二月十四日の悲喜こもごも
本命だとか滑り止めだとかの入学試験で忙しい中、それでも手作りのチョコレートが差し出されたことに、喜多川は安堵と歓喜の入り混じった息をついた。
「時間がなかったからあんまり手間はかかってないんだけど」
申し訳なさそうに差し出されたのは小さな紙袋だ。その中に待ち焦がれたものがあるのだと知っているから、彼は喜んでこれを受け取った。
しかし口はどうしてかこれを押し隠して皮肉めいたことを言う。
「お前の言う手間のかかっていないほど信用できん言葉もないな」
当然はこれがただの照れ隠しの類であると見抜いている。わざわざ探るような真似をする必要もない。彼は顔中を薄っすらと綻ばせて、目に見えて喜んでいた。
この嬉しそうな顔を見れるのなら、少しくらい睡眠時間を削った甲斐は十分ある。思い、はそんな己にこそ苦笑して告げてやる。
「そうでもないよ。本当に去年ほど手間は掛けられなかったんだ。味は悪くないと思うけどね」
「去年……」
喜多川が紙袋に鼻先を突っ込みながらぽつりと呟いた。彼の鼻腔は甘いチョコレートの香りとバター、それからナッツの香ばしいにおいで満たされている。決して高価なものではないと知っているはずなのに、目の前の少女が気持ちを籠めてくれていると知っているからだろうか、それは彼にとってなによりもかぐわしく感じられた。
人通りは少ないとはいえ男子寮の目の前でのことだ。の手が軽く彼の手を叩いてこれを窘めると、不満げな顔が上げられてへの字の口が現れる。
それはまったく不愉快そうに同じ言葉を繰り返した。
「去年」
一年前の今日のことを思い返しているのだろう。ぎゅっと眉が寄って、あまり蘇らせたくない記憶を反芻していることを教えていた。
「去年ね」
同じく呟いたも一年前の出来事を脳裏に思い描いて苦々しい表情を作る。
去年の今日、二月十四日。『彼』の帰還の翌日―――
は小さく首を左右に振って記憶を振り払った。
「アレを今年もやっているんだろうか」
しかしどことなく感慨深げに呟く喜多川の声に、記憶はすぐに再来する。
思い出すのはやめようと、いけないと思えば思うほど、それは色濃く思い返された。
……
一年前の二月十四日。喜多川少年は浮ついた気持ちを隠しもせず待ち合わせ場所に駆け込んだ。
なにしろ出がけにから受け取ったメッセージには「期待してくれていい」とあったのだ。文字通り期待に胸を膨らませて現れた彼に、先に到着して彼を待ち受けていたは自慢げに腰に手を当てて言い放った。
「自信作なんだ!」
彼女がこのように自身深げに振舞うのは珍しい。常とて確信を持たないまま言葉を発する性質ではないが、これほど昂って瞳をらんらんと輝かせているのは初めてのことだった。
「そこまでなのか」
挨拶すら忘れて歩み寄ると、やはり彼女は自信満々と首を縦に振る。
「ふふふ……アメリカ発祥のチョコレートケーキなんだけどね、カロリーを計算したところ、八等分の一切れできみの一日の必要カロリー摂取量を余裕で満たせるんだよ!」
拳をつくって熱っぽく語る彼女の姿に喜多川は軽く目を見開いて首を傾げた。
「摂取量……?」
推測するに、彼女は十三日……怪盗団の頭領たる少年の帰還を祝うささやかな集まりが解散したのち菓子作りに取り掛かったのだろう。当然そのとき、普通の女の子であれば相手が喜ぶものをと思うものだろう。そういう意味ではは極めて一般的な女の子であると言える。そんな普通の女の子であるところの彼女はきっとおそらくあれこれと頭を悩ませて、この規格外の少年の喜ぶものを模索したに違いない。
そして彼女は迷走した。喜多川にはそれが目に見えるようだった。
また結果として超高カロリーのケーキが作り出されるあたりに、彼女から見た喜多川祐介という少年の人物像が窺える。
己はそんなに彼女の前で腹を空かせていただろうか。喜多川は軽く脳裏の記憶を探ったが、答えは出なかった。
とりあえず彼は思ったままを口にしてやる。
「まるで非常用食糧だな」
