Keep your hopes up!

 坂本竜司は目をぱちくりとさせながら薄暗い屋根裏部屋を見回していた。
 すっかり冬の寒さを忘れてそろそろ半袖になってもいいかなと思える五月、ゴールデンウィークのころ、彼は親友の『連休中そっちに遊びに行くから、十時に屋根裏集合』という招集に応じてここへ馳せ参じたところだった。
 時刻はちょうどぴったり十時。他でもないこの男が来いと言うのだ、そこには自分以外の怪盗団の面々がすでに集っているだろうと彼は思っていた。
 時間に厳しい新島真に、こういうところはキッチリしている高巻杏、再会を切望していた奥村春に、そもそも徒歩数分のところに住まう佐倉双葉。少なからず女子メンバーは十時前にはもう揃っているだろうと踏んでいたのだ。
 しかしどうしてか、しばらく無人になっていたせいか掃除をしていても埃っぽい屋根裏部屋には、懐かしい親友殿が一人仁王立ちして腕を組み、階段から顔を覗かせる坂本を睨み付けている姿しかない。
「あれ? 他の連中は?」
 彼の胸中には嫌な予感があったが、しかし久方ぶりの再会が警戒心を薄れさせた。
 ちょうどひと月ぶりの邂逅だ。いつもずっと眼鏡をかけている顔ばかりを見ていたからか、こうやって素顔で、少し前髪を切ったらしくはっきりと表情が窺えるのがなんだか新鮮だった。
 ぎこちなく笑ってみせた坂本に、しかし少年は重々しく口を開いた。
「裏切り者……」
 一条の光も差さない水底を這い回る生き物のような声だった。言葉はまた外敵に襲われたナマコが吐き出すキュビエ器官のように坂本を絡め取る。
 現実として、物質的法則に従った腕が彼を背後から羽交い締めにもした。
「うおっ!?」
「捕獲完了した。どうするリーダー」
 背後から響く低い声は嫌というほど聞き覚えがある。ふり返るまでもなく自分を捕らえているのが喜多川祐介であると察して、しかしバランスの悪い階段上で暴れるわけにもいかないと坂本は目を皿のように見開いて硬直するに留まった。
「連れてこい」
「了解。あっ、重……」
 呻きながらもずるりと少年の足元に引き立てられた坂本は、どうしてこんなことになったのか理由が分からずただただ呆然とするしかない。
 出来の悪い弟子に教えを施す師のように優しく彼は言った。
「なあ竜司……どうして俺たちだけなのか解るか?」
「え……わかんない……」
 なんで? と素直に首を傾げる彼に、少年どころか背後の喜多川までもが舌打ちをした。
「マジなんなのお前ら。コエーよ」
「だまらっしゃいこの裏切り者」
「そうだ、貴様に発言権は無い」
「いや訊いてきたのお前らだろ。なに言ってんだほんと」
 フンと鼻を鳴らして、少年はポケットからスマートフォンを取り出すと手早く指先を画面上に滑らせてからこれを坂本の鼻先に突きつけた。
 彼は絶句する。
 なにしろそこには一組の男女……と坂本がはにかんだ笑みを浮かべて寄り添う姿があったのだ。
「申し開きはあるか?」
「……その……」
「なんだ」
「ま……」
「まー?」
「まだ手しかつないでません……」
 二人は爆発した。
「まだ!? 手しか!? 充分だコラァ! この……竜司……バーカ!」
「覚悟を決める時間くらいはやろう、いちにいさん、いいか? いいな!」
 いきり立って襲いかからんとする少年たちを、しかし坂本は持ち前のフィジカルと直感によって退けた。
 掴みかかろうと伸ばされた腕を下から払い、勢いの乗った足はまた大外刈りの要領で踏み込んで裏からすくい上げる。
 もう一方の長身は身を屈めて膝を叩いてやるだけでいい。
 二人はひと呼吸の間に折り重なって屋根裏の床の上に転がった。
 ドシンと大きな音と振動が響いたことで階下の店主にどやしつけられるやもと思ったが、しかしひと月ぶりの再会ということでお目こぼしいただけたのだろう、店舗部分からは猫の鳴き声が聞こえただけだった。
「いきなりテンションたっけーよ! なんなんだよお前ら!」
