あざ笑う返報性
放課後の教室内に少年と少女が向き合って座っている。
その間には別段取り立てて特徴もない教室机が一つと、山のように積まれた紙束がある。安い用紙にはこれもまた荒い印刷が施され、簡素な一文が記されていた。
『修学旅行のしおり』―――
学び舎の外からは九月になってもまだ蝉の声が入り込み、静かな室内を満たしている。
遠く校庭から運動部の部活練習による威勢のいいかけ声と、ボールが蹴られたり打たれたりする音、体育館のほうからはまた磨かれた床を踏むキュッという甲高い音までが聞こえてくるような気さえするような静寂だった。
それを引き裂いて、用紙を折りたたむかすかな音が二人の手元から響いている。
「―――夏休み明けだって言うのに、ごめんね雨宮くん」
声は少女のほうから発せられた。
「別に、いいよ。予定もないし」
そっけなく答えて、少年は手を止めないまま小さく肩をすくめる。
少女―――はそれをちらりと見上げて、密かに安堵の息をついた。
この雨宮と呼ばれた少年は今年の春先にやってきたばかりの転校生で、前の学校で暴力沙汰を起こして地元にいられなくなった札付きの前科者だと噂されているような人物だ。
けれどこの秀尽学園高校でもそのような振る舞いを見せるのかと言われれば、さて。
転校初日の大遅刻はさておき、それから今日までの彼の生活態度というものはどちらかと言えば優等生然としていて、今では当初囁かれた噂はいったいなんだったんだろうと首を傾げる者のほうが多いくらいだ。
それでも私立の進学校に通うようなお嬢さんお坊ちゃんたちからすれば、彼はまだまだ未知の存在だった。
少なからずそんな噂を流されるようなことをしたのは間違いないんだから、当たり障りなく、適度な距離を保って、用法容量をよく守ろう。
それが秀尽学園生の総意だった。
そしてもまたそんなふうに認識していた。
だというのに今こうして二人で向き合って修学旅行の前準備に従事しているのは、単純に二人がクラス委員だからというだけだ。
は立候補したからだが、雨宮のほうははといえば、彼が大遅刻をした年度始まりの日、レクリエーションの一環としてこれを決めるために行われた話し合いの席に不在だったからだ。
内申のためとはいえ、積極的にこの面倒ごとを引き受けたがる者は以外にいなかった。そしてクラスメイトたちは彼にクラス委員という面倒な役割を押し付けた。
そのようにして、二人はなんとなく、薄らぼんやりとした縁によって結ばれたというわけだ。
課外授業だとか校内活動だとかにまつわる細々とした作業を二人で黙々とこなすのももはや慣れたもの。
はじめこそはこの少年との共同作業に怯えていたものだが、前述の通りこの雨宮という少年は噂と違ってずいぶんと大人しかった。
に言わせれば大人しいどころか、が請わずともこの押し付けられたクラス委員という役割をよく果たす真面目な優等生以外の何者でもない。
「ハワイだっけ」
「うん。海外行ったことある?」
「無い。は?」
「私も無い」
集中が途切れて疲れが見え始めればこうして雑談まで振ってくる。
よく気が利いて、人を見て、先んじる。
から見た雨宮という少年はそういう存在だった。
こうなるとますます前科とやらが不思議でならないが―――
好奇心のまま行動することがときに人を傷つけることもあるとは承知していたから、ぐっとこれをこらえて飲み込んだ。
それもおそらく雨宮は見抜いているだろう。
だって見抜いていた。
『みんな』が『雨宮蓮』を避けているのではなく、『雨宮蓮』が『みんな』を避けているんだと。
それならば己も倣うべきだとは言葉のないところで彼を尊重した。だからなんてことのない雑談にも乗るのだ。
「竜司がさ」
「隣のクラスの」
「そうその竜司。この間雨が降って、駅の床が滑って、そしたらあいつが転んで……カーリングの球みたいにスーッて」
「何点とれた?」
「もう一人……喜多川ってやつが別の意味で滑ってたから二点」
「雨宮くんも転けてたら三得点だったのにね」
