりじりと身体の向きを変えて物言いたげな視線から隠すようにすれば、彼女もまた一歩を踏み出してこれを追う。
とて雨宮の思惑くらい知れているだろうに心なしか楽しげにしているところを見るに、結局彼女もこのペットのような扱いを心の底から嫌がっているわけではないのだろう。
「はいアーン」
「あー」
仕上げにと口に放り込んでやると、は女子特有の美味い物を食べたときの感嘆の声を漏らした。
なんで女の子って美味い物食うと「んー」って言うんだろう。素朴な疑問を脇に置いて、雨宮は満足げに頷いてから手の中のボックスを大事そうに抱えなおす。それから静かに部屋の壁際に置かれたソファに腰を下ろし、そのまま隣をぽんと叩いて彼女を招く。言葉もなく隣に座れと促されてやはりはよくしつけられたイヌかサルのようにそこへ座った。
雨宮は彼女の口の中がすっかり空になるまで、じっとそれを見守った。プレゼントを頂戴したのは彼のほうであるはずなのに、その心境は完全に餌付けする親鳥だ。
やがて少女の喉が嚥下に動くのを見届けると、彼はまた問いかける。
「自分の分は用意しなかったのか? ほら……ごほうびチョコレート? とかいうの」
「先輩の分と、友達や、他の先輩に配る分を買ったらお小遣い尽きちゃって」
「あらら」
なんとも情けない理由だと思ったが、しかし彼は口を閉ざした。
バイトとかしないのかとも思うが、放課後は部活だ塾だと忙しそうにしているところを見るになかなかそうもいかないのだろう。彼自身もあまり夜遅くまで働いて欲しくはないと彼氏の立場から思ったりもする。無理をしてほしくないとも。
だからこそ彼には不思議でならない。
そんなに無理をしてまでして、こんな高価なチョコレートを用意してくれなくたってよかったのに。
今手の中にあるこれが嬉しくないわけではないが、きっともっとポピュラーな量産品であっても『本命』の付箋が貼られてさえいれば喜んだに違いないのだ。
彼はこれを率直に訊き合わせた。
「こんなに奮発してくれなくたって良かったのに。どうしてこれに?」
は困ったように眉を寄せ、伸ばした足をぶらぶらと落ち着きなく揺らす。これはお行儀が悪いなと思ったが、雨宮はこれにも口を閉ざした。
やがては手の指先を擦り合わせながら、彼女にしては珍しいことにいくらか言い淀みながら答える。
「だって、先輩はオツトメしてきたじゃないですか」
「務めてない。どっちかって言うと保護されてただけだから……」
「そうなんですか?」
「そうなの。それで? 俺が引きこもってたことと関係あるの?」
数秒ほどは言うべきことを頭の中で整頓しているように斜め上に目線を投げて沈黙する。
「先輩は……」
やがて言葉がまとまったのだろう、は尻を動かして座り方を改めると、膝の上に手を置いて雨宮に向き直った。
「別に牢屋に入ってたからじゃないですけど、たくさん大変な目に遇ったり、悪人を成敗したり、誰かを助けたり……私のことも」
確かに去年の年の暮れ、たいへんな戦いがあったことは間違いない。それより前に幾人かの『改心』を行ったこともまだ記憶に新しいし、彼女のちょっと風変わりな『兄妹げんか』を治めたりもした。その末に彼女から熱烈な求愛行動―――もとい、人間として言葉とボディランゲージを駆使した告白をされて、受け入れてここに至っている。
頷いて促すと、彼女はもどかしそうに続きを語る。
「その割に、私はあんまり……学校では川上先生が頑張ってくれましたし、外では先輩……高巻先輩たちが頑張ってくれて、私の出る幕はあんまりなかったっていうか」
「も一年の連中を説き伏せてくれたって聞いてるけど」
「それは別に……もともと一年の間では、秀尽の名物先輩みたいになってましたし」
