十一月の半ば頃、吹き付ける風の冷たさに震えながら約束の場所に現れたを、高巻ははじめにこやかにして歓迎した。それは友人として長い付き合いになりつつある関係にあって不自然なものでは決してなかった。評判のカフェに行ってみたいというささやかな願いもだ。
 ところが、季節のフルーツがふんだんに使われたタルトを前にすると、彼女は途端に表情を曇らせる。
 どうしたのかと訊くべきかは少しだけ迷ったが、結論が出るより早く高巻はその訳を語った。
「あのね」
 碧の瞳には並々ならぬ決意じみた頑なな輝きがあった。それはともすれば後ろめたさすら感じさせる、強い光だった。
「志帆のこと、おぼえてる?」
 は幾度かの瞬きで応えた。おぼえているもなにも、その名は杏の一番の友人のものではないか、と。
 薄っすらと浮かび上がった困惑の色に、高巻はやはり複雑な感情を湛えた眼差しを返した。
「実は、あの子のことで相談があって……」
 流行りのカフェも雑誌やテレビで紹介されたスイーツも、この際もののついででしかない。嘘をついて呼び出してごめん―――高巻はしおらしく視線を下げ、テーブルの上に置かれていた手指をギュッと握った。
 その拳にもやはり、怒りや苛立ちに似た某かの感情が窺える。
 そうした彼女の常ならぬ様子に、はわずかに鼻白んだ。
 なんとなればが知る鈴井志帆という人物には、軽々に触れるべきではない過去がある。直接の対面こそないが、事の顛末くらいは聞き及んでいる。その結末と後日談についても。
 それでも縋るような眼を向けられては、にはノーとは言えなかった。
「いいよ。話して」
 途端、高巻はパッと表情を明るくさせ、拳を握ったまま身を乗り出した。
「ありがとう、……!」
 花の咲くような笑顔につられて、の口もともついつい緩んでしまう。そこにはいくらかの自嘲も含まれていた。どうにもこれに弱いんだと、彼女は胸の内で自らこそを恨めしく思う。
 しかしそんな想いも、話を聞いていくうちに薄れていく―――
「最近ね、志帆ったら付き合い悪くってさ。そりゃ、私だって学校や仕事のこととかあるから、まあ、人のことは言えないんだけど。それでもさ、連絡がきたらなるべく早く返信して、通話だって前はいっぱいしてたのにさ、最近はなんか、めっちゃ返信遅いし、通話もすぐ切っちゃってさ、この間なんて約束の時間になっても一向に出てくれなくて、なんかあったのかって不安に思ってたら『ごめん寝てた』とか言うの!」
「あのさぁ、鈴井さんと杏って付き合ってるとかじゃないんだよね」
「え? なに言ってんの?」
「こっちの台詞なんだけど」
 まるで遠距離恋愛中の彼氏への愚痴ではないか。
 と告げてやると、高巻は行儀悪く頬杖をついて唇を尖らせる。
「そこは本題じゃないんだって」
「へー」
「ちゃんと聞く! いい? それでね、我慢できなかったからもうなんでそんな付き合い悪いのか聞いたの!」
 丸くなりつつあった背を伸ばし、軽くテーブルを叩くこと二回。高巻は悔しそうに顔中を歪めながら、恐ろしく低い声で告げた。
「なんか最近、仲良くしてる男子がいるんだって……!」
 は、最早関心もないと言わんばかりにフォークをタルトに突き刺した。苺をメインに様々なベリーをチーズクリームの上にふんだんに盛り付けたタルトは、控えめなチーズクリームの甘さの中にフルーツの豊潤な香りが混じり合い、素晴らしい味わいを生み出している。タルト生地の食感と、果実とは別種の甘さが飽きを感じさせないこともあって、なるほどこれはメディア各種で特集を組まれるだけはあるなと思わせる。お土産に一つ二つ買って帰ったら、泣いて喜んでくれそうだ―――
「和栗のモンブランでいいかな。それとも洋梨かいちじくか……」
「ちょっと、? ねえ? 私、泣いちゃうよ?」
「必殺のウソ泣きでしょ。いつも助けてくれてありがとう」
「どういたしまし……そうじゃなくてぇ」
 情けない声を上げながら脚をバタつかせる高巻に、は肩をすくめた。
「要は、鈴井さんに恋人ができる―――聞くにまだその前段階で、それが気に食わないんでしょ。でもそれは嫉妬や焦りじゃなくて、鈴井さんが経験した……事があるから、警戒。だから問題は、そのカレシ候補じゃなくて、鈴井さんのほうにある……」
 でしょ? と目で問われて、高巻は眉をひそめて頷いた。
 鈴井志帆が受けた仕打ちというものは、肉体だけでなく精神にも大きな傷を残すようなものだった。それも時が癒やしてくれるはずと誰もが願っているが……現実がそんなに生易しいものでないことは、彼女たちこそがよく知っている。
 高巻などは似たような経験を、同じ相手から迫られた故に痛感しているのかもしれない。見ようによっては彼女のほうがよほど軽症と見なすこともできるが、だからこそ鈴井への危惧はより強まるのだろう。自分よりよほど酷い目に合わされていたあの子は、もう本当に大丈夫なんだろうか―――と。
 の推察を証明するように、高巻の表情は暗く沈んでしまっている。
「志帆が……本当にそいつと一緒にいて大丈夫だって言うんなら、私だってこんなこと頼もうと思わなかった。でも……でも……なんだか最近、ずっと歯切れが悪いっていうか……息苦しそうだって感じちゃって……」
 再び高巻の手が拳をつくる。震える手は背後の大通りに面したガラス壁から差し込む夕明りに照らし出され、震えるたびに滲むような輝きをの目に寄越した。
 彼女はまた、そんな高巻の嘆き苦しむ姿は彫像の様だと思う。ピエタの一部、キリストの死を嘆く聖母―――は、言い過ぎか。誰かの影響などとは思いたくないが、しかし彼ならそんなことを言い出してもおかしくはないなと、そんなふうに考える。
「……ん?」
 の思考はしかしそこで止まる。彼女が奇妙な違和感に眉根を寄せるのと、高巻が腰と椅子の間に挟んだ鞄に手を突っ込むのは同時だった。
「杏、いま頼むって」
「これで、お願い!」
 バン、と音を立ててテーブルの上に叩きつけられたのはいくらかの厚みを持った長封筒だった。なんであれば、銀行のATMに備え付けられているような、行名とマスコットキャラクターが印刷されているような、可愛げはあるが飾り気はない物だった。
「こんだけ、入ってるから。レシートと領収書出してくれたら、その分も経費扱いで出すし」
 先まで悲嘆と決意によって震えていた手が数字を意味する形を取っていた。それは高巻の身分……現役大学生モデルとして活躍する身を鑑みても、少なくない数字だった。
「……なにをさせる、つもりなの」
 否定はせず、しかし不快感も露わなの問いに対する返答は明快だった。
「相手のこと、調べて」
「自分でやりなよ」
「しほにバレたら怒られるうぅ」
 わっ、と顔を覆って俯き肩を落とす姿は、どうやら必殺の泣き落としではないらしい。
 曰く、高巻とてはじめは自ら調査に乗り出そうとしたらしいのだが、それ以前からとっくに顔が割れてしまっているのだという。
「志帆のやつ、相手に私のこと話しちゃって……」
 なにしろ高巻は雑誌の表紙などを飾るカバーガールだ。その知名度は全国区にこそ及ばないが、女子中高校生を中心にファッションに関心の強い者に顔や名は知れ渡り、特集や企画記事を組まれた回数も時と共に着々と積み上がっている。その鈴井の恋人候補とやらはどうも男性のようだが、鈴井がそうした雑誌を手にしている際、話の流れでつい、ポロッと、友だちなんだと漏らしてしまったのだという。
 対しては鈴井と同じ高巻の友人という身分ではあるが、恋人候補との面識はなく、また対人における情報収集や潜入の面で幾つかの実績がある。
「だから、頼むのならかなって……男子と双葉は論外だし、真や春だと万が一にも二人の立場が知られたら、警戒されちゃいそうじゃん?」