「惜しかったな……」
さして惜しくもなさそうに淡々と喋りながらも手は淀みなく。
そも高校生にもなって旅のしおりもなにもないだろう。しかも行き先は海外だぞ―――と、などは思わないでもなかったが、しかし詳細な日程やホテルの案内図、滞在地の簡易なルートマップが記されたこれは、なるほど旅行前の予習という意味ではそれなりに有用そうではあるのだ。
「印刷会社に頼むんじゃダメだったのかな……」
「さあ……とりあえずそこまで厚いしおりじゃなくて助かった」
雨宮の声に抑揚はないが、受け答えははっきりとしている。
はこうしたおしゃべりの合間に雨宮が「うん」とか「ああ」とか、「そうだな」と相づちを入れるのが好きだった。
「修学旅行かぁ」
「うん」
「旅行っても修学なわけじゃん」
「ああ」
「ということは勉強の一環になるんだよね」
「そうだな」
「なんかしらに響いたりするのかなー……」
分からないなと応えて、雨宮は冊子の最後の一つをホチキスで留め、机の上に放り投げた。
「終わり?」
「終わり」
「おつかれさま」
「おつかれ」
トン、と端を揃えて重ねられた物を、はさっと持ち上げる。いくらか腕にずしりとくる重さだが、女子一人でもどうこうできる範疇だ。
立ち上がって彼女は言う。
「先帰っていいよ、あとは川上先生の机に置いとくだけだから」
これくらいはさせてくれと目で訴えるに雨宮はもの言いたげに小さく首を振るが、彼がなにかを言わんとするのを封じるようには言を重ねた。
「修学旅行」
「え?」
「楽しみだね。いい思い出っていうか、楽しいこと? そういうのがさ、この学校でも、なんか一つくらい……」
できるといいね。
囁くようにして告げて、は踵を返してすばやく教室を出ていった。
パタパタと響く足音が遠ざかるのを聞きながら、少年は静かに椅子を引く―――
彼女が長いこと座っていた椅子は、向き合って行う作業のために本来向かうべき教室前方ではなく後ろを向かされていたから、雨宮はこれを正しい形に戻してやった。
それから、鞄を取り上げて帰ることもできたが、彼はそのまま己の席に戻って腰を落ち着ける。鞄の中から小説本を取り出して、この暑い中長期戦の構えまで取った。
どこかから猫の鳴き声がする……
少年はそれに応えるように「がんばる」とつぶやいたが、返ってきたのはやはり小さな猫の声だけだった。
しばらくの後、と雨宮は並んで校門をくぐっていた。
任務を終えて教室に戻ったに、雨宮が「一緒に帰ろう」と提案したのだ。そしてとりたてて断る理由もないがこれを受け入れた。
また雨宮は言う。
「どこか寄っていかない?」と。
は少しだけ考えるそぶりを見せた。
このあとの予定―――今日は予備校も、友人と遊びに行く約束も、母親からの連絡もない。課題や予習をしたくはあったがそれは夜にやればいい。
彼女はこれを了承した。
考えてみたら―――
雨宮とがこのように学外で過ごすというのは初めてのことだった。
校内であっても話すことといえば当たり障りのない、委員会活動や身の回りの些細なこと、試験の範囲、学校活動についてがほとんどで、お互いのこと……とみに雨宮は自分自身にまつわるパーソナルデータを話したがらなかったから、そういったごく個人的な興味や好き嫌いを二人は全く知らなかったことに気が付いてしまった。
半年も一緒に委員会活動に従事してきたというのに。
二人は無難なファミリーレストランに腰を落ち着けるのが精一杯だった。
「―――そしたらウチのお母さんがね、別に鍵はなくても大丈夫なのにJAFに電話し始めちゃって」
「来ちゃったのか?」
「ううん、なにか言う前に取り上げたから」
とはいえ、にはそれで充分だった。
バイトもしていない身では自由に使えるおこづかいに限りがあったし、普段の行動圏内から遠く離れることには不安もある。かえって雨宮がこうして馴染みのある場所を選んでくれたことが嬉しくもあった。
『だから』ここを寄り道として選んだのか?
