モイスヒェンはよすがを手繰る

 秋の風が吹き始めたころ、雨宮蓮は雑然とした街並みを眺めながら一人ぼんやりと歩いていた。
 場所は仮宿であるところのルブランからも離れた川沿いの街路だ。センチメンタルな真似をしたかったと言うよりかは、単に少しだけ疼いた里心を落ち着かせるためだった。
 郷里を遠く離れた土地にあることを今さらとやかく言うつもりはないが、それでも時おりこうして本来あるべき居場所のことを思ってひねた心地になることがある。
 こればかりはどうすることもできないものだ。おそらくきっと、いくつになっても、どれだけたくさんの友人や仲間に囲まれたとしても、故郷というものは心のどこかに引っかかり続けるのだろう。そんな予感があった。
 やっぱり彼は、センチメンタルに浸っているのだった。
「……帰るか」
 夏の暑さがすっかり和らいだ水辺の近くは少しひんやりとした空気に満ちている。薄手のジャケット一枚で来たのは失敗だった。けれどそれ以上に自己憐憫にひたるのにも飽きたのだと踵を返す。
 するとそんな彼の目に見慣れたものが映り込んで足を止めさせた。
 ―――古ぼけた橋の欄干に手を付けて川面を眺めているのは間違いない、に他ならなかった。
 特に知ろうと思ったことはなかったが、休日の夕方に私服姿でいるところを見るに、家はこの付近なのだろうか?
 雨宮はどうしようかなと思案する。先輩後輩の間柄とはいえ知らない仲ではないのだから、声をかけたってなんら不自然なことではないはずだ。けれどそうなれば好奇心の強い彼女のこと、何故雨宮がここにいるのかを知りたがるだろう。
 かといって声もかけずに立ち去るのは、なんだかひどく薄情なことのように思えた。
 というのも、が物憂げなため息をついて、いじけた眼差しで下ばかりを向いているからだ。それはさながら雨に濡れた捨て犬のような風情だった。
 雨宮が知る限り、彼女があんなふうに落ち込んでいる姿は珍しい。底など知らんと言わんばかりの明るさが彼女の取り柄だったはずだ。一年のみが参加する練習試合で見事な敗北を喫したときでさえも、彼女は楽しげにはしゃいでいたではないか。

 呼びかけた彼の脳裏にあるのはこのちょこまかと走り回る少女を初めて捕獲したときの記憶だ。
 雨に打たれてずぶ濡れになって、めそめそと泣いていた姿―――
 声をかけないわけにはいかなかった。見過ごして帰るくらいなら、傘を差し出して己こそが濡れ鼠と化すほうがよっぽどマシだ。
 果たして顔を上げたは驚きに目をいっぱいに見開いて、口も大きく開けている。
「先輩! なんでここに? すごい、もしかして超能力者なんですか?」
 そしていつもの如く、は彼を呆れさせた。
「ちょっと意味が分からない。どういうこと?」
 首を傾げた彼に、はあっと声を上げて己の口を手で塞いだ。
「なんでもないです……」
「ええ? なに」
「……ただちょっと、先輩の声が聞きた……いえ、顔が見た……話がしたいかなーって思ってたところだったんで、こう、テレパシー? みたいな……」
 なるほどと納得してみせて、雨宮は彼女に歩み寄って欄干にひじを置いた。その口元は曰く『ニヤッ』とした笑みが乗せられ、目は企みを湛えて細められている。
「実は言ってなかったけど、そうなんだ」
「えっ」
「人の心が、読める」
「ええっ!」
「読んでみせようか」
「えええっ!?」
 瞠目して後退ったは顔を青くしたり赤くしたりと忙しい。手をバタバタと振り回してはどうしようどうしようと目を白黒させている。
 青と赤、黒と白に染まる少女の姿に、こらえ切れなくなって雨宮は吹き出した。
「ぷっ、くく……っ、信じるなよ……」
「しし信じてませんよ! そこまでバカじゃないです!」
「はいはい……」
 目尻に滲んだ涙を拭って呼吸を整える彼に、は思いきり顔をしかめた。
「ただの偶然。残念だったな」
「なんにも残念じゃないですから。はあ……」
 ため息をついたは再び欄干に取り付いて、物憂げな表情に戻ってしまった。
 冗談で気を紛らわせる作戦は効果が薄かったか。雨宮はどうしたものかなと彼女の視線の先を追う。
 穏やかな川の流れに水草が揺れている。その合間にチラチラと見える動くものは魚かそれとも虫か、あるいはカエルかザリガニだろうか。
 考えているうちにの視線は水面ではなく彼の横顔に移っていた。
「先輩、おうちこの辺なんですか?」
「全然」
「ですか。じゃあなにか近くにご用が?」
「そんなとこ」
「ふーん……」
 彼にとって幸いなことに、はその用事がなにかとは追求しなかった。
 この女の子は本当に、学業の成績という意味を引けば賢いと表して差し障りない人物だ。単に野生の勘とでもいうものが働いているだけかもしれないが、他人が秘しておきたいことこそを敏感に察知して目を逸らしてくれる。
 雨宮はそれに甘えている自覚があった。忠義者の賢いハムスターを都合よく扱っているという自覚が。
 だから、本来なら、もっと彼女に優しくすべきなのだ。落ち込んでいるのなら手を差し伸べて、TLCを実践すべきだと。
 だからといってそうそう最適解など見つかりようはずもない。どうしたものかと悩む彼の内心など預かり知らぬ少女は、ついと手を上げて彼の背後、民家や個人商店らしき店舗が立ち並ぶ向こうのマンションを指し示した。
「うちはあそこです。ホラホラ、あそこ、あのマンション」
「ふーん」
「うわー、興味なさそう」
「ないもん」
「意地悪ですねぇ……」
「親切だろ」
「どこがですか」
 言っては口を尖らせる。
 彼にはその不満顔に『お前のことで悩んでるんだ』と打ち明けることもできたが、しかしささやかで巨大なプライドがそれを阻んだ。
「声をかけてやっただろ」
 代わりに憎まれ口を叩いてやれば、案の定は潰れたカエルのような声を上げてだらしなく欄干に身を預けた。
「そんなのいつものことじゃないですかぁ」