これにははっと息を呑んで、昨晩から続いていたのであろう迷宮からやっと抜け出して顔を青ざめさせた。
たしかにチョコレートはチョコレートだが、好きな男の子―――あるいは、恋人に渡す本命チョコとしてはちょっと横道にそれてしまっている。
「しまった……」
項垂れて両手で顔を覆う少女の姿とは裏腹に、それを見つめる喜多川の瞳にはこれといった怒りや呆れは存在しない。手の中の紙袋にはずっしりとした重量感があり、そこから甘い香りが漂っているというだけで彼にとっては快いものだ。
彼はこれに十分すぎるほど満足していた。この手にかかる重みこそが彼女の気持ちの表れだというのなら、それに文句などつけようがないではないか。
彼氏としては百点満点の思考であったがには伝わらない。言葉にしなければいけないかと口を開くのと、彼女が勢いよく顔を上げるのは同時だった。
「やり直しをさせて」
「は?」
間抜けな声で応えた喜多川に、は大きく一歩を踏み出して距離を詰め、人差し指を紙袋に突き立ててこう供述する。
「だって、せっかく、やっと……彼が戻ってきて、もうなんにも心配しなくてよくなったのに、ま、またやらかした」
「俺は別に」
非常用食糧のようなチョコでも嬉しい。と言おうとするのを、少女の若干潤んで、いっぱいいっぱいになっている瞳が遮った。
「駄目なんだ。それじゃ、全然『本命』チョコっぽくない!」
喜多川はなるほどと頷いて彼女の言葉を繰り返した。
「『本命』か」
再び、は息を呑む。
待ち合わせは駅前の著名なランドマークだ。休日のこの日、まだ午前中とはいえ辺りは人で溢れている。そのすべてではないが、しかし幾人かは確実にの大声での宣言を聞きつけて興味深げな目線を送っていた。
勢い込んでいたはずの少女は塩を振られた青菜のようにしおれて、また俯いて小さく震え出した。
この羞恥心の強さときたらどうだろう。厳しい母の躾のもと過ごした幼年期の人格形成が影響しているのかとも思われるが、実際のところは喜多川にも仲間たちにも解りはしない。
ただ仲間たちは時折「二人を足して割ったらちょうどいい人格が生じるのでは」というテーマを掲げて熱く議論を交わすことがある。結論はだいたい、暴走癖がより極まって手に負えなくなるというところに落ち着いていた。
さて、喜多川は腕を組んでうんうんと頷いては繰り返す。
「そうか、そうだな『本命』だよな」
「う、ぐ……くっ、ちがくて」
「違うのか!?」
呻いて否定しようとする彼女の照れ隠しを真に受けて、喜多川は大げさなくらいに動揺してみせた。それにこそが慌てて手を振るから、視線はますます二人のほうへ向かう。
「違わない……んだけど、でも、そうじゃなくて……」
「どっちなんだ」
「違わないほうであってる。ただ、とにかく……やり直しを要求します」
「俺はこれでも構わないんだが……お前がどう思っていようと、嬉しい。これがいい」
喜多川はやっと己の思うところを伝えることができてほっと息をつく。
この照れくさそうに吐き出された台詞に、は口を引き結んで顔を赤らめた。どうにもそれは「そうじゃない」と言いたい様子で、喜多川は大人しくじっとしたまま彼女の答えを待つこととする。
やがては掠れた声で
「だからね」と意図するところを伝えようと努め始めた。
「祐介が、それでも喜んでくれてるのは、それは私も嬉しい。でもそうじゃなくて……だから、つまり、私が満足したいんだ。やっと気兼ねなく二人で逢えるのに……」
もっと『それらしい』ことがしたかったのだ。
拗ねたような語調で言われて、喜多川はやっと得心する。つまりこの子は、ドラマや映画、あるいは恋愛小説にあるような甘ったるいシチュエーションを再現してみたかったと、そういことだろう。
喜多川少年は深く、深く頷いて、わっしと彼女の小さな手を掴んだ。
「よく分かった。俺も男だ、お前のその心意気を汲もうじゃないか!」
はほんの少しだけ正直になったことを後悔する。ちょっと人に言うのは恥ずかしい少女趣味を夢見るには、やはり相手が悪かったかもしれない、と。
