人魚姫はふり返らない
例えば言葉をおぼえ始めたばかりの子供は、時折『前世』での出来事を詳細に語るらしい。
私はそのようなものだった。
前世―――つまり、生まれてから一度死んで、もう一度生まれてきてからの記憶がきっちりと備わっている。
物心がついたときからそれは当たり前のように存在していたから、そのこと自体に違和感や恐怖を覚えることはなかった。両親もまた私のこの特性を『そういうこともあるだろう』と受け入れてくれたから、私の人生に問題なんて何一つとして存在しなかった。
ただ一つ、ある事実に気がついてしまうまでは。
それに気がついたのは七歳のときだった。
カレンダーを見て、あれ、と思った。そこには西暦2007年とあって、これは奇妙なことだった。
何故なら私が以前死んだとき、西暦は2010年をとっくに過ぎていたからだ。
ということはつまり、私は生まれ変わる際に過去へと遡ってきてしまったのか?
疑問は十一歳のときに確信に置き換わった。三月十一日のことだった。
それから、ことあるごとに考えるようになる。
少なからず私は先のことを知っている。知っているのに黙っているのは、いいことなのか? と。
タイムトラベルに禁止事項はたくさんあるけれど、私は時間を移動したわけではないはずだから、干渉や介入は許されるんじゃないのか? もしかしたら、私がなにか、一言声をかけるだけで防げることがあるんじゃないの?
それを見過ごして、黙っているのは良いことなのか? 悪いことなのか?
そのようにして惑う私の前に、さらなる衝撃の事実が突き付けられた。
それは一人の少女だった。
中学に上がって、教室に入って、そして私は声を失った。
とんでもない美少女がそこにいた。
ただ美少女であるだけならそこまで驚きはしなかったはずだ。その子が金髪に白い肌をして、碧い瞳をしていたからでもない。
見覚えのある顔だった。
彼女はホームルームの時間、自己紹介をしろという教師の命令に従って『高巻杏』と名乗った。
私は名乗る前から彼女を知っていた。
何故なら私は―――厳密には私自身ではないけれど―――彼女と、観覧車の中でキスしたことがあるからだ。なんならたぶん、それ以上のことも。あるいは、彼女以外にも特別な関係の相手をつくって怒られたこともある。
けれどそれは画面の向こうの中の人物がやったことで、私はただ与えられた選択肢から選んでボタンを押しただけに過ぎない。
それなのに胸がズキズキと痛んだのは、こうして『直接』彼女と対面することになったからだろう。
そうやって意識して見回してみると、教室には他にも見覚えのある面影を宿した『坂本竜司』と『鈴井志帆』が存在していた。
私は気が遠くなり、その場でひっくり返って保健室から自宅に搬送された。貧血ということになった。
目覚めて私は再び熟考した。
理由は解らないけど、私はどうやら、死んだ後に架空であるはずの物語の中に生まれ変わってきたらしい。
そして私はこれからなにが起こるのかを知っている。
私はもう一度、他の誰にでもない、自分自身に問いかけた。
誰かが苦しむと知っているのに、黙ってそれを見過ごすのは正しいことなのか? それとも予め定められた物語をその通りに行わせることのほうが正しいのか?
分からなかったけど、クラスの中でなんとなく『浮いて』いる杏を放っておくことが、どうしてもできなかった。やめておいたほうがいいんじゃないかと思いつつ、それでも……
私に友だちができた。杏って名前の女の子と、志帆って名前の女の子だった。
それから私は家の手伝いをよくするようになった。
清廉に生きようということではなく、お金が必要で、おこづかいを稼ぐためであった。
使い道は一つだ。
貯めたこづかいとお年玉を合わせて、私は適当に目星をつけた探偵事務所に一つの依頼をした。とある少年を探し出してもらうためだった。
口実は『小さいころ好きだった男の子にどうしても会いたい』というものだ。
六桁近い代償と引き換えに、私は『彼』のそのときの連絡先を入手した。『彼』をなんとかすることができれば、この後の悲劇のほとんどは回避できるのだから、やらないわけにはいかなかったのだ。
そして私はしくじった。
目の前で一人の女性がよろめきながら車道に飛び込んで血しぶきをあげた。
そばにいた女の子の悲痛な声がまだ耳にこびりついている。
……
「よろしく」
抑揚と精彩を欠いた声でそう言った少年は、クラス中に満ちるざわめきとささやき声など気にもかけないと言わんばかりのふてぶてしさで軽く顎を上げ、挨拶はそれで済んだと言わんばかりに教室を見回した。
担任教師の川上貞代はいかにも困ったと言わんばかりにため息をついたが、すぐに繕ったような笑みと声で窓際の席の一つを指し示した。
「じゃあ、君の席はあそこね。高巻さんの後ろ」
示した先には確かに空席が一つある。
その隣に腰かける女生徒が小さく悲鳴を上げて川上に非難の目線を送ったが、しかし女教師はついと目を逸らしてそれを封殺した。
そんなやり取りを横目に見つつ、少年は踏み出して机と机の間をすり抜け、これから一年己の居場所となるだろう座席を目指して歩き始めた。
一つ前の席には透き通った金の髪を高い位置で二つに結った少女が頬杖をついて、なににも、この少年にも彼に侮蔑の視線を送る他の生徒たちにも興味は無いと言わんばかりに窓の外に目を投げている。
けれどすぐ間近に迫ると好奇心くらいはあるのだろう。『噂の転校生』の顔を見ようと碧の目がちらりと彼に向けられ―――
驚きと気まずさに見開かれた。
二人は初対面ではなかった。
ほんの数時間前、駅を出た大通りで花時雨に見舞われた二人は同じひさしに雨宿りのため肩を並べた。それだけのことだが、しかし高巻と呼ばれた金髪の少女は眉をひそめて「サイアク」と小さくつぶやいて、また窓の外に視線を向けた。
声すら交わしてもいないのに、なんでそんなことを言われなければならないのか。
憮然とした面持ちで更に一歩を踏み出した少年は、己の席の一つ後ろの少女に目を向けた。
どこにでもいそうな、なんの変哲もない平凡な女子高生だった。
けれどどうしてか、彼はその姿……形というものにではなく彼女が放つ存在感とでもいうものに、ひどく懐かしいような気持ちになった。
まじまじ眺めているうちに目が合うと、彼女はちょっと困ったような、曖昧な笑みを浮かべてかすかに首を傾げる。
「よろしく」
唇の動きだけでそう言った少女の目は、わずかな興奮と、多大な好奇心、そして理由の知れぬ罪悪感に溢れていた。
午後の授業の終わりを告げる鐘の音とともに、川上は翌日の球技大会の予定を告げて教室を立ち去った。
少年はやれやれと首を回し、授業範囲が前の学校とさほど違っていないことに安堵の息をつきつき、軽い鞄を持ち上げて立ち上がる。前の席の高巻と呼ばれていた少女は着席したままスマートフォンをいじり、後ろをふり向こうともしない。
しかし少年の後ろの席の少女がやおら立ち上がって歩み寄ると、なんということか、花がつぼみをひらくかのような温かみと喜びに満ちた笑みを浮かべてみせた。それは誰も彼もが思わず見惚れるような笑顔だった。
「、お疲れ」
「ん」
少女のほうもにこやかに顎を引いて、手元の手帳になにかを書き付けている―――
首を傾げた少年の目の前で、と呼ばれた少女はそれを高巻の目に見えるよう差し出してみせた。
申し訳ないと思いつつ覗き見たそこには『いっしょに帰ろう』と書かれている。
少年は再び首を傾けた。
口で伝えればいいものを、どうしてわざわざ文字で伝えたのだろう?