 確かに、その通りだ。こうやって声をかけることは珍しくもない。それこそ学校外であれば人目を気にする必要がないのだから、見かければ必ずと言っていいほど接触を図っている。
 それは、単に彼にとってこの女の子が話しやすい相手であるというだけのことだ。
 そのはずだった。
 ただ今このときは少しばかり事情が違っている。何はなくとも天下太平にして快然、ごきげんな様子で走り回っている彼女がいささかばかりにでも落ち込んだ様子を垣間見せたのだ。なんとかしてやりたいと思うのはごく自然なことだろう。
「―――なにかあった?」
 このように問いかけることもまた。
 は再び瞠目し、後退った。
「先輩、やっぱり人の心が読めるんですか?」
「読めなくても分かる。お前がため息つくなんて、天変地異の前触れだ」
「ひどい!」
「それで?」
 追及には渋い顔をみせる。手をすり合わせてうつむき、落ち着きなくつま先を鳴らしもした。
「そんな、先輩のお手を煩わせるようなことじゃ」
 拒絶の言葉まで出てきたことに、雨宮は何故だかわからないが釈然とした気持ちを抱いた。
 この少女に頼りにされないということが、彼のささやかで巨大なプライドをひどく刺激したのだ。
 低く押し殺した声で彼は恫喝した。
「泣くぞ」
「ええっ!?」
「ご近所中に響き渡る大声で二番目でいいから捨てないでって泣き叫ぶぞ」
 この上なく情けない嘘八百と迷惑極まりない文言に、は慌てた様子で彼に縋り付いた。やめてくれと意思を込めて。
「脅し文句がひどい! そんなことされたら生きるのが辛くなっちゃうじゃないですか!」
 そして当然というべきか、彼は意図して『ニヤッ』と笑ってその手が服にシワをつける前に振り払う―――
「待つわ。五秒だけな。いーち、にーい……」
「わあっ、わああっ、やめて下さいよ!」
 降参を示すために腹こそ見せなかったが、しかし両腕を上げて、は彼の脅しに屈服した。

 そう大して長い話でもなかった。
 ただ、家に『兄』がいて、この時間はすこし居辛いとのこと。
 けれどそれだけではないことは明らかだった。わけを語る言葉の節々に、言い表しようのない悔悟の念が感じられたのだ。
「そのお兄さんとなにかあったのか?」
 指摘してやると、はいよいよ本当に心を読まれているのではないかと訝しみはじめたが、やがて諦めとともに口を開いた。
「兄とはずーっと喧嘩してる……というか、謝れてなくて、それでなんとなく。顔を合わせ辛いんです」
「謝ればいいんじゃないか?」
「……できません。そんな簡単に、言葉でごめんなさいして終わる話じゃないんです。そもそもお兄ちゃんは聞いてもくれないし……」
 ―――曰く、この少女は十年前、八つ年上の兄とひどく言い争ったことがあるらしい。
 内容自体は他愛のない、聞いている身としては微笑ましい以上の感想が出てこないような内容だった。
 テレビで見かけた手芸番組の内容を真似して、が家にあったフェルトと綿、針と糸を用いて小さなマスコットを自作した。それはひどく不格好で、誰が見たって失笑してしまうような出来だった。
 それでも彼女にとっては生まれて初めての手芸作品だったから、笑い転げて馬鹿にする兄に大変に腹を立てて家を飛び出した。
 外は折しも季節柄の台風が押し寄せていて、強い雨風に手にしていた傘はあっという間に駄目になった。
 家に帰れば意地悪なことを言った兄がいて、こんな天気の中外出して傘を壊したことを母や父に叱られるかもと思うと、は辛うじて雨の避けられる商店のひさしの下にうずくまって、一人でめそめそと泣きはじめた。
 するとそこに兄が追いついて、家に帰れと怒った様子で言ってくる。どうやら彼は彼で、妹を傷つけたことをすでに両親から咎められていたらしい。お前を連れて帰らないとオレが怒られるんだと訴えた彼に、は強く反発した。
『おにーちゃんのバカ!』
 罵り言葉とともに握りしめていた不格好なマスコットを投げつけもした。ネコのような、ウサギのようなそれは、兄の顔面に当たると強風に煽られてふわりと宙を舞った。
 そして、兄はその風に飛ばされるマスコットを追いかけた。橋の欄干に身を乗り出して、危ういところでそれを捕まえて―――
「兄は、それきり……」
 暗く沈んだ様子で言い淀むの姿に、雨宮は息を呑む。
「まさか、死んだのか」
「なんてこと言うんですか!? 生きてますよ! といいますか、家にいるってさっき言いましたよね!?」
「そうだった」
 続きを促そうと視線を傍らのに向けると、雨宮の視界には通りの向こうからやって来る一人の人物が映り込んだ。
 その人は車椅子に乗っていて、段差に少しばかり苦労している様子だった。
 手を貸すべきかもしれない、そう思って話の中断を求めようとしたが、こそが彼の服の袖を引っ張った。
 なんだ、どうした。
 問いかけるより早く車椅子の男が声をかけた。
? なにしてるんだ?」
 そこでやっと雨宮はこの人がとどことなく似た顔立ちをしていることと、両の脚が腿の途中と膝で途切れていることに気がついて息を呑んだ。
 親しげにと呼んだ、どことなく似た顔の男―――
「……お兄ちゃん」
 考えるまでもない。あの人が件の兄なのだろう。
 得心して、雨宮は背筋を伸ばした。年上だからとか、友人の家族だからという理由からの他に、先までの話の顛末をすっかり理解してしまったからだ。
 おそらく、大雨によって増水した川に転落した彼は、命こそ失わずに済んだものの、その両足を失ったのだろう。
 しくじった。それは簡単にごめんなさいをして終わる話ではない。十年近くも兄妹喧嘩が続いているという話にも納得がいった。
 しかしそれにしては、兄のほうに険悪な雰囲気はない様子だ。人の良さそうな顔をにこにことさせて、今も妹とその隣の見知らぬ少年になんの不便もなさそうな様子で近寄ってくる。
「あ、あの、お兄ちゃん、もう家に帰るから……」