 そもそも鈴井と面識がある坂本に、黙っていても喋っても目立つ喜多川、難関大の法学部に通う新島、改善されたとはいえ未だ対人能力に難がある双葉、全国に店舗を構えるファストフードチェーンを抱える大手食品会社の社長令嬢の奥村……なるほど確かに、には彼らのように接触に際し知られて疑心を抱かせる要素は少ない。あるとしてもそれは意図して探ろうとしなければ触れ得ない類のものだ。
 パンと音を、しかし人目を引かないためだろう。控えめに立てて両手を合わせ、高巻はグッと頭を下げた。
「お願いっ! このとーり!」
 まるで神仏に祈願するような姿勢に、は肩を落とした。
「あーもう。仕方がないなぁ……」
 もちろん、その手はテーブルの上に出された封筒をしっかり受け取っている。

……
「そういうわけでしばらく忙しくするけど、気にしないでね」
「分かった。分かったが……俺も行っては駄目なのか?」
 うーんと唸って首をひねったが居るのは高巻と別れたその足で向かった先、喜多川のアトリエだ。高校の卒業とともに寮を出た彼は紆余曲折の末知り合った老婆が経営する築五〇年のアパート、その一室と敷地の隅に放置されていたガレージを、手入れと引き換えに格安で借り受けて質素に生活している。
 暮らしぶりは相変わらずだが、彼もまた高巻と同様、地道な研鑽を重ねた成果を、やはり少しずつ積み重ねている。
 だからこそ、とは答えた。
「きみだって知ってる人には顔と名前を知られてるタイプでしょ。杏はとにかく鈴井さんにだけはバレたくないみたいだったから、怒られたくないのなら止めておいたほうがいいよ」
「ふむ……その男は、俺と接点がありそうなのか?」
「それをこれから調べる」
 言って、はキャンバスに向かって座っている彼に紅茶を差し出した。カフェのお土産を見繕う際、ここには洋菓子に合いそうな茶葉など一欠片もないなと気が付いて帰りがてら購入したものだ。
「ありがとう。……そうか。これから、か。うむ……」
 喜多川が複雑な顔を見せているのはなにも、同行を断られたからというだけではなさそうだった。紅茶とともに出された和栗のタルトはやはり、盛り付けも美しい。それが彼の関心を強く引いたようだ。手は早々とカップを離れ、ペンを手にスケッチに勤しみ始めている。
 それもには珍しい光景ではなかった。とりあえず現物があるうちに下書きを済ませておいて、飢えを凌ぐ必要が出た際に本格的に絵を入れ始めるのだろう。の背後には、そうした虚無から産み出された残骸が無数に立てかけられている。
「……年末も近いし、色々整理しなよ」
「なんだ、急に」
 言われるほど雑然としてはいないし、掃除はこまめにしているとまばたきをくり返す喜多川に、は自戒の念を籠めただけだと答えて首を振った。

 さて、高巻から聞くところによると、件の青年は名を熊谷といって、隣県に越した鈴井と同じ大学に通うサークル仲間なのだという。
 障害福祉のボランティア活動を中心に行うそこに鈴井が所属しているのは、どうやら自らのリハビリ経験が少しでもなにかの役に立てないかと思ってのことらしい。鈴井自身、歩行に問題はないが、未だ激しい運動を医者から禁じられている身だ。思うところがあるのか活動は熱心で、週末はほとんどその無償の奉仕に捧げているとのこと。
 それも高巻の不満と心配のタネだろう。……もしかしたら、鈴井がスポーツから離れた進路を選ばざるを得なかった事からして、彼女は気に食わないのかもしれない。
 いずれにしてもには関わりのないことであった。求められれば手は貸すが、二人の友人関係にまで手を突っ込むつもりまではない。
 幸いにして接点はあったから、彼女はすぐに熊谷なる青年のそばにたどり着いた。
さん……だっけ?」
 互いに声をかけ合える距離にあるのは、件のサークルが広く学外にも開かれた活動を行っているからだ。運営サイトにはご丁寧にスケジュールと連絡先、参加希望者への案内まであった。自身もこうしたボランティア活動には、介護福祉とは別種ではあるが参加経験がいくらかあったから、動機も存在自体も不自然なものではないはずだ。
「そうだよ。あなたは……熊谷さん、だよね」
 児童福祉司を目指す熱心な女子学生という、彼女の素のままの姿で対応することに淀みはない。
 対する熊谷という青年は、取り立てて形容するような部分のない男だった。特別背が高いわけでも低いわけでもなく、痩せても太ってもいない。服装も、活動のためもあるだろうが、無難の一言に尽きる。強いて言うのなら顔立ちは爽やかな印象を抱かせるか。
(怪盗団にはいないタイプだなぁ)
 ある意味では欲しい人材だとは思う。目立たない割に立ち居振る舞いはやはり不自然でない程度に堂々としていて、不審感を抱かせにくい。
「今日は参加してくれてありがとう」
 なにより、学生ボランティア団体のまとめ役という身分こそが彼をそう思わせる最大の要因だ。その心根までは解らないが―――全く正反対に、そうした肩書きや見た目は相手によっては強い警戒と不審感を抱かせることもある。これは高巻を介して与えられた情報が疑心に溢れていたことによるバイアスもあるだろう。
 とはいえ事の次第によっては人の恋路を土足で踏みにじる結果に繋がりかねないのだからと、はなるべく公正を心掛けようと背筋を伸ばした。
「こちらこそ。参加させてもらえて助かりました。うちのほうだとこういった老健施設に当てがなくて……その分お役に立てたのならいいんだけど」
「もちろん、すごく助かったってみんな言ってるよ」
 身振り手振りを交えた感情表現は豊かだ。これもまた受け取り方は人による。
 は小さく息をついて辺りに視線をやった。
 都心から離れた土地に建てられた老人保健施設、その駐車場の隅の自販機コーナーには今、参加者らが帰り支度とメンバーの集合を待って集っている。ほとんどの者が公共交通機関を利用してやって来ているから、バス待ちのためでもあった。
「……けっこう、人数多いんですね」
 ざっと見回しただけでも一十二名が通行の邪魔にならない程度に屯している。挨拶や片付けで遅れた者が合流すれば、も含めて二〇名ほどになるだろう。
「そうかな? たしかに最近は参加率高いかもね。普段はもう少し小規模だよ」
「どれくらいなんです?」
「う〜ん……一〇人いたらいいほうかな」
 漏らされた笑い声は苦々しい。どうも単なる偶然か、なんらかの事情が重なって珍しい事態になっている様子だ。それ自体は歓迎すべきことだろうが、問題はそれが不手際に繋がり、こうした集合のもたつきをもたらしていることか。
 改めて見回せば、やや男性の割合が多いように思える。心から賛同して活動に身をやつしているのか、就職活動に際して好感を得るためか、あるいはもっと他の動機があるのか……熊谷と同じく、その心の内までは判らない。とりあえず分かるのはいずれもが気だるげにしていることくらいだが、これは力仕事を多く任されたためだろう。実際の身にもいくらかの疲労があった。
 老人保健施設というものは、特別養護と違ってリハビリを主とした目的の場所だ。彼らの活動内容もその介助や用具、設備の準備と片付けに始終していた。
 その際の会話にも耳をそばだてていたが、不自然なものはなかった。力仕事に辟易とした様子ではあったが、確固たる目的や信念があって参加したのでなければそんなものだろう。熊谷に至っては、そうした連中を宥めすかしたり嗜めたりに始終していた。
 となれば、これはやはり杏の杞憂か。けれど一度の接触で判断するのも早計というもの。まだまだ探るべきことはあるだろう。彼自身に問題がなくとも、家庭境や人間関係、金銭や学業の面でだって、ケチをつけようと思えばいくらでもできる―――
 しかし時間潰しの会話の中で探りを入れたところで、これといったものは出てこない。それも全員が揃い、バスが来れば打ち切りとなる。
「ごめんね、待たせちゃって」
「あ、鈴井さん。こっちこそ、任せちゃってごめん。助かったよ」
 幾人かの女子とともに現れた鈴井は、熊谷に柔らかな笑みを向けたまま緩く首を振った。構わないということだろう。