もしかしたら、すっかりすべてを見抜かれているんだろうか?
は雨宮を前にするとき、このように思うことが度々あった。
元より気が利く少年だ。その根本はおそらく鋭い観察眼や五感によって成り立っているように思える―――
では今自分は観察されているのだろうか。あるいはともにいる時は常に。そうでなくとも、雨宮がを目にする機会など、同じクラスに所属する以上いくらでもあるだろう。
はそれが不思議と嫌ではなかった。
彼の気遣いによって助けられたことが幾度となくあったからだ。課外活動における諸連絡にあった不備の指摘とその修正、予定外の消費に資材が不足して混乱している間にどこからか予備を用立てたり、設置や誘導においても表立つことはしたがらないが、アシストという意味では彼は本当に如才ない人材と言えた。
そう思うなりはまったく無意識的に小さく喉を鳴らした。
それだけ世話になって、それなりに友好的な関係を築けていると自覚しているはずなのに、今の今までこうして差し向うことなど任された活動以外でしようともしなかった。そのあまりの不覚さと不調法に笑えてきたというわけだ。
「なに?」
「え?」
すると目ざとくそれを見て取った雨宮が指摘する。
「今笑ったろ」
「いや別に」
「気になる。なに?」
問いかける雨宮のまだ少し幼さの捨てきれない面差しには優しい笑みが乗せられている。それは彼もまた今のこの状況を楽しんでいることの証のようだった。
「あー……ただなんとなく、ウチらけっこう、クラスの他の人らよりかは話すほうだと思ってたけど、こうして学校の外でダベるのは今までしてなかったなーって」
もちろん雨宮にだって以外に会話を交わす相手くらい校内にわずかではあるが存在する。それは同じクラスの高巻杏であったり、三島由輝であったり、隣のクラスの坂本竜司に、そういえば新聞部の子とも幾度か会話している姿を目撃したなとは思い返す。他にも生徒会長と並んでいる姿を見たこともあるが、あれはなにかしら注意をされていただけなのだろうか? クラス委員を押し付けられた以上はある程度生徒会との連携は必須になるから、その関係かもしれない―――
の脳裏を過るいくつかの記憶を雨宮の柔らかな笑い声が遮った。
「そういえばそうかもな」
穏やかなその様子はにとっては半年も付き合いがあって初めて目撃するものだ。この秘密主義の少年は、どうやら今になってに心を開こうとしてくれているらしい。
そうなると少女の心には好奇心と、自分は彼の数少ない交友関係の範囲に入れられたのかもというささやかな優越感がむくむくと膨らみ始める。
は自分自身でもちょっと調子に乗っていると自覚しつつ口を開いた。
「言ってて―――こうやって話すのって珍しいねって自分で言ってて気になったんだけど、どっちかっていうと、雨宮くんがこういうの避けてた……よね? なんか遠慮してる、みたいな、そういう」
それが今になってどうして誘ってくれたのか。わざわざあのバカみたいに暑い教室で待ちまでして。
少女の瞳に輝くちょっと下世話な輝きに雨宮は苦笑する。どこかで小さく猫の鳴き声がした気がした。
彼はこの質問にすぐには答えなかった。
水っぽい泥のようなアイスコーヒーで唇を湿らせながら、少し勿体つけるような躊躇するような間をおいて、恥じらいとともに口を開いた。
「嬉しかったから」
「え?」
「言ったろ、いい思い出を作れたらって。それが嬉しかった……」
だから、と少年はまっすぐに顔を向けて伊達眼鏡の下のややつり上がった目を細める。
「だからと仲良くなりたいって思った」
どちらかといえば普段あまり感情や気持ちというものを露わにしないこの少年から向けられる全幅の信頼や好意というものに、は面食らってわずかに後退った。これは椅子の脚を軋ませるだけだった。
「ほ、ほーん……」
こう返すのが精いっぱいだった。