しかし彼女は同時に、こうやって健気に付き合おうとしてくれる気概があるからこそとも思う。
小さく笑って、は少年に言い付けた。
「じゃあ作り直してくるから午後に再集合でいい?」
彼はまったく素直に答えて言った。
「それは嫌だ」と。
理由は単純だった。喜多川ははじめから今日は一日中一緒にいられると思っていて、それこそを楽しみにしていたのだ。やり直したいというの要求に異論はないが、それとこれとは話が別だとさんざん駄々を捏ねて渋った彼は、最終的にの家にまで上がり込むことに成功した。
とはいえ初訪問というわけでもないし、かつて彼女の内にあった歪んだ欲望の具現化、パレスの構造は規模を除けばこの家とそっくりだったから、勝手知ったるもの、先にスーパーでいくつかの材料と夕飯用の食材を買い足した彼女を手伝って台所に入り込むのももはや慣れたものだった。
「円さんは?」
の母親の姿が見えないことを不思議に思って問いかけると、彼女は野菜室にあれこれと詰め込みながら「本当はいるはずだったんだけど、急な呼び出しがあったとかで出かけて行ったよ。夜は彼氏とデートらしいから、遅くになるまで帰らないんじゃないかな……」とどことなく遠い目をして答える。
ふうんと軽く答えて、喜多川はこれといった思惑もなくぽつりと漏らした。
「では今は俺たち二人だけか」
少年の背後で、乱暴に冷蔵庫の戸が閉められる音が響く。驚いて振り返ると、がやっとその事実に気が付いたと言わんばかりに震えていた。
「……? どうした?」
対する喜多川は平然としたものだ。
は自分ばかりが妙な想像をしていることにまた震えを強くした。
「寒いのか? 暖房を入れるか?」
「いい……あ、でもきみが寒いのなら、どうぞ」
「では遠慮なく」
そのままii型キッチンから抜け出て嬉しそうにリビングへ向かう彼の姿をカウンター越しに見送って、は重々しいため息をついた。
気を取り直した彼女は、キッチンの片隅ごく一部を占領する小さな書棚から一冊の本を抜き出す。付箋や折り目が付けられたそれはずいぶんと古ぼけていたが、しかし彼女は他の目新しい本をすべて無視してこれだけを選び取った。
気が付けば暖房のリモコンを握ったままの喜多川が、興味深げに本に目を落とす彼女をカウンターに腕を置いて見つめている。その瞳は常によくあるように好奇心によって煌いていた。
「なに?」
「料理の本だ」
「別に珍しい物でもないよ」
「少なくとも俺の部屋には無い」
確かに、ネットの発達した現代において好んで料理をするのでなければわざわざ本を購入する者のほうが少数派だろう。とはいえ彼女が手に取ったのはそういったレシピサイトが発展する前に出版された物だから、女児向けの簡単なレシピが多数を占めているようだった。
は厚めのページの角を指先で弄りながら少し声を落として問いかける。
「部屋には無くても、家のほうにはあったんじゃない?」
「ああ……いくつかは置かれていたな」
かつて喜多川が暮らしていたあばら家は彼と同じく画家を志す若者たちの住屋でもあった。性別の区別なく食事は持ち回りで用意する決まりになっていたから、何人かがそういった書籍を持ち込むことは多々あった。喜多川の中には今のように興味深く覗き込んだ記憶もある。
つまりこれは単なるノスタルジーだ。喜多川はかすかに自嘲してに背を向けた。感傷的になっていることを見抜かれたくなかったのだ。
「でしょう。どこにでもあるものだよ」
果たしては彼の望み通り、あらかじめ目当てをつけていたレシピを探すことに集中する。
やがて準備を整えた彼女の手がリズミカルに動き始めると、甘い香りと製菓用のチョコレートが砕かれる音に場は支配される。
は「時間がかかるから座っていていいよ」と喜多川にリビングのソファを勧めたが、彼はこれを固辞してその場に留まった。彼女は少し不思議そうな顔をしていたが、すぐに砕いたチョコレートを湯煎にかける作業に戻った。
この家にだって喜多川が時間を潰すのに興味を引いて余りあるものはたくさんある。特にはこの少年の視線の先にあるものを理解しようと日々奮闘しているから、要求すれば何冊もの本が渡されることだろう。