 その距離感は近すぎるということも、遠すぎるということもない。聞かされた通りの友達以上恋人未満だ。共に出てきた女子らのどことなく生ぬるい、面白がるような微笑ましく見守るような視線もそれを教えている。
 ―――やっぱり、杏の考え過ぎじゃないのかなぁ。
 徒労感で胸を満たしつつ後続組とも会話を交えると、確信はますます深まった。
 しかし一方で、少しの距離を置いて囁きあう一団がの意識の端に引っかかる。例えばその視線が己に注がれているのであれば、彼女も気に留めることはなかったはずだ。部外者の素性は誰だって気にかかる。
 けれどどうにも……男たちの視線は鈴井に注がれている様子だ。それもどちらかといえば悪意の籠もった類の。
 は少し考えて、帰りのバスで熊谷に声を掛けた。
「来週もあるんだよね? できれば参加させてほしいんだけど……」
 断られることはないだろうと見越しての要請だったが、意外なことに熊谷は少しの困惑を浮かべてみせた。
「もちろん! あ、でも僕らが来週行くのは……」
 断られては都合が悪い。計ったようにバスは停車し、はいくらか強引に会話を打ち切った。
「あ、もうここで降りなきゃ。来週も、またよろしくお願いします」
 朗らかな笑みを振り撒きつつ降り口に急ぐ彼女の背に、気安い労りの声があちこちから投げかけられた。もちろん、公共の場に相応しい程度の声量でだ。そうした点からも熊谷のリーダーシップが覗える。
「お疲れさまです。またよろしく」
 にこやかに手を振ってバスを降りると、彼女を追うものはもうなにもなかった。

 熊谷が渋った訳は翌週を待つまでもなく知れた。前述の運営サイトには当然、次の活動予定も記されていたからだ。小さな規模のスポーツ大会、その運営の補助を行うとあって、場所は障害者スポーツセンターと記されていた。
 ―――なるほどこれは確かに。遊びに行くのであればいざ知らず、スポーツの介助や補助となるとある程度の知識や体力は欲しいところか。
 なにしろは当日開催される球技のルールすら知らない。ならばと力仕事を中心に求められても応えられるか分からない。持久力には自信があっても、この現実世界においては彼女はただの人間でしかないのだ。
 とはいえ、出来ることが無いわけでもなし。会場の設営や道具の用意なら試合のルール等への深い知識が求められることなく、当日の彼女はどうにかでくの坊にならずに済んでいた。
 けれどそれも、コートの準備、案内や誘導に受付、開会の挨拶等が終わると、少し手持ち無沙汰になってしまう。
 自身はそれを残念に思うが、しかしよく考えたら彼女の目的は熊谷青年の身辺調査なのだから、少しの暇はありがたいもののはずだ。
 気を取り直して会場を、話を聞き出せそうな人物はいないものかと見回すと、彼女にとって意外な人物が目に映った。サブアリーナの一部を借り受けて行われるチーム戦と個人戦、そのうちの一つでアシスタント器具の補助を行って汗を流している見知った顔―――
「なんでいるの」
「なんでってなんだよ」
 昼の休憩時、が小会議室に呼び出して相対したのは坂本竜司だった。
 しかし、さて。もなんでと言ってみたものの、よくよく考えれば彼がこの場に居合わせる事自体はさほど不自然なことでもない。
 高校生活最後の一年、その時間のほとんどを勉強とリハビリに費やした彼は努力の甲斐あって試験に受かり、キャンパスで陸上を再開した。その経験と、心に打ち立てた目標のためにこの場に居ると言われれば、なんの疑問も差し挟む余地はない。
「そっか。そうだね。竜司が居るのにおかしなことはないか。普段からここへ来てるの―――」
「いや別に?」
 感慨深げに吐き出された台詞を、坂本は真正面から叩き潰した。広げつつあった弁当の包みから箸が転がり落ちる音だけが空しく室内に響き渡った。
「てか、お前もあいつから頼まれたんじゃねえの?」
「あいつって、杏のこと?」
「なんでそこで杏の名前が……ってそうか、鈴井か……」
「うん。そっちは」
「こっちも鈴井絡みだよ」
 どうして『彼』がと眉をひそめるに対し、坂本は気まずそうに頭を掻いている。
「あー……つまり、は杏に頼まれてここにいる……ってことだよな?」
「うん」
「それってよ、なに目的?」
 にとって思いもよらぬことに、彼はいかにも困り果てた様子だった。齧り付いていた惣菜パンの包みをくしゃくしゃに丸め、ポケットにねじ込む動作はいつも以上に落ち着きがない。
 そんな彼の様子にこそ首を傾げながらは簡潔に答えた。
「彼氏候補の身辺調査」
「は……?」
 途端、渋面は消し飛んだ。驚きから呆れにすり替わるのも早かった。
「アホかよあいつ……」
「まあまあ。心配なんだよ」
 分からないでもないけどとは苦笑するが、しかし坂本の表情は再び苦々しいものに戻ってしまう。
「ん、まあ、たしかにな。わからなくもねぇよ。けど杏がねぇ……」
 言葉もどこか淀みがちだ。それはやはり、には理解し難い。
 高巻が鈴井に関して騒ぐのは解る。彼女にとって鈴井は唯一無二の親友であり、様々なものの基点で、基礎だからだ。
 しかし坂本と『彼』にとってはどうだろう。ある意味での始点ではあるかもしれないが、の知る限り、彼氏が『できるかも』というだけで気を揉むほどの関係ではなかったはずだ。それともひょっとすると、知らないだけでどちらか、あるいは両方がそういった感情を抱いていた……?
 途切れがちな会話の間に食事はすっかり済まされる。空になった弁当箱を包みに戻しながら、はいくらかソワソワしながら言葉の続きを待った。
 しかし坂本は長いこと沈黙を守り、ブラインド越しに窓の外をじっと睨みつけるばかりで動かない。
 やっと立ち上がった時にはもう、決勝が控える午後の試合が間近に迫りつつあった。その頃にはも浮き足立つ展開ではなさそうだと察していたし、彼の視線の先、羽根の向こうの出来事も眼に入っていた。
「あとで話そうぜ」
 足早に部屋を出ようとする坂本の背に、
「了解」と短く返して、は入れ替わるようにして窓辺に寄った。
 アリーナをはじめとした様々なスポーツ施設が入る本館の裏、駐車場とグラウンドを遮る背の高い生垣の傍で、鈴井が同じサークルの青年らに囲まれている。熊谷の姿はなく、逃げ道を塞ぐような形で立ち塞がる男たちに、彼女は明らかに迷惑がるような仕草を見せていた。そこへ会議室を出た坂本が大股で歩み寄り、一言二言を青年らと交わすとすぐに鈴井を伴ってその場を離れていく。
 ―――なんだか雲行きが怪しくなってきた。
 見下ろすの視線の中で青年らは背を丸めて囁き交わし、鈴井が立ち去って行った方向をずっと睨み続けていた。

 試合はつつがなく進行し、優勝者には賞状と小さなトロフィーが授けられた。にはあまり馴染みのない競技だったが、最終的には前のめりになって見守る程度には夢中にさせる試合内容だった。
 その熱中ぶりは解散後、坂本が指定した店に着くまでの車中によく表れる。ただしハンドルを握る彼女が饒舌に語るのは、なにも試合の楽しさばかりという訳でもなかった。この後に待ち受ける厄介ごとを思うと、このタイミングを逃せば口にする機会はなさそうだと踏んでのことだ。
 そしてその予想は当たっていた。
 どこの街角でも見かけるような居酒屋チェーン、その店奥の座敷席を選んで座し、最初の一杯が来てからやっとは熱を吐き終える。二人の前にあるのはただの烏龍茶だ。がアルコールを避けるのは運転のためだが、坂本に関しては……
「それで、竜司はどうしてあそこにいたの。きみなら別に不自然じゃないし、だから彼もきみに任せたんだろうけど」
 お通しのもつ煮をつつきながら尋ねたに、坂本は片手を揺らしながら応えた。
「そこまで解ってんならもう察しついてんじゃねぇの」
 揺れる手は声を抑えろと訴えている。馴染みのあるハンドサインの一つだった。は頷いて応えるが、その眼はどうしたのかと問いかけてもいた。