 はそれを押し止めようとしているのか、雨宮の前に立ち塞がるように前へ出る。
「ん? うん、えーと……」
 果たして兄はそこで車輪を止め、困ったような視線を少年に送った。
 彼は慎重に腰を折って頭を下げた。
「雨宮です。さんと同じ秀尽学園に通っています」
「あっ、そうなんだ。一年?」
「いえ、二年です」
「そっか、じゃあ先輩だね。こいつがいつも世話になってます」
 とんでもない。世話になっているのはこちらのほうです。こいつのおかげで、校内もずいぶん過ごしやすくなりました―――
 そう返そうとしたが、の大声がこれを遮った。
「お兄ちゃん! 恥ずかしいからやめて!」
「恥ずかしいってなんだよ」
 不満げに口を尖らせた男は、しかし目元を優しげに緩ませている。
「と、とにかく、もう帰るから……だから、お兄ちゃんも行くとこあるなら行きなよ……」
「わかったよ」
 項垂れて吐き出された言葉に兄は苦笑しながら進みはじめた。それを見つめるの瞳には明らかな悔恨が揺れている。
 後ろ手に回された手は、雨宮の袖を掴んで握りしめてもいた。
 それも、兄の姿がすっかり遠ざかると緊張とともに放されて、は再び橋の欄干に手を付ける。
「ああいう次第です」
 もう語らなくとも分かるだろうと言いたげに吐き出された台詞に、雨宮は頷くほかない。
 これはどうやら、本当に骨が折れそうだ、と思いもする。
 だからといって手放す気などもはや毛頭なかった。先にもの兄に言おうとした通り、快適な日常生活の一端を作り出してくれた彼女に報わずなにが義賊か。
 雨宮はうつむくのつむじを軽く叩いて顔を上げさせた。
「そのマスコットって、お前がいつも鞄につけてたやつか」
「あ……はい。よく憶えてますね、さすが先輩」
 そりゃそうだ。あれを見つけるために猫に頭まで下げたんだぞ。
 とは言わずに肩をすくめて濁してみせる。
 また彼は深く納得して、つい今しがた己が叩いたつむじを慈しむように優しく撫でてもやった。
「うわわ……なんです先輩。あー、ボサボサになる」
「よーしよしよし」
「うへー」
 癖のない少し日に焼けた髪をかき混ぜると、甘い花の香りが広がる。は嫌がってむずかったが、手から逃れようとまではしなかった。
「そういえば、あれってネコ? ウサギ?」
 しかしこの質問にはまなじりを釣り上げる。
「先輩まで! ネズミですよ!! どこからどう見てもハムスターじゃないですか!?」
「ぶふっ」
 氷結系のスキルではなく、彼が吹き出した音だった。
 どこからどうみてもなどと彼女は言うが、しかしあれはどう見たってネコとウサギを半分にして縫い合わせたようなものにしか見えないではないか。
 喉を鳴らしてぶるぶると震える彼の姿には手を振り上げた。
「先輩っ! 笑い過ぎです!」
「ご、ごめ……くっ……うくくっ……お前ほんと不器用……」
「ぬあーっ! もーっ!」
 小さな手が雨宮の肩や腕をバシバシと叩いたが、しかし天下の大怪盗にその程度の打撃が通用しようはずもなく、彼女はいたずらに体力を消耗する結果となった。
「はあ……」
 ため息をついて離れようとするのを雨宮は再び手をやって引き留める。
「よーしよーし、いい子だいい子だ」
 完全に芸を成功させた犬かなにかに対する手つきと態度だったが、先より縮まった距離にか、はかすかに顔を赤らめてうつむいてしまう。
「うう……優しくしないで下さいよ。なんか泣きそう……」
「ブラッシングは飼い主の義務だ」
「誰が飼い主ですか、誰が……」
「よしよし」
「ううう……」
 赤ん坊をあやすように優しく肩や腕を叩いてやると、はぐにゃぐにゃになって手すりに身を預けた。その目は夕日とそれを反射する川面のきらめきを映してキラキラと輝いている。
 懺悔する囚人のような色がすっかり消えたことを確信して、雨宮も倣って隣に肘を着けた。
 冷たい秋の風が川の水にますます冷やされて二人の足元から体温を奪うようにすり抜けていく。
 それでも雨宮が帰ろうと思わなかったのは、恩や義理がなくたってこの女の子のことを気に入っているからだ。できればもう少しくらいは一緒にいたかった。
 もっと言えば、たった一年、されど一年こちらのほうが歳上なのだから、アテにしてほしいという気持ちもある。傘を貸し与えた恩はすでに充分過ぎるほど返してもらっていて、おつりに利子がついて積み重なるほどなのだ、もうそんなことは忘れて頼りにしてほしい。
 そんな彼の思いが通じたのか、はポツポツとその胸中を明らかにしはじめる。
「わたしだって、できるのなら謝りたいです。でも兄は怒ってない……というか、あの身体のことも一つも気にしてなくて」
「そうなのか?」
「ん」
 首を傾げると、はポケットからスマートフォンを取り出して彼の眼前に突き付けた。
 そこには先の兄らしき男がスポーツ用の車椅子に跨って、バスケットボールを手に誇らしげな顔をしている姿が映し出されていた。
「あ、車椅子バスケ? のお兄さん、選手なの?」
 チッチッとは口を鳴らして指を振る。読みが甘いなと言わんばかりのその態度にいささか眉をひそめつつ答えを待つと、彼女はまた別の写真―――試合中なのか、複数の選手に囲まれるなか天に向かって腕を伸ばす男の姿。視線の先にはゴールポストがあって、汗に光る腕とその間には美しい放物線を描くボールが浮いている―――を表示させた。
「兄は全国大会優勝経験もあるチームの一軍選手です」
 誇らしげなに胸を張ったに、流石の雨宮も目を見開いた。
「ガチのやつだ」
「ですよ!」
 ふんっと鼻を鳴らして我がことのようにふんぞり返るその姿は誇らしげだが、しかし次の瞬間には口を開けられた風船のようにしぼんで頭を抱え込む。
「だから余計に……ああ〜……っ」
 その変わり身の早さに雨宮派顔を逸した。笑い顔を見られてはまた殴られると思ったのだ。
 とはいえ事態の深刻さは彼も充分承知している。うーむと唸った彼に、はどこか遠い目をしてさらなる情報を寄越した。
