濡れ鼠、長じて彼をよく助ける

 バケツをひっくりかえしたような雨が降っている。
 秀尽学園高校の昇降口で立ち尽くす雨宮の前、分厚いガラス戸の向こうはちょっと戸惑うくらいの量の雨がアスファルトを抉るような勢いで降りしきっていた。
 昇降口は急な天気の変化に取り残された生徒たちが帰るに帰れずたむろして、あちこちで天気予報士への怨嗟の声を上げている。天気予報は晴れのはずだったのに、と。
 それも雨宮が前に進み出ると、シン……と静まり返る。
 四月に転入してから一ヶ月、もはやこの対応にも慣れたものだ。雨宮は涼しい顔で手にした折り畳み傘を広げて扉を開け放った。
 雨脚は強いが風は弱い。傘を差して歩けばそこまで濡れることはないだろうと踏んでのことだった。
 しかしこれは見通しが甘かった。上からはともかくアスファルトに跳ね返った雨水はあっという間に靴と靴下、ズボンの足元をすねまで濡らしてしまう。
「弱まるまで待てばよかったのに」
 背中からかかる声に雨宮は眉を寄せる。幸いなことに周囲に人影はなく、この雨音の中で声を聞き取るのは彼だけだろう。
「早く帰りたい」
 端的に告げてやると背中に負ったカバンの中で身じろぎする気配がする。
「ぷはっ、ああ、湿気っぽい! ワガハイの自慢の毛並みがしんなりしちまう……」
 訴えて顔を覗かせたのは黄色い首輪をした一匹の猫だった。モルガナ、と咎めるようにその名を呼んでやると、彼はおざなりな返事とともにカバンの中に顔を引っ込めた。
「そういうことなら早く帰ろうぜ。まったく、梅雨にはまだ早いだろうに、イジョーキショーってやつか?」
 ぶつぶつ、うにゃうにゃと背後でぼやく猫を無視して、雨宮はため息とともに一歩を踏み出す。
 雨脚はちっとも弱まるどころかますます強まっている気さえする。モルガナの言う通り、異常気象というやつだろうか?
 なんだっていいが、雨が降ると気圧の低下に伴って気も滅入る。制服も濡れてしまったし、癖っ毛は湿気を含むと爆発する。
 幾度目かもわからぬため息をつく。そうしていると、雨音に混じって誰かのすすり泣くような幻聴すら聞こえてくるではないか。
 雨宮ははっとして顔を上げた。
 雨にけぶる視界の中、狭い道の壁のあちこちに室外機や合成樹脂管が並んでいる。それらに紛れるように、やっと見慣れた制服の少女が小さなひさしの下で雨を避け、俯いている。近道をしようと駅に続く狭い路地に入ったのは失敗だったかもしれない。
 いったいいつからそうしていたのだろう。秀尽の女子制服はずぶ濡れとまではいかないが、肩や足元は濡れて色濃くなってしまっているし、そうでないところも全体的に湿気ている様子だ。
 俯いたその鼻先は赤く、頬は鼻水か雨水か涙か分からないもので濡れている。
 見なかったことにして素通りしてもよかった。もしかしたら幽霊かもしれないし。
 けれど雨宮という少年は、たとえそれが幽霊だったとしても見過ごすことができなかった。気になるとかならないとか、そういった価値観を越えて、ただ彼の倫理観がそれを許さなかった。
 だから自分はここにいるんだ。己の性質を恨むような、誇るような心地とともに少女に傘を差しだしてやる。背中で思い切り雨を被った猫が小さな悲鳴を上げた。
「え、誰……」
 顔を上げた少女が誰何する。それは雨宮の台詞でもあった。同じ学年の他のクラスをわざわざ覗きに行ったこともないし、三年や一年となればなおのこと知らない顔だ。
 しかし、少女のほうは雨宮に心当たりがあるらしい。はっと息を呑み、元々少し青かった顔をますます青くして目を見開いた。
 そこにあるのは明確な怯えの感情だった。
 しまった、と雨宮は奥歯を噛む。忘れられないと思っていたが、こんな状況になると案外忘れてしまうものか、と。
 そういえば自分は札付きの前科者として校内に名を馳せているのだった―――
「あ、あう、あの、わ、わたし……」
 ぶるぶると震える小さな少女の姿に、雨宮はハムスターが縮こまって震える姿を重ね見る。もちろんそれは妄想だった。
 そして少女は重ねて告げる。
「お、お金なら持ってません……」
 なるほど、彼女の周辺では己はそういう存在になっているのか。どこか他人事のように捉えて感心しつつ雨宮は肩を竦めた。小さな動作にすら名前も知らない少女が震えるのを見て、初めて彼は悲しい気持ちになる。
 その悲しみをどう受け止めたのだろう。少女は怪訝な顔をして雨宮の出方を窺っている。
 濡れた前髪から雫が落ちるのを何も言わずに見守って、雨宮は少女の手に数少ない自分の持ち物である折り畳み傘を押し付けた。
「え、あの」
「そのままだと風邪を引く」
 だから使え。と告げると、少女は押し付けられた傘の持ち手と雨宮の顔とを交互に見比べて困惑している。
 その唇がなにかを言おうとするのを見て、雨宮は顔を逸らして歩き出した。背中の猫が小さな声で文句を言っているが、この土砂降りの中では少女には聞こえていないだろう。
 明日が休みでよかった。風邪を引いてもこれからゴールデンウィークが控えているから、最悪明けるまでには回復するだろう。
 それならいいや。きっとあの子はあれ以上は濡れずに済むだろうし。
「紳士だな、オマエ」
「そんなつもりじゃない」
「そうかよ。うう、早く帰ろうぜ。冷えちまう!」
 はいはい、と適当な返事をして少年は走り出した。
 背後から追ってくるような気配はない。あの怯えようでは無理もないだろうが、彼にとっては都合が良かった。折り畳みの傘も安くはなかったが、固執するほどの物ではない。
 それでもなんとなく、実家から持ち込んだダンボールひと箱分の持ち物から『かさ』が減ることを少しだけ寂しく思った。