―――なるほどこの子は、たぶん本来ならこういう人懐っこい顔をするひとなのだろう。今までそれが表れなかったのは極端な人見知りか、あるいは警戒心が強すぎるのか……
いずれにせよ彼女にとっても悪いものではないことは確かだった。
そして少年はそのことを見抜いているかのように、ひどく楽しげな様子で問う。
「いい?」
主語の存在しないこれには首を傾げた。
「え? なにが?」
少年は再び苦笑して、正確なところを告げようとじっと彼女の瞳を覗き込みつつ口を開く―――
「そうしてもいい?」
けれどそこにはやはり主体が存在していない。ただにはそれで充分だった。
つまり彼は、彼の言うところの『仲良くなりたいと思った』が故の行動の許可を求めているのだ。
そんなことは許可を求めるようなことではないとは思う。好きにすればいいと、勝手にすればいいと。
それにこんなふうに己の行動を宣言するなんて、なんだかまるで―――
「い……いいんじゃない?」
ごくりとつばを飲み込んで返された言葉に、少年は甘やかな眼差しと笑みを突き付けた。
「ありがとう。じゃあ、そうする」
なんだかまるで、噂の怪盗団に予告状でも叩き付けられたみたいじゃないか。
……
―――はこのようなやり取りがあったことを、修学旅行が無事、なんの滞りなく済んだことに安堵して忘れていた。
そもそも例の校長の不祥事による対応で引率の教員が足りないという時点で不測過ぎるの事態だったのだ。予備役として三年の一部の生徒が抜擢されて来てくれていたとは言え、クラス委員であるところのの負担は自然と膨れ上がっていた。
それでも自分の時間を持つことも、初めて訪れた国外という環境を満喫することもできたのはやはり引率を引き受けてくれた上級生たちのおかげだろう。二年で代表者を募って感謝を形にして示すのもいいかもしれない―――
そのように思いながら昇降口を出たは、そこにある光景に不快感を抱いてわずかに顔をしかめさせた。
校門のすぐそばに、まだマスコミ関係者らしき人影がうろついている。
修学旅行にまで影響を及ぼした校長の不祥事とその後の自殺の件を、この者たちはまだ囃し立てようというのか。
下手に目を付けられて話しかけられてはたまらないとは足早に門をくぐり、駅に続いている路地を選んでそこに飛び込んだ。
幸いなことに門前に張っていた記者たちはこの少女を追うようなことはしなかったが、通い慣れない細い小路は彼女の足元に暗い影を落としている。
まだ夏の暑さがしつこく残る路地には低く唸る室外機の音と、飲食店から出たごみが放つ臭気が漂い、ふと彼女の胸に週刊誌や電車の釣り広告、テレビのニュースから得た情報を必要もないのに返して押し付けた。
それらはこのなんの変哲もないごく普通の女子高生を不安にさせるのには充分過ぎる材料だ。
背後から何者かが小走りにやってきている足音が反響し始めている。
やだなぁ、なんだかこんな場所ではちょっと不気味だ。自意識過剰かもしれないけど、走って抜けたほうがいいのかな―――
そう思って足に力を入れた彼女の背後から、カツンと確かに地を踏む音が鳴り響いた。
(近い―――)
振り返ったの上に影が覆い被さる。
少女は喉を引きつらせて悲鳴を上げそうになった。反響によって彼我の距離を誤っていたらしいと知った恐怖と―――
「」
それが見知った顔であることの安堵がいっぺんに襲いかかって、少女はその場に膝を付きそうなほど脱力した。
「あ、あ、雨宮くんか……!」
「誰だと思った? ていうか、歩くの早いな」
朗らかな笑みを浮かべたのは正真正銘、雨宮蓮に他ならない。
……いつの間にか下の名前で呼ばれるようになっている。
とは、遠く南方、ハワイの島々でも思ったことだ。
宣言通り『仲良くなりたいと思った』が故の行動を開始した雨宮は、さっそくその方針に従って動き始めた。
手始めに下の名前で呼ぶことから始まり、飛行機やバス、あるいはホテルのロビーでちくちくと彼女にちょっかいをかけてきた。