「ちなみにお兄ちゃんには美人の彼女もいまぁす……」
「ひええ勝ち組だぁ……」
 今のところそのような関係の相手を持たない二人の間にはどんよりとした空気が流れ込む。それは川面を渡る冷たいが爽やかな風にもなかなか消えてはくれなかった。
 そのせいか、箸置きにとは問いかける。
「先輩、カナとその後どーなってるんですか」
 カナ、というのはの同級生で、同じバスケ部に所属する女生徒のことだ。雨宮に好意を抱いているとのことで、少し前にを通じて紹介されたのだが―――
 雨宮はかすかに首を振った。
「なにもないけど」
「なんで? だめですか? かわいいじゃないですか。性格もいい子ですよ?」
 確かに、雨宮の知る限りカナという少女は明るく朗らかで、理知的な一面も併せ持つ才媛だ。顔立ちもまだ少しあか抜けないが、少し待てばかなりの美人になるだろうと期待を抱かせる容貌をしている。
 しかしやはり、雨宮は首を振る。
「いやなんか、一回誘われて一緒に出掛けたけど……反応が……」
「えーっ」
「なんでだろう……やっぱり俺がモテてるってお前の勘違いじゃないのか?」
「そんなぁ、先輩はかっこいいですよ。眼鏡が悪いんじゃないですか?」
 はしっこさが自慢のだ。彼女はすばやく腕を伸ばして雨宮の顔を隠す伊達眼鏡を奪い取った。
「あっこら返せ」
 怪盗が身に着けているものを盗まれるとは情けない―――
 度が入っていなくとも突然広がった視界に、雨宮は顔をしかめる。
 するとはその目つきの悪さにか、顔を引きつらせた。
「うわ……」
「おい」
「すいません」
「ふん」
 引ったくるようにして取り返した眼鏡を装着して一息、雨宮はじっとりとした視線を足元の小動物に向ける。
「いやまあ……先輩はかっこいいですよ、うん」
 ごまかすような物言いに、雨宮はぎりりと歯を噛み鳴らした。
「ちくしょうめ」
 閑話休題。
 二人はそろそろ集合住宅や一軒家の向こうに隠れつつある夕日を眺めてしばらくの間沈黙した。
 それは心地の良い静けさだった。足元からは川のせせらぎと、どこからか水鳥の鳴き声。民家からはかすかな人のざわめきに、生活音が重なって響いてくる。
 人で溢れた現代において、完全な静寂は珍しい。よほどの山奥にでもこもればあるいはと思うが、雨宮には今この程度のざわめきこそが心地よかった。故郷の夕方の姿に似ているからだ。
 けれどもう彼の胸に郷愁が湧き上がることはなかった。
 隣に少女が一人いるということは、ただそれだけで彼を半人前以上に仕立ててくれている。
「うん……」
 誰にともなく頷いて、雨宮はまた隣の小柄だがそのぶん俊敏で、瞬発力はあるが持久力には乏しいものの頭を撫でた。指に絡む毛髪の感触は、まるで毛足の長い猫の毛のように柔らかかった。
 ―――たぶん、この少女とその兄は、血の繋がった兄妹であるくせに、だからこそ気をつかい合って、互いに互いを牽制しあっている。
 妹は自分のせいで兄がと思い、兄はそんな妹を思いやって無かったことのように振る舞っている。あるいはさっさと傷を忘れて、かつては脚があった事実をなかったことにしたいのかもしれない。
 そうなれば妹は兄の思いやりを、心を守るための努力を無碍にしないためにも、口を閉ざす他ない。
 けれど、どちらの立場にしてもそう簡単に忘れられるような経験ではないだろう。
 お前のせいじゃないとも言えず、ごめんなさいとも言えず、結果二人はぎこちない兄妹関係を十年近くも続けてきた。
 優しいが、しかし決定的なすれ違いによって二人は心が離れてしまっている―――
 そうとも、心だ。
「それなら、俺の領分だな」
 つぶやいて手を離すと、はすっかり乱された髪をなんとかしようと懸命に毛づくろいに取り掛かる。
 雨宮は彼女いわく『ニヤッ』とした笑みを浮かべて問いかけた。
―――だよな、名前」
「え? はい」
「お兄さんは?」
「総一朗です」
「ふーん」
 興味のないふうを装って頷く彼に、は怪訝そうな顔で首を傾げた。
「なんですか、急に。領分ってどういう意味ですか」
「別に」
 答える気はないとそっけなく返して、雨宮は欄干に着けていた肘を伸ばして彼女に正対する。
 夕日は彼の背後、この辺りでもひときわ高いマンションの後ろにちょうど隠れるところだった。
 逆光を浴びた彼の表情は窺い知ることができない。
「なあ、
 また彼は妙に親しげに名前で呼んでくるから、は少しだけ脚をにじらせた。
「な……なんですか……」
 なんだか少し、怖いなと彼女は思う。
 出会ったばかりのころ、この一つ上の先輩が怖い人だと聞かされていたころの心地を胸に返して、震え上がる。
 しかし―――
「心配するな、なんとかしてやる」
 与えられたのはこころのこもった優しい声と言葉だった。
 伸ばされた手はまた、せっかくどうにか整えた前髪をくしゃくしゃにする。
「意味わかんないですってば……」
 は額と前髪を押さえて、不思議な安心感に顔をほころばせた。

……
 果てしなく続くメメントス―――人々の無意識の集合体が物質的な形を得て顕現した迷宮は、地下鉄を思わせる様相に不気味さを上塗りして怪盗たちを迎え入れている。
 ほのかな人工光に照らし出された線路の上を、車に変じたモルガナと、それに搭乗する少年たちが進んでいた。
 ナビの導くままにハンドルを切るジョーカーから今回の依頼―――別にがどうにかしてくれと言ったわけではないが、依頼という形で伝えた情報に、怪盗団の面々は物憂げに顔をしかめている。
 それは皆少なからず、の存在を見知っているからだ。なんとかしてやりたいという気持ちは、その大小に関わらず一致している。
 モルガナカーはやがてメメントスの一角にたどり着き、ひときわ濃い闇に覆われたところの手前で彼らは降車する。