 五月の連休は吹き飛ぶようにして過ぎ、再び憂鬱な学校生活が始まる。
 間に挟まった平日、全校集会の最中に起きた珍事は休日の間に多少は忘れられるかと思ったが、どうもそうではないらしい。校内のどこへ行ってもその話で持ちきりで、鴨志田の悪事を暴かせた怪盗たちに向けられる称賛の言葉にむず痒いような、誇らしいような気持ちになるのは無理からぬことだった。
 正しい選択をすることができた。
 幸いにも体調を崩すこともなく済んだ雨宮は、鴨志田の理不尽な振る舞いに怯えていた同級生たちがほっとするような、拍子抜けしたような顔をするのを見てひっそりと喜んだ。
 その心の内を知る者は多くない。
 知られる必要もなかった。もしも誰かに問われれば、彼は自分の身を守ろうとしただけだとこたえるだろう。それ以上のものは望む気もない。
 そのようにして少年と坂本竜司、高巻杏は、靴下猫の導きと奇妙な縁によって引き寄せられて秘密を共有することとなった。

 そしてまた週末を越えた月曜日。
 刺激に満ちた怪盗活動と対極にある平和な学生生活の中、雨宮は見覚えのある顔が二年の教室を覗き込んできょろきょろとする姿を見つけて息をひそめた。
 誰かを探すような目線。その手には折り畳みの傘が握られている―――
 すっかり乾いてふわふわとした髪を揺らす姿はあの濡れ鼠と比べれば見違えるほどだが、間違いなくあのときべそをかいていた少女だろう。
 傘を手にしていることを鑑みても彼女が探しているのは自分だろうが、しかし、ここで声をかければ妙な噂を招きかねない。彼女のためにならないだろうと窓のほうへ顔を向けると、ちょうどポケットの中のスマートフォンが震えてメッセージの着信を教える。
 なんだと取り出すと、前の席の高巻がちらりと彼に視線を送ってくる。
 どうやら彼女らしいとみて目を落とす。
『あの子、誰か探してんじゃない?』
 グループチャットに投げ込まれた文言に反応するのはもう一人、坂本のほうが早かった。
『一年の女子ならこっちにもさっき来てたぜ』
『知ってる子?』
『いや知らねー』
 なんだ、と高巻は肩を落とす。
 雨宮は少し迷ってチャットに文字を打ち込んだ。
『たぶん、彼女が探しているのは俺だとおもう』
 どういうことだと疑問符を返す二人に、雨宮は先々週の事のあらましを説明してやった。
『紳士か』
『少女マンガか』
『そういうつもりじゃ』
『カッコよすぎるでしょ』
『キマってんなリーダー』
『もうやめて』
 意地悪な笑みを浮かべて横目で窺ってくる高巻の視線に耐えきれなくなって雨宮は顔をそらした。
 廊下側の窓から件の少女がまだこちらへ視線を送っている―――
 ばちっと音がなりそうなほどタイミングよく噛み合ったそれに雨宮はしまったと小さく舌打ちし、対する少女のほうは大きく目を見開いて硬直してしまっている。
 蛇と蛙、猫と鼠、マングースとハブ……
 怯えきって手の中の傘を握りしめる少女がかわいそうになって、雨宮は目をそらした。
「あ、逃げた」
 高巻の独り言に顔を上げると、なるほど確かにそこにもう少女の姿は見当たらない。
 ほっと息をついて、雨宮は机に突っ伏した。
 惰眠を貪りたいところだが、次の授業の始まりを教えるチャイムが鳴り響いていたし、机の中の猫が授業を受けろと腹を蹴りつけてくるから、彼は背筋を伸ばさざるを得なかった。