 坂本はまた無言のまま親指を立て、己の背後―――席を区切る衝立の裏を示してみせる。どうもそこに坂本がこの店をわざわざ指定した理由があるらしい。見れば、彼の手は既にスマートフォンにかかり、録音用のアプリを立ち上げている。
 沈黙して耳を傾ければ、騒がしい店内にあって向こうの会話はよく届いた。
「……やっぱフカシなんじゃねぇの? 今回も来ねぇじゃん」
「その前にお前、ちゃんと言った?」
「言った言った! ホントにトモダチなら連れてきてよ〜ってさぁ」
「だから~ほらぁ~、や〜っぱウソなんだって! 鈴井みたいのがアンとトモダチとかないって!」
 坂本がこの場にいる理由も『彼』がこの青年を派遣した訳も、短い会話で概ねほとんどが把握できるようなくだらないものだった。どこからか鈴井が高巻と付き合いがあると知った連中が、彼女をエサに高巻を釣り上げようと目論んでいる。そしてそれが熊谷率いるボランティアグループの中に紛れ込んでしまっている。それだけだ。
 は大仰に肩を落とし、低く深く、ため息をつく。
「……無理でしょ。会えてもそれ以上なんて、どう考えても厳しいよ……」
 坂本はなにも言わなかったが、無言のうちに同意と諦観めいたものを示していた。世は広しと言えど、なかなか、あの青年以上の男など、早々見つかる筈もない。そういう意味では彼は高巻以下幾人かの女性に深く同情を寄せてもいる。
 が不思議そうに目を瞬かせたのは坂本が瞳に憐みを浮かべたからではなく、引き続きの沈黙を求めて彼の手が再び揺れたからだ。
「てかさぁ〜」
 いくらか抑えられた声がまた衝立の向こうから漏れ聞こえた。
「アッチの話もマジなん? マジで例のさぁ、なんつったっけ……シュージン? だったの?」
 坂本は低く、口内だけに舌打ちを響かせる。あぐらをかいた膝を揺らさないよう手で押さえ込みもした。もまた眉をひそめて箸を置く。
 話の流れからして彼らのいうシュージンという単語は秀尽学園……高巻の母校を指しているとみていいだろう。それ自体は知られていてもおかしなことはない。高巻は特別卒業校を秘したりはしていないし、調べれば簡単に行き当たるような情報だ。
 だから、衝立の向こうの発言は奇妙に思えた。マジで例の、と言うほどの話ではないからだ。つまり今、彼らの話題の中心に居る人物は高巻ではないということになる。
「そだよ。髪型とか違ってたけど、画像のヤツは鈴井だった」
「引くわ。よくあんなん撮るよな」
 言いつつも酒気を帯びた笑い声はよく響いた。そうした笑い声は安い居酒屋の店内のあちらこちらに沸いていたから、都合のいいことに彼らが特別目立つようなことはなかった。
 それは坂本たちにとっても幸いだった。
「じゃあやっぱ鈴井って例の教師にヤられてんの?」
「教師じゃなくてコーチだろ? 金メダル取ったやつ?」
「名前なんだっけ?」
「おぼえてない」
 は怒りを通り越して呆れ返っていたし、坂本にしてもため息をつくに留めた。
 男たちの会話はその後も聞くに堪えない下世話な想像や妄想として続いた。そこから察するにどうも彼らは分相応をわきまえているらしく、高巻はあくまでも『釣れたらいいな』程度の薄い希望のようだ。その本命は鈴井で、話題は彼女の足や腰、胸についての情報や推測、妄想が占めていた。
 なんにせよやはり場所柄、男たちの年頃からか、関心を払う者は聞き耳を立てる二人以外にいないようだった。それもしばらくすると一旦の区切りを迎え、二人にとって見知らぬ他人への愚痴や悪言にすり替わる。
 坂本は重苦しく長い息を吐き出して頬杖をついた。
「……俺のほうはこういうワケだよ」
 吐き捨てるように告げて彼の指はやっと録音を停止する。
 は腕を組み、難しい顔をして唸った。
 ―――てっきり杏のほうが狙いかと思っていたけど、鈴井さんのほうだったか。
 ある意味ではこちらのほうが誰にとっても厄介だった。例えばこれが高巻なら、鼻で笑ってあしらうか、そもそも近寄せさえしないだろう。何故なら彼女はその人柄を知らない者の目にはひどく冷淡で高慢な人物として映る。真実は冷淡どころか感受性と共感力に溢れ、高慢どころかちょっと間の抜けたところのある人物なのだが……見た目のせいで誤解されがちとは、鈴井こそがよく知る高巻の特性の一つだ。
 その鈴井はどうだろう。実際のところ、高巻と並んで歩いて遜色ないという時点で度胸のない相手を遠ざける要素を備えているのだが、本人の人柄と気性がそれを打ち消している。それは大抵の場合、良い効果を彼女にもたらしていた筈だ。
 しかし今回に限っては連中が語ったこと……すべてではないが、週刊誌のゴシップ程度の情報が画像とともに手中にあるという点が問題だった。
 高巻が手を出しづらい人物と他人に思わせるのは、一歩踏み込んでみなければ隙のない人物として捉えられるからだ。翻って鈴井には、件の情報という大きな『隙』がある。
 ……例えばこれが、彼女の身体ではなく、心も含めたすべてを愛しいと思ってのことならば、高巻以外の誰もが黙って見守っただろう。そうではないから坂本は派遣され、はこの場に連れ出された。
 すっかり冷えたもつ煮を摘まみながら、は改めて坂本に問いかける。
「どうするつもりなの」
「さあ……?」
 彼の答えは短く、そしてどこか他人事を装っていた。
「俺はこっちの状況を調べてこいっつわれただけだから、このあとは知らねぇよ? けど……」
 ―――アイツのことだから、このまんまにはしねぇだろ。
 そう返して、彼は首の後ろに貼り付いた衝立の向こうのやり取りを落とそうとするかのようにバリバリと雑に掻きむしった。
 その姿はまるで首輪を嫌がる犬か猫のようで、不思議との心を落ち着かせる。
「竜司もでしょ」
「あー、そりゃ、まあ……具体的にはなにも思いついてねぇけど」
 曖昧な態度はただの照れ隠しだ。こうした彼の人柄も、やはり踏み込まなければ触れ得ないものの一つか。
 微笑ましげに細められていたの目は、しかし唐突に遠く、壁に貼り付けられた発泡酒の文字の上を滑る。坂本はその視線を追うがこれといって興味を引くようなものはない。なんだと眉をひそめる彼の耳にもその訳はすぐに触れた。
「なあ、後ろの二人さあ、さっき一緒にいたヒトらじゃん」
「あー?」
 声とともに男が一人、通路に身を乗り出させた。衝立の隅から覗く顔は早々と赤らんでいるが、まだ記憶もおぼろげというほど酔ってもいなさそうだ。
 はすぐに手を上げて店員を呼びつけた。
「すみませ〜ん! 注文お願いしま〜す!」
 ちょっと間の抜けた調子で告げた彼女に男たちの視線が突き刺さるが、は構いもせず満面の笑みを坂本にだけ返した。
「ほら、呼んじゃったよ。早くなに飲むか決めて?」
「あ、ハイ……そういうことね……」
 偶然居合わせたと納得させると同時に、こちらへ合流しようなどと思わせないよう振る舞えということだろう。坂本はすぐに理解して、小走りに駆けつけた店員へ幾つかの注文を投げつけた。

 もうすぐ日付が変わろうかという頃、聞き慣れたエンジン音を耳にして喜多川は筆を置いた。
 そうしてやっと手が冷え切っていることに気が付くほど集中していたはずなのに、彼女が現れたと知るや途切れてしまうのだから、どうやら彼女はミューズの一人ではないらしい。
 そのように苦笑しつつアトリエを出た彼の目に、やはり見慣れたコンパクトサイズのハイブリッドカーが映る。彼女が軽ではなくコンパクトカーを選んだのは、どこへ行くにも荷物の多い自分のためだと彼は知っている。
 しかしそこから降ろされた大きな荷物はいただけない。小さな背に覆いかぶさるように負われた見慣れた顔は、頼りないセンサーライトの灯りの下でまだ赤らんでいることがよく分かる。
 喜多川の姿に気が付いたが助けを求めるような眼差しを向けると、さしもの彼も大股で二人に歩み寄った。