けれど彼はこの場に張り付いてカウンターにもたれかかる。
……どこにでもあるものだなどと彼女は言ったが、しかし実際そうでもないだろうと彼は思っている。
一般定型的な家庭モデルといえば、台所で料理をするお母さんと、仕事に勤しむお父さんと、幸せいっぱいの子供というところだろうか。いささか想定が古臭いなとも思う事実こそが、昨今の共働き世帯との違いを示唆している。
喜多川にしても、思い返すのはあのあばら屋で志を同じくする人たちと暮らした日々ばかりだ。それが特別変わっているとは思わないし、誰にもおかしいなどと言わせるつもりはない。しかしこうして目の前でが―――好きな女の子がキッチンに立っている姿を見ると、どうしても少しは憧れめいた感情を抱いてしまう。もちろん、それも悪いことでは決してないだろう。
淀みなく白い粉をふるいにかける彼女に向かって、喜多川は思いついたことをそのまま告げた。
「新婚みたいだな」
は勢いよく吹き出して手を滑らせ、辺りは一瞬で小麦粉の粉塵に包まれた。
「うわっ、どうした? 大丈夫か?」
カウンターの外にいた喜多川はわずかばかり手先に粉を被るだけで済んだが、事故現場の中心に居たはそうもいかないのだろう。吹き出した呼気を取り戻すために大きく息を吸ったためか、大量の微細な粉を吸い込んで鼻と口を押さえて激しく咳き込んでしまっている。
「げほっ! げほっ! うっ、こほっ……うええ……」
まったくの不意打ちであるとはが主張するところだ。確かに彼女は喜多川の発言と似たようなことを考えていたが、そんな子供っぽい、あるいはちょっと馬鹿っぽい言葉を口にすることに躊躇を覚えていた。
だというのに……
よろよろとシンクにたどり着いて顔や目、鼻やのどを痛めつける粉を落とそうと蛇口を捻る。
身を乗り出して心配そうな目線を送る喜多川を、は顔を洗い流してやっと目にすることができた。
「はあ……はあ……ひどい目にあった……」
「突然どうした。花粉症か?」
「たしかにちょっと目がゴロゴロするけどそういうのではなくて……ああもう……」
カウンターを迂回して歩み寄ろうとした彼を厳しい目が射貫く。
「ストップ。入らないで、余計に粉が広がる」
足元を指し示された喜多川はたたらを踏んで足を止めた。なるほど確かに、被害は足元にまで至っている。
前髪に付いた粉を払い落とす彼女に背を向けて、喜多川は下男の如く慌ただしく階段下収納から掃除機を引っぱりだして彼女に献上した。
「たぶん……俺のせいだな?」
「明確にきみのせいだよ」
静音式掃除機のおかげで会話に淀みはないが、の手はまだわずかに震えている。
喜多川はどうしてこの騒動が自分のせいなのかいまいち理解できずに首を傾げたまま、それでも粉だらけのキッチンマットを回収するくらいは手伝った。
「ふう……」
やっと作業が再開されたのは十分も後になってのことだ。
息をついて完全な落ち着きを取り戻したは、失ってしまった分量を取り戻そうと再びボウルをはかりにかけてその目盛りを睨みつけている。
喜多川はそんな彼女を観察する作業に戻り、今度こそこのよくありふれた光景を目に焼き付けようと努めた。
また彼女を描くのもいいだろう。ごく自然にそう思いながら彼は目を細める。
まだ発展途上の少女が穏やかな表情で調理器具を手にする姿というのは、なかなか良い着想ではなかろうか? それはきっと見る者に様々な想像や感情を与えるものになるはずだ。羨望や嫉妬、共感に懐古……この女の子がなんのために、あるいは誰のために、なにを拵えているのか。見る者によって答えは無数に生まれるに違いない。
「ゆーすけー、また独りで笑ってるよー」
はっと我に返って、喜多川は口元を抑えた。
「……声が出ていたか」
「魔王みたいな笑いが出てた」
それはどんな笑い声だと問い詰めようとしたが、がシューベルトの歌曲をいい加減な発音で口ずさみはじめたから彼は口を閉ざした。