この答えはすぐに知れた。視線に気が付いた彼女自身が彼に教えてくれたのだ。
『声が出ない病気みたいなもの』と。
少年はいくらか面食らって「はあ」と曖昧な反応を返した。私立の進学校だと思っていたけど『そういう』枠も取っていたんだとも考えた。己のような者も迎え入れるくらいなのだから、さもありなん。
納得してみせた彼に、高巻の厳しい視線が突き刺さる。
「わざわざ教えてやることないよ。行こ」
彼女はまたと呼ばれた女生徒の腕をとって引っ張りはじめた。
「む……」
引きずられるようにして離れていく女生徒は、何故か彼を見て悲しげに眉を寄せている。それはさながら、ずっと隠していた悪事が見つかってしまった子供の顔だ。罪悪感や後ろめたさが黒々とした瞳いっぱいに湛えられている。
彼はその訳を問うことができた。ちょっと待ってと声をかけて、彼女のもう一本の腕を引っ張ることが。
けれど彼はつい朝方に大人しくしていろと言われたばかりだ。妙な真似をしでかして、彼女にその憂鬱の訳を問うのもやめておいたほうがいいだろう。
それよりももっと気にかかることが彼にはあった。
だから、彼は席を離れ、ささやき声で沸く同級生たちから逃れるように教室を出た。
そこで彼は二つと存在しない知己を得るのだが、それを知っているのは、例えば予め定められた物語の筋を知っているような者だけだろう。
そしてその知己たる少年は数日後の放課後、実習棟へ繋がる渡り廊下を引きずられていた。
「ちょっ、だからぁ、なンなんだよッ!?」
「―――ッ!」
「ひっ、ぱん、なってんだろ!? いい加減にしろよ!」
掴まれた腕を振り払って、少年―――坂本竜司は何故か泣きそうになっているを睨みつけた。
坂本にとってこのという少女は、まんざら知らない仲というわけでもなかった。同じ中学に三年間通って同じ高校に進学した、そこそこ話もする間柄であった。とはいえもう五年も前からのほうは声を発することができなくなっていたから、会話はおおむね坂本の一方的な、あるいはの筆談によるものだ。
それもこの秀尽学園高校に入学してきてから、なんとなく疎遠になっていた。もともと性差や所属する場所が違っていたから仕方のないことだと坂本などは思っていたが―――
そういえば、どうしてこいつは喋れなくなったんだろう。
今さらながらにそう思いつつ、坂本は懲りずに裾を掴むに呆れのこもった視線を向ける。
少なからず彼女は必死な様子であった。焦りと、なにか罪悪感のようなもので目をいっぱいにして瞳をうるませている。
元来情の深い男にこれ以上の拒絶はできようはずもなかった。あるいは、はそれすらも計算に入れていたのかもしれない。
「なに? なんかヤベーことでもあんの?」
「ん!」
ガクガクと首が縦に振られてなお腕に力がこめられる。
どうやら本当に火急の要件であるとみて、坂本は彼女に従った。
そのようにして連れてこられたのは、さして離れた場所でもなかった。傾き始めた日差しによって多く影に覆われた廊下の先には、体育館につながる扉が重々しく閉ざされている。その向こうから、彼にとっては忌々しい運動部―――バレー部の威勢のいいかけ声やボールを弾く音がここまで響いてきている。
が示したのはその少し手前だった。
「ンだよ……体育教官室になんの用が……」
仇敵を睨むような―――仇敵そのもののねぐらを睨みつけた彼を置いて、はその戸に手をかけた。ガチャッとなにかが引っかかるような音がして、施錠されていることを教える。
「むむ……!」
なんだと怪訝そうな顔をする少年の前で、は猛然と戸を叩き始めた。
施錠され、静まり返っているところを見るに、その部屋の主にしてこの学園の『王様』気取りはせっせと奴隷たちの教育に勤しんでいるのではないか―――
そう思って踵を返そうとした坂本の耳に、くぐもった悲鳴―――それも女子のものと思われる声が届いた。
『噂』はずっとあったし、目に見える事実として怪我を負う生徒はそこらじゅうにいた。けれど彼にはどうすることもできなかった。どれだけ吠えても、噛みついても、負け犬の烙印を押されて群れからはじき出されるだけだと思い知らされていたから、拗ねた心地でそれを眺めているしかできなかった。
真っ青な顔をしたが縋るような目を彼に向けている。
坂本はふと、なんの脈絡もなく『コイツもそうだったんじゃないのか』と思った。ブッ叩かれて一度バッキバキに折られて、伝える手段を失ったんじゃないのか、と。
今またそれを行おうとしているのは、自分と同じように、『彼』が現れたからか―――?