「なにがあっ……うわ酒臭い」
「ごめん、ちょっとわけがあって。私は運転あるから呑めないし、いろいろ誤魔化すのに竜司に任せてたら潰れちゃって……」
 このまま寒空の下放り出すのも、自分のマンションに連れ込むのも気が引けると迷った挙げ句ここへ持ち込んだのだと告げたに、喜多川は大仰なため息をついてみせた。
「仕方がないな。ほら竜司、掴まれ。……吐くなよ」
「うえ〜……」
 辛うじて意識はあるらしい坂本に肩を貸し、引きずるようにして屋根の下に戻るにはいくらかの時間を要した。
 アトリエの隅に誂えられた簡易寝台―――大家が捨てるつもりでいたローテーブルの上にクッションと毛布を重ねただけの上に寝かせてやると、坂本はすぐに寝息を立て始めた。外の自販機から慌てて水を購入して戻ったはしばらく彼の赤ら顔を眺めてうろついていたが、やがて寝息が規則正しいことを確認するとペットボトルを枕元に置いて、こちらもやはり古いパイプ椅子に腰を落ち着けた。
 その隣に、喜多川は当然の顔をして腰掛ける。
「ごめんね、こんな夜中に」
「気にするな。どうせ起きていた」
「そっか」
 訳を訊くでもなく受け入れた彼の姿勢にはホッと息をついた。もちろん気にはなっているが、何週間か前に止めておいたほうがいいと言われたことを守り通そうというのだろう。としてもそれはありがたい。気軽に話すには少し、事情が込み入りつつある。
 話題を求める二人の視線は自然とキャンバスに向かう。どうせと喜多川が言う以上、その目的は制作以外にないとは確信している。その記憶には描きかけの絵があったが、そこにはもう完成された絵画があった。
 豊かな金の髪を若葉の中に揺らす女の横顔だ。モデルの名など聞くまでもない。
「きれいだね」
「ああ。……そういうつもりはないぞ?」
「え?」
「たしかに杏の美しさに惚れ込んでいるが、それは心根あってのことで―――そうではなく、俺は女人に興味は、いや男にもないが、しかし鍛え上げられた肉体の美しさには……違う、だから……」
「分かってるよ」
「そうか」
 今度は彼のほうがホッと息をつく番だった。そんな彼の態度にこそは密やかな笑い声をあげる。言い訳をする必要などなに一つない、あの子の美しさは芸術の類に理解の薄い自分にも通用するものだ、と。
「杏は本当にきれいだよね。なにもかもが完璧ってわけじゃないけど……」
「だからこそ俺たちはピュグマリオーンにならずに済むというものだ。彼女は人間で、イヴじゃないからな」
 完璧な理想を求むる心は人に進歩を授けるが、一方で不完全さや不定形なものを排除しかねない危険性を孕んでもいる。あらゆるものが受け入れられてこそ真の美は成るのだと、一端の芸術家か哲学者のようなことを言って喜多川は胸を張った。
 にとってはそんな彼の姿こそがガラテアだ。いやさ彼は男性で、もちろん服は着ているから、慌てて掘り足す必要はない。
 アトリエと化したガレージには、坂本の寝息といびき以外に時間を教えるものはない。他にあるものといえば、絵と、画材と、しんしんとした寒さだけだ。だというのにはショートブーツの片方を雑に脱ぎ捨てると、からかうようにつま先で喜多川のすねを優しく蹴った。
「……」
 彼は何も言わなかったが、その目が面白がっているのは明らかだった。それを了承として、はつま先だけで猫のようにじゃれつき始める。器用にも厚めのタイツ越しに裾を引いたり、膝にかかとを乗せてみたり……
 彼はいくらかは好きにさせてやっていたが、やがては叱るように小さな脚を手で捕まえる。つま先はすっかり冷え切っていたが、彼の手指もまた氷のようだった。
 ギィとパイプ椅子が鳴いた。静まり返ったアトリエに響いた音は、冷たい手が脚を顔の高さまで持ち上げた証だった。彼の手は細い足首とやわらかなふくらはぎを捕らえ、視線は膝の裏に向けられている。
「そういうの、俺が居ない時にしてくんね……?」
 そうとも、部屋は静まり返っている。寝息もいびきもいつの間にか絶え、坂本は酔いこそ抜け切らぬもののとっくに意識を取り戻していた。
 は静かに脚をブーツの中に戻し、喜多川は素知らぬ顔で膝に肘をつけ、頬杖などついている。
「酔いが醒めたのなら帰れ」
「いやムリ。終電もうねぇし」
「送るよ」
「悪ぃって。てかこそ帰れよ。もう遅いだろ」
「俺に対して悪いとは思わないのか?」
「ミリも思わねぇ。てかさっみぃ……ストーブつけね? 灯油代出すから」
 金に釣られたのか寒さに震える友人のためか、喜多川は立ち上がってこれもやはり古ぼけたストーブに火を入れてやった。
 とはいえ寒さは誰にとっても脅威だ。火の温もりが広がると、誰にとも無く息も漏れようというもの。坂本などは枕元の水にやっと気がついて手を伸ばしもした。
「うはー、しみる……てか、鈴井だよ鈴井。寝てる場合じゃねえんだよ」
「ん?」
 首を傾げたのは喜多川だ。彼とて鈴井志帆の名とこの場で挙げられる訳くらいは知っているが、この日の顛末までは知り得ない。そして坂本は、彼が今回の件に関与していないことこそを知らないでいる。
 ―――てっきりコイツも一枚噛んでるんだと思ってた。
 そう物語る彼の視線に、は少し困った様子で頭を掻いた。どうしたものかという逡巡は、しかし長くはなかった。ここまできて叱られることを恐れて口を閉ざすのもおかしな話だ。
「もうこの際いいんじゃない。祐介、この間話した杏の依頼の話なんだけど、いいかな」
「俺は構わないが、竜司はなんだ?」
「あーそこからか。だから、そもそも俺がこんなんなってんのはさ……」
 坂本は己がとある青年からされた頼まれごとからこの日に見聞きしたこと、それから呑み屋で録音した音声まで、すっかりすべてを聞かせてやった。も合間合間、補足ついでに自らの見聞を語れば、終わる頃には喜多川はほとんどすべてを知ることになる。
「過保護だな」
 傾聴し終えた彼の口から漏れたのは、そんな呆れ半分の言葉だった。もう半分は話に出てきた男たちへの怒りと嫌悪感に彩られている。
「人の口に戸は立てられん。なにをどうしたところで、過去はその人に常に纏わりつくものだ。いずれかのタイミングで誰かしらの耳目に触れ、囁かれることは想像できていたはずだろう」
 実感のこもった声と姿に、坂本とは軽く肩をすくめてみせた。三者三様、身に覚えがある文言だからだ。暴力沙汰にせよ、師の不祥事にせよ、親からの虐待にせよ……
 坂本は我が身と思考にへばり付く面倒事を振り払うようにかぶりを振り、簡易寝台から足を伸ばしてストーブの前に置いた。
「けどあいつらの場合はさぁ、俺らとちょっと違うじゃん? こっちは言われたから、それがなに? っていうか、改心のおかげでマイナスにはならねぇで済むっていうか……」
 それはまあ、と喜多川は苦々しくも頷いた。好奇の視線は多くの場合、同情も伴っているという実感がある。彼の場合は年月とともに事件の真相が画壇に浸透すると『あの斑目』のゴーストライターを長年務めていたとして、実力の裏打ちにさえなりつつある。もちろん、この青年はそれこそが気に食わない。そんなことよりもっと作品に籠めた意図や技巧に眼を向けてくれと、常々苛立ちと共に吐き出している。
 今度は喜多川が、我が身と思考にへばり付くものを振り払う番だった。フンと居丈高に鼻を鳴らし、彼もまた、足を伸ばしてストーブの前にやる。
 翻って一同の身上と今回の件、そして秀尽学園で起きた事件とを比べれば、確かに喜多川の言う通り、過保護と言い表すこともできる。何故なら本当に、まだ『なにも』起きていないのだ。
 もちろん喜多川は放置しろと言っているのではない。
