+1:Childhood Friend's Case

『チョコ送ったよ』
 やわらかな声色とその言葉に、立花紬はスマートフォンを片手に目を細めた。コミュニケーションの手段が多数存在する現代にあってわざわざ音声通話という手段をとった甲斐もあったと、耳に触れる幼馴染の声に口元を綻ばせもする。
 ほんの二か月ほど前からつい先日まで、この立花紬という少女は現世から姿と存在を失っていた。その間の記憶も意識も彼女にはありはしないが、しかし彼女を取り戻すため奔走した幼馴染自身から事の顛末は聞き及んでいる。己が幼馴染をはじめ、多くの人の助けによって今こうしていられるのだということを。
 そう思うと電話越しの幼馴染の声も言葉も別格だ。彼女の手から送り出され、今ごろ東名高速あたりを走っているだろうチョコレートも。
 日付は二月の十三日を示している。時刻は夜の七時だ。場所は病院内のラウンジの一角、通話可能エリアの中。立花自身は今もまだ入院中の身だが、これまで意識不明の自発呼吸すら失していた状態にあったとは思えないほどの健康ぶりに医者たちが揃って首を傾げている状況だった。多少の筋肉の衰えはあるが、すでに自立歩行が可能なまでに回復していた彼女は、自らの足でもってこの場までやってきていた。
 通話以前の昼からSNSアプリのチャットを利用して明日のバレンタインデーのことを話し合い、この時間に声を聴きたいと求めて立花は通話をねだった。それに幼馴染のが応え、それで二人は声でもって近況を報告し合い、その末プレゼントの発送をお互いに報告し合ったというわけだ。
「私も送った。いいとこのやつだから期待していいからね?」
 ———本当は、目覚めて病床に駆け付けた両親に無理を言って買ってきてもらったものなのだが、わざわざ伝えることもあるまいとそこは伏せる。ちょっと冗談めかした彼女の言に、通信回線の向こうのは嬉しそうに声を弾ませた。
『わかった。ふふふ、紬がくれるものは毎年間違いがないからね。今年も楽しみにしているよ』
「もちろん! あんたのも期待してるからね。ちゃんと美味しいの選んでくれた?」
『あ―――』
 返ってきた声の調子は今度はあまり芳しくなかった。
『それなんだけど、あのね、今年はね……』
 ただスーパーで見かけた既製品を買っただけだとは申し訳なさそうに言う。
 というのも、バレンタインデーに向けた商戦の色濃くなる時期、彼女はそれどころではまったくなかったからだ。先述にあった立花紬の喪失期間の真っ只中にあって、すぐそばには護衛とただのトモダチを兼任する一人の少年がいた。それで、は山と積まれた内から『二つ』を見繕って買い物かごの中に放り込んで会計を済ませたのだという。
『ごめんね。咄嗟に手に取ったものだから、あんまりパッとしないかも』
「別にいいよ。それだって美味しくないなんてことはないでしょ」
『たぶん。それにちゃんとハートのやつを選んだからね』
「それは当然でしょ?」
 立花紬はこの幼馴染のことを誇りに思っている。気の強いほうではないどころか優柔不断で押しに弱いところさえあるが、芯は強くて背すじが伸びているところを特に気に入っている。誰もが持ち合わせているような善良さを、しかし挫けることなく保ち今なお胸の内に宿しているところも。
 それは子どものころからずっとそうだった。立花紬が知る限り、という女の子はそうやって気概なるものをこの少女に見せつけ続けた。
 だから、立花は彼女のことを好いている。幼馴染としてという意味と同時に、特別な意味でも。
 今のところ彼女はそれを告げるつもりもないが、それはその必要がないからだ。のほうにはそんな気もないだろうが、二人は同じくらい互いのことを思いやり、通じ合っている。立花はそれで満足だった。
 二人の間に立ち入れる者なんてこの世に存在しはしない――――
『あ、あのね、紬。そのチョコのことでね、お願いがあるんだけど……』
 ほんの数日前までそう思っていた。彼女はまた、愛しい幼馴染がこう言い出すだろうこともどこかで察していた。
「……なに?」
 努めて穏やかに返して、立花は必要もないのに作り笑いを浮かべた。
 そうとも、ほんの数日前、目覚めて彼女は幼馴染のから事の顛末を余すことなく聞かされていた。神隠しの如く立花がこの世界から姿を消し、がこちらへ転校したこと、そこで幾度となく奇妙な空間に迷い込む羽目になったこと、その異界で奇妙な仮面をつけた少年少女と出会い、彼らの助けを借りて幾多の危機を乗り越えてやっと立花を取り戻した―――
 その折、最も近くでの心身を支えた者がいる。それはと立花のクラスメイトでもあった。
『祐介……あいや、喜多川くんに渡そうとして、忘れてたのがあって、それも一緒に送ったから、彼に渡して欲しいんだ』
 こんなことを頼んでごめんと消え入りそうな声で言って、は恥じ入るようなブレス音を寄越した。
 喜多川祐介の名を人生で一番多く聞いた日はいつかと問われれば、それは目覚めてすぐ幼馴染が見舞いに来てくれた日だと立花は答える。は事情を説明する間、何度も、何度も、何度もその名を口にしたからだ。他にも登場人物はたくさんいたというのに、彼の名ばかりを、しつこいくらいに。
 立花は察していた。危機的状況にあってそばで寄り添って彼女を守り、導いて道を示し、重荷を分かち合うことさえした相手への気持ち―――それを吊り橋効果だとか、旅先での出会いだとか、クリスマス前の焦りだとか、バレンタインデーの直後……そういう特別な状況下にあって、外的要因からもたらされる不安や恐怖、緊張や興奮を、相手への恋愛感情と勘違いする、そういうものだと言い切ってやることさえできるが、しかし今後どうなるのかなんてことは誰にも分からない。
 立花は断腸の思いで了承を告げた。
「いいよ、わかった。だけど当日には渡せないかもしれないよ」
『それは全然。そもそも紬のお見舞いに行ったときに渡しておけばよかったんだから……』
 ……ふうん、そう。私と会う前か後に彼とも会ったんだ。とんぼ返りだって言ってたのに。帰りの新幹線の切符ももう買ってあるから長居はできないなんて言ってたくせに。ちゃっかり彼とも会ってから帰ったんだ?
 むくむくと膨れつつある嫉妬心をどうにか喉の奥に押し込んで通話を切り、立花は心の中でにっくき男の顔面に石を投じた。