坂本は陸上競技連盟公式記録にはわずかに及ばないものの、いずれは塗り替えることを嘱望されていた脚を振り上げ、激しく薄い戸を蹴りつけた。
「オイっ! 誰かいンのか!? 蹴破んぞコラぁ!」
恫喝ぶりはいささか幼いが、効果はあった。物音と悲鳴が止み、室内はシンと静まり返った。
の手がまたバンバンと戸を叩く。するとカチリと鍵が上げられる音がして、戸は横に滑らされる―――
清潔そうなランニングシャツによく鍛えられた体躯を包み、物理的にも精神的にも見下すような眼をして現れたのは、坂本にとって間違いなく仇敵である男だった。
彼はまた、少年の姿を認めて嘲るような笑みを浮かべもした。
「なんだぁ、坂本。騒がしいぞ。ドアを蹴るなんて、ご両親はお前に行儀を教えてくれなかったのか?」
当然これは侮辱のための言葉であった。少なからず教員として接する以上、生徒のパーソナルデータには触れているはずであり、坂本竜司に『両親』がいないことは周知の事実だったからだ。
続けられる言葉は予測ができていた。
「ああ、そうか。坂本、お前のとこには母親しかいなかったんだったな、先生忘れてたよ―――」
少年はカッと頭に血が上る感覚に目をくらませた。もう一度、何度でもこの男を殴ってやりたいという欲求が体中をほとばしった。
しかし―――
握った拳が振るわれるより前に少年も男も突き飛ばされた。
「し……ぃ、っ!」
小柄な影が少年と男の脇をすり抜けて教官室に侵入を果たしていた。
用具室に納まり切らなかった細々とした器具、指導教本が並べられた本棚、インスタントのコーヒーや紅茶の瓶といくつかの菓子にケトルが一緒くたに詰め込まれた小さなシェルフに、教員机の上には名簿やスポーツ雑誌がきちんと重ねられている。
いずれもが夕日を浴びてあかあかと輝く中、一人の少女の影が隠れるようにうずくまって震えていた。
は小さなそのシルエットに飛びつくと、直ちに彼女を光のもとに引きずり出した。
「鈴井?」
鴨志田の脇からその姿を確認した坂本が名を呼ぶと、鈴井はビクッと大きく肩を震わせた。
はまた彼女を部屋から追い出すように、その背をいささか乱暴に突き飛ばしもする。よろめきながら教官室を飛び出した彼女を誰も引き留めることはできなかった。
「……?」
放り出された鈴井は青ざめた顔に不思議そうな表情を浮かべて、友人の顔をふり返った。
「はあっ、はあっ……あ、ううぅ……ッ」
彼女もまた足を引きずるようにたどたどしい歩みで部屋を出ると、また鈴井の体にしがみついた。
それを見て、坂本はゾッと背筋を走るものを覚える。
麗しい女子同士の友情にではなく、鈴井の―――普段ならすっきりときれいにまとめられているはずの髪が、部活前に呼び出されたのか見慣れた制服が、すっかり乱れてしまっている。それはなんだかまるで……
「おい、、鈴井は今先生と今後に関する大事な話をだなぁ……」
取り繕うような鴨志田の声に坂本がまた激情に駆られそうになるのを、やはり少女が遮った。今回は鈴井のどこか呆けた声だった。
「、泣いてるの……?」
言葉に坂本はハッとして彼女たちのほうへ目を戻した。鈴井の肩口に顔をうずめて震えているに声は無い。彼女はとっくの昔にそれを失ってしまっている。
いずれにせよ、彼に冷静さを取り戻させるには十分だった。
「……あーあ、センセー、女子泣かしちゃっていーんですかぁ?」
「チッ」
舌打ちで応えて、鴨志田はジロリと坂本を、その背後で身を寄せ合う少女たちを睨みつけた。
「このこと、よく憶えておけよ……」
堂に入った恫喝ぶりであった。実に手慣れていると思わせるには充分過ぎた。その証左に鈴井はますます蒼白になって身体を縮こまらせている。
けれど震えは不思議と坂本を落ち着かせた。彼は言葉のないところで『自分がここで切れ散らかしては少女たちを危険に追いやる』と理解していたのかもしれない。
「そうするよ、『先生』―――」
応えて彼はぽんとの背を叩いた。すると彼女はぱっと弾かれたように顔を上げ、鈴井を抱えたままずりずりとその場を移動し始める。
戸惑ったのは鈴井のほうだった。
「え……でも、私……」
なにかに怯えた様子を見せる鈴井の足は中々その場を動こうとはしない。彼女の瞳はこの場に居ない誰かを案じて暗く陰っている。
けれどそれも、が手早く書き付けた手帳を差し出すと瞬きとともに消える―――
『杏はだいじょうぶ』
鴨志田からはなにが書かれているのか確認できなかったのだろう。器用に片眉をひそめた男の前から、は今度こそ鈴井を引きずり離し始める。
「……ほんとに? ほんとうに……もう……」
歩きつつもははっきり首を縦に振った。
背を守るように一歩遅れて続く坂本に鈴井の表情は窺えなかったが、その足が階段に差し掛かるころには涙がこぼれているのだと察せられた。
「わ、私……」
何故なら彼女の声は明らかに震え、濡れていた。
「わたし……もう、限界……っ」
無人の踊り場で、鈴井は力なくしゃがみこんだ。両手で顔を覆い、膝を抱えてしゃくりあげ始める。
「怖かった……! ごめん、ごめんねぇ……!」
「んん……」
そばに膝をついてしゃがみこんだが優しくその肩や頭をさすってやる。
鈴井は懺悔に似た言葉を吐き出し続けた。
「杏が、杏が私のためにって、だから我慢しなくちゃって……大好きなのに、杏のせいって思いそうになって、も、どうして気が付いてくれないのって、わ、わた、私、最低なこと……考えてたの!」
はぶんふんと首を振り、鈴井を抱きしめた。その抱擁に赦しが籠められていることは部外者である坂本にもよく解った。いわんや鈴井に解らないはずがないだろう。彼女は堰を切ったように泣き出し始めた。
「あう……」
は出ない声をどうにか絞り出そうとしているが、それはほとんど言葉として形を成さない。
けれど坂本には、当然鈴井にも、彼女がなにを言おうとしているのか解っていた。
『もう大丈夫』と。
鈴井は彼女を抱きしめ返したが、何故か彼女は浮かない顔をしていた。瞳には罪悪感がいっぱいに湛えられている。
坂本は一度彼女たちから離れ、部室から鈴井の鞄を回収して戻った。
その頃には鈴井の涙も止まっていたが、それでもまだしゃくり上げる動きは制御できないのだろう、時折身体を痙攣させてはしきりに鼻をすすっている。
どうしたらいいのか解らずに立ち尽くす彼に、はなにごとかを書き付けて差し出した。
『転校生と話をして。今日のこと。杏もまだ一緒にいるはずだから』
坂本は反射的に頷いていた。
「あ? おう……って、お前、なんで……」
肯してから目を見開いた彼に、は小さく首を左右に振る。それは答える気はないという意思表示だった。
彼女はただ再びペンで、
『しほは私が家に送る』とだけ告げる。
坂本にしても、鴨志田の行いは腹に据えかねている。転校生と話せと言うのであれば、それは望むところだった。あのクソ生意気な猫の言葉も気にかかる―――
踵を返して、坂本は己の鞄を肩に引っかけた。
「帰るわ」
「ん」
歩きはじめた彼の背に、鈴井の声がふりかかる。
「っ、さかも、とくん……あっ、ありが……」
「別に……」
俺はただ請われたからやっただけ。
そう応じるのが彼には精一杯だった。