 放課後の校舎裏に呼び出されて向かうと、そこには呼び出し主の坂本と一緒にクラスメイトの三島由輝が佇んでいた。
 坂本は分かるがなぜ三島まで? 疑問符を浮かべた雨宮に坂本はこたえて曰く、
「コイツならあの一年女子のこと知ってっかなーと思って」とのこと。
「なるほど」
 頷いて三島に目を向けると、まだ痛々しいすり傷や打ち身の残る顔に明るい笑顔を乗せた彼はその期待に応えてみせた。
「傘子ちゃんだろ。知ってるよ、噂になってるもん」
「そんな名前なのか」
「や、それはあだ名。ほら、傘持って二年の教室行ったり来たりしてるから、面白がってみんなそう呼んでるだけ」
「安直ゥ」
 呆れたように唇を尖らせる坂本に、三島は苦笑しつつも肩を竦めた。概ね同意、ということらしい。
「名前は。バスケ部の一年で、学級委員長もやってるってさ」
「あー、真面目そう。借りた物そのまんまにできないタイプだ」
 だからビビりながら二年の教室を順ぐりに見て回っていたのか。
 得心して、しかし雨宮は困りきって肩を落とす。
「なに? がなんかしたの? まさか次のターゲット……?」
「違う」
 直ちに否定してやると、三島はますます首を傾げた。
「その傘子が探してんの、コイツなんだよ」
「えーっ! なんだよそうなら早く言ってやればいいじゃんか!」
 素っ頓狂な声を上げた三島に、坂本は渋い顔をして首を左右に振ってやる。
「ばぁか、そんな簡単な話じゃねーだろ。忘れたんか、コイツの噂」
「あ……」
 三島はバツが悪そうに俯いて言葉を失う。
 雨宮にまつわる悪評のほとんどは三島が鴨志田の指示によって拡散したものだ。脅されていたとはいえ、後から付いた尾ひれのほうが大きくなっているとはいえ、この点に関して三島が無罪かと問えばそれは違うだろう。
 雨宮が彼を責めないのは冤罪とはいえ前科が付いているのは事実で、そして追い詰められた人間の心理に理解があるからだ。恐怖に縛られると人はあらゆるものが麻痺してしまう、と。
 だから雨宮は三島に向かって首を振り、笑ってやった。気にしてないと言外に添えて。
「……ありがとう。うん、そうか。そうだよな。だからほいほいに接触するのを避けたいってわけか」
「けどよ、このままじゃ向こうがきちまうんじゃねぇの。クラスもバレちまったんだろ」
「うん。傘くらい気にしないし、忘れてくれていいんだけど……」
 どうしたものかと額をつき合わせる雨宮と坂本に、しかし三島は手を打って明るい声を出した。
「いや、待って。これはチャンスだよ!」
「あ?」
 三島は手を広げて熱っぽく二人に訴える。
「自分が濡れるのも構わず一年の女子に傘を貸してやったって、いい話じゃん。悪い噂を払拭できるかもしれない!」
「あ! いいな、それ!」
 雨宮はこれに若干うんざりとした顔をしてみせたが、坂本のほうはパチンと指を鳴らしてはしゃいだ様子を見せている。
 勘弁してくれ、というのが雨宮の本音だった。怪盗云々、前科云々を差し置いても、本音を言えば静かに生活したかった。騒ぐのも騒がしいのも嫌いじゃないが、騒がれるのは御免こうむりたい。
「だから俺は別に……」
 いいよそういうの。と言おうとするのを、坂本の手と三島の声が遮った。
「こっちが気にするんだって!」
「んだんだ。ダチのことでヒソヒソされんのは業腹だわ」
 気にするとか、ダチとか言われてしまうと、雨宮はもう強くは出れなかった。二人が己のためにしようとしてくれているのが痛いほど伝わって口を閉ざす。
 盛り上がる二人を少し遠くから眺めていると、背中のカバンに潜んでいたモルガナが言う。
「良かったな、レン」
「……まあね」
 小声で返して、しかしと雨宮は顔を上げる。
「いろいろ考えてくれるのは嬉しいけど、上手くいかなかったら彼女にまで悪い噂が立ちかねない。俺としてはどうしても接触しなきゃいけないのならこっそりがいいんだけど」
 注文をつけてやると、二人はふうむと唸って腕を組んだ。
「そしたら、坂本はダメだな。話しかけるのもNGってカンジ」
「あぁ!? あんでだよっ!」
 三島の指摘にがなる坂本に、雨宮は思わずと吹き出した。
「鏡って知ってる?」
「知ってますけどぉ!?」
 堪えきれない。雨宮は声を上げて笑い出した。
「ちょ……なんだよ蓮! なに笑ってんだよ!」
「いやぁ、笑うだろ。ウケる」
「お前真顔じゃねーか!」
 わあわあと言い合って、笑い合って、話し合いが再開されるのには少しの時間を要した。
「俺がダメなら、三島、お前が行くしかねーじゃん」
「えっ?」
「蓮もダメだろ? となるとあとはお前だけですけど?」
「あっ!」
 はっと息を呑んで、三島は何故か凍り付いた。
「どうした?」
 問いかけると三島はもじもじと両手の指先を擦り合わせながら照れた様子を見せている。はっきり言って気持ち悪かった。
「ンだよ気色悪ぃ……なんか問題あんのか?」
「いや……だって……」
 三島は大いに恥じらいながら言った。
「女子に呼び出しかけるとか、噂になったら恥ずかしいし……」
 坂本が拳を振り上げるのを見て、雨宮は彼に飛びついた。
「落ち着け竜司!」
「離せ蓮! 殴らせろ!」
「ひええ……」
 人気のない校舎裏だからできる振る舞いである。
 こんなところを余人に見られては、せっかく退学を免れたというのにまた同じことになりかねない。
 だからだろうか、雨宮は気配に敏感になっていた。
 誰かがすぐそこの角から、騒ぐ自分達を見つめている―――
「誰だ?」
 呼びかけると、人影はすぐに姿を現した。
「ふっふっふっ……よくぞ気がついた……」
 妙な調子と仕草でもって進み出たのは高巻だった。
 緊張が一気に解れて地面に転がり、モルガナと三島が喜ばしげな声を上げた。
「アン殿!」
「た、高巻さん!」
「やっほ。探してもいないと思ったら、こんなとこにいたんだ」
 チャット送ったんだから、と頬を膨らませた彼女に促されてスマートフォンを確認すると、確かに通知が来ているではないか。
「ああ……ごめん。なんか盛り上がっちゃって」
 主にあの二人が。
 言って頭を下げると、高巻はいいよと軽い調子で彼らを許した。
「んでもアンタたちってば本当にバカなんだから。誰かを忘れてるんじゃない?」
「え?」
「だから、その傘子ちゃん、私が呼びに行ってあげるって言ってんの!」
 ぽん、と力強く胸を叩いた彼女に視線が集中する。
「なるほど、女子なら周りにも不審がられずにいけるかもね」
 三島が頷いてみせると、高巻は得意満面、ふふんと鼻を鳴らして背が反るほど胸を張ってみせた。
「でしょ? ここは私に任せてっ! 今日はもう部活始まっちゃってるから……明日の放課後、またここね!」
 言うなり、高巻はじゃあねと手を振って上機嫌に駆けていった。まるで嵐のようだと残された男たちはそれを見送る―――
「帰るか」
「んだな」
「うん……」
 ただモルガナだけが
「アン殿はほんとに優しいな……はぁ、なんて美しいんだ……」と、いつまでも届かない愛の言葉を囁いていた。