 気合を入れて突き進んだ先には、こちらに背を向けてうつむくの姿があった。それは彼女そのものではなく、彼女の影である。心の奥底に隠された、彼女の歪んだ精神の一部とも言えた。

 呼びかけるが、彼女はふり返らない。
「その声……先輩……?」
「そんな感じ」
 曖昧に答えた彼にパンサーが呆れた視線を向ける。そこはそうだって答えてあげなよと忠告もしたが、これは聞き流された。
「ほっといてください。先輩がなにかしようとしてくれるのは、ありがたいとは思いますけど、でも、これはきょうだいの問題なんです」
「十年も行き詰まってるくせに」
 背中を向けた小さなシルエットがピクリと震えた。
 当然、彼はこれを挑発のつもりで述べている。
「がっかりさせないでくれ。お前はその程度のやつだったのか?」
「……るさい……」
「俺には生意気な口をきくくせに、兄貴の前じゃ借りてきた猫みたいにしてるのか」
「うるさい……っ」
「そんな頭もよくないんだから、考えるだけ無駄だろ」
 流石に言い過ぎ、とスカルやフォックス、クイーンらの手が彼を押し止めようとしたときだった。
 うめき声を上げていたのシャドウが、比喩表現として爆発した。
「うううぅぅ……うるさぁい! ほっといてって言ってるんだからほっといて下さいよっ! あっち行って!!」
 吠えるなり少女の小柄な肉体がますます小さく縮こまり、奇妙なことに質量以下に収縮する。
 そしてそれは見る間に手のひらほどの球体に変じたかと思った瞬間、シャボン玉が弾けるように消失してしまった。
「んっ、なんだ、消えちまったぞ!?」
 驚愕するモナ同様、仲間たちも困った様子で辺りを見回している。
 その最奥でナビが鋭く天井を指し示した。
「上からくるぞっ! 気を付け―――」
 ろ、という発音に轟音が被さった。
 衝撃とともに土埃が舞い上がり、怪盗たちの視界を塞ぐ。
 その向こうから、キャリキャリという奇妙な金属音が響いた。
「ンだ、この音……」
 もうもうと立ち込める土埃を睨みつけたスカルは、しかし次の瞬間そこから進み出たものを目撃して言葉を失う―――
 その背後から興奮した声が早口にまくしたてる。
「だっ、第二次世界大戦末期っ! ポルシェ社によってたった二台のみ試作製造されたガソリンエンジンと電動モーター駆動のハイブリッド式エンジンとその重量を支える専用の新式サスペンション搭載の超重戦車! その最大装甲厚はなんと二百四十ミリ! 重量はなんとなんと約百九十トン!あまりの重さにたいていの橋梁を渡ることができず、じゃあ川底を進めばいいやとかいう狂気の発想から完全防水まで施された! 最大走行速度時速二十二キロ! 最小旋回半径約十五メートル! あまりの機動力の低さに開発の断念された悲劇のモイスヒェン! 正式名称は―――」
 当然それはナビの声だった。
 受けてジョーカーもまた嬉しそうにパチンと指を鳴らしてみせた。
「その名はドイツ語でハツカネズミを意味する『マウス』! 解ってるじゃないか! やっぱりドイツ戦車が最高だよな!」
「まうまう〜」
 奇妙な鳴き声を上げたナビの横で、豹と狐と猫が仮面の下の表情を不服そうに歪めている。
「V号戦車は?」
「FV721は?」
「む……M18……」
 各々のコードネームや見た目に関連する車両の名を上げた彼らに、スカルは冷たい一瞥をくれてやってから長物を担ぎ上げる。
「ねぇよそんなもん。オラさっさとやんぞ、まずは足からか?」
「ああ、ウルフパックだ。連携して叩くぞ」
「そのあとはほっぺな。他はまず通んないからよーく狙えよー」
 おうと応えて、怪盗たちは各々の武器やペルソナを従えて立ち向かう―――
 ガァンという重く甲高い轟音がメメントスの回廊に打ち響いた。
「リコシェーイ! 撃つな撃つな! 跳弾するっ!」
「あら、まあ、ごめんなさい」
 ナビの悲鳴に、音を響かせた張本人であるところのノワールがおっとりと困り顔をしてみせる。その横ではクイーンが同じく装甲に弾かれた核熱の余波に焼き切られたケーブルの類を睨みつけて唸っている。
「厄介ね……ほんとに厚くて攻撃がろくに通らない」
 舌打ちをして拳を打ち鳴らした彼女の一歩手前に、砂利を蹴立ててスカルとフォックスが着地した。
 二人の視線の前では砲塔を旋回させ、どことなく困ったような動きを見せるマウスが鎮座している。その脚―――戦車の特徴とも言える無限軌道、その中でもさらに特徴的な大きさを誇るキャタピラがめくれて床にだらりと伸びている。
「履帯を切って足は止めたが……トーチカ化しただけだな」
 やれやれと刀を鞘に収めた長身の影にパンサーが足を乗せる。
「正面から弾が出てくる穴狙う、とか……?」
 彼らは身動きのできなくなったマウスの背後、全周旋回式砲塔の俯仰角外に集いつつあった。
 パンサーが言うのは、つまりその主砲の真正面から銃撃を行えということだろう。無理難題にスカルは思い切り顔をしかめた。
「誰がやんだよ、誰が」
 すると彼の背後に、機銃の掃射をかわしてスカート型の装甲を走り抜けたジョーカーが着地して合流する。
 彼はいつもの調子で、しかし額の汗を拭いつつ友人の背を押した。
「行け、スカル。カミカゼだ」
「俺ぇ!? その前に腹に風穴あけられそうですけど!?」
 見るに、マウスの主砲は五十五口径十二.八センチ戦車砲のようだ。そこから吐き出される徹甲弾の初速は秒速一キロ弱。まともに喰らえば人の身体など風穴があく前に砕け散るだろう。
 もちろんこれはジョーカー流の冗談だったし、モナやクイーンなどははなから相手にするのは時間の無駄と装甲の薄い下方からの攻撃の算段を話し合っている。
 しかしこれを冗談と受け止めずに挙手する者がいる。
「わ、私がやりましょうかっ!?」
 ……やる気満々のノワールを押し留めるのには苦労がいった。
 対策を講じる一同から離れて俯仰角外からガンガンと震える子ねずみを叩き回るのはフォックスである。