基本的にはクラス分けに関係なく自由行動を許されているのだから、たとえクラス委員であっても一緒にいる必要は無い。だから常にというわけではなかったが……
おそらく彼が校内で一番親しくしているのであろう坂本竜司の前で「」と名前を呼び付けられて満面の笑みを向けられるのは遠慮して欲しかった。
なんなら彼は他に高巻杏や生徒会長……新島真、それから見知らぬ背の高い少年の前ででも同じことをやらかした。
あの信じられないものを見たかのような目は一生忘れられないだろうとは、の主張したいところだった。
さておき、あの土地での思い出はがそうであるように雨宮にとっても良いものになったはずだ。彼は確かに「すごく楽しいよ。と一緒だからかもしれない」と夕日の沈む海を目の前に―――
は記憶を振り払って雨宮に向き直った。
「それで、こんなところでどうしたの?」
「一緒に帰ろうと思って。なにか予定ある?」
「ないけど……」
「じゃあ行こう」
雨宮は有無を言わせず彼女の横をすり抜けて先を歩き始めた。足取りに迷いがないところを見るにこの道を頻繁に行き来している様子だ。
通学時間はさほど変わらないはずなのに姿を見たことがないと思ったら、こんな近道を利用していたとは。
呆れつつ、また安堵しつつは彼の後を追った。
そうして連れてこられたのは駅を通り過ぎた先にある公園だった。
無人のベンチに並んで腰を下ろすと雨宮は再び例の眼―――なにもかもを見抜くような瞳と、それを覆い隠すほどの親愛の情の籠もった眼差しをに向けた。
「少しは仲良くなれたかな」
「な、仲良くなりたいってマジだったの?」
「冗談だと思ってたのか?」
「だってそりゃ、うん、まあ……」
「ええー……」
大げさなくらいにがっかりしてみせて、雨宮は天を仰いだ。
確かに以前とは違っている。に大した変化はないが、雨宮のほうはまるでやっと飼い主に心を開いた捨て犬のようだ。
しかし彼は人間で、と同い年の男児である。
はっきり言って、はこれに困り切っていた。なにしろ異性にこんなふうにあけすけに好意を寄越されることも、懐かれるようなこともなかったのだ。
だからどう対応していいのか解らない。
かといって以前のようにはもう戻れないのであろうこともまた彼女は承知していた。
わずかに俯いた少女の横顔をじっと見つめて、雨宮はかすかに口元を緩める。
「……まあ、今日声をかけたのは寂しかったからっていうのが大きいんだけど」
この言葉には顔を上げて彼のほうへ向けた。思惑通りに動かされているのだなどとはつゆとも知らず、目を瞬かせている。
「なんで?」
「普段一緒にいるやつがどっか行っちゃった」
「喧嘩でもしたの?」
「俺とじゃないけど、した」
「親とか? じゃあプチ家出的な?」
家出、というワードに雨宮はかすかに、ほんのわずかに眉を寄せて頷いた。
「はー、そっか、なるほどね」
だから寂しいのかと納得するの隣で、雨宮は細く長い呼気を漏らした。
てっきりこれも冗談かと思いきや、吐息には物憂げなものがたっぷりと詰め込まれているようだった。
どうやら本気で落ち込んでいるらしいとみて、はどうにかしてやりたいとごく自然に思う。
そしたらどうしてあげたらいいんだろう。なにか飲み物でもおごってあげればいいのかな。それとも食べられるもののほうがいいんだろうか。
でも―――
寂しくて不安なとき、例えばはつい先ほどまで漫然とした不安感や落ち着かなさを感じていたはずだが、いつの間にかそれらはすっかり消え去っている。
それは雨宮がこうして声をかけてこの場にまで誘ってくれたからだ。驚かされたこともある。
であれば、己もそれに倣おう。
は腕を伸ばして少年の、少し癖のある黒髪に手を触れさせた。
「えっ、あ、う―――」
驚きに硬直した雨宮の頭部をの小さな手が撫でたり、優しく叩いたりを繰り返していた。
また彼女はちょっと照れくさそうに笑ってこうも述べる。