開けた翌日、鈴井は学校を欠席した。
昨晩懸命に―――筆談で―――彼女の両親に娘の現状を訴えた甲斐はあったらしいと息をついて、は立入禁止の屋上から中庭を見下ろしていた。
想像していたよりずっと高い。
そう思ったかどうかは余人の目には解らない。
彼女の手の中に握られたスマートフォンには鈴井とのメッセージのやり取りが残されていた。今日は一日静養し、明日から病院に行くのだとそこには記されている。
「ほっ」
安堵から胸をなでおろした彼女の背後で重いドアが押し開けられる音がする。こんな時間―――まだ授業開始前の登校時刻だ。昇降口の前には眠たげな生徒たちが列をなしている―――こんな場所に、自分のような酔狂者以外にいったい誰がやってきたのだろう。思いつつふり返り、少女はその身を緊張で満たした。
癖のある黒髪に黒縁の伊達眼鏡。傷害の前科持ちと噂される転校生がそこに立っている。
そんな存在とこの大して広くもない空間に二人きりとなれば過敏になるのもやむなしというものだろう。けれど彼はどうしてか、その緊張をそういうものとして受け止めていないようだった。
「おはよう、さん」
バタンと音を立てて鋼鉄製の扉が閉まる。
彼はどうやらの返答を待っていたようだが、彼女の個人的特性を思い出したのだろう、小さくため息のようなものをついて歩み寄った。
「竜司に聞いたんだけど」
は顔をしかめて彼の進行方向から避けるようにすり足で移動する。彼女は何故か悪の大魔王にでも見つかった雀のような顔をしていた。
「あいつと中学同じだったって?」
しかし投げかけられたのは素朴な質問だった。はしばし呆然としてから首を縦に振ってやった。
「ふーん」
彼は関心もなさそうに返した。しかしその瞳には暁星を見つめるような光がある。
「どうして昨日、俺と高巻さんが一緒にいるって知ってたんだ? 彼女は君に居場所を教えたりしていないと言っていた―――」
「う……」
呻いては後退った。
大して広くもない空間だ。唯一の脱出口であるドアは彼の背後にある。逃げ場を失ったの頬を冷や汗がつたう。
そんな彼女の姿を憐れに思ったのか、彼は踵で地をこするように身を引かせた。たったそれだけでの前にはまっすぐに伸びる退路が生じる。
「おどかすつもりじゃなかった、ごめん」
囁くように言って、彼は手でその道を示す。
「うう……」
「行って。追いかけたりしない。教室で一緒にはなるだろうけど……」
なにかを探るようにじっと注がれる瞳から逃れるように少女がまた足をにじるのと、給水塔の上から一匹の黒猫が降り立つのはほとんど同時だった。
「なにしてんだオマエ―――」
「うわっ!」
着地に際して足音は無かったが、その鳴き声にだろうか、は大げさなくらいに身体を跳ねさせ、そのまま弾かれたように走り出した。
重いドアを乱暴に開け放った慌ただしい足音が遠ざかっていく。
少年は猫に向き直って肩をすくめた。
「逃げられたよ」
「逃したんだろ」
まあね、と応えて少年はしゃがみこみ、つややかな猫の毛皮に手を伸ばす。
「気安く触んじゃねーよ」
しかしその手は寸前猫の長い尾にはたき落とされた。
結局、彼にしても彼女にしても、放課後まで一言たりとも会話を交わすことなく済ませた。そもそも交わすためのものを片方が持ち合わせていないから、これは別段不自然なことでもなかった。
ただ少年のほうは背後から突き刺さる視線にいくらか辟易とはしていた。
いっぱいの好奇心と興奮、疑念と猜疑、そして罪悪感―――
いずれにも心当たりのない少年は、授業がすっかり終わるなり早々に席を立って教室を後にした。彼には少しやることがあった。
彼が教室を出ると、そこに満ちていた一種の緊張感のようなものが霧散する。
のさらに後方の席に座した女生徒が、机に突っ伏しながら嘆きの声を上げた。
「もうヤダぁ……なんであれと一緒のクラスなの?」
「なんかそういう方針だって。うちらとばっちりだよね」
同調する声を耳にしながら、は静かに席を立った。すると反応したように高巻が立ち上がり、彼女に笑みを向ける。
「……」
しかしその笑みにはどことなく陰りがある。暗く落ち込んだ、どこか疑惑に満ちた瞳だ。
は静かに首を左右に振った。
「なんで?」
主語の無い、無数の意味が籠められた問いかけに、首はまた左右に振られる。高巻のよく整えられた眉がむっとしかめられた。
「じゃあ、いっこだけ答えて」
「ん?」
「アンタはさ……」
潜められた声を聞き取れる者は多くなかったが、今や教室に居残っていた生徒たちは二人の動向に注目していた。もとより特別なことをしていなくとも人の目を集める高巻に、そんな彼女と友人である等様々な意味で特殊性を持つだ。その二人が不穏な空気を発しているとなれば自然と視線は集中する。
高巻はそれらにすら構わず問いを発した。
「知ってたの? あの子が……あんなふうに……」
鈴井のことを言っているのだとは理解していた。
彼女は今度こそ首を縦に振った。
それを見つめる高巻の碧の瞳には複雑な感情が湛えられている。に対する怒りと失望、己に対する同じもの、また鈴井にもそれは向けられているようだった。
自分だけが蚊帳の外だったと知って、高巻はひどく傷ついていた。
実際には彼女は外どころか蚊帳そのものだったのだが、すべてを知ることができるのは神の視点でものごとを見つめる者だけだ。
しかし彼女はうつむいて力なく首を振ることしかできなかった。
システムの干渉を受けない存在と化したものは、今度は人の気持ちに干渉することができなかった。
高巻が怒り、失望して、悲しむのを止めることができない。
「さいてー……」
「ん……」
そのとおりだと首肯する彼女に背を向けて、高巻は小走りになって教室を飛び出していった。
見送る他にできることは何一つとしてなかった。
あるいははじめから、なにもすべきではなかったのかもしれない。
―――それでも。これでよかったんだろう。少なからず少女が一人助かった。
取り残された教室からとぼとぼと抜け出したは、己をそう納得させる。
本来己との間には生じなかったはずのものが今元通りになっただけだと考えれば、落ち込みはしても前向きにはなれた。
それより問題は、一人が救われたことによって変わってしまった流れをどうやって本来あるべき姿に戻すのかだ。
歩きながらあれこれと思案するが、結局その必要は生じなかった。
時空間の修正力、あるいは神の如きものによる矯正が働いて、彼女をそこに引き寄せた。
(あれ―――)
おかしいな、とは胸のうちでつぶやいた。彼女の足は確かに昇降口に向かっていたはずなのに、どうしてか、彼女はすっかり人のいなくなった実習棟を歩いている。
落ち込んでいたとはいえ、降りる階段を間違えるなんてことは、間違えたとしても一階にはたどり着くはずだというのに、どうして渡り廊下を越えた先にいるんだろう。
遠くで励む運動部のかけ声やボールの跳ねる音が耳をくすぐった。放課後独特の喧騒はいつもなら彼女をうきうきとさせるはずなのに、このときは絶望感を胸に抱かせた。
「なんだ、こんなところにいたのか」
それはよく鍛え上げられた体躯の男として具現化される。