 翌日。
 立入禁止の屋上で昼食を取っていた雨宮と坂本の元に高巻からのメッセージが入ったのは、昼休みも終わろうという頃になってからだった。
『MISSION COMPLETE!』
 少年たちは顔を見合わせて経過を訪ねた。
『なんて言って呼び出したんだ?』
 高巻がこたえて曰く、
『一人になるところを見計らって、蓮が待ってるから放課後校舎裏に来てって』とのこと。
 雨宮は頭を抱え、坂本は天を仰いだ。グループチャットに非難のメッセージを送りもした。
『おい杏』
『勘弁して』
 高巻はこれが不服らしい。怒りの絵文字を伴って反論する。
『なによ。ちゃんとカバン持って一人で誰にも言わずにって言ったよ?』
 坂本は汚れるのも構わず屋上の床に転がり、雨宮は膝を抱えて縮こまった。
『お前マジか』
『えっ?』
『どう考えてもカツアゲの予告だ』
『えっ?』
『どうすんだよオイ』
『勘弁してくれ』
『えっ?』
 グループチャットはしばしの間沈黙する。
 やがて、昼休みの終わりを教える予鈴が鳴り響く頃になってやっと
『来てくれるよきっと!』と、高巻のメッセージがポップする。
 雨宮と坂本も返信はせず、無言のまま午後の授業に取り組むために教室に急いだ。


 呼び出しをかけてしまった以上は仕方がない。
 雨宮は諦観の念とともにまた校舎裏、壁に背を預けてを待った。
 来なければ来ないで構わなかった。高巻の『誘い』はよく効いただろうし、うまくすれば傘のことも諦めて二度と近寄らなくなってくれるかもしれない。
 そちらのほうが雨宮にとっては都合が良かった。懸念は少ないほうがいいし、下級生をあまり怯えさせるのはかわいそうだ。
 しかし……
 あのときはどうして泣いていたんだろう。
 女子が泣く姿を見るのは苦手だ。得意なやつは少ないだろうが。
 なにもあの涙を拭ってやろうなんてキザな想いを抱いているわけじゃない。けれどもしも自分にできることがあって、それをしないのは……それこそが彼の信念に叛く行為だった。
 直接わけを聞き出すのは難しいだろうが、三島や高巻、坂本の手とモルガナの肉球を借りればなんとかなるだろうか。
 あれこれと策を講じていると、待ち人は思っていた時間より早く現れた。
「あの……高巻先輩に来いって言われて……」
 はやっぱり小さくなって震えていた。猫と蛇、そしてマングースの心地になって、雨宮は目を細めた。対する彼女はハムスターだ。ケージの隅で逆さまになってバタバタしている、ジャンガリアン。
 想像して、身体から力が抜けていくのが分かった。
「ハムスターってかわいいよな」
「へ……?」
 カバンを抱えて震えていたは、噂のコワーイ転校生の唐突な発言にポカンと目と口を開け広げた。
「小さいし、フカフカで、暖かくて、頬にエサを溜め込むし……」
 壁から背を離して相対すると、は口を引き結んだ。若干涙目になっているのは気のせいではないだろう。
 雑談で気を和らげてやろうとハムスターの話をふったが、これは逆効果だったようだ。
 怯えを通り越して困惑する少女に憐れみを覚えて、雨宮は手を差し出した。
 傘を返してくれ、という意を込めて。
 は直ちにこたえて言った。
「おっ、お金ならないです! 二千円しか!」
 意思は通じず、また不発だった。雨宮はがっくりと肩を落とした。
「いや、傘……」
「えっ」
「返そうとしてくれてたんじゃないのか」
 だから二年の廊下をうろついていたんだろう。
 指摘してやると、はやっとそのことを思い出したのだろう。
「ハッ!」
 と、息を呑んだ。己の勘違いに気がついたのか、その顔はみるみるうちに紅潮していく―――
 ハムスターはまたたく間にニホンザルに変化し、両手を器用に使って抱えていたリュックサックを開いて一本の折り畳み傘を取り出した。
 見事な芸だ。よく仕込まれている。
 とまでは思わなかったが、雨宮は感慨深く差し出された傘を見つめた。
 別に大したものじゃない。高価でもない。どこにでもある、なんの変哲もない安物の量産品だ。
 それでもこれは彼の持ち物だった。押し込まれるようにしてやってきた屋根裏部屋と、本来住むべき家とを繋ぐもののように思えた。
 小さく息をついてに目を向ける。こちらにキチンと畳まれた傘を差し出すかっこうの彼女はもうハムスターに戻っていた。
 ふと、雨宮の目は彼女の抱えたカバン、スポーツブランドのリュックサックに吸い寄せられた。フロントポケットの金具に奇妙なものが付いている。
 ぼろぼろになって錆の浮いたキーホルダーの金具、一番先端のリングにすり切れた紐だけが虚しくぶら下がっている……
 差し出した手の中に傘が渡されて、雨宮は我に返った。