「おーよしよし、元気になれよー」
冗談めかしたのこの声に雨宮は少しだけムッとしたように口を尖らせたが、優しく行き来する手の柔らかな感触に顔を伏せて押し黙った。
「心配しなくてもすぐに帰ってくるよ」
少女の口から吐き出されたのは根拠のない無責任な言葉と言えた。
けれど雨宮はその手の暖かさとともにその言葉がじんわりと心の内に染み込んでいくのを感じている。
おそらくはこの彼の言う『普段一緒にいるやつ』を坂本か、あるいはペットとでも思っているのだろう。それは概ね間違った認識でもない。
雨宮は事の次第を胸に返して歯を噛むと、ゆらりと重心を動かして彼女の肩に頭を押し付けた。
「……ごめん。ちょっと肩貸して。思ってたより凹んでたことに気が付いた……」
そうと言われてしまうと、はこれを拒めない。手を止めぬまま、彼のしたいように、彼女が不快ではない範囲で好きにさせてやる。
やがて彼は落ち着きよく収まる場所を見つけたのだろう、身じろぎしなくなると低く囁くようにして喋り始めた。
「俺は駄目なリーダーなのかも」
には彼の言うリーダーというものがどの集団の長を指すのか解らなかった。けれど口を差し挟むことはせず、黙って彼の愚痴のような懺悔のような言葉に耳を傾け続ける。
「目の前で喧嘩してるのに、どうしてそうなったのかも解ってるのに、一言も口を挟めなかった。あちこちでフラストレーションが蓄積しているのは見えていたはずなのに」
このよく気が付く少年でもそんなことがあるのか―――
思えどやはりは沈黙を保った。
「たしなめる機会は何度となくあったのに……俺ってちっちゃい……」
十分大きいだろうと肩にかかる重みを堪えながら思うが、やっぱりは口を結んだ。
訳を知らぬ自分が口を挟むのもなんだかなぁと思えたのだ。
いつしかは手をおろし、膝の上において息を潜めていた。雨宮のほうはもう言うことも無いのだろう。どこか遠くをぼうっと見つめ、ただ唇だけを動かして『普段一緒にいるやつ』の名前を呼んだ。
それは彼にとって忌々しく口うるさいお目付け役であり、恩着せがましい導き手である。短く細い毛をばら撒き、布団の一部を占拠する悪党でもあった。
でも……あの柔らかな毛皮の感触と体温は不思議とこの少年を落ち着かせるのだ。アニマルセラピーなんて言葉の意味を、彼こそが強く実感していた。
不安や恐怖、心細さを封じ込めるものを求めて雨宮の手はさまよった。
それはやがて一つの小さな、柔らかく暖かなものを見つけてぎゅっと握りしめた。
それは少女の右手である。
は肩にかかる重み以上に緊張して、しかし振り払うこともせずに心臓を跳ね上げさせた。
それも雨宮の落ち着いた規則正しい呼吸を感じるとすぐに治まる。
ああ、こうしているとこのひとは落ち着けるんだなと確信して、は手を握り返してやった。
図体ばかり大きくなっても、なんだかまるで小さな子供みたいだと思ったのだ。
そしてあらゆる事象の決まり事として終わりがあるように、この時間にもやがて終わりが訪れる。それは少年のポケットにしまわれていたスマートフォンが奏でる通知音として現れた。
眠りに落ちる直前のような心地よさに包まれていた少年ははっと我を取り戻し、慌ててポケットを探る―――
首尾よく手の中に収めたスマートフォンの画面を見つめて、彼は慌てた様子で立ち上がった。
「い―――行かなきゃ、あの、、俺は……」
落ち着かない様子で足踏みをしながら見下ろしてくる雨宮の申し訳なさそうな目線に、はまだ眠たげな目をこすりつつ応えてやった。
「だいじょうぶ、今日のことは誰にも言わないよ」
「そっ……うだけど、それだけじゃなくて……」
これには小さく笑う。こんな慌てた様子の彼を見るのは初めてだったからだ。
くすくすと笑う彼女の姿に雨宮は声を失って、まだそわそわと脚を揺らしながら頭をかく。彼は明確に照れて恥ずかしかっていた。