長い廊下に佇んでいた彼女の背後に、いつの間にか鴨志田卓が立っていた。
「え……」
元はオリンピックメダル選手だ。その身長は日本人の同年代平均身長より飛び抜けている。経年による衰えはあるだろうが、それでもやはり同じ年ごろの男性と比べれば、その体格は抜きん出ていた。アスリートとしてトップクラスと表してまだまだ遜色ないだろう。
そういう存在に見下されて、の胸に去来したのは恐怖以外のなにものでもなかった。
ましてや彼は満面の笑みを湛えているのに、瞳だけが笑っていない。
「、ちょっと来なさい」
言葉とともに鴨志田の腕がの肩に絡みついた。
「う!?」
少女は懸命に腕や足を振り回して抵抗を試みたが、彼は意にも介さなかった。ほとんど引きずるようにして動かされると、彼女はもう逃れることさえできない。
「んー? ごめんなぁ、先生、お前が何を言ってるのか解らないんだよ」
「ああぁ……!」
「いいから来い! 昨日はよくも邪魔してくれたなァ!?」
恫喝はやはり堂に入っていた。
彼が優れた脅迫者であることの証明のように声は無人の廊下によく響き渡ったが、不思議なことに誰一人として姿を表すことはなかった。
やがて少女は中に糸の通された木の人形か何かのように軽々と振り回されて、体育教官室に放り込まれる。たたらを踏んで壁際の教員机に手をついた彼女の視線に、この場には相応しくないと思える、華やかな書体の並ぶハイティーン向けのファッション誌が映り込んだ。開かれたページには、瞳の色に合わせた丈の短いワンピースから、長い脚をひけらかすように見せつける高巻杏の姿があった。
はどこか冷静になって納得した。運命とやらはどうやら、まだ二人の間に繋がりを認めているらしい、と。
それが事実であると教えるように背後で鍵が下ろされる音が響いた。緩慢な動作でふり返った彼女をまじまじ眺めて、男はいやらしく口角を釣り上げる―――
「なんだ……喋れないって聞いたときはてっきりアレなのかと思ったら……悪くない顔してるじゃないか、ええ?」
大股で歩み寄った男の姿に、再び震えが蘇る。無駄なのだと理解していても、は反射的に伸ばされた腕から逃れようと見を捩った。
「ひっ、い―――」
悲鳴を上げようとしたその頬を、グローブのように大きな手が平手を打った。
「大きな声を出すなよ……なぁ? 先生だって本当はこんなことしたくないんだ。わかるだろ? 大人しくしていてくれればすぐに終わるんだよ。なあっ!」
ヒュッと空を切り、下から少女の華奢な身体に拳が突き刺さった。
肺腑を押し上げる衝撃に身体をくの字に折って、はそこにあった空気をいっぺんにすべて吐き出してしまう。もしかしたら一瞬、わずかにでも身体が地から浮いたかもしれない。
皮肉なことに痛みと衝撃に強張った彼女の肉体を支えたのはその拳で、満足げにこれが引かれてしまうと、ただの女子高生であるところの身体はたやすくその場に膝をついてしまう。
「……ッ、がっ、げほっ! げほっ!」
腹の筋と肺そのものがブルブルと小刻みに痙攣を起こしているのが彼女自身にも自覚することができた。そのために酸素を求めて息を吸おうとも、上手く取り入れることができなくなっていることも。
酸素の供給が絶たれたことで脳は急速に彼女に呼吸を行うよう指令を送る。しかし、どれほど繰り返しても肺そのものが機能を一時的に停止させてしまっているのだ。過呼吸のように浅く速い息を繰り返すので精一杯だった。
そんな彼女の姿を見下ろして、男は恍惚とした声を上げた。
「っほぉ〜、コレだよぉやっぱ。ああ〜……ッ」
「かひゅっ、かふっ、っは、あ゛あ゛……う、うぅ……ッ!」
縮こまって震える小さな背を見つめる瞳には今や隠す気も無いと言わんばかりの嗜虐的な輝きがある。
男はさらなる暴虐を求めて太い脚を振り上げた。
「さっさと、立たねぇかっ!」
「――――ッ」
つま先は少女の即頭部に突き刺さる。衝撃に視界がぶれ、小さな身体はサッカーボールのように転がって教官室の端へぶつかった。
恐怖と苦痛とともには考えていた。
嵐が過ぎ去るのを待って、明日、『彼女』がしたのと同じように振る舞えば、『彼』は間違いなく立ち上がるだろう。それこそが本来の筋道だ。
それならば、たぶん、私は抵抗すべきではないんだろう。
結論を得て、少女はまぶたを閉ざした。
そして彼女は不思議なものをそこに見た。
液晶の画面のようだった。間違いなくそれは三十二インチの薄型テレビだった。すぐそばには見たことのある黒い箱が唸りを上げている。
あー、懐かしい。こういう感じでプレイしてたんだっけ。
他人事のように考えて、テレビの前に置かれていたソファに腰を下ろした彼女の隣には、いつの間にか一人の少年が腰掛けていた。
彼は言う。
『俺たちどれくらい一緒にいた?』と。
は少しだけ考えて、
『四百時間くらい?』と答えた。
少年は笑って手の中の無線式のコントローラーを彼女の目にも見えるように振ってみせた。充電はすでになされているようだ。
『君は俺がエンディングにたどり着くまでの手助けをしてくれた。だから―――あっ、このやろいいところで……』
『え?』
瞬間、少年はかき消えた。
少年だけでなくまぶたの裏にあったものすべてが夢のように消え去っていた。
代わりに現れたのは埃っぽい床と押し込められた体育器具のかび臭さだった。
少女の目の前、ぼやけた視界には悦に入った鴨志田の下卑た笑みもある。彼女はうつ伏せた格好から、前髪を掴まれて顔を上げさせられている状態だった。
「あ、う―――」
「気絶するなよ? せっかくこの俺様が遊んでやろうってんだからさ……」
再び男の手が振り上げられるのを見て、少女はほとんど無意識的に腕を振り回していた。爪の先になにかが引っかかる感触を覚えると同時に前髪が開放される。床についた右手を見ると、指先にわずかに血が付着していた。
「―――てめぇ―――」
煮え立った憤怒の声に顔を上げると、鴨志田が頬に血を滲ませていた。とっさに伸ばした腕の先が、彼のそこを強かに引っ掻いたのだろう。
わずかな痛みに激昂した男の大きな手が少女の華奢な首にかかった。力が込められると、気道と太い血管は簡単にせき止められた。
再び呼吸を制御された少女に打つ手はもはや残されてはいなかった。足をバタつかせ、懸命になって手を剥がそうとするが、男の剛力に敵うはずもない。
このままでは息の根を止められるのもそう遠いことではないだろう。
彼女は再び幻覚を見る。鴨志田の怒りの形相、その向こうに一人の少年が佇んでいる姿だった。
彼は男の凶行を止めようとするかのように腕を伸ばした。
その手が肩を掴む、まさにその瞬間、教官室の戸が蹴破られた。施錠された戸が外部からの力によって傾いで、内部に向かって倒れるとともに派手な音を立てる。
驚愕によって男の手から力が抜け、は咳き込みながら床にくずおれた。荒い呼吸の中室内を見回しても、もうあの少年の姿は見当たらなかった。
同じ姿は戸があったはずの向こうに居た。坂本竜司の後ろ、三島由輝と高巻杏と並んで鴨志田を睨みつけている。
朦朧とする意識の中で、は混乱しつつ己が見た幻覚に思いを馳せた。
彼はなんと言った? エンディングにたどり着くまでの手助けをした?