 問題の大小やその内容が如何なるものであろうと、今回の件は二人が友人でいる限り永遠に纏わりつくことでもある。高巻には生まれついて多くの人がふり向くような容貌があり、その上で華々しいステージの世界を目指して日々の努力を重ね続けている。鈴井はそんな彼女の姿に励まされながら自らの道を模索している最中だが……友だちでいたいから夢を諦めてくれなどとは言わないだろうし、じゃあと言って友だちをやめようとも、決して言わないだろう。それこそがなにより一番高巻を傷つける行いだと鈴井はよく知っているはずだ。
 そしてなにより、彼女たちが受けた仕打ちは過去のことで、よほどの入念な経歴洗浄でも行わない限り消し去ることは不可能である。
 であれば、と喜多川は言った。
「対処を身に着けねば、永遠に同じことのくり返しだ」
 そうだろう? と語尾に添えられた疑問符は、明確にに向けられている。
「あ〜……そうか、対処か。対処ね。うん……」
 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた彼女に、坂本は首を傾げる。喜多川は何故かしたり顔だ。
 はその訳を、ひどく苦々しく語ってやった。
「だから、つまり……隙があるんだよ、鈴井さんにはさ。弱みっていうか、言いふらされたら気まずくなるような事情がね」
「まあ、うん」
「それは決してあの子のせいじゃない。だけど考えようによっては、彼女が招いた事態でもある」
「ああ……?」
 思いもよらぬ言葉だったのだろう。が淡々とこぼした言葉に坂本は苛立った様子で低く唸る。彼のつま先はその胸中を教えるように落ち着きなく床を叩いてもいた。
 喜多川はそれを咎めなかったし、も苦笑だけして言を重ねた。
「つまり彼女は完璧じゃない。それどころか瑕疵がある。傷物の安い女ってこと」
、テメェ……!」
「落ち着け。ただの自虐だ」
 立ち上がりかけた彼の足先を喜多川が踏みつける。
「なにすんッ……自虐だぁ?」
「大学入って半年かそれくらいだったかな……私が受けた仕打ちをどうやったのか、調べてくれた人がいたんだよ。それで……丁寧に、慰めてくれようとして……」
 浮かしかけた腰をドスンと落とし、坂本は顔中に驚愕と怒り、そしてそれを知らなかった自らに対する失望を浮かべた。
「なんだろう。あわよくば? 隙あらば? こいつなら俺でもいける、的な……そういう、下心が垣間見えて。鈴井さんに絡んでる人たちもそういう感じだったでしょ」
 対するは淡々としたものだ。彼女にとって既に過去のことだからか、元々の情動が薄いためか、坂本には判別つかなかった。
「どっちもクソ野郎だなマジで。てかお前カレシいるじゃん……」
「宣伝して回ってたわけじゃないし」
 ねぇ? と水を向けられて、喜多川は肩をすくめた。
 そんな彼の態度も坂本には信じがたい。淡々としているように見せかけて案外束縛するタイプで嫉妬深く、所有欲と征服欲の塊のようなやつが、なんでこの話題で平静を保っていられるんだ―――
 そんな意図の籠もった視線に、喜多川はやっとムッとして唇を尖らせる。
「言いたいことがあるのなら口で言え」
「ええ……だってお前、えー? キレ散らかしてそうじゃん、がそんな状況になってたらよ」
「お前と一緒にするな。……というか、俺をなんだと思ってるんだ? 今の視線で酷く侮辱された気がするんだが」
「気のせいだろ」
 プイと顔を逸らして、坂本はに意見を求めた。そっちの立場から見て、どう? と。
「あ〜……うん、そうだね。う〜ん……怒ってはいたよね」
「当然だ。たとえお前が俺の恋人でなかったとしても、人の弱味につけ込んで無礼な態度を取るような輩、許せるものか」
「だってさ」
「誤魔化しすげぇな。てかなに? そのクソ野郎に結局なにしたんだよ」
 喜多川は勝ち誇った様子で鼻を鳴らし、顎を上げた。
「少し挨拶をしてやっただけだ」
 フッと気取った笑いまで漏らして、彼は己の長い前髪に指を這わせた。それ自体はたいへん様になっているが、しかし坂本はその『クソ野郎』にほんの少し、小指の先程度の同情を寄せる。
 容易くコマせそうな、一見して気弱そうでひ弱そうな、意思すら薄弱そうな女子を、あと一歩で落とせそうだと舌なめずりをしていたのだろうところ、この青年が現れて曰く『挨拶』をしてくるのだ。生半可な輩にキャンと鳴いて尻尾を巻く以外になにが出来ようか。話を聞くにその『クソ野郎』は相手に付け入る隙が無ければ強気に出ることすら出来ないような輩だ。さぞかし肝が冷えたことだろう。
「奴めが本気でというのなら俺も受けて立ったさ。どうやらそんな度胸すらなかったらしいがな」
 それ以降影も形もないと結んで、喜多川はやっと苛立たしげに鼻を鳴らした。
「まあ、そういう次第で。だから……はぁ……」
 照れか当時を思い返しての心労か、は重苦しいため息をついた。彼女にとっては過去をほじくり返されて付き纏われるより、この青年が首を突っ込んでくるほうが余程堪えるのだろう。
 それでやっと坂本は合点がいく。
「あー、つまり、そういう? 対処って、そういうこと?」
 呻いたを横目で眺めつつ、喜多川は鷹揚に頷いてみせた。
「そうだ。己の優位を確信できねば行動すら起こせないような男なら、『彼女』を前にすれば泣いて逃げ帰るだろうさ」
 その瞳がついと動いてキャンバスに向けられると、坂本の視線も釣られてそこへ向かう。
 平面の上には優しく微笑んでいるくせに、こちらには目もくれない女が描かれていた。写真のような精緻さの中に幾筋も入れられた幻想めいた赤は、どうしてか振り上げられる鞭の苛烈さを彼に思い起こさせた。あるいは、触れてもいないのに火傷しそうな熱気か突き刺さりそうな高いヒールか……いずれにせよ彼にとって感心はしても楽しい絵ではなかった。背中や尻や頭に疼痛をもたらすような気さえする。
 そんなありもしない痛みを見抜いているのか、喜多川はひどく楽しげに喉を鳴らした。
「悲劇は過去のことで、彼女たちはすでに未来にいる。難しいことなど何一つないだろう」
 妙に詩的な表現に坂本は顔をしかめ、は首を左右に力なく振った。
 なんにせよ話はまとまった。坂本は毛布を身体に巻き付け、いよいよ寝入る姿勢に入りはじめる。喜多川はもの言いたげにしていたが、彼がいる間は暖房代を考えずに済むと思い至ったのか、そのまま彼を放置することに決めたようだ。
、お前はどうする? 部屋のほうに泊っていくか?」
「ううん。明日早いし、支度もあるから帰るよ」
「なんだ、そうか」
 彼女はしょんぼりと項垂れる喜多川のつむじをつつきながら、もう一方の手でスマートフォンを操作していた。
「杏か?」
 音には気が付いていたから、喜多川は顔を俯けたまま尋ねる。調査の結果とその後の対処法を早々と伝える気か、と。
「それは竜司と『彼』に任せるよ。私は……なんていうか、こういうのはフェアじゃないといけないかなって」
「どういう意味だ?」
 思わずと喜多川が顔を上げると、自然との指先は鼻に触れる。
「杏が知りたがっていたことも、これで回収できるだろうし」
 いたずらっぽい笑みにすっかり誤魔化され、喜多川はそれ以上はなにも言わなかったし、言えなかった。鼻をつままれては呼吸すらままならない。
「だからさぁ、そういうの、俺が居ない時にしてくんね?」
 心底げんなりした坂本の声に返るものはなかった。は足早にガレージを飛び出して行ってしまったし、残された喜多川は先以上に萎れて膝を抱えていたから、後には十二月の凍えるような寒さだけが残されていた。

……
 その後のことは、喜多川もも、坂本からの伝聞として耳にする。
 幾度となく訪れる週末、彼は再び頭領の指令を受けて鈴井のそばにやってきていた。鈴井は不審がるでもなく二度目の再会を喜び、古馴染みの気安さ故か遠慮なく力仕事を任せてくれた。それ自体は坂本も望むところだ。場合によっては鈴井以外の女性に熱のこもった眼差しを向けられることもあるのだから、坂本はこの無償の奉仕に金銭以上の利得を見出しつつある。
 なにより彼は知っていた。この日の活動は珍しく都心部に近く、そばでティーン誌の撮影が行われていることを。