「……どうも」
 歯切れ悪く言ってやると、は跳ねるように一歩後退り、
「いえ、こちらこそ……」やっぱり歯切れ悪く返した。
 また怯えて震えだす前に帰してやったほうがいいだろう。雨宮はため息を飲み込んで警句とともに促した。
「もうあんまり二年の階に来ない方がいいよ。変なものじゃないけど噂になってるし、このこともどこから広がってどう言われるか分からない。ほら、早く帰りな」
 じゃあ、と言って踵を返す。
 指先に刺さっていた小さなトゲが抜けたような気分だった。痛むわけではないが小さな違和感に苛まれるような感覚。それがやっと抜け落ちて、すっきりとしている。
 きっと彼女もそうだろう。もう直接関わり合いになることもないだろうが、今後は人助けも方法を選ばなければならないな―――
 そんな風に考えていると、力いっぱいに制服の裾を引っ張られた。
 ぎょっとして振り返ると、がやっぱり瞳に怯えを浮かべながらそこに立っていた。
「あ、あ、あのっ」
「……なに?」
「あのっ! あ、あ……」
 この上まだ何か用があるのか。じっと視線を注いで続きを待つと、はやっと手を離し、勢いよく頭を下げて腰を直角に折り曲げた。
「あのときはっ、ありがとうございましたっ!!」
 耳にキンとくるような大声だった。
 雨宮は驚いて、硬直する。よもや礼を言われるとは思っていなかったのだ。
「先輩、あのあと、きっと、絶対、濡れて帰ったんですよね。なのに、あのとき、お礼の一言も言わないで……ごめんなさい!」
 の声はまだ震えていた。しかしそれは怯えというより、感服や敬意と尊ぶ心によるものだろう。
 思っていたのとまったく正反対の反応に、雨宮は目を白黒とさせる。
「え、いや。別に。礼が欲しくて貸したわけじゃないし……気にしなくていいよ」
 顔を上げてくれと頼んでやっと、は下げたときと同じくらい勢いよく頭を上げた。急に大声を出して興奮したのか、頭を下げていたから血が集まったのか、その頬はまた赤くなっている。
 そして、背筋を伸ばした彼女は両手で拳をつくって、変わらぬ声量で言う。
「雨宮先輩って……スッゴク、いい人ですね……!」
 その瞳に憧憬と親愛の情が眩しいほど湛えられているのを見て、雨宮は一歩後退った。
 悪意や怯えを向けられるよりよっぽどましだが、これはこれでちょっと耐えられない。
「わたし、みんなに伝えておきます! 噂なんていいかげんなことしか言ってない、って。先輩はいい人だって!」
 その上はこんなことまで言い出すのだから、雨宮は逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
「……勘弁してくれ」
 それだけ言うのが精一杯だった。
 もちろん、彼女の厚意が疎ましいという訳じゃない。嬉しいし、ありがたい。しかし余計な詮索を招いたり騒がれたりするのはごめんだった。前科があるのは本当のことだし、今は怪盗としての活動のこともある。
 だから、静かにしていて。
 そうと告げるとは神妙な顔をして、うーんと唸って、それから挙手するように片手を大きく上げた。
「わかりました! 静かに、やります!」
「そういうことじゃない!」
 思わずと声を大にして指摘すると、はまた目を見開いて硬直してしまう。
 しまった、怯えさせたか。思うが、しかしこれでいいのかもしれない。こちらに深入りすることで彼女にまで妙な噂が立ってしまってはかわいそうじゃないか。
 このまま怖がって逃げ出してくれればそれでよし。そうでなくとも、少し脅しつければ二度と関わってはこないだろう。
 この見通しは甘いと言わざるを得なかった。は硬直から回復すると殊勝な様子で頷いて
「わかりました。極秘裏に行えばいいんですね……?」と囁くようにして言った。
「だから、どうして、そうなるんだ……!」
 もういい。また怒鳴りつけでもして追い払ってしまおう。覚悟を決めて息を吸う。
 しかしがビシっと敬礼を決めるほうが早かった。
「お任せください、先輩! わたし、こう見えても通信講座で忍者の心得を習っているんです! 諜報活動はお手のものですよ!」
 将来の夢はFBIかMI6の情報分析官です、と元気よく訴える。
「どういうことなんだ……」
 呆れ返って脱力すると、雨宮はハムスターが回し車を全力で回す幻覚を見た。その滑車にはコードが繋げてあって、コードの先には電球が付いている。の輝くような笑顔はその電球だ。
「それじゃあ先輩、わたしは部活があるのでこれで! 任せてくださいっ!」
「ちょっと待って―――」
 制止はしかし、踵を返して走り出したの耳には届かなかった。