彼女が楽しそうにしてくれているのなら、言うことは何一つない。おまけに彼女は己のために懸命になってくれているのだ。
部屋を満たす甘い香りを胸いっぱいに吸い込んで、少年は満足げに息をついた。
しかしいい加減、少し手持ち無沙汰になってきたなとも思う。喜多川は背すじを伸ばして肩を回し、今度こそ彼女の牙城に侵入した。
「ん、なに? 退屈? まだ全然かかるよ」
「ああ、だから、なにか手伝おう」
「ええ? きみのためのものなのに?」
「だからこそだろ?」
は不可解な面持ちをしつつも腕をまくって隣に立ち並んだ彼に卵白の投げ込まれたガラス製のボウルを手渡した。
「じゃあこれ泡立てて」
「よかろう。……素手でか?」
「安心していいよ、ちゃんと電動のハンドミキサーがあるから」
思わずと安堵の息を漏らした彼に、は小さく笑う。
いっそのこと少しの間くらいは文明の利器を与えず人力で力仕事をさせても良かったかもしれない。意地悪な心地でそんなことを考えられているなどとはつゆ知らず、喜多川は空気を含んで質量を増す白身に楽しげにしている。
は今度こそ明確に、子供っぽいとも馬鹿っぽいとも自覚しながらこう思った。
「新婚さんみたい」
もちろん彼女は口を閉ざしていたし、喜多川は開いていても歓声を上げるのに忙しかったから、これはどちらの発言でもない。
二人はまったく同じタイミングでリビングのソファにふんぞり返る彼を見て、同時に声を上げた。
「なぜここに?」
「どこから入ったの」
言葉は違うがどちらにも非難の色がある。
それを受けて、どことなく疲れた風情の少年はごろんとソファの上に横たわった。
「助けてくれ……」
情けない声まで漏らしたのは正真正銘つい昨日帰還を果たしたばかりの怪盗団の頭目に間違いない。二人は顔を見合わせて再び手を止め、彼の話に耳を傾けた。
曰く―――
久しぶりの屋根裏部屋での睡眠を満喫していた彼を、同じく帰還した同居猫のモルガナが腹に着地して起床を促したところから話は始まる。
苦悶とともに目覚めた彼は着替えを済ませて空きっ腹を満たそうと階下に降りた。
屋根裏部屋の下、一階があまり流行らない喫茶店になっていることは周知の事実だが、このとき店内には気まずそうに火のついていない煙草をくわえる佐倉惣治郎と、複数の複雑な表情をした女性たちが待ち受けていた。
みんなお揃いで、どうしたの。今日はなにかあったっけ?
まったくとぼけたことを言ってのけた彼に、さて、女性たちは互いの顔を見合わせて頭を抱えた。
やがてその中から代表として高巻が歩み出て―――
「もういい、怖い。やめてくれ。胃が痛くなりそうだ」
「いや聞けよ。ここからが本番だから。俺と同じ苦しみを分かち合ってくれ」
「ねえ、玄関に鍵かけておいたはずなんだけど。どうやって入ったの」
問い詰める声を無視して続けられた話はつまり、この少年の放蕩の報いという結論にたどり着く。
喜多川とは額をつき合わせて腕を組み、ううむと唸った。
自業自得と言うのはさすがに突き放しすぎだろう。彼は単に、心の赴くまま他者に優しくしただけだ。この優しさは生来のものであったし、だからこそ多くの者を救うことができたのだとも理解している。では気持ちに応えて欲しいと望む女たちが悪いのかと言われれば、それも当然違うだろう。彼女たちはただ、真っ当に人を好きになって、ただ想いを伝えただけだ。
「杏たちも思い切ったことしたなぁ」
感慨深げなの様子に、少年は癖っ毛をかき回しながら駄々っ子のように足をばたつかせた。
「そういうのいいよ! 俺はどうしたらいいんだ!」
「好きなのを選べばいいじゃないか」
素っ気なく答えて、は少年の足を叩いて止めさせる。
しかしその隣では喜多川が口を引き結び、真剣な表情を浮かべていた。
「祐介、お前は俺の味方だよな?」
縋り付くような声と目を向けられて、彼は首を横に振った。
「俺はどちらかと言われれば女性陣の側だ」
ガックリと項垂れた少年をよそに、は意外そうな視線を彼に送る。これに応えて彼はまた口を開いた。