「わああ竜司がいじめるうぅ!」
「くっ、俺たちは敗北者だ……!」
 折り重なってくずおれる二人に、坂本は憐みの視線を送った。
「つーかお前らもあんだろなんか、そういう……そういう感じのなんか」
 少年たちは額を床にこすりつけて答える。
「ないよ。そもそもそんな、ほんとにカノジョとか、なんかちょっと怖いじゃん……やだ……」
「俺にだって失敗を恐れる心はある。知っているか? 豊かな感受性は時として仇になるんだ」
「意味わかんねぇこと言ってんじゃねーよ。乙女か」
 やれやれと肩を落としつつ起き上がるのに手を貸してやると、二人はその場にあぐらをかいてじっとりとした視線をまた坂本に向けた。
「とりあえずいつそんなことになったのか教えろ」
「そうだな。教えてくれ竜司先生」
「心がこもってねーんだよ心がさ……」
 それでも坂本は口を開いた。
 本音を言えば、誰かに話をしたくて仕方がなかったのだ。さりとて陸上部の連中に聞かせればまた殴られかねないし、怪盗団の女子部に語ればからかいのタネにされるだけだろう。母親に言って聞かせるにはちょっと……
 そうなると坂本に残された選択肢はこの二人だけだ。
 なにしろ二人には恩もある。
 を助けることができたのは怪盗団という存在が足場を固めて背を押してくれたからなのだと、彼はよく理解していた。

 さて、そも二人がただの幼馴染から少し先に進むことができた一連の出来事は、半年ほど話を遡る。
 片割れであるところのにまつわるトラブルを解決してやった直後……坂本は彼女に二人で遊びに行かないかと誘いをかけた。それは昔のようにという意味でもあったし、子供のころとはまったく違う意味が籠められてもいた。
 そしてはその意味を承知した上でこれを快諾し、二人は日時と場所を決めて約束の日を待った―――
 けれどその約束の日、坂本はその場所に向かうことができなかった。それは彼にとっても不本意なことだった。
 同じころ、怪盗団の最大の危機を掻い潜るため頭目がその身を囮として差し出したのだ。友だちの危機に浮かれたお出かけなんて真似は、坂本にはちょっとできなかった。彼女を少しでも危険から遠ざけたいという意図も少しはあったかもしれない。
 それでも、決行の期日が予め知れたのは不幸中の幸いだったろう。
 約束の日の一週間も前に断りの連絡を入れて、坂本はあーあと肩を落とした。せっかく誘いをうけてもらえたのに、きっとこれでもう次はないだろうな、と。
 けれどはこう返した。
『じゃあ別の日にする? 予定合わせるよ』
 それは福音のごとく坂本を喜ばせ、少しの期待を抱かせもした。
 一方で落ち込みもする。
 そのころの怪盗団を取り巻く状況は切迫していて、明日の予定さえも軽々に言い切ることができなかったのだ。そうでなくたって、己に居場所と心の置き所を与えてくれた親友からの誘いとあればそれは憎からず思う相手よりも優先されるものだったから、なかなか都合はつかなかった。
 坂本にとっては不思議なことに、はこれを寛大に許した。
 手伝ってあげられないのが口惜しいとは言えど、彼女はじっと、かつてそうであったように辛抱強くこの少年を見守った。
 そしてそれはやはりよく少年の力になった。褒めてもらおうだとか、認めてもらおうだとか、いささかの下心が無いわけではなかったが、彼を純粋に後押しした。
 友の力になってやろうという彼の心意気は、後顧の憂いが消えて存分に発揮された。
 そのようにして、いつしか不思議な冒険―――あるいは綱渡りの日々は終わりを迎えた。
 夢のような物語の終わり、坂本は仲間たちとともに屋根裏部屋の暫定的主である少年を彼の地元まで送り届け……
 親友と物質的な距離を隔てることとなった彼は日常に物足りなさを感じてすっかり腑抜けきった。そしてもうあの冒険も綱渡りも無くなってしまったのかと呆ける彼に喝を入れたのは、やはりであった。