意味を理解しようとする彼女の身を、幻覚とそっくり同じ姿をした少年が助け起こした。
「さん、大丈夫か!?」
「う……っ」
決定打だった。肩を掴んだそのかすかな振動に、細い糸で繋ぎ止められていたの意識はぷっつりと途絶えた。
彼は言った。
『だからね』
彼はどこか薄暗い部屋の窓際に置かれた机に頬杖をつき、脚を組んでどこか憮然とした表情を見せている。
『チュートリアルもそろそろ終わる。あいつらも本格的に初めてのパレス攻略に取りかかるころだ。君がどこで加入するのか、あるいは協力者の一人として組み込まれるのかはわからないけど、君がそうしてくれたようにアシストする』
彼の手の中にはコントローラーがあった。十字キーと丸いボタンが四つ。
『四百時間だっけ。周回はしないだろうから百時間とちょっとで済むかな。とにかく、君が俺であったように、俺は君だ。今みたいな事態になったら呼んで。呼び方は何度も見たから知ってるだろ。その―――』
頬杖をついていた手が彼女を指差した。
『仮面を、剥がすんだ』
言われて少女は己の顔に手を触れた。そこには皮膚以外の硬い感触がある。
けれど―――
『ああ……俺もあの子のことは好きだよ。そうなるように君が仕向けたんだけど』
少女の頬には濡れた感触があった。しかしその液体は、決してこの少女から生じたものではないのだ。
『君もしてきたら? 彼女と。キスとかね』
パチッと片目をつぶって、少年は笑ってみせた。
目覚めた少女のぼやけた視界には、いっぱいに涙を湛えた高巻の顔があった。人形のように整った顔はくしゃくしゃで、わずかに鼻水までもが垂れている。
「っ! 起きたっ!? 私のことわかる!?」
涙に濡れた声で喚く少女に、はなんとかしてかすかに首を動かしてみせた。
そうした途端全身に痛みが走って眉をひそめると、高巻はまたボロボロと涙をこぼし始めた。
「ごっ、ごめんねぇ! わたっ、私が一緒に帰ってたらぁ……こんなの絶対、させなかったのに……!」
の胸に顔を押し当てて、高巻はしばしわんわんと人目もはばからず泣き続けた。
そうとも、彼女は一人ではなかった。
「……大丈夫?」
見上げると、高巻のすぐそばによく見知った顔の少年が佇んでいる。また彼の対面、を挟んだ反対側には坂本と三島も安堵の表情を浮かべていた。
少年は端的にが意識を失ってからのことを説明した。
気を失ったの姿に救急車を呼ぼうとしたが、これは他でもない鴨志田によって妨害され、保健室に送り届けられるに留まった。
そしてあろうことか、彼はその犯人をこの少年たちであるとして仕立て上げた。体育教官室に忍び込んだこの少年たちがふざけて器具や扉を破壊し、それにが巻き込まれたと声を大に主張したのだ。
養護教諭と生徒たちはその妄語を信じた。
しかし直ちに退学にすべきという声を封じたのもまた鴨志田であった。
こんな結果にはなったが悪意からの行動ではないのだから、我々大人は冷静になって子どもたちの行動を吟味する必要がある、と。
折しも来月の頭には理事会が開催される。そのときまでよく考えればいい。あるいは……子どもたちに反省の意が見えるようなら、寛大な対応をしてやったっていいだろう。
そう結んだ鴨志田の眼は青ざめた高巻に向けられていた。彼の語る『反省』とすなわち―――
「だいじょうぶだから……」
清潔な保健室のベットの上、真っ白なシーツと布団に包まれたに、高巻は安心させるように囁いた。
「私が、言うこと聞いたら、そしたらみんな……も志帆も、安心して学校通えるように……」
最後まで言わせず、は布団を跳ね上げて高巻の頭をひっぱたいた。
「いっ……たぁい! なにすんの、!!」
「うーっ!」
悲鳴を上げて頭を押さえた彼女に、はさらに布団を投げ被せた。視界を真っ白な影に覆われて高巻は床に転がる。
これに反応したわけではないだろうが、弾かれたように三島が立ち上がった。
「たっ、高巻さんがそんなことする必要ないよ! こんな学校、辞めるなりなんなり、転校でも、なんでもすればいいんだからさ……!」
彼がこのように大胆な発言をすることができたのは、保険室内に留まっているのが彼らだけであるからだろう。養護教諭はの手当を済ますと事情説明の補足として校長室に呼び出されてそれきり姿を見せない。
だからというわけでもないだろうが、彼のこの向こう見ずな提案を坂本の沈んだ声が跳ね返した。
「俺らはそれでいいかもだけどよ、コイツはどーすんだよ」
彼が顎をしゃくって示した先には高巻に手を差し伸べてやっている少年の姿がある。
彼女を椅子に座り直させてから彼は応えた。
「俺は、別に」
それでもいいよ、と度の入っていないらしい眼鏡のブリッジを押さえつつ言った彼に、坂本と、何故かも呆れたような視線を向ける。
「バカ。それが別にってツラか? それに、俺らなら―――」
「竜司、ストップ」
「んおっと……あー……とにかく」
不可解なやり取りに怪訝そうにする高巻と三島を置いて、坂本は脱色した髪をがりがりとかき回した。
「高巻はミョーなこと考えんなよ。三島もしばらく黙ってろ」
「でも……!」
抗弁しようとする二人を、低く落ち着いた少年の声が遮った。
「大丈夫だから」
「は……? キミ、なに考えてんの?」
「俺もよくわからない。でも……大丈夫、なんとかするよ。全部」
うっすらとした笑みには不思議な力が宿っていた。この場においては説得力とでも言うべきものとして現れたそれは、今度こそ完全に高巻と三島を沈黙させた。
それにほっと息をついて、彼は鞄を手に立ち上がる。促されたわけでもないのに坂本もそれに倣った。
そして彼はほんの少しの申し訳なさを滲ませながら座したままの二人に言う。
「だから、二人にはさんを任せていいか。『俺たち』にはやることがある」
返事も待たずに彼はスマートフォンを手に立ち上がり、坂本と連れ立って保健室を出ていってしまう―――
残された者たちはしばし沈黙したが、やがてがはっと息を呑んだかと思うと、再び高巻の腕をパシパシと叩き始めた。
「うう! むあー!」
その目はどうしてか焦りを湛えている。
なにかを訴えたいのだと理解して、高巻は言葉にならない彼女の声に耳を傾けた。
長年の友情の証とでもいうのか、高巻にはときおりこの少女の声が意図するところをそっくりそのまま、正確に聞き取ることができた。
『追いかけて』