 そもネズミ狩りはキツネの得意とするところだが、しかしこうも分厚くてはどこから手を付けたものか。彼は己の二倍近くもある全高を見上げて隙間を探した。
 あるにはあるが、刃が通るかと言われれば、ナビやジョーカーの口ぶりからして認知の差に負けそうだ。他の手段を講じたほうが懸命だろう。
 振り回される主砲の影に沿って動き続けることしばし、やがて彼は身動きを封じられてトーチカと化した鉄の塊の様子がおかしいことに気がついた。
 やかましく唸りを上げるエンジンと砲塔の旋回音が妙に落ち着いているように思えたのだ。
「なんだ―――?」
 フォックスが首を傾げるころには、ジョーカーたちもこの変化に感づいていた。
 彼らの視線の先で、巨大な子ねずみは不思議な変化を見せはじめる―――

……
 ―――実際のところ。
 は『カナ』がどうしてダメだったのかをよく理解している。
 というのも、その理由を本人から直接聞かされているからだ。
 曰く―――
「いやムリ。ダメっぽい。なんかさ、眼中にないって感じ。だってさ、二人でいたんだよ? たくさん喋ったよ? でもさ、その内容がさ―――」
 『カナ』はどことなく恨みがましげな目をに向けていた。
「ぜんぶアンタのことなんだもん。教室でなにしてるのかとか、仲いい男子いるのかとか、休みの日とか放課後どんなふうかとか……そんなのばっか訊いてくるんだよ。もーっ!」
 牛のような鳴き声を上げながら肩や背を叩いてきた友人の手の感触と、次の瞬間にはもう意地悪そうな笑みを浮かべてまとわりついてきたときの記憶もはっきりとしている。
「ねえねえアンタはどーなの? 雨宮先輩ってどう思う? ていうかなんで仲良くなったのー?」
 知りたがる友人を身から剥がすのには多大な労力を支払った。
 どう思うか、なんて言われても、そんなのは今になってもよくわからない。
 なんで仲良くなったのかと言われれば……
 傘を差し出されたからだとしか、答えようがない。
 それはただの親切心だ。極めて平凡な、しかし最も難しい行いこそが、二人を繋ぐよすがであると、はよく理解していた。
 あの雨の日―――
 そうとも、雨だ。
 雨が降るといつも憂鬱になる。増水して荒れ狂う川面に兄が落ちてあっという間に流されていったときのことを思い出すからだ。
 救急車と消防と、警察のパトカーのランプとサイレン、両親の震える声に、近所の人たちのざわめき……そして救出された兄の無残な姿と、それでも決して放されなかった手の中のマスコット人形。
 それら心に深く刻まれた傷を彼女は押し隠す必要があった。そのための重石があの不格好なフェルトと綿の塊だ。
 あれがある限り、自分はなんてことない顔をして兄と接することができる。口を閉ざしてなにも見なかったことにできる。
 でも……
 歪であることも解っていた。兄と自分がふつうのきょうだいでないことは、誰が見たって明らかだろう。ぎこちなく、お互いに目を合わさず、それなのに精一杯よくある年の離れたきょうだいを演じている。
 現実、家族なんてものはそういうものなのかもしれない。血の繋がりというものの上にあぐらをかいて、本音を語り合うこともなく漫然とした繋がりを持ち続けるもの。
 しかし、現実の現在、の前には一枚のポストカードが置かれている。
 昨晩夢うつつの中から猫の鳴き声に引きずり出された彼女は、見覚えのある黒猫からこれを押し付けられたのだ。
 赤と黒で構成された紙面には、己の名とともに、仮面をつけたトップハットが記されている。
 差出人には薄々感づいていた。そもそも郵便配達員の務めを果たした猫は彼の飼い猫―――猫じゃねーし飼われてねーし! という幻聴が聞こえた気がした―――だ。
 は立ち上がり、そしてその『予告状』を破り捨てた。
 彼女はそれを受け取るわけにはいかなかった。
 家族の間も、友だちの間も、先輩後輩の間にも、そこに横たわるよすがに甘えているような姿を、あの人に知られたのだとしても、これ以上見せ続けるわけにはいかなかった。
 何故なら、彼女は『カナ』からあの人の話を聞かされたとき、密かな喜びに打ち震えたのだ。友人に対する罪悪感の影で、あの人が、この見た目も中身も優れた友人のことより、己のことを知りたがったという事実に、浅ましくも確かな喜びを感じ取った。
 この上卑怯でこずるい真似をして、失望されるのも、自分自身に嫌悪感を募らせるのもごめんだった。
 なにもかも黙っているなんて、そんなのは自分らしくないとも思えた。
 ずっと胸の奥底で燻っていた兄への罪悪感と、それを無かったことにされる怒りと痛みも、なにもかも―――
 ぜんぶ口にして、スッキリしなければ『次にしたいこと』に踏み出せないではないか。
 は立ち上がって、部屋を出るとすぐ隣の兄の部屋の扉をノックした。
「お、お兄ちゃん! 話が、あるんだけど―――!」

 ―――隣近所の住民が不審に思って訪ねてくるまで、このきょうだいは両親の制止も意にかけず怒鳴り合い続けた。

……
 一夜明けた休日、雨宮は眠い目をこすりつつ、休みの日だというのに秀尽学園の校門をくぐって体育館に足を運んでいた。
 そこはすでに威勢のいいかけ声と床をこするシューズの音、ボールが跳ねる音に満ち溢れている。
 体育館を全面貸し切って、片側では二年が、もう片側では一年が、他校のバスケットボール部を招いて練習試合を行っていた。
 開放された扉からそれを覗いて、雨宮はすぐにコートの中をはしっこく駆け回るの姿を見つけ出しては安堵の息をつく。
 前日の放課後、メメントスで発見した彼女の心の小さな傷は、途中で戦いを放棄して、姿を消してしまっていたからだ。
 もとの通りの人の姿で、
『こんなの先輩がたのお手を煩わせるようなことじゃない』と言い捨てて。
 余計なお世話だったのか。それともなにかをしくじったのか。案じて雨宮は予定にない見学に駆けつけたという次第だった。
 しかしどうやら、事は前者であったらしい。