『竜司くん、いや……またりゅうちゃんって呼んだほうがいいかな? そのお友達に今の姿を見せるつもり?』
 お小言を頂戴して、坂本は昔のことを思い返した。なんだかまるで、本当に小さな子供のころに戻ったような感覚だった。
 であれば彼のすることは決まっている。
 かつてそうであったように、この人の手を頼らず、己の力で歩き方を学ばねばならない―――
 単に少しだらけていただけの坂本はすぐに調子を取り戻した。日課のロードワークに加えて本格的なトレーニングとリハビリを再開し、遠ざかっていた部活のほうにも顔を覗かせたりもした。
 そしてやっぱりがそれを褒め称えるから―――彼は約束のことを思い出した。

 そうして、やっと、二人で出かけることができたのが、親友のはずの少年が差し出した明らかに盗撮らしい画像の一件だ。
 とはいえ取り立ててどこかへ張り切って出たわけでもない。二人はただ、家の近所を散歩したというだけだ。
 ……一匹の古馴染みをともにして。

 それは十歳のオスのアナグマ犬で、チビと呼ばれる家の忠実な老番犬であった。
 坂本にとっても馴染みある面長顔だ。しばらく顔を合わせていなかったが、それでも老犬は坂本が手綱を握ると『小僧、久しぶりであるな』と言わんばかりに舌を垂らした。
 相変わらず態度のでけえ犬だな。
 思えど、人間の年齢に換算すればよっぽど歳上なのだから、仕方のないことかもしれない。そのように自分を納得させて、坂本は後ろをふり返った。
 家の玄関先、門扉の前にいた彼からは、ポーチの先の開かれた扉、そのむこうの三和土の上で靴を履いているの姿がよく見える。
 フレアスリーブのブラウスにスキニーパンツと、いかにもラフな格好のは手にチビと散歩しているときよく見かける鞄を抱えていた。おそらく、あの中にスコップだとか袋だとか、水だとかが入れられているのだろう。
 坂本は足元で行儀よく主人を待つチビの垂れた耳に屈んで手を伸ばした。
『なんだ小僧。わしの耳に興味があるのか』
 ……とは言ってないだろうが、しかしチビは不思議そうな目をして彼をちらりと窺った。
 単に手持ち無沙汰なだけではあったが、それ以上に落ち着きを取り戻すためでもあった。
 こんなふうに犬の散歩に付き合うなんてことは、実に六年ぶりのことであった。中学に上がるころになると、近所のおねーさんと一緒に歩いてるなんて姿をうっかり見られてしまうとからかいの対象になってしまうからだ。
 なんとなく疎遠になってしまったのもそのころかなと思い返して、坂本はチビの両耳を弄んだ。老犬は嫌がるでもなく彼の自己嫌悪を誤魔化す手遊びを受け入れてやった。
 ―――本当なら、もっとどこか、少し足を伸ばして遊びに行きたかった、というのが坂本の本音だ。犬の散歩なんて、こんなのいかにもご近所さんがすることじゃないか、と。
 そうとも、この少年にとってという女性はとっくにただのご近所さんで、姉のような幼馴染ではなくなっていた。
 それはあの一件で今まで知らなかった彼女の一面を知ったからだとか、去年一年を通して経験した綱渡りで、なんてことない日常のありがたみを知ったからとか、その非日常をともに駆け抜けた連中がどうなのどうなったのとせっついてきたからだとか、そもそも思い返してみればあんなに親切にしてもらったひとに好意を抱くのは当然のことじゃないかとか……
 理由はいろいろ思い当たるが、ただ手近なところに手を伸ばしたというわけでないことは明らかだった。
「お待たせ、行こ」
 気がつけば背後にが立って、微笑んでいる。
 坂本は慌てて立ち上がって背筋を伸ばした。
「おう……じゃなくて、はい」
「なにそれ? ほら、チビも行くよー」
 先に立って歩きはじめた彼女に、チビは千切れんばかりに尾を振って媚びた鳴き声を上げた。
「それにしても……」
 歩き出してほどなく、はふと感慨深くつぶやいてまじまじ手綱を持つ彼を眺めてみせた。
「なに?」
 なんともなしにその視線に居心地の悪さを感じて身を捩った彼には苦笑する。