「想い人に気持ちを伝えることがどれほど難しいことか、今の俺は痛いほど知っている。不安と期待と、確信があっても足元が崩れ落ちそうな心許なさ……もしも断られたらと思うと、怖くて仕方がない」
「あー……」
言わんとするところは二人ともが理解している。のほうはあからさまに顔を逸らして照れくさそうに手をもみ合わせたりもした。
「集団で威圧をかけたのはいただけんが、そうしたくなる気持ちもわかる。俺だってお前たちに助力を願ったくらいだ」
「それは相手を間違えてない?」
逸らしていた顔はすぐに戻された。「失礼な」と少年は不満をあらわに起き上がったが、しかし喜多川のほうは同意するように深く頷いている。
「なんだよ、色々考えてやったじゃないか」
「それについては礼を言おう。一つも役に立たなかったが。とにかく俺は……」
言いながら喜多川は立ち上がった。細い腕が伸ばされて、ソファの上に胡坐をかく少年の首根っこを摑まえる。
すると見計らったかのようにテーブルの上に放り出されたままにされていたのスマートフォンが震えだした。
どうやら着信のようだと身を乗り出した彼女は、ものも言わずにこれを受けて庭に続くガラス戸のほうへ歩き出す―――
「もしもし? 杏?」
びくっと掴まれたままの少年の肩が震えた。
「うん。うん…… 謝らなくていいよ、こっちは大丈夫だから気にしないで」
少女の手が三日月錠を下ろして、静かに戸が開け放たれる。
骨の芯まで冷えるような風が吹き込んだが、続けられた彼女の言葉のほうが二人の少年にとっては衝撃的だった。
「杏……? 泣いてるの? 大丈夫?」
喜多川は直ちに少年を家の庭に向かって蹴り出した。
突然の衝撃にも彼は身軽に受け身を取って擦り傷すら負った様子は見えないが、寒さと靴下のみの足元は堪えるのだろう。文句を言おうと振り返ったその鼻先で、ぴしゃりと戸が閉められて錠が上げられる。
「悪いな、俺は杏の味方だ」
「私もね。知ってるだろうけど」
「覚えていろよ!」
捨て台詞を吐いた少年はどこからともなく靴を取り出したかとおもうとそれに足を突っ込んで、猿のような身軽さで塀を乗り越えて姿を消した。
その俊敏さと如才なさや器用さには感心するが、この現実世界でまで泥棒めいた真似は控えてもらいたい―――
「そのうちあいつは普通に不法侵入で捕まるんじゃないか……?」
難しい顔で唸る喜多川に、は無言で首を横に振った。
想像したくないという意味でもあったし、彼とてそこまでの愚は犯すまいという信頼の現れでもあったし、仮にやらかしたとして、尾を掴まれるような失態は演じないだろうという確信でもあった。
それは喜多川も同じ気持ちではあるのだが……
「……杏は大丈夫なのか?」
結局のところ気がかりなのはこれだ。は電話口の向こうの声を聴いて「泣いてるの?」と言ったのだ。塀の向こうへ消えた彼もこれを聞き取っていたから、覚えていろよなどと恨み言を吐いても今頃は彼女のもとへ馳せ参じようとしているのだろう。
だがはあっさりと仕掛けを明かしてみせた。
「さっきのは杏にそう言ってくれって頼まれただけだよ。なんだか楽しそうだった」
つまり、あの少年は罠にかけられたのだ。
喜多川は彼に同情しようと思ったが、もしも己が彼女たちと同じ立場に置かれればと想像してこれを取り止めた。それにどうせ、彼ならうまくやるだろう。
信頼というよりは諦観の念でそう思って、喜多川は息をつく。
「どうしてこう、騒がしくなるんだろうか……」
「彼と友達でいるからじゃないかな」
「……やめようかな」
肩を落として言うものの、少年はもう楽しげに笑っていた。
「そんな気は一つもないくせに」
当然それはも同じことである。
二人きりの時間を邪魔されたことは気に食わないが、改めて自分たちの先導者が帰還したことを実感して二人は顔を見合わせた。
「あ、いけない。途中だったね」
「そうだった」
慌ててキッチンに戻るも、なんだか目指していた空気はすっかり霧散してしまっている。出来上がるもの自体は確かに『本命』だが、それを平らげる間の会話はきっと彼とそれを追いかける女性たちの行方についてに終始することだろう。