このときも、不思議と高巻はこの友人の言いたいことが理解できる。
「でも、を一人には」
『いかなきゃダメ』
「……どうしても?」
「ん!」
こっくりと頷いた彼女に、一人理解の及ばない三島が首を傾げている。高巻はいじらしい優越感から微笑んで、涙を拭った。
「わかった……ホントにもう、っていつもそうだよね」
鞄を手に立ち上がった彼女を、四つの瞳が追いかける。
高巻はそれらをどこか懐かしむように目を細めつつ、さっとその金の髪を払い、歯を見せて満面の笑みを浮かべた。
「まるでこれからなにが起きるのかを知ってるみたい」
ピクッと小さくの手が震えたが、高巻も三島もこれには気が付かなかった。
高巻はさらにまた続けて述べる。
「なんてね! でも、アンタの言うこと聞いて悪くなったことなんてないし、追いかけたげる! 三島くん、のことお願いしていい? タクシー呼んであげてほしいの」
従順に首を縦に振った三島に満足げに頷いて、高巻もまた足音も高らかに保健室を飛び出していった。
そして今度こそ取り残された三島は、頭をかいて、限りなく困惑しながら言う。
「あのさ……変な意味じゃないんだけど、さんさ、俺とどこかで会ったことある? なんか前にもこういう感じの……いや、ホントに変な意味じゃなくてさ……」
は静かに首を左右に振った。
さすがに、あれだけの凶事に見舞われたとなれば、も一日の休みを挟まざるを得なかった。
タクシーで帰宅した後、強い吐き気と発熱に襲われた彼女は一両日を寝て過ごし、夢の中でひたすらよく見知った顔の少年と古いゲーム機で遊んでから目覚めて、登校した。
するとさっそく通学路でよく見知った顔と鉢合わせる。
「もう登校して大丈夫?」
気遣わしげな様子で声をかけてきた彼の鞄からは、ピクピクと動く三角の耳が突き出ていた。
は頷きながらスマートフォンのメモ帳になにごとかを入力して彼に見せてやる。
『体は頑丈』
「そう。よかった」
「あ……」
「ん?」
「ぁ、っ……」
まだ言いたいことがあるらしいと少年が顔を向けると、彼女はスマートフォンに頼らず懸命に喉を動かしてなにかを伝えようとしているらしかった。
そして―――
『がんばって』
彼女ならそう言うんだろうということが彼には何故だが解っていた。このという女の子はそういうひとだと、彼は当然のこととして識っていた。
だから彼は、これもまた当然のこととして笑みを湛え、決然と頷いてみせる。
「頑張るよ、ありがとう」
双方にとってそれで充分だった。
……
しばらくの後、秀尽学園高校の廊下に設置された掲示板に、一枚のポストカードが貼り出される。それは≪心の怪盗団≫を名乗る者たちから鴨志田卓に宛てた予告状であった。
生徒たちはこのいたずらめいた紙切れを前に様々な反応を見せた。
ただのいたずらと断じて鼻で笑う者、そこに記された文言に深刻そうな表情を、あるいは怯えた表情を見せる者、低俗な行いと嫌悪感を滲ませる者―――
そして『彼ら』がやり遂げたのだと知って満足げな顔をする者もあった。
「むふー」
誰にともなくうんうんと頷いているのはだ。
彼女の背後には一人の少年が忍び寄りつつあった。
「なに見てるんだ?」
「むふっ!?」
音も気配もなく―――そう思っているのは彼女だけで、実際にははじめから彼は坂本らとともにすぐそばに立っていた―――現れて声をかけられて、はつんのめって転びそうになる。
その襟を掴んで顔面から床に倒れ込むのを阻止してやって、彼はじっと、また例のあの暁星を見つめるような光を瞳に宿して彼女を見つめた。
「さん、君はやっぱり」
―――なにかを知っているんじゃないのか?
問いかけようとする声を、は必死な様子で首を振って遮った。
「……そ」
そのあまりの懸命さに憐れみを覚えたのか、少年は納得するふりをしてやることとする。少なからず彼女は敵ではないのだと様々な疑念を飲み込みもした。
代わりにこみ上げたものを差し向ける。
「ところで」
「ん?」
「頑張ったよ」
「あー?」
「頑張った」
「ん」
それは知っていると言わんばかりに頷く迂闊さに呆れつつ、少年は両手を彼女の前に差し出した。
「褒美は出ないのか?」
途端の顔が困惑に満ち満ちるのをとっくり眺めて、彼は小さく笑った。それこそを褒美として受け取っても良かったが、引っ込めるより前に手のひらの上に乗せられた物がある。
「うう……」
申し訳なさそうに与えられたのは小さなあめ玉だった。パッケージにはのど飴と記されている。
もちろんこれでも充分だったが、が反応を伺うように身を竦めて見上げてくるのが面白くて、彼はついつい意地の悪いことを言ってしまう。
「これだけ?」
は慌てた様子で肩にかけた鞄を漁り始めた。すると出るわ出るわ、ガムやら、クッキーやら、じゃがりこやら……
鞄の中になにを詰め込んでいるのかと呆れつつ、少年はこみ上げる笑いを殺しきれずに吹き出してしまう。
「ふっ、ふふふっ、くくっ……ありがと」
それでも辛うじて礼の言葉を告げると、は満足げに息をついて手を引っ込めた。
せしめた戦利品をポケットにねじ込みつつ、彼はまたに目を向ける。そこにはやはり貴重な品を見つめるような色があった。
「ん?」
視線に気がついて胡乱な目を返す彼女の声に乗せられた意志が、どうしたことか彼には不思議とよく理解できた。
『なんでそんな目で見てくるの。やめて。あんまり関わってこないでほしい』
そこにあるのは拒絶の意志だというのに、しかし彼が感じ取ったのは言語化の不可能な感覚だった。それは共感によく似ているが、もっと密接で、しかし親密というわけではない―――
得体の知れないものへの当然の防御反応として整合性を求めた彼はに問いかけた。
「君と俺は、どこかで会ったことある?」
は少し困った様子でこれを否定した。
振られた首は、しかしその裏で肯定を示していることも彼に教えている。
「そう」
本当に不思議なことだった。高巻のように数年に渡る友情を築いてきたわけでもないのに、坂本のように中高と同じ学校に通ったわけでもないのに、三島のように一年同じクラスだった事実もないのに……
ずいぶん長いこと、彼女と一緒だったような気がする。
けれどがこれを明らかにしたくないと言うのであれば―――言ってはいないが―――少年は好奇心を抑え込むことができた。
彼はただ心の底から彼女を気遣って問うた。