「もう三年生かぁって」
「あー……」
 学年のことを言われているのかと合点して、坂本は曖昧に頷いた。
「今年でええと……」
「じゅーはち」
「そうかぁ、大きくなったねぇ」
 近所のオバサンみたいなこと言うなよ。と返そうとして、坂本は口をつぐんだ。オバサンはともかくご近所さんであることは、彼がどれだけ脱却したがっていても事実なのだ。
 それに彼女が言いたいこともわかっていた。
 最後に一緒にこうしてチビと歩いたのはもう六年も前だ。そのころからの差異を彼女もまた実感しているのだろう。
 でもきっとそれは自分とはちょっと意味が違うんだろうな、と坂本は少しだけ拗ねたような心地になる。
 自分は心の有り様の変化―――この女性のことが好きだと意識するようになったところを感じているけれど、きっと彼女のほうは身体の大きさだとか、それに伴う歩幅だとか、見た目のことを感じているだけだろう。
「そりゃデカくもなるだろ。いろいろ……変わるもんなんだからさ」
 悔し紛れに言ってやると、はその通りだと頷いてみせる。
 どうしたらこのひとに、『異性』として意識してもらえるんだろう。子供扱いはごめんだし、ご近所さんで幼馴染の姉弟のようなものも不満だった。
 そもそも、シチュエーションが悪い。中止になったほうの約束のままであれば、家から離れてアミューズメント施設に向かうはずだったのに―――
 近所をぶらつくだけになったのは単純に直近の予定が双方ともにつけられなかったというだけだ。は午後から大学になにか手続きをしに行かねばならないらしく、坂本のほうも陸上部の連中に誘われて来年度からまた指導にあたってくれるコーチの元に挨拶に向かう予定だ。
 来週も再来週も、土日はバイトや地区予選で埋まっている。
 それは多分良いことなのだろう。一年前に比べたらずっと前向きに過ごすことができるのだから。
「そうだね。時間が経つのって早いもんね」
 朗らかに坂本の発言を肯定したにまた坂本は唇を尖らせる。
 だってその早く過ぎる時間の中には、あの憎たらしい親友も、口やかましいクソ猫も、そしてこのひともいないかもしれないのだ。
 親友と猫はそれでも一年経てば戻ると約束したし、なんならちょくちょく遊びに行くとも約束してくれたから不安は無いが、このひとに関してはどうだろう。
 そう思うと、年の差というものが少年の双肩に重くのしかかる。
 学府の差は即ち共有できる時間の差だ。人間関係もまたがらりと変わる。
 あの一件で離れていた分の距離以上に近づけたと思ったけれど、もともとの距離が自分の想像以上に離れていたんだ―――
 『一方的な』不安に背が丸まりそうになるのを引き止めるものがあった。
 それは足元で振られるチビの尾でも、暖かく降り注ぐ春の日差しでもなければ、いつの間にか住宅街を抜けた先の遊歩道でもなかった。もちろん、涼しげな風に心地よいざわめきを響かせる木立でも。
 いつの間にか坂本の左手にの手が重ねられていた。
 己のものとはまったく違うやわらかくすべやかな感触に彼が驚くのと同時に、は少しだけ困ったように笑ってみせる。
「早く大人になってね」
 ぎゅっ、と触れた手に力がこめられて、坂本は心臓を跳ね上げさせた。また彼はの細い指先がなにかを確かめるように手の甲を撫でたことに背筋を駆け上がるものを覚えて呼吸を止める。
「そうしたら……」
 細められた瞳は木陰の中にあってなお光を取り込んできらきらと輝いている。
 坂本はどうにかして息を吸いながら、言葉の続きを促した。
「そ、そしたら……?」
 気がつけば二人は足を止めていた。足元ではチビが不満げにそんな二人を見上げている。
 は静かにまぶたを閉ざして呼気をつき、かすかに首を左右に振った。それは話すことはできないと訴えている。
「え、え、なに? なんだよ。気になるだろ」
「だめだよ、内緒。大人になれば分かることだから我慢しようね」
「えーっ!」