……
 翌日から、前科者の転校生は意外にもハムスターなどの小動物が好きらしいという噂が一年生を中心に囁かれるようになった

 どうしてそうなる。
 雨宮は極力彼女に関わるまいと心に決めたのであった。
 反面仲間たちのウケは良いようで、高巻はしきりにいい子じゃんかと感心していたし、坂本はスキあらばハムスターやらの小動物にかけてからかってくる。
 坂本はウザいが、高巻には同意だった。彼女はいい子ではあるのだろう。それは間違いない。
 以前に比べれば刺すような、蔑むような目を向けられることは少なくなった。ただしそれは好奇の目にすり替わっただけとも言える。


 その日もまた少年たちは立入禁止の屋上に立ち入ってたむろしていた。
「お、ほられんれん、これとかどうよ」
「だから別にハムスターが好きってわけじゃ……うっ!」
 坂本が差し出したスマートフォンの画面には動画投稿サイトが表示されていて、その中でロボロフスキーハムスターが小さな前足に餌を抱え、ひっくり返って転がっている。
 その愛らしさは問答無用であった。鼠が嫌いでなければ万人が跪くであろう可愛らしさには、さすがの怪盗団頭領も傅くしかない。そしてそれは特攻隊長も同じことである。
「……かわいいな……」
「うん……」
 少年たちは額を突き合わせて画面いっぱいに動き回るげっ歯類に魅入られている。
 それを呆れるやら微笑ましいやらで眺めながら、高巻とモルガナは顔を見合わせて苦笑する。
 しかし男子高校生二人はハムスターと違って見ていて楽しいものでもない。高巻はすぐに飽きて視線を屋上から中庭のほうへ移した。
「あ……」
 思わずと声を上げた彼女にモルガナが反応する。
「アン殿、どうかしたのか?」
「んや、ほら、あそこ」
 白い指先が中庭の隅、植え込みの近くを指し示す。
 噂をすれば影。がそこにいる。
 奇妙なのは彼女が這いつくばって茂みに腕や頭を突っ込んでいることだろう。
「なにしてんだろ」
 首を傾げた少女を挟むように、少年たちもなんだなんだと顔を出す。
 は今度は自販機の下を覗き込んでいた。
「なにしてんだ、あれ?」
「落とし物……?」
 立ち上がった彼女の頭には遠目にも芝草や枯れ葉が付着しているのが見える。
 なにをしているのかはともかく、必死になっているのは間違いないようだった。
「私、ちょっと声かけてくる!」
 高巻はやっぱり素早かった。言うなり身を翻して走り出し、男たちが目を向けたときにはもう屋上から飛び出していた。
「はえーよ……」
 感心と呆れをないまぜにため息をつく坂本に、雨宮は苦笑しつつ応じる。
「放っておけないんだろ」
 そういう感性こそが自分たちには必要なんじゃないかな。
 微笑ましさとともに告げると、坂本も渋い顔をしつつ同意する。
 そんな彼らの足元で、どれだけ急いだのかもうの元へ駆けつけた高巻を見つめながらモルガナが吐息を漏らす。
「アン殿は本当に優しいなぁ。うにゃ〜ん、素敵なひとだ……」
 否定はしないがそこまで情熱的にはなれない二人は手すりにもたれて無言を保った。
 高巻の行動はお節介ではあっても悪いことじゃないだろう。
 雨宮にとっては都合も良かった。が本当に困っているのならば手を差し伸べてやりたいが、あの一件もあるから接触をしたくない。高巻が窓口を務めてくれると言うのなら任せたいのが本音だった。

 昼休みが終わり、午後の授業の最中に高巻がチャットアプリ越しに報告を寄越す。
『やっぱり探し物だって。なにを探してるのかまでは教えてくれなかった』
 反応は坂本のほうが早かった。
『お前警戒されてんじゃね?』
『なんでよ』
『この間、呼び出しかけるのに壁ドンして迫ったんだろ』
『なんで知ってんの?』
『マジなのかよ。噂になってんぞ』
『えー』
 雨宮は教卓の前に立って教鞭をふるう教師の話を耳に入れつつなるほどなと呟いた。授業が面白かったのではなく、あのときのの怯えぶりのわけが分かったからだ。
 しかし、探し物とはなんだろう。あの驟雨の日の涙と関係があるのだろうか……
 テンポよく飛び交う坂本と高巻のやり取りを放置して、雨宮は少し離れた席で真面目に板書を取る三島にコンタクトを送る。
のことが知りたい』
 しばしの後、三島はちらりと雨宮に目を向けてから
『なに? なんかあったの? あっ! 惚れた!?』と返した。
『違う』
『なーんだ』
 なんだってなんだよ。そう返したいのをぐっと堪えて、雨宮は昼休みに目撃したの奇行と高巻が聞き出した情報を受け渡してやる。
がなにを探してるのかが知りたいの?』
『そんな感じ』
 曖昧な受け答えだったが、ほかに答えようもない。
 三島はそれで納得してくれたようだった。
 こういうとき、深く聞こうとしてこないのはありがたい。これで勝手に妙な想像を膨らませて自己完結さえしなければ……
 さておき、次への繋ぎは付けられた。雨宮はいまだやり取りを続ける二人のところに戻って
『授業を真面目に受けよう』とだけ打ち込んでやった。

 三島の行動は迅速だった。
 また翌日になって曰く、はここ数週間事務受付口に足繁く通っては落とし物がないか訪ねているらしい。ただし、それがなにかまでは分からないとのこと。
「役に立つんだか立たないんだかわかんねーな」
 雨宮越しに報告を受けた坂本がぼやくのに、高巻が咎める声を上げる。
「わざわざ調べてきてくれたってのにそういう言い方はないでしょ」
「ハイハイ」
「はい、は一回」
「はーい」
 屋上から中庭を見下ろすが、今日はの姿は見当たらない。ふうむと唸った雨宮に、毛づくろいに勤しんでいた靴下猫が舌を出したまま問いかける。
「どーすんだ? 探してやるのか?」
「まあ……うん」
 そのつもりだと告げてやると、モルガナはいかにも呆れたとため息をつく。
「いいけどよ、こっちが優先だからな?」
 忘れるなよ。オマエらはワガハイに借りがあるんだ。
 恩着せがましい猫の言に分かっていると返して、雨宮は校門のほうに目を向けた。なんの気もない行動だったが、ちょうどの姿を見つけて少しだけ身を乗り出す。
 校門付近の花壇や植え込みのそばにしゃがんで、また手を突っ込んでいる。
「んお、じゃん。またか?」
「たぶん……あ、怒られてるっぽい」
 花壇に水をやっていた上級生が彼女の肩を叩き、こんこんとお説教をしているようだ。しかし、うなだれたと上級生はしばらく何事かを話し合って、また揃って地面に屈み込んだ。どうやら上級生は事情を聞いて彼女の探し物を手伝ってやることにしたらしい。
 雨宮は気が付かぬうちに強張っていた身体から力が抜けていくのを感じて息をつく。
「いい人だね、良かったぁ」
 同じく安堵した高巻の言葉に然りと頷いて返し、雨宮は彼女たちに背を向けた。
「でもほんと、なんだろうね」
「あんだけ熱心なら、財布とか、定期とか?」
「うんうん。とりあえず価値のあるものだよね」
 あれこれと勝手気ままな推測を並べ立てる二人を置いて、雨宮は傍らの猫に物言いたげな目線を送る。
「……頼みたいならまず先に言うことがあるだろ」
「お願いします」
 やれやれとモルガナは小さな頭を左右にふりふり、尾も振って軽やかに身を翻した。
「財布に、定期に、家の鍵? とりあえず、落ちてるもん片っ端から集めといてやる。放課後またここに来いよ」
 するり、とモルガナは給水タンクの影に消える。続けて軽い物音が響いたから、扉を介さず地上へ向かったのだろう。
 さすが猫。身の軽さは怪盗団随一か。感心しきり、少年たちは顔を見合わせた。