雨宮は目を細めて遠くを見つめた。
が一年を中心に広めてくれた噂―――雨宮蓮は小動物愛好家だとか、猫使いだとか、他校の変人を舎弟にしただとか、教会に住む悪魔と対決して勝っただとか、オカマバーのママを口説いていただとか―――を思い返して押し黙る。
とはいえそれはいずれもの語り口調と合わさって和みエピソード、あるいは笑い話の一つとして秀尽生らには受け入れられているから、の言っていることはまったく見当違いに他ならない。
彼女が伝えたいことはつまり、力不足を少しでも補いたかったということなのだろう。
理解して、雨宮は腕を伸ばして彼女を己の胸に抱き寄せた。
「はいつも俺の力になってくれてた」
小さな頭を抱えて利き手でかき回してやると、はむずかる子供のように身体を暴れさせる。あるいは触られるのを嫌がるネコか。雨宮は気を利かせて散歩に出かけた黒猫の尻を思い返したが、が落ち着きどころを見つけたように肩に顎を乗せるとすぐに頭の奥へそれを押しやった。
ダメ押しと彼はさらに言い添える。
「なにかしてくれなくても、が応援してくれると思ったらいくらでも頑張れる」
だからそう拗ねたような顔をするなと顔など見えていないはずなのに言い当てて、雨宮はあやすように彼女の背を叩いてやった。
「先輩ずるい……」
「なにが?」
「そんなふうに言われたら、もっと好きになっちゃいますよ」
「なっていいよ」
苦笑しつつ言う彼の背に、おずおずとの腕が回される。
「んへへ……あったかいですね。夢にまでみたリアルな先輩だぁ」
「夢まで見たのか」
「先輩が誰かと盃代わりの血を啜ってたらどうしようかって心配で……」
「……の中で俺はどういう存在になってるんだ……」
はこれにぐいぐいと身体を押し付けながら答えた。
「大好きなひとです!」
この懸命な意思表示に、雨宮はこの上なく失礼なことに、つい昨日仲間の一人から見せられた手乗りハムスターの愛くるしい姿を思い起こした。人の手のひらの上でリラックスして寝そべり、溶けたように平べったくなって眠る姿……
とはいえ実際にぺったりとくっついたは若干平たくなってはいる。
が吹聴してくれた噂の通り小動物が特に好きだという事実はないが、嫌いというわけじゃない。どちらかといえば好きなほうではある少年はふと、この子もあのパールホワイト・ジャンガリアンのように手のひらの上でぺたんこになってくれないかなと思う。
雨宮はそっとソファのすぐそばに置かれたテレビ台の上にチョコレートの箱を置くと、直ちにこれに取り掛かった。
の後頭部、首の後ろ、背中と順に撫でてやると、彼女は意を解したように力を抜いて彼にしなだれかかる。預けられた身体の重みは決して軽くはなかったが、支えられないほど彼も軟弱なつもりはない。堪えて続けていると、の身からはますます力が抜け落ちていった。
預けられているのが体重だけでないことは承知の上だ。全幅の信頼と心そのものが手の内にあると思うと、彼はさらに調子に乗ってしまう。
「そんなに甘やかしてももう何も出てきませんよー」
甘えるように擦り寄せられる少女の頬と額はまた彼を調子づかせた。
しかしそれはにしても同じことだ。喉を鳴らしてもっとと擦り寄る姿は撫でることを強要する猫そのもの、唐突に力を込めて雨宮を横たわらせる様はまさしく胸の上を寝床にするモルガナとそっくりだった。
「えへへ、暖かい……」
「重い」
「失礼なこと言わないでください」
言うほど重くはなかったし、言うほど機嫌を損ねてもいない二人は、示し合わせたように笑い声を上げた。
あかあかと灯るストーブの火があってなお凍えるような室温の中、は雨宮の望み通り平くなってぴったりと寄り添い、彼をよくあたためた。