 大げさに落胆と驚きを示した彼に、は朗らかな笑い声を上げた。
「あ、チビが早くって急かしてる」
「えー、えー……なにもう、気になるじゃん……」
「ほら行こ」
 繋がれたままの手と手綱を引かれて、坂本は歩みを再開させる。
 こうして手を引かれていると、また彼は子どものころの気持ちに返ってしまいそうになる。そしてそれこそが拗ねた心地を引き寄せるのだが―――
 隣を歩く女の髪が歩調に合わせて揺れる姿を見つめながら、彼はふと思い立っての手を握り返した。
 途端、女の華奢な肩が震えてわずかに縮こまる。
「姉ちゃん、あのさ……」
 首だけを巡らせてふり返った彼女の頬はかすかに赤くなっていた。
「あの、今さらだけどさ、もう姉ちゃんって呼ぶの恥ずかしいから……」
「う、うん」
「だからさ、あのさ」
「うん―――」
 の瞳は期待にきらめいている。
「……さんって呼んでいい?」
 そして彼女は落胆に肩を落としてため息をついた。
「ほんとに……早く大人になってね……」
「えっ!? なにがっ!? ダメってこと!?」
 女のため息と言葉の意味を計りかねて慌てふためく少年の姿に、はますます失望の意思を示した。
 ―――とはいえ、そこには期待が籠められている。早く大人にと述べる以上、彼女はこの少年がいつかは大人になるのだと確信している。
 それはただ歳を経るという意味ではなく、人として精神的に成熟するということだ。
 いつかは彼も知るだろう、と。

 年老いた犬の歩調に合わせてゆっくりと遊歩道を一巡した二人は、昼前には家の前に戻ってきていた。
 そのままじゃあねと別れることが惜しくて、坂本は雑談によって彼女とチビを引き止めている。
「―――そんで、うまくいったってわけよ」
「それで今日、挨拶に行くんだね」
「そ。つっても俺はオマケみたいなもんだけどな。来いってうるさく言われたから……」
「でもそれが嬉しいんでしょ?」
「ン……まあ、ちょっとは……」
「ほらね」
 ちょっと意地悪な笑い方をして、は老犬を抱き上げる。細長い犬の身体を器用に抱える彼女の姿に、坂本はあっと気がついて頭をかいた。
 チビはもう老いた身だ。アナグマ犬……つまりダックスフントはその性質上関節系の病気や不調を抱えやすい。当然それは加齢とともに割合を強めていく。
 だから、そろそろ休ませてやったほうがいいのだろう。今日の散歩だって、もしかしたら老いた身には少し長すぎたかもしれない。
 それなのにチビは嬉しそうに瞳を潤ませて尾を振り、坂本をじっと見つめている―――
 少年の手がまた老犬の垂れた耳に伸びる。
「……今日はありがとな、チビ。また連れてってくれよ」
 耳の下、首輪の巻かれた首の横を優しく撫でてやると、老いた細長い犬は言葉の意味も、その裏に隠された気持ちもすっかり理解しているかのように鳴いた。
 それはあたかも、
『よいよい、わかっておるよ。ご主人を好いておるのじゃろ。わしでよければいくらでも手助けしちゃろ』とでも言っているかのようだった。
 苦笑して手を引いて、坂本は背筋を伸ばす。
さんも。また犬の散歩でもいいけどさ、次はもーちょっと……予定つけて、あー……」
 その声は少し掠れている。緊張がそうさせているのだとは彼自身もよく理解していた。
「もう行けなくなっちまった、なんてことないからさ」
 これには苦笑する。そんなことはわざわざ言われなくとも分かるようなことだったからだ。
 だからなのか、彼女はその先のことを示唆して返す。
「期待していい?」
「いいよ。だから、絶対」
 その『だから』はどこにかかっているのやら。は喉を鳴らしてはにかんだ。
「楽しみにしてるね」
 なんとも受け身な発言だったが、坂本にはそれが心地よかった。自分に決定権を委ねてくれているというのは彼を大人として認められたような気にさせる。
 坂本は感嘆の息をついて、それから照れくささにかぶりを振り、彼女に視線を定めたまま一歩後退った。
「じゃ、また」