「……また、声をかける。だからなるべく、放課後、空けておいて」
無茶な注文であると言い返すのは簡単だったが、はただ頷いて返してやった。
それを見て少年から嬉しそうに、また安堵の息をもらすから、きっとこれで正解なのだろうと満足感が胸ににじむ。
雨宮は後ろ歩きに数歩後退って、彼女に向かって手を振った。
「それじゃあ――― また、明日学校で」
「うん。バイバイ」
振り返して、は背を向けて走り出した彼の姿が小さくなるまでぼうっとその場に居残った。
その小さな心臓が落ち着きを取り戻すまで、彼女はずいぶんと長い間ベンチの上に固定されていた。
……
少しして、すっかり復調したらしい雨宮は三度彼女を誘って制服のまま街に繰り出し、今は駅に直結したデパートの地下一階、そこにあるジェラートショップのカウンターに落ち着いていた。
椅子はないが肘を預けられるだけでも充分と並んだ二人は、見た目にも美しいジェラートに舌鼓を打っている。なかなか夏の暑さが抜けきらない九月の半ば、これはこの上ない甘露であった。
さて、ミントの香りと冷たさの中にあってなおとろけるようなチョコレートの甘さに目を細めながらは彼に問いかけた。
「そういえば、前に言ってたプチ家出は解決したの?」
雨宮はまた、鮮やかな発色のマンゴークリームをプラスチックのさじですくいながら答える。
「うん、ちゃんと帰ってきてくれた」
は満足げに頷いた。
「そ。良かったね」
ただしその声はどこかそっけない。彼女はすっかり目の前の甘いものに夢中になっている様子だ。
だから続けられた少年の言葉を聞き逃す―――
「まあ今日はモルガナにはどっか行ってもらったんだけど」
「あー?」
「なんでもない」
笑って誤魔化して、雨宮はすくい上げた冷たい塊を口の中に放り込む。舌の上で直ちに溶け落ちたそれからはフルーツの爽やかな香りとやや重ための甘さ、それを後に残さない酸味が優しく広がった。
けれど彼の目は己の手元より、少女のほうばかりを見つめている。
「……そっちのも美味そうだ」
顔を上げたは、少年と己の手元を見比べて、
「チョコミン党員か?」といくらか低い声で問うた。
彼は答える。
「そこそこ」
「よろしい。一口食べていいよ」
何故か尊大に応じたは、手の中のワッフルコーンに鋭く盛り付けられたジェラートを彼に差し向けた。
しかし―――
「ん」
雨宮はいっこうにそれには手を伸ばさず、軽く口を開けて顎を上げるばかりだ。
「ん?」
首を傾げたに、少年はいくらか焦れったそうにつま先で床を叩いた。
「あー」
「あー?」
「あー……まだ?」
顔を隠すクラウンパントの下の黒々とした瞳はいたずらっぽく細められている―――
意図を察して、は手の中の氷菓のように凍り付いた。
この少年はつまり、手づから匙とりて口へ運べと、そう言葉もなく訴えて入るのだ。
はこれを拒絶できる立場にあった。そんなことをしてやる義理もなければ、義務もないのだ。
しかしどうしてか、彼女はおずおずとすくい取ったそれを少年の口へ運んでやる。
「……あ、あー」
「ん……」
閉ざされた唇からさじを抜き取ったあともは水気に艶めくそこをじっと見つめていた。なんだってこんなことをしているんだと己に問いつつも逃げ出すことはどうしてか叶わない。彼女の羞恥心とは関わりなく、脚がこの場に居たがっているようだった。
けれどやがて少年が渋い顔をして言った言葉に正気らしきものを取り戻す。
「んー……ごめんやっぱり党抜けるわ」
「う、裏切り者ぉ!」
喚いたが、これもまた長くは続かなかった。大きく開いた彼女の口の前に、少年が彼女がしてくれたのとそっくり同じようにさじを差し出したのだ。
「はいあーん」
「あ、あぁ……っ!?」
瞠目するの目の前でゆらゆらと鮮やかな黄色が揺れる。
「溶ける。早く」
急かされて、はそれに食らいついた。
「あむ……むむ……」