 己の他に見学に来たらしい保護者の姿を見つけて、雨宮は目を細めた。
「お、えーと……あめみやくん」
 歩み寄った少年の名を堂々と間違えたのは総一朗だ。彼は苦笑しながら「雨宮です」と訂正してやった。
「ごめん……なんか人の名前を憶えるのって苦手で……」
「いえ」
 気にしてませんと返しつつ、どうやら粗忽ぶりは兄妹に共通するところであるらしいと雨宮は深く納得した。
 その兄の額には、大きな絆創膏が貼られている。
「どうしたんですか、それ」
 素知らぬ顔で問いかける視線の先、汗だくになってボールを追いかける妹のほうも、あちこちにすり傷をつくっていた。
「あー……ゆうべとケンカしちゃって……」
「あらまあ」
「今までそんなのしたこともなかったのにね。急に……色々言わなきゃと思ったら、なんだか止まらなくなって」
「ありますよね、そういうこと」
「そうなのかな。……とはずっとそういうのなかったから。いや、ずっと小さいころはあったんだけど……」
 ピーッとホイッスルが鳴らされて加点を知らせた。コートの周りは歓声と嘆息に包まれる。
 兄はおざなりな拍手をしながら、淡々と語り続けた。
「冷戦みたいな状況だったんだよね。お互いに気を遣ってるつもりで、牽制しあってるだけだったんだろうな」
 おそらくは聞かせるつもりもないのだろう。彼の言葉は反響する声や音にほとんど紛れて聞き取れなかった。
 雨宮はなにも言わず、半ば失われた足を擦る彼の手を見つめている。するとその視線に気がついたのか、兄はすぐに手を上げ、ひらひらと振ってはごまかすようにふざけた声を上げた。 
「ヘラヘラ笑うのやめろ! 気持ち悪い! なんて言われちゃったよ」
「あいつそういうところありますよね。人の笑い方にケチつける」
「そうなんだ?」
 再びホイッスルが鳴り響く。こちらはどうやら向こうのコートからのようだ。
 二人の男はしばらく沈黙して一年の試合に集中した。雨宮はともかく、総一朗のほうは全国大会を勝ち抜く実力を有した同スポーツ選手だ。その瞳には真剣な輝きが宿っていた。
 やがて試合終了を告げる笛が体育館中に響いて、中央に整列した選手らは挨拶を交わし合う。二年のほうは秀尽学園側が勝利を収めたようだが、一年は惜敗に終わった。
 まだまだ一年のほうは実力が足りていないらしい。このありさまではこの後の控える新人戦もどうなることやら。
 重苦しいため息をついた二人のもとに、脳天気な顔をしたがバタバタと駆け寄った。
「あっ! 先輩! と、お兄ちゃん。二人してなにニヤニヤしてるの」
「俺はついでかー」
「ほらケチつけたー」
「なんですか急に」
 怪訝そうな顔をするに肩をすくめて、男二人は苦笑し合った。

 総一朗は自分の練習もあると言って早々に立ち去り、も片付けとミーティングがあるとすぐに戻っていった。
 一人取り残された雨宮もまた学び舎を出たが、しかし今からどこかへ出かける気にもなれず、ねぐらに引き返しては一時的な保護者であるところの佐倉惣治郎の手伝いに勤しむこととした。
 猫は猫でどうやら縄張りの確認―――と惣治郎には認識されている―――に出かけたらしく、近ごろはすっかり喫茶店の店員も板に付き始めた彼に、惣治郎までもが本を片手に仕事を任せきりとなった。
 大して人のくる店ではないから文句もないが、それでいいのかという指摘は聞き流された。
「お前、最近どうなんだ」
「なにがですか」
「学校、とか……?」
「とかってなんですか曖昧な。普通ですよ、ふつう」
「それも曖昧な返しだわな。ったく、ほんと可愛げのねぇ」
「こっちの台詞ですよ」
「オッサンが可愛くてどーすんだよ」
 益体もないおしゃべりはよく続いたが、雨宮の淹れたコーヒーに対する寸評は辛かった。百点中四十点。雨宮はカウンターに突っ伏して足をバタつかせた。
 そんな店にが姿を現したのは、惣治郎目当ての客が帰ったころになってからだった。
 日はすっかり落ちて、外は少し肌寒い風が吹き付けているからだろう、ドアベルを鳴らして飛び込んできた彼女の頬はいくらか赤らんでいた。
「わっ、ほんとにいるっ」
 入るなり失礼な言葉を吐いた彼女に惣治郎は不思議そうな顔をしてみせるが、それも一瞬のことだった。
 秀尽学園の制服の上に学校指定のジャージを羽織った姿に、明らかに雨宮を指した言葉だ。彼の知り合いであることは惣治郎でなくたって察せられるだろう。
「よくここが分かったな」
「高巻先輩と喜多川先輩が教えてくれたんです。先輩が居ても居なくてもコーヒーは美味しいから、行って損することはないよって」
「あの二人か……」
 呻くようにつぶやいた雨宮の脳裏には、二人の姿が思い描かれている。
 高巻はどうやらこの小型軽量級後輩を気に入ってちょくちょくつついて遊んでいるようだから、さもありなん。しかし喜多川とは、その性質上ひどく相性が悪いはずだ―――
 いつの間にか和平交渉が済まされていたらしい。あるいはなにか後ろ暗い取引が交わされたか。
 一先ずきょろきょろと店内を見回しては物珍しげに瞳を輝かせる小動物をカウンター越しに手招いて座らせる。
 すると惣治郎が雨宮の頭を丸めた新聞紙で軽く叩いた。
「あいて」
「痛くもねぇだろ。俺はちょっと出るから、店任せたぜ」
「ええ……」
 不満顔をしてはみせるものの、気を遣ってくれていることは察せられるから、雨宮は分かりましたと頷く他ない。
 惣治郎はには丁寧に「ゆっくりしていきな」と告げてはエプロンを雨宮に押し付けて出ていってしまった。
 軽やかなドアベルの音とともに置き去りにされた二人は、しばらくぼう然とドアを見つめていた。
 しかしやがて我を取り戻したが口を開く。
「ここが先輩のアジトですか」
「マスターはさっきの人。俺はただの……タダ働き」
「労基に駆け込みます?」
「いらない。そのうち店ごと奪う予定だから」
 これはその一歩、と言って、雨宮は四十点をに差し出した。