「うん。またね」
 はチビの前足をとってバイバイと振ってみせる。老犬の少し困ったような顔がおかしくて、笑いながら彼は踵を返して自宅へ戻った―――

……
 話を傾聴し終えた少年は、嘲りのこもった笑みとともに鼻を鳴らした。
「なーんだ、付き合ってないんじゃないか。杏のやつ、早とちりしやがって」
 この屋根裏部屋に坂本を迎え入れたときの剣呑な様子はどこへやら。朗らかに笑って両腕を広げ、まとわついて蹴り離されている。
 それでも彼はまだ笑みを湛えて、
「よかった竜司はまだこっち側の人間だったんだな」などと言ってはなかなか階下に姿を現さない彼らを心配して上がってきたモルガナを振り回している。
「ンぎゃーっ! やめやめや……目が回るぅ!」
 その長い尾の先端、白い部分がとっくに話に飽きて一人でDVDを再生させていた喜多川の後頭部を叩いた。
「あいてっ……なにをするんだ! いっときも大人しくしておれんのかお前たちは!」
「ワガハイは被害者だろぉが……ああぁん、ふにゃふにゃ……」
 どうにか抱える腕から逃れて床に戻ったモルガナの足元は覚束ない。ヨタヨタと歩く彼をみかねて、坂本は小さな体を寝台の上に横たえてやる。
「おええ……ありがとリュージぃ……」
「んー」
 珍しく素直に礼を言った猫に曖昧な返事をして、坂本は元居た椅子に戻ってやれやれと息をついた。
 古ぼけたブラウン管テレビからは彼にとっては眠気を誘うような穏やかな音楽と、どこかの画家が描いたらしい巨大な塔の姿とその解説が延々垂れ流されている。どうやらなにかの番組の録画らしいが、坂本は一ミリも興味を引かれなかった。
 するとそれを察知したのか、喜多川が今度は彼に胡乱な目を向ける。
「……それで?」
 しかしその口は別の情報を求めているらしい。
「あ? なにが?」
「どうだったんだ? 具体的な情報を頼む」
「だから?」
 喜多川は彼の前に両手を差し出して問いかけた。
さんの手だ」
 これに猫を振り回すのに自身も目を回していた少年が勢いを取り戻して立ち上がり、再び坂本にまとわりついてくる。
「やーらかかった!?」
 坂本は三度、彼を引きはがして床の上に放り投げた。
 ……たぶん、これはこれで、この少年なりの再会の喜びの表し方なのだろう。いささか鬱陶しいが、坂本にしたって嬉しそうにする友人の様子を見れるのは喜ばしい。追撃のストンピングを遠慮する程度には。
 それから彼は、記憶の中の女の手の感触を確かめるように手を握っては開いてを繰り返してから答えた。
「あー……まあ、なんつうの? こう……」
「こう」
「やわらかかった……」
「マジかぁ……どれくらい? 俺たちでいったらどのへん?」
「ええ……? どこだろ。えー?」
 少年たちはおもむろにそれぞれ己の身体のやわらかい部分を求めてまさぐりはじめた。異様な光景ではあったが、モルガナにはもうそれを指摘してやれるだけの気力は無かった。
 やがて己の頬をつまんでいた喜多川が、なにかを思い出したかのように息をのみ、極めて真剣そうな様子でつぶやきをもらす―――
「……二の腕の内側のやわらかさは、胸と同じだと聞く……」
 三人は揃って己の袖口から手を突っ込んでそこをつまんだが、帰ってきたのは硬い筋の感触だけだった。
「そらそうだよな。胸と同じって、そいつの胸だよな……」
「女子の二の腕ならば……頼み込めば……?」
「無理だろうな。たいていの女子ってこのへんのぷに感を求めると怒り狂うだろ……」
 がっかりと肩を落とした彼らであったが、しかし諦めは悪かった。
「……似たような話、俺も聞いたことがある」
 言ったのは彼らを率いる頭目たる少年だった。その瞳には決して揺らがない彼の正義と決意を示す永遠の炎のような輝きがあった。なにもこんなときに発揮すべきものではないだろう。
 彼は己の腕を仲間たちの前に差し出し、真剣な様子で語る。
「この、腕の」
「お、おう……」