 そのようにして、モルガナの努力の成果は小山を作るように積み上げられた。
 一から五百までの硬貨がいくつか、錆びたシリンダーキー、ホログラム加工のシール、未開封の水風船、どこかのゲームセンターのものらしきコインにサイコロ、麻雀牌、薄い財布とボロボロのマスコット人形。
「ひーふーみー……お、小銭だけで二千くらいあんぞこれ」
「財布は……カラかぁ。ポイントカードなんかにも名前は書いてないね」
「ビックリマンシール……?」
 成果をためつすがめつ、小山を囲んで分類仕分けることしばし。
 明らかなゴミや彼女に関わりが無さそうな物を除けていくと、最後にシリンダーキーと財布、マスコット人形が残される。
「やっぱ財布じゃない? 中身は抜かれちゃってるぽいけど……んでも、ガワだけでもさ、返してあげたほうがいいよね」
「そだな。落とし物んとこ届けとけばそのうち気がつくんじゃね」
 結論を出しつつある二人を遮って、雨宮は薄汚れたマスコット人形を取り上げる。
 湿気た場所に長らく放置されていたのだろう。兎のような猫のようなそれは所々が変色して、小さなボタンの目は取れかかってしまっている。
 その不格好な耳と耳の間から、ぴょんと飛び出した一本の擦り切れた紐……雨宮はこれに見覚えがあった。小さく震える腕に抱えられたスポーツブランドのリュックサック。フロントポケットに取り付けられたキーホルダーの先にも、同じ色と材質の物がぶら下がっていなかったか?
「たぶん、あの子が探していたのはこれだ。彼女のカバンにこれと同じ紐が付いてた……」
 なるほど、と坂本と高巻は頷いて財布を床に戻した。
「よく見てんなぁ」
「そういうことなら、届けてあげよっか」
「は? お前が?」
「なによ。アンタが行くよりいいでしょ?」
 またぞろ言い合いになりそうな気配を察知して、雨宮は重大任務を終えて寛ぐ猫のしっぽを掴んだ。
「ンぎゃ」
「モルガナ、返してきてやってくれないか」
「……言うことがあんだろーが」
「お願いします」
 深々と頭を下げられて、モルガナは長く重いため息をつく。ただ彼は目の前の少年の性質に呆れはしても嫌がってはいなかった。ただの親切、思いやりによる行動だ。紳士怪盗、望むところじゃないか。
 モルガナは雨宮の手からほこりっぽいマスコット人形をくわえ取って、くぐもった声で告げてやる。
「ワガハイを使い走りにするのはこれっきりにしてくれよ?」
 返事も待たず姿を消した靴下猫に、少年たちはちょっと質のいいおやつの購入を検討し始める。
 しかし雑談は長くは続かなかった。
 重い音が響いて屋上に続く扉が開かれて、一人の女生徒が現れたのだ。
 鋭利な瞳、伸ばされた背筋。いかにも優等生然とした雰囲気の少女は素行不良の彼らを一瞥して、冷たい声で言い放った。
「屋上は立入禁止のはずだけど?」
 また面倒なことになり始めているな、とは誰もが思うことだった。

 園芸部の上級生から許しを得たは、また校門そばの茂みの下を熱心に覗き込んでいた。
 そんな彼女の姿を不審げに眺める者もいれば、くすくす笑って通り過ぎる者もいる。
 どちらもは少しも気にしていなかった。それだけ彼女にとってその探し物は重要な物なのだ。
 その訳を知る者は多くない。人に言って聞かせるような話ではなかったし、彼女の過去の恥ずかしいし記憶にもまつわることだった。
 立ち上がって膝を払い、また次の植え込みに向かう。
 多分きっと、この辺りで落としたはず。あるいは中庭か、体育館裏か、学校を出た辺りで……
 ふう、とため息とも深呼吸ともつかない呼気を漏らして手を止める。小休止と芝草の上に座り込むと、どこからか猫の鳴き声がする。
「ん……猫? どこ? にゃ〜ん?」
 きょろきょろと視線を辺りに配ると、ちょうど先ほどまで手を差し込んでいた植え込みの下から、青い瞳の靴下猫が顔を出した。
 あまり汚れておらず、首には黄色い首輪が巻かれていることから、近隣住民の飼い猫かなにかだろうか。
「わー、かわいい。おいでおいで、えっと……お菓子食べる?」
 チッチと舌を鳴らしながらポケットを探り、個包装の焼き菓子を取り出して振ってみせる。
 それに釣られたのかもともと人懐っこい性質なのか、猫はうにゃんと鳴いて彼女に歩み寄った。
「おやお前さん、なにをくわえてるんだい」
 猫は口になにかをくわえていた。もしや獲物の類かとも思ったが、どうやら無機物であるらしい。猫のような兎のようなフェルト人形……
「あ!」
 思わずと大きな声を出して、は慌てて口を手で押さえた。声に猫が驚いて逃げてしまうと思ったのだ。
 しかし、猫は構わずそこにいて、彼女の前にそっと汚れたマスコット人形を置いてみせた。
「……ありがとう……」
 ぼう然としながら、辛うじてそれだけを述べると、猫はにゃんと鳴いての腕に軽く爪を立てた。
「え、なに。イテテ……あ、お菓子食べるの?」
 個包装を剥いで小さなマドレーヌを口元に運んでやると、猫はマスコット人形の代わりと言わんばかりにそれをくわえる。
「すごい、おとぎ話みたいだ……」
 ほうと息をつくと、まるで言葉が分かるように、マドレーヌをくわえたままうにゃうにゃと鳴いてみせる。
 それは
『おとぎ話とはなにごとか。ワガハイは現実だぞ』と訴えているようだった。
「ははぁ……ええと、次に会えたら、もっと良いお礼をするね。ありがとうね」
 微笑んで、はやっと己の手に戻った人形を両手で握る。
 慈しむようなその様子は、この薄汚れてぼろぼろで、不格好な人形の大切さを教えていた。
 猫は満足げに目を細めて踵を返す。
 留まる理由はもうなかった。