複雑そうな顔をする彼女に対して、雨宮はいかにも楽しげに顔を綻ばせる。してやったりというところか、はたまた餌付けに成功しそうな気配を感じ取ったのか……
いずれにせよ彼がこの状況を楽しんでいることは明らかだった。
「どう?」
「チョコミン党のほうが支持層の熱が強いし……」
「それ一部の声が大きいだけだよな」
「くっ……」
呻いて再びさじを手にしようとしたは何某かの力によってこれを取り止め、直接ジェラートに口をつける。彼女にとってはこの上なく好ましい、しかし人によっては歯磨き粉のような風味が口いっぱいに広がった。
そんな彼女の姿を面白がって見下ろしながら、雨宮はまた戯れを口にする。
「きのこ派? たけのこ派?」
益体もないどころかなんの意味も見出だせないこの問いかけに、しかしは慎重に答える。
「……きのこ」
「よし」
深く頷いた少年は、そのまま類似した問いを思いつくまま彼女に投げかけた。きつねかたぬきか、ポッキーかトッポか……果てはスターウォーズかスタートレック、バルセロナかレアル・マドリードにまで話は至った。
場合によっては戦争にも発展しかねないこの二択の取捨において、二人はほとんどで同じものを選んでいた。
「……なんか今までこういう話をしなかったのが損ってくらいに気が合うね」
「かもね」
機嫌を取り戻したらしいは、先の食べさせ合う一幕をすっかり忘れて楽しそうに鼻を鳴らす。
「他になにかあるかな。あ、野球は? 巨人? 阪神? それとも横浜?」
「うーん……」
「迷うところかぁ」
へらと笑う彼女の唇の端には食らいついたおかげだろう、溶けた氷菓がへばりついている。
それを見つめながら、雨宮はまた目を細めた。その瞳には企みと、零れ落ちそうなほどのいたずら心が垣間見えた。
「んー……それよりも」
「なになに」
はこのどちらにも気が付かない。無邪気な様子で子供っぽく首を傾げて、与えられるのであろう楽しみを期待して瞳を輝かせる始末だ。
雨宮はニヤッと口角を釣り上げて、お互いの手の中の甘味よりよっぽど甘やかな声でもって彼女に囁いた。
「俺のことは好き? 嫌い?」
再び、少女は凍り付く。適温に保たれた店内の空気にジェラートは柔らかくなり始めていたから、ともすれば彼女のほうが硬くなっているかもしれない。
少年はそんな彼女の口元に手を伸ばし、貼り付いた汚れを赤ん坊にしてやるように親指の腹で拭ってやる。これにまたは身を硬くして、追い詰められた草食獣のような眼差しを彼に向けた。
「どっち?」
まるで応援しているスポーツチームや菓子の銘柄を尋ねるような気軽さで急かすと、己の親指を軽く舐め取った。歯磨き粉の味。
は慌てて彼の手と指、その近くの唇と、わずかに覗いた赤い舌から目を逸らした。小さな心臓は今や不整脈でも起こしたかのように不規則に脈打ち、意識を保っていられるのが不思議なくらいだった。
そして少女はなんとか、辛うじて、精一杯になりながら己の正直なところを明かす。
「す……好きのほう」
曖昧な言葉を付け加えたのはプライドか恥じらいか。どちらにせよこの答えに少年は満足げに吐息を漏らして顔中を綻ばせた。
「俺も好き」
それは、自分自身がという意味か? 大したナルシシズムだ―――
そうからかってやろうとする彼女を、雨宮は続ける言葉で封じ込めた。
「だから、もっと仲良くなりたいって言ったら、困る?」
はもはや声を失ってなんと答えることもできなかった。
あのとき―――
あのとき、彼の『仲良くなりたいと思った』が故の行動を許可すべきでは無かったのだ。
何故なら人というものは、大して興味のない相手でも、仮にまったく初対面の相手であっても、親切にされたり好意を告げられたりしてしまうと、それを返そうと無意識に動いてしまうものなのだ。
彼女の無意識こそが彼女をあざ笑っている。
そして今度こそ、無意識や心理的性質なんかではなく、は彼女自身の意思でもって首を振った。