「怪我は本当にもう平気?」
「ん!」
これには元気いっぱいに頷いてくれた。
「そ」
それで満足して、しかし少年は照れくささからそっけなく頷くだけだった。
でも―――
胸のうちでつぶやいて、少年はちらりと掲示板に貼り出されたポストカードに目を戻す。
好奇心はいつまでも抑えられるものではないと彼は確信していた。己だけではなく、高巻や坂本に、あの黒猫だって……
数日後、少年たちは登校を再開させた鈴井を囲んでともに下校していた。高巻の喜びようと言ったら、盆と正月と夏休みとゴールデンウィークとシルバーウィークがいっぺんに訪れたかのようで、なにかにつけては鈴井にまとわりついて鬱陶しそうにされる始末だった。
「もーっ、杏! 歩きづらいってば!」
「ヤダヤダ、志帆とくっついてたいの!」
おんぶおばけのように背に貼り付いた高巻に鈴井が悲鳴を上げるのを、少年たちは呆れと微笑ましさをない混ぜにして見守るしかない。
「ー、なんでいないの、もうやだぁ」
「ヤダってなによ。そういうこと言うとこうしてやるんだから!」
「やーっ!」
騒がしくも睦まじい少女たちのやり取りの横で、坂本はそう言われればと声を上げた。
「たしかになんでいねぇの?」
ピタリと高巻が静止する。その隙を突いて鈴井は拘束から抜け出し、少年たちの背後にさっと回り込んだ。
「なんかねー……、最近付き合い悪くて」
「あんなことがあったからかな……」
わずかに落ち込んだ鈴井の声を、高巻は首を振って否定する。
「そういうんじゃなくて、なんか、三島くんが見たらしいんだけど、、他校の男子と歩いてたって……しかもすごいイケメンらしくって」
「えっ……うそうそ、にカレシができたってこと? えーっ!」
キャーと黄色い声を上げる鈴井に対して、高巻のほうが今度は落ち込んでいる。
「なにがイケメンよ……! 生半可なオトコになんては渡さない!」
「じゃあどういうのならいいんだ?」
問いかけた少年に、高巻は拳を天に突き上げて答えた。
「そりゃ、お金持ってて、背が高くて、優しくて、うんっとを甘やかして、あ、あとちゃんと強くもないとダメ。なんかあったときをキチンと守ってくれるようなぁ……当然、顔もそれなりのレベルじゃないとダメだから!」
「いねーよそんなやつ……」
呆れ果てた坂本のツッコミに、高巻は高らかな笑い声を上げる。
「アンタじゃ一つも引っかからないもんねー?」
「あ? このタンセーなお顔を見て言ってんの?」
「鏡って知ってる?」
「知ってますけどッ!?」
騒ぎ始めた二人に、鈴井はくすくすと笑い出す。
まったく平和な光景だと、少年は感嘆の息をついた。こんなふうに友だちに囲まれて騒がしくするなんて転校したばかりには思いもしなかったと、胸にはじんわりと歓びがこみ上げてくる。
するとその暖かなものを後押しするようなごきげんな鼻歌が、彼のひどく鋭敏になった五感に捉えられる。
思わずと目を向けると、彼らの少し先を噂の張本人であるが足取りも軽やかに歩いているではないか。
彼は肩に下げたずしりとした重さのある鞄を胸に抱え直して彼女に歩み寄った。
ふんふんと鼻を鳴らしてリズムを刻む彼女は、少年にも、彼が抱えた鞄にも、さらにその後ろを慌ただしく追ってくる坂本たちにも気が付かない。
『少年のような声』が語りかけた。
「ずいぶんご機嫌そうだな? なにかイイコトでもあったのか?」
は元気いっぱいに頷いて応えた。
「うんっ!」
それは『それはもう! 杏はちゃんと『彼』と合流してくれたようだし、それなのに志帆は学校にいて、改心もできて、次のパレスへの繋がりも確保できたっぽいし、順風満帆ってやつだよ!』と、言葉のないところで訴えていた。
そして、鈴井以外の『全員』が首を傾げた。
「やっぱり……」
「マジ? は?」
「え? なんで?」
「どうやら当たりらしいな」
硬直したの背を見つめながら、確信を強めるため少年は鈴井に問いかけた。
「今、猫の声がしなかったか?」
びくっとの肩が震える。
鈴井は目をぱちくりさせながら答える。
「うん。小さかったけどしたね。どこかその辺にいるのかな?」
「いるのかもね。猫みたいな、猫じゃないやつが」
「んー?」
首を傾げた鈴井に、彼は曖昧な笑みを向けて誤魔化した。今は彼女よりも優先すべきことがある。
「ふーん……コイツ、ワガハイの声がちゃんと聞こえてるってことか……」
ずしりとした重さを腕に伝える鞄の中から、彼は聞かせるようにつぶやいた。彼は今のところ、黒くて一部が白い、つややかな毛皮に覆われた、長い音三角形の耳を持つ生き物だ。
普通ならその声は「ニャー」としか聞こえない。事実鈴井はこの声の主を探して植え込みの下などを覗き込んでいる。
ニュッと先だけが白い手―――肉球を備えた猫の手が伸びて、の背にピタリと当てられる。
「なあ、聞こえてんだろ? ワガハイはモルガナってんだけどよ……」
冷や汗を流しながら、それでもはふり返らない。
モルガナと名乗った『猫』は言う。
「アンタとどこかで会ったことがないか?」
「ううう……」
は答えなかったが、しかしそのうめき声に籠められた言葉は、不思議と背後の少年らによく伝わった。
『もちろん、よく知ってるよ。ずっと一緒にいたもんね。おまえが杏のこと好きだって知ってたのにごめんね。私もあの子のこと気に入っちゃって、それでつい。キスまでしちゃった。たぶんそれ以上のことも』
「え、ナニソレ。待って待って、え? いつ? どこで?」
『観覧車―――』
「わーっ! わぁーっ!」
唐突に手足をばたつかせて喚き出したに、鈴井はギョッとして彼女の顔を覗き込む。
「? ごめん驚かしちゃった?」
「んんん……!」
「あれ……顔色悪いよ。貧血?」
気遣わしげな声と瞳には縋り付いた。胸元から素早く手帳を取り出すと乱雑に文字を書き連ねて破り取り、鈴井に押し付ける―――
そこにはこう記されていた。
『そうなの! だから急いでかえるね!』
「むいむい!」
読み終わるのを待ちもせずには鈴井を脇に除けて駆け出した。貧血や体調不良とは到底思えぬ、坂本すら唸らせる健脚であった。
「逃げた……」
「そのうち問い詰めよう」
「りょーかい」
「まっかせて」
「え? なになに? ていうか、元気じゃん。やっぱりカレシが……?」
首を傾げる鈴井の視線の先で、はふり返りもせず、バタバタと慌ただしく遠ざかっていった。