 昼も過ぎ、年の瀬も近く短くなった日が傾き始めたころに彼女は現れた。撮影の合間を縫って、頭の天辺からつま先まで完璧に気合いを入れたモデルの顔をして、靴音も高らかにざわめきを引き連れながら。
「―――志帆!」
 偶然を装った弾んだ声が艷やかな唇から飛び出すと、彼女を取り囲むざわめきはますます大きく、方向性を伴って大きくなる。その向かう先、呼ばれた鈴井は驚きと喜びに頬を紅潮させている。
「杏! どうしてここに?」
「この近くで撮影したの。志帆がいるって聞いたから、ちょっと抜けてきちゃった!」
 互いに駆け寄り、手を合わせる姿は誰が見たって友人同士、それも特別親しい間柄だ。高巻の登場に目を丸くしていた鈴井のサークル仲間たちは「友だちって本当だったんだ」と囁きあった。
 そうした人々の大半は元より疑ってもいなかっただろう。真実を前に気まずい思いをするのははじめから疑ってかかり、鈴井を下に見ていたような輩だけだ。
 やがて騒ぎを聞きつけて熊谷が現れる。彼は高巻と鈴井の様子から、すぐに何事かを察したのだろう、遠巻きにしていた連中に仕事に戻るよう促し、鈴井には休憩を促した。
「ありがとう、熊谷くん。ごめんね私だけ」
「気にしなくていいよ。後でその分働いてもらうから」
「えー?」
 はにかんだ鈴井と、ちょっと意地悪に笑ってみせる熊谷。そしてそんな二人を見つめる高巻があって、それを遠くから観察していた坂本は、この状況を素直に「怖い」と述べた。何故なら高巻は顔中で笑っているくせに、眼だけが恐ろしいほど冷え切っていたのだと。
 そして彼女は、熊谷や一同が立ち去ろうとする前に、まだ聞き耳を立てている内に、まるで猫のように鈴井にすり寄ると声高に告げた。
「ねえ、あの話、考えてくれた?」
「うん? なんだっけそれ?」
「えっひど。忘れたの? スナップショットの撮影、志帆も来てよってお願いしたじゃん!」
 再び、しかし今度はごくささやかにギャラリーが沸き立った。それは周囲の者たちが、自覚すらないまま高巻の手の上で踊らされていることの証明だ。
「ねぇ―――熊谷くん、だよね? キミからもなにか言ってくれないかな。志帆ってば自信ないなんてことばっかり言って」
「ちょっ、杏、もう! だってそうでしょ? 私なんかがプロの現場にお邪魔しちゃダメだって」
 そもそも―――
 手の上に乗せられた踊る人形たちのうちの幾人か、鈴井にちょっかいを出そうとする輩など、高巻にとってはやはり敵とさえ呼べないような相手だった。ターゲットに瑕疵がなければ優位に立てない、立つことばかりを望むような輩だ。顔にせよ身長にせよ財力にせよ、話術心根センス頭脳、いずれのステータスにしても高が知れている。己が顔を見せればキャンと鳴いて逃げていくと彼女は知っていた。
 だけどもし、それでも逃げないような相手なら……
「高巻さん」
 二人の前から立ち去ろうと背を向けていた熊谷が、いつの間にか彼女たちに身体を向けて立っていた。
「友達だからって、鈴井さんが嫌がるようなことするの、やめなよ」
 凡庸な瞳は真剣そのものだ。
 高巻は白けたように鈴井から身を離すが、両手はなにかを主張するように肩に置かれたままだった。
「……志帆、嫌なの?」
「えっ? ええ〜……嫌っていうか、あの……だって私、杏みたいにかわいくないし……じゃあって他に取り柄もないから、杏のお仕事の邪魔しちゃいそう」
 鈴井は恥じて消え入りそうに縮こまる。どうやら二人の間に走る奇妙な緊張感には気が付いていないらしい。
「そんなことないよ」
 この日、彼らは都心近くのスポーツ施設で、老人子供や障害者ら、同じようなボランティアグループとともに交流を主な目的としたレクリエーションを行っていた。その広々としたグラウンド脇、子どもたちの声と鈍く暖かい陽光を浴びながら熊谷は明瞭にして告げる。
「鈴井さんはいつも一生懸命で、その上結果も出してくれてる。僕らが今日この場で活動できてるのも、鈴井さんの知識と経験があったからだ」
 そうかな、と鈴井は頬を赤らめた。ごく単純に褒められて喜んでいるだけのようだが、続く言葉への反応は少し違う意味合いがありそうだった。
「それに、鈴井さんはかわいいよ。高巻さんにだって負けてない」
 再び、鈴井は「そうかな」と応えて俯いた。耳をそばだてていた者たちからは囃し立てるような歓声が上がり、幾人かは逃げるようにその場を立ち去った。
 けれど熊谷の眼はそれらのいずれでもなく、ただ高巻を真正面から見つめている。
 ……事の次第を知って怒りに燃えたのは高巻だけではなかったのだ。事の次第を知らされた彼は、手を出しあぐねてこまねいている場合じゃないと、自らの不出来を恥じるとともに強く決意した。誰にも、決して、彼女を傷つけさせたりしない、と。
 それは彼女の親友だろうと同じことだ。
 逃げも隠れもせず立ち塞がる男を前に、高巻は鼻を鳴らした。
 ―――ああそう。こっちは最初からそのつもりで来てるから。そっちが本気でってんならもちろん……受けて立つ。
 バチッと二人の間に火花が散った。現実にも高巻の手が鈴井の肩を離れた拍子に髪に触れて静電気が音を立てていた。
 未だその場で成り行きを見守っていた坂本曰く、睨み合う雌豹と羆の幻影が見えたのだと。
「いったぁ〜……ねえ二人とも、今の聞いた? バチッていったよね」
 ただ間に挟まれる鈴井だけがなにも把握できず、静電気に驚いて目を白黒させていた。

……
 そのように宣戦布告めいた真似をしたはいいものの、物理的な距離は如何ともしがたい。そういう意味では、高巻はすでに圧倒的有利を取られてしまっている。
 ―――だからイブの夜なのに、一人ぼっちなんだ。
 ライトアップされた渋谷の駅前で、高巻は独りたそがれていた。目的があってここへ赴いたわけではなく、ただの帰り道、少しの買い物を済ませて通りかかっただけのつもりが、気がつくと彼女は足を止めてイルミネーションを見つめていた。
 それも楽しむためにではなく、なんとなく、足が止まったというだけだ。
 周りを通りかかるのはカップルばかり―――実際には友人同士や独り者も同じ割合で存在しているのだが、不思議なことに今の高巻にはそうした人たちはなかなか見つけにくい。
 今年は年末の魔物―――この時期に頭目が持ち込む厄介事を怪盗団の面々はそう呼んでいる―――も現れない。思えば『彼』が毎年事あるごとに自分たちを招集していたのは、こういう思いをしたくなかったからなのかもしれない。
 あるいは自分自身ではなく、仲間の内の誰かを思ってのことか。
(なんて、そんなわけないか。そうなら今、私が一人ぼっちになってるわけないし)
 自嘲めいた笑みを浮かべて、高巻は電飾に巻かれたクリスマスツリーから顔を逸した。それ以上考えたくなかったからだ。今年の招集がなかったのは『彼』のほうに寂しくならない理由があるからかも、などと。
 吹き抜けるビル風は強く、肌を裂くような冷たさを伴っている。天気予報では曇りとなっていたが、もしかしたらホワイトクリスマスになるかもしれない、そんな寒さだった。
 ところが現実というものは、彼女が思っているような厳しいばかりのものでもない。
「あっ、杏。見つけた!」
 かけられた優しく暖かな声に、高巻はこれ以上ないほど目を見開いている。
「なんでいるの!?」
 照れくさそうに頬を掻き、高巻の前に立つのは鈴井志帆だった。
「えへへ、来ちゃった」
 クリスマスプレゼントだよ、などと冗談めかして言いながら、鈴井は高巻の手を取った。
「えっ、えっ……!? で、でも、熊谷くんは? カレシはいいの!?」
「熊谷くん? やだもう、杏ってば。まだそういうんじゃないって。それに彼なら、今日はどこかのパーティで女の人に囲まれてるよ」