 倣って二人は袖をまくって窓から差し込む光のもとにさらけ出す。
「皮というか肉というか、これをつまむだろ」
「うむ」
 三人の少年の指がそれぞれ己の腕の皮膚と肉をつまんだ。引っ張られて盛り上がったそこを目で示して彼は言う。
「これが、人の唇と同じ感触らしい」
「ほう。それは……興味深い……」
「お前さ、そういうのどこで誰に聞くん?」
「よしいくぞ。俺の雄姿をその眼によく焼き付けとけ」
 坂本の疑問の声をよそに、彼は果敢に己の腕に唇を寄せた。
 しばしの沈黙……
 やがて顔を上げた彼は複雑な顔をして視線を二人に戻す。
「っべーわこれ、これは、っべーよ……」
「えっ、ヤバいの!?」
「どうヤバいというんだ……!?」
「いいから。お前らもやってみたらわかる。これは……ヤバい」
 真剣なその表情に促されて二人もまた己の腕に顔を寄せる―――なるほど確かにやわらかな感触がそこには返された。けど、じゃあこれが唇の感触かと言われると、彼らはそもそもキスなんてしたことがなかったから、それが正解かどうかは分からなかった。
 難しい顔で眉を寄せる坂本と喜多川をよそに、カシャッとどこか間の抜けたシャッター音が響いた。
「バカ二人」
 怪訝な顔を上げた二人の前にはスマートフォンを掲げてしたり顔をした少年がいる。
 坂本と喜多川は素早く立ち上がると示し合わせたわけでもないのに呼吸を合わせて彼を床に引き倒し、坂本が右、喜多川が左の足を掴んで股を裂いた。目にも止まらぬ華麗なツープラトンであった。
「いっ……たぁ! なにをするんだ!」
「このクソ野郎。久しぶりに会えて即行で俺らで遊ぶんじゃねーよ」
「……よし、消去完了だ。どうする、竜司」
「再会のあいさつ代わりに仕返しいっとく?」
「いいだろう。次はなんだ?」
「久しぶりだからなー……優しいのでいくかぁ」
「ふっ、お前は相変わらず甘い男だな」
「言ってろよ」
 どこか皮肉っぽい笑みを交わす彼らに、少年は痛む股を押さえて後退った。
「祐介! 裏切ったな!?」
「俺は俺の味方だ」
「だとよ。残念だったな?」
「こ、この……ただでやられると思うなよ! 来い、モルガナ! スーパーリンクだ!」
「えー、ワガハイ巻き込まれたくないんだが……」

 ―――ぎゃあぎゃあと騒ぐ少年たちは、しかし知らないでいる。
 坂本がすっかり姿を消したあとも、が名残惜しげにその場に佇んで、己の飼い犬、四本足の家族の一員に項垂れながら語りかけたことを。
「チビ、どうしよう、このままじゃ青少年保護育成条例に引っかかっちゃうよ。免責のための証拠とか集めておいたほうがいいのかな。竜司くんのお母さんと仲良くしておくとか……」
 腕の中の老犬は困ったようにくーんと鳴いたが、彼がなにを訴えているのかは、悲しいかな飼い主であるには伝わらなかった。
 結局のところ、少年のほうが抱いている不安は彼女にしても同じことだ。
 けれど年若い少年のほうは―――だってまだ世間的に見れば充分若い部類だが―――まだまだ己のことで手いっぱいで、相手も同じ立場であると、場合によっては彼女のほうが責任という点で多くの悩みを抱えているのだと想像が及ばない。
「はあー……」
 重苦しいため息も漏れようというものだ。
 けれどそればかりではないから、は落ち着かない鼓動と熱をもった頬もそのままに門扉のむこう―――少年の姿が消えた住家の外壁に視線を投げた。そこに彼の姿を見ることは叶わなかったが、それでも女は苦笑する。
 期待していいかと問いかけて、彼は何一つ気負わずいいよと答えたが、さて。
 いつかは彼も知るだろう。それがどういう意味なのか。自分がいかに相手に気を持たせるような口を叩いたのかと。
「き……期待していいんだよね……?」
 姿の見えない少年に向かって投げかけられた囁きに、チビはこっくりと首を縦に振った。
 然り。それで構いませんぞ、ご主人、と。
 腕の中の老犬だけが二人の想いを知って、もどかしげに短い手足を振り回した。