……

 生徒会長殿の厳しい追及から逃れ、モルガナを回収して校門を出た雨宮は、彼から受けた任務完了の報に口元を綻ばせた。
 良かった。探し物は彼女の手に戻ったのか、と。
 結局、あの子は何故あのみすぼらしいマスコットを必死になって探していたのか、あれのなにが失って涙するほどのものだったのか、その訳は分からないままだ。
 気にならないと言えばそれは嘘になるが、これ以上立ち入って彼女の周囲をかき回すような真似は控えるべきだろう。
 なにしろ自分は札付きだ。彼女の学生生活に差し障ってはいけない。
「それでいいのか?」
 背中の鞄からモルガナがお節介をかけてくる。雨宮は度の入っていない眼鏡のブリッジを押さえて小さく首を左右に振った。
「ちょっと傘を貸しただけでそこまで恩着せがましくするのも違うだろ」
「あの子の探し物まで見つけてやったじゃないか」
「実際に見つけたのも、届けに行ったのもモルガナの手柄だ」
「まあな」
 でも、と言い募ろうとするのを雨宮は肩を竦めて鞄を揺すって阻止してやる。
 小さな悲鳴を上げた猫に笑って先を急ごうと角を曲がると、そんな話をしていたからか、が級友たちに囲まれて下校している姿があった。
 雨宮は一瞬だけ足を止める。道を変えるべきか否かで迷ったのだ
 そうしようと決めて後ろを振り返ると、先ほども見た顔―――新島真がぎょっとした顔で雨宮を見つめていた。
 つけられていたのか。尾行がバレたのか。
 お互いの顔はそれぞれそのように訴えていた。
 彼女のほうへ歩き出すわけにもいかないだろう。雨宮は苦渋を飲み込んで、楽しげなとその級友たちの群れのほうに足を向けた。
 早足に通り抜けてしまえばいい。彼女も妙なマネはしないでいてくれるだろう。
 期待とともに大股ですり抜けると、はそれに応えてみせた。雨宮の存在に気がついて声を落とした級友たちに合わせて沈黙してみせたのだ。
 それでいい。大人しくして、俺みたいなのには関わらないでくれ。
 しかし、雨宮の背のお節介焼きはそれを許してはくれなかった。
「にゃ〜ん!」
 わざとらしい猫の鳴き声を上げて、モルガナがカバンから顔を出した。
 前科者の上級生に縮こまっていた女子高生たちも、その張本人も目を見開いて動きを止めた。
「も……モルガナ、お前ってやつは……」
「だってこのカバン、臭うぜ。梅雨時は蒸れていけねーや」
 きっとこの声も女子高生たちにはうにゃうにゃとしか聞こえていないだろう。恐る恐ると横目で確認すると、まだ垢抜けないひな鳥たちは瞳を輝かせて愛らしい靴下猫の姿に魅入っている。
 そしてが声を上げた。
「その猫……先輩! あの、あのっ!?」
 雨宮は走り出した。恥もあったし、妙なことを言われてはたまらないと思ったのだ。
「あっ! なんで逃げるんですか!? 先輩! せんぱーい!」
 追いかけるのが声だけであることに安堵すべきか。しかしあの大声はいただけない。
 頼むから、黙っててくれ!
 言い返したいのをぐっとこらえて、ちらりと後ろを振り返る。
 怪訝な顔をした級友たちに囲まれたは、深々と頭を下げている。
 そして、顔を上げて、満面の笑みで、また大きな声を出した。
「ありがとうございました! やっぱり先輩は、いい人ですねっ!!」
 級友たちも、雨宮を追って角を曲がってきた新島も驚きをもって彼女を見つめているが、は余人のそんな目など気にならないようだった。
 ただ真っ直ぐな感謝の念のこもった眼差しを向けてくる。
 面映さと居心地の悪さの中にひと匙の心地よさを感じて、雨宮は無意識のうちに口元に笑みを浮かべた。
 そして振り返って、それでも足を止めないまま、言ってやる。
「誰にも言うなよ」
 声は確かにと、ついでにその級友と新島にも届いただろう。
 はまた元気よく応えた。
「はいっ! お任せください!」
 胸のすくような晴れやかさをともなった大声だった。
 彼女と彼女の涙とうす汚れたマスコットとの因果関係は、思ったより早く知る機会が訪れるのかもしれない。
 そんな予感があった。
 雨宮はまた前を向いて走り出す。背後でが級友たちにあれはなんだったのかと問い詰められている声が聞こえたが、構うことはなかった。
 好きにすればいい。いい人だと吹聴するのもしないのも彼女の自由だ。人の噂も七十五日と言うのだし、構うことはない。
 ただ彼女のような存在がいてくれる事実は、噂と違って消えはしない。それはきっと、これから大きな力になってくれるだろう。
 不思議な確信を抱いて、少年は足元の水たまりを飛び越えた。

……
 翌日から、転校生は猫使いでもあるらしいという噂が一年生を中心にまことしやかに囁かれるようになった。

 なるほどそうきたか。
 雨宮は苦笑しながら噂との厚意を受け入れた。