 曰く、平均年齢六十の淑女たちによるささやかな親睦会があって、熊谷はそこにお呼ばれしているのだという。熟練の主婦たちによる歓待だ。想像するとなかなか悪いものでもなさそうだ。少なくとも出される食事は間違いなく美味しいだろう。
 だけど、と高巻はまだ信じられない様子でいる。 
「志帆はそこに呼ばれなかったの?」
「招待はされたよ? だけど、彼に杏が寂しがってるって聞いて、こっちを選んじゃった」
「彼って……」
 まさか熊谷のことか。敵に塩を送られるとはなんたる屈辱―――そう思いかけた彼女の前を横切る形で、鈴井はまっすぐに腕を伸ばした。
「ここまで送ってくれたから、まだその辺りに……あ、いた。あそこ、ほら―――」
 腕を辿り、指し示す先に目をやって、高巻は今度こそもうこれ以上はできないと言わんばかりに驚いてみせた。
 雑踏の向こうに、鞄に黒猫を入れた青年がいる。特徴的なくせっ毛に、肩に乗る猫の手は白く、靴下を履いているかようだ。
 『彼』は鈴井の手と高巻の視線に気が付くと片目をつぶり、猫のほうは先の白い尾を振ってみせた。二人の口はまた、声もなく「メリークリスマス」と近ごろは様々な配慮から言われなくなりつつある文言を唱えている。
 元より今回の鈴井絡みの一件、高巻がに依頼をする前から『彼』は動いていた。もしかしたら、この日のための下準備だったのかもしれない。
 ―――それは流石に都合の良すぎる妄想か。
 高巻は再び自嘲を浮かべ、次いで悔しそうに唇を噛んだ。『彼』と猫はもう、彼女に背を向けて歩き出している。
「もう……!」
 ギュッと拳を握り、地団駄を踏みながら、高巻はその背に半ば叫ぶようにして告げた。
「キミのそーゆーところ! そういうところだからね! おぼえてなよ! ゼッタイにいつかぎゃふんって言わせてやるから!!」
 果たして行き交う人々の多くがそうであるように、彼の耳にも届いたのだろう。しかし周囲の者と違って彼はふり向きもせず、ただ手だけをひらりと振ってそのまま人混みに紛れて行ってしまった。
 それが高巻には心地良かった。ここで立ち止まって駆け戻り、許しを乞うような男など願い下げだと。
 しかし、鈴井にはどちらも御免こうむるところだろう。あちこちから注がれる好奇の目線に、彼女は恥ずかしそうに高巻の腕を引っ張った。
「ちょっと杏、声大きいって。恥ずかしいからやめてね」
「うう~! だって、だってぇ……ねえ志帆、聞いてよ! あのね、アイツったらね……」
「はいはい。ほらどっかでケーキ買お。なんか安いの。杏の部屋行っていい?」
「いいけど、話聞いてよ!? もうほんと、もう、もーっ!」
 牛のような高巻の遠吠えを残し、やっと二人はその場を立ち去った。
 残されたのは幻想的なイルミネーションを楽しむカップルたち―――その一組に紛れて事の成り行きを見守っていた喜多川とだ。別段高巻の跡をつけていたわけでもなく、二人でああだこうだと電飾の配置について語り合っていたところ、背を丸めた高巻が通りかかったというだけだ。
 口からは、安堵と呆れのため息が漏れている。
「まったく。また中途半端なことして、罪作りというかなんというか……」
「今回ばかりは鈴井さんに譲ったと言ってやれ。二人とも、いい顔をしていたじゃないか」
「それは、そうだけど」
「ならいいだろ」
 なにより二人は並んで腕を組んだりして、人目をはばからずイチャついて立ち去った。あれなら声をかけて誘う必要もなさそうだと、喜多川は二重の意味で安堵する。
 鈴井が現れるまで、は声をかけるべきだと積極的に訴えていたのだ。それ自体は喜多川だってやぶさかではなかったが……久しぶりに二人で出かけられた時間をこんなに早く切り上げられるのは御免だった。
 立ち去った女達の姿を胸に返し、彼は改めて感じ入った様子で息をつく。
 彼女の豊かな表情は、やはり一瞬を切り取る絵画や彫刻などでは表せない。様々な側面や物理的な視点を表す技法も存在してはいるが……今の彼はピカソではなくの恋人としてこの場にいる。誰にも間に入って欲しくはなかった。例えそれが高巻だとしても、心から信を置く怪盗団の頭目でも―――
「じゃあ、二人は俺に付き合ってもらうから」
 あーあ、とはうんざりした様子で吐き出した。
 いつの間に現れたのか、そもそも正反対の方向に去っていったはずなのに、どうして自分たちの背後から、あまつさえ間に入って腕を組んだり出来るのか。
「出たよ、年末の魔物……」
「これはどうやったら退治できるんだ……」
 低く呻いて天を仰いだ二人の間、彼の背で、モルガナは申し訳無さそうに鳴いている。
「ワリィなオマエら。でも本当に、シゴトなんだよ」
「そうそう。祐介、、お前たちの力が必要だ」
 そう言われてしまうと、二人とも悪い気はしないのだから始末が悪い。歳を経て境が変わろうが、この青年に頼られることはどうにも、たまらないものがある。
 高揚からくる沈黙を了承と受け取ったのだろう、彼は恋人か親子のように絡めていた腕を解くと、ポケットから手帳を取り出してそこに目を落とした。
「平内長一って男と、ルシア・ゴンサレスって女がターゲットだ。この二人は美術品の国際的な輸送代行と販売を主に行う会社を経営してるんだけど、どうもマフィア連中と繋がりがあるみたい」
「贋作か?」
 素早く食いついた喜多川に苦笑しつつ彼は頷いた。
「なるほど、会社経営は表向きで、実質は組織の資金集めと洗浄が目的ってところか」
 もまた、手帳の上でのたくるミミズ文字を薄目で覗きつつ述べる。彼はやはり、頷いてみせた。
「それだけじゃねぇぜ。どうも連中、人身販売なんてこともしてるようだ。絵画の販売を隠れ蓑に、そこでニンゲンを取り扱ってやがる」
「外道め、実に許し難い」
「だけど証拠はあるの。憶測だけじゃ動けないよ」
「だからお前らに声をかけたんだよ。祐介、お前はなにか一枚、連中の興味を引きそうなやつを頼む。にそれを売り込んでもらうから……ああそうだ。二人とも、パスポートあるよな?」
「一応あるが、なぜ?」
「まさか……」
 彼はつい先ほど高巻にしたのと同じように片目をつむり、猫はますます小さくなる。
「年越しはベガスでするぞ。出立は明日、チケットの手配はもう済んでるから、支度だけ済ませておいて」
「待て、さすがに今日明日で絵を用意するのは」
「むこうで描けばいい。場所も準備してある」
 はもはや寸言を挟むのも馬鹿らしいとモルガナを引きずり出し、湯たんぽ代わりに抱き寄せて溜息をついている。
 無抵抗主義には染まり切れない喜多川は孤軍奮闘、まだ疑問符を彼に叩きつける。
「場所だと? いつの間に……というか、よくそんな金があったな」
「俺じゃないよ」
「なに? ……あ」
 ハッと息を呑んだ喜多川の脳裏に浮かんだのは奥村春の名と顔だ。そういえば、オクムラフーズは一時期海外進出を果敢に行っていた。なるほどその名残りかと思うと同時に、彼もまた諦観の息をつく。
 怪盗団の活動頻度は幸いにして年々落ち着きつつあるが、反面取り扱う事件の規模は増している。この分ではその内世界大戦の阻止などさせられるのではないか―――そんな悪い予感が過ぎるが、しかし思い返せば彼らはもう、一度ならず二度三度、人類の危機を救っている。
 それに比べれば世界大戦の阻止も贋作や人身販売も、二人の女子大生にまつわる厄介事も安いものだ。
 なんなら自分たちが今しがた楽しんできたクリスマスディナーだって、すでに用意されているらしい航空券に比べればずっと安い。得られるものは同価値とは言い難いが―――
 彼は手慣れた様子でからモルガナを取り返すと、踵を返して二人から距離を取った。
「それじゃあまた明日。迎えに真と春を寄越すから、早起きしろよ」
 どことなく勝ち誇ったような笑い声を残して、彼はすぐ雑踏に紛れてどこかに消えてしまった。
 二人は顔を見合わせてしばらくはその場に佇んでいたが、やがて言いつけられた支度を整えようと早足になってその場を去った。