「おごりですね?」
「おごるとは言ってない」
「いただきまーす」
「聞けよ」
 息を吹きかけてから口をつけ、はムッと眉を寄せた。その手のカップがゆっくりとソーサーの上に戻されると、神経質な高音が静かな店内に響きわたる―――
「泥水ですか」
「えっ……?」
「抽出に時間をかけ過ぎです。せっかくの香ばしい匂いが煮詰まっちゃって台無しになってる」
「ひっ、お前なに、なんだその特技……」
「ふふん」
 どや、と顎を上げた後輩の新たに判明した意外な一面におののきつつ、雨宮は惣治郎が淹れたほうのコーヒーを差し出した。
「ふむ……淹れてから時間が経ってますね。再加熱したでしょう。それでもさっきのより断然こっちのほうが……」
「うわあ、なんだお前、神の舌でも持ってるのか」
「なんですかそれ」
「ちょっと待ってろ、もう一杯、渾身のやつを淹れてやる」
「やたっ」
 ……渾身の、などとは言ったが、の評価は変わらなかった。
 これはもっと惣治郎に教えを乞わねばならないか―――
 落ち込む少年をよそに、はすっかり冷めてぬるくなった惣治郎のコーヒーをすすりながら本題を切り出した。
「先輩、猫ちゃん使うのやめてくださいよ」
「なんの話だ」
「おとというちに猫ちゃん寄越したでしょう」
「なんのことやら」
 空とぼけた雨宮に、の冷たい視線が突き刺さる。
「学校内とここからうちまでじゃ距離が違いすぎますよ。かわいそうじゃないですか」
「なにを言ってるのかよくわからないな」
「せんぱーい」
 カウンター越しに投げて寄越された物が雨宮の顔面を襲った。それはネコのようなウサギのような、しかししてその正体はハムスターであると主張されるマスコット人形だ。
 鼻筋を転がって床に落ちそうになるこれを、雨宮は器用に空中ですくい上げてやる。
「それを届けてくれたときとは違うって言ってるんです」
 雨宮は肩をすくめた。やはりなんのことだか分からないなと意思を込めて。
 はため息をついてカップを置き、じっと彼の手の中の人形に視線を定める。
「それ、必要なくなっちゃいました」
 感慨深げな声だ。嬉しそうにも、悲しそうにも、寂しそうにも感じられる。
 いずれもが籠められているのだろうと雨宮は知っている。
「よかったな」
 お役御免となった人形にこそ囁きかけるように吐かれた声は穏やかで、暖かみに満ちている。
 は確信して息を呑んだ。
「先輩、やっぱり―――」
「人の心なら、読めないよ」
 返す声もまたやわらかだ。がなにを言わんとしようとしているのか、それを理解しつつもやんわりとかわすくせに、見つめ返す瞳は生まれたばかりのまだ毛も生え揃わない哺乳類を見るかのような慈しみに溢れている。
 それらに少女は、まるで全能の神を相手取るかのような感覚に陥りさえする。どう足掻いても敵いようのない、敵意どころか警戒すら抱かれない相手を前にして、悔しそうに唇を噛む。
「でも、領分って言いました」
 それでも食い下がってみせると、「なんのこと?」ととぼけられてしまう。
 はしょんぼりとして、肩を落として背中を丸めた。試合を含めた一日分の疲労とゆうべの兄妹喧嘩の寝不足がその身には伸し掛かっていた。
「先輩、あなたは……」
 なにより敬愛する相手に隠し事をされているというのは、この上なく悲しいことだ。その秘密を責め立てるつもりなんて毛頭ないのに、それを解ってもらえないということは、これまでの日々の積み重ねになんの意義も無かったと言われているも同然だ。
 これも頼りないよすがの上にあぐらをかいてきたツケが回ってきたのか。心を入れ替えるには遅かったのだろうか―――
 雨宮はちょっと慌てた様子で身を乗り出して言った。
「ごめん、冗談。お前の言いたいことであってるよ」
 見ればは涙こそ滲んでいないものの、ほとんど泣き出す直前のような顔になってしまっている。
「うぐぐ……せんぱいひどい……わたしすっごい真面目に……」
「ごめんなさい。あ、泣くな泣くな。ほら、コーヒーもっと飲む?」
「いりません……不味くはないですけど美味しくもないです……」
「その評価に俺が泣きそうだ……」
 二人は揃ってカウンターに額を押し当てて突っ伏した。
 そろそろ戻ろうかと店の前に立った惣治郎がガラス越しにそんな二人の姿を目撃して踵を返したことにも、彼らは気が付かなかった。
 そのようにして惣治郎が戻らず、また客が来ないのをいいことに二人はだらしなく脱力しきって腕や足を放り出した。
「先輩……」
「なに」
「わたし、通信講座で空手習ってて……」
「忍者はどうした」
「免許皆伝されました」
「そうか……」
「あと、最近は持久力つけるトレーニングもはじめて」
「ふうん」
「ええと、一年の大半の人とは話したことあります。二年三年の先輩方とも運動部繋がりならそこそこ」
「コミュ強だな」
「あとはえーと、うーんと……」
「頑張れ」
「それだ。がんばれーって先輩のこと応援できますよ」
「頼もしいな」
「ですよね?」
 顎を上げて、は雨宮のその、ちょっと目つきの悪い、しかし好ましく思える瞳をじっと見つめた。
「わたし、お役に立てますか?」
 見下ろす彼の目には一生懸命になって背伸びをして、こちらに向かって手を伸ばす子ねずみの姿が映っている。
 もちろん、彼は彼女が人間で、一つしか年の変わらない女の子だと理解している。その上であえてそう見えるように意識しているというだけだ。
 自意識過剰と思われたくないという打算もあった。
 それも結局は杞憂に過ぎない。は黒々とした瞳に期待をきらめかせて彼を促している。
 ため息とともに彼は言った。
「もちろん。はいつも、俺を助けてくれてるよ」
 そう答えるように誘導されている自覚はあったが、それはそれで小気味の良いことだと雨宮は思う。
 子ねずみめ、知恵をつけたなとも。
 天下の大怪盗は、手繰り寄せられることの心地よさにほくそ笑んだ。