そうと分かっていても、やり直した価値はある。
二人はそのように思っていた。
……
「結局、去年は逃げ切って? 今年もなんだか杏たちは企てているみたいだったよ」
「満喫してくれているな、まったく」
本当にその通りだと返して、はちらと左手に巻いた時計に目を落とす。時刻はそろそろ正午になるところだった。
「とりあえず、私の用はこれだけ。それじゃあ―――」
「え、帰るのか」
「うん。きみだって暇じゃないでしょう」
「それはそうだが。しかし捻出できないわけじゃない」
お前は? と目で問いかけられて、は少しだけ沈黙した。
彼女を見下ろす視線は期待に揺らいでいる。強制させるような力もあった。
「じゃあ……少しだけね」
果たして彼女は、それに屈したわけではないだろうが、望み通りの言葉を口にする。
「やった」
子供のように顔を綻ばせる彼に釣られてもまた小さく笑った。
実際のところ、心の余裕という意味ではこんなことをしている場合ではないのだ。しかしこうして時間を求められることを期待していなかったと言えばそれも嘘になる。
「どこに行くの?」
喜びを押し隠して極めて平静に尋ねた彼女に、喜多川は少しだけ困ったように眉尻を下げた。
「すまん、まさか本当に付き合ってくれるとは思っていなかったから……」
なにも考えてなかったとこたえて頭をかく。
はこれを特別咎めることも無く、腕を伸ばして彼の手をとった。
「まあ、きみと一緒ならなんだって楽しいよ」
さあ行こうと引っぱって先を行く彼女の姿と、それに従って歩き始める彼の姿はまったくよくあるありふれた恋人同士だ。
よもやこの二人が、未だ密やかに実在の噂される怪盗団の一員であるとは誰も思うまい。
それこそ、猛烈な勢いで二人の間に滑り込んだ少年のような存在でもなければ―――
「うわっ!」
「またお前か!」
繋がれていた手を断ち切って、少年はの背にしがみついた。
「! ついでに祐介! 助けて! モルガナと同衾させてやるから!」
「つ、釣られないからね!」
「ついでとはなんだついでとは!」
騒がしい三人に遅れて合流するように、もう一人少年が現れる。
「やっべぇってマジギレしてんじゃねえか! どーすんだよ! っていうかナンデ俺まで追われてんの!?」
「ぬああ、よせリュージ! 鞄を、ふるっ、なあっ!」
喚いて脚を止めた坂本が抱えた鞄からモルガナまでもが顔を覗かせているではないか。
嫌な予感を覚えて、喜多川とは二人と一匹が今来た道へ視線を向ける。
―――猛烈な勢いで狭い街路を突き進む一台の車。その運転席と助手席には見慣れた顔が窺えた。
「ちょっと、きみ、なにをしたの……」
「ほんの冗談のつもりだったんだよ!」
「なにをした! 言え!」
「このバカ、アイツらの前で俺と付き合ってるとか抜かしやがったんだよッ!」
「オエエ……おぞましい光景だったぜ……」
「ばっかじゃないの!? そんな誤魔化し方されたら怒るに決まってるじゃないか!」
「言ってる場合か! このままだとまとめて轢かれるぞ!」
言うなり少年はしがみついた背中をそのまま抱え上げて走り出す。どこにそんな力がと驚く間に遠ざかる―――
はっとして、喜多川は少年と抱えられたまま茫然としている少女を追って走り出した。
「おい待て! 返せ! 逃げるなら一人で……いや、竜司とだけでやっていろ!」
「いや俺も巻き込まれただけだからな。あー膝痛い」
狭い路地を選んで入れば車は侵入できないと判断したのだろう。相変わらず人一人を抱えているとは思えぬ膂力を発揮する少年に続いて、彼らはぞろぞろと連れ立って走り、奇妙な一行となり果てた。
後ろから喜多川が―――ついでに坂本とモルガナ、女子一同―――が追いかけてきていることは目視しているから、暴れて振り落とされるよりは体力の消耗を待ったほうが得策とは大人しく担がれ続けている。
その胸には確信があった。
たぶんこれは、来年も、再来年も続く恒例行事になりそうだな、と。