 それも翌日になってからのチョコレートが目の前にやってくると、すっかり納まってしまう。聞かされていた通りの量産品のパッケージにきちんとリボンが巻かれ、メッセージカードまで挟まれていた。
『紬へ はやく元気になってね。ゴールデンウィークには遊びに行くね』
 丸っこい女の子らしい直筆の文字。末尾に添えられたハートマーク。立花はほんとうに、それだけで満足だった。
 その下から群青色のリボンが巻かれた長方形の箱さえ出てこなければ。
 こちらにもやはりメッセージカードが挟みこまれていたが、裏返されてなにが記されているのかは抜き取らなければ読むこともできない。
 状態の変化に伴って大部屋に移った立花の周りはパーテーション代わりのカーテンが包んでいる。二つのチョコレートを運んできてくれた母親も夕飯の買い物があるからととっくに帰ってしまっていた。
 だから―――
 だから、立花にはなんだってできた。メッセージカードを盗み見ることも、なんならこの、己以外の相手に与えられる予定のチョコレートをゴミ箱に投じてしまうことさえも。
 そうしたってよかった。立花が大事に大事に育み、秘して温めてきた想いを告げるより前に横から唐突に表れてかっさらっていった―――厳密に言えばそもそも彼はイエスともノーとも答えていないし、おそらくの想いを知りさえしないだろう―――輩に、どうして自分が仲介役などしてやらねばいけないのか。
 だ。こんなことを、よりにもよって自分に頼むなんて。なんなら他の、彼のトモダチに頼むことだってできたはずじゃないか。
 恨みがましく思うのと同時に、立花はひどく寂しくなった。
 彼女が知るという女の子は、あまり友だちの多いほうでなかった。それは物心ついたときから己にべったりで、他の交友関係を必要としていなかったというところが大きい。立花自身もそれを歓迎している向きがあった。
 中学の卒業とともに両親の転勤、あるいは栄転によって東京へ越すことになったとき、立花はこう思った。
 は大丈夫かな。ひとりぼっちになったりしやしないだろうか。
 新しい環境に身を置くことになる自分自身のことなどさっぱり気にせず、彼女はただ幼馴染のことが心配でたまらなかった。けれど同時に、彼女ならという思いもあった。
 彼女なら、必ず己の期待に応えて報いてくれる。優柔不断で押しが弱くて、だけどいつでも背すじの伸びた彼女ならきっと、と。
 果たしてその通りになった。少ないながらも高校で友人を得、そして……
 己が本当に、死にも等しい状況に置かれてなおは挫けず、奇妙な仮面の集団の行いと言葉によって少なくない成果を上げてみせた。それが己自身であることこそが立花にとっては誇らしい。
 なにより彼女はひとりぼっちになんてならなかった。自分が居なかった間、喜多川何某が傍にいた。代替などではなく、ただの一人の友人として、仲間として、それ以上の相手として。
 立花は唇を噛んでゴミ箱に投じようと掲げていたものを下ろした。
 なんだってすることができるが、それは最もやってはいけないことだと彼女こそが理解しているからだ。きっと初恋だろう幼馴染の気持ちをゴミとして片づけることができるような人間なら、きっとそもそも今日までの友情はなかった。今そうなることもこれまでの友情への裏切りに他ならない。
 きっと渡そう。クラスメイトだけどほとんど話もしたこともないあの少年に、ちゃんとからだと言い添えて渡してやろう。それで彼がどういう反応を返したのかも、きちんとあの子に伝えてやろう。
 ……だけど、少し心の整理をつける時間が欲しい。一晩か、一日か。少なくとも登校を再開できる日までには。

 ここでやっと喜多川祐介が登場する。
 彼というひとは、容姿の整った背の高い、身ぎれいで細身の……一般に美少年と言われるような見た目をしている。ただ黙って歩いているだけなら、すれ違った異性がちょっとふり向いてみようかと思う程度の容貌だった。
 ただし中身は少し……独特だ。彼の仲間などはそれを評して変態などと口悪く罵ったりもした。
 ありていに言えば彼というひとは見た目も育ちもよく、優れた才能を有しているが、中身は珍妙な変人だった。独特の思考回路はこう言い表される。
 ―――空気を読まない。
「立花さん、こんにちは。クラスを代表して……というわけでもないが、見舞いに来させてもらった。これは俺の友人たちからの見舞いの品だ。心ばかりだが、ご両親と召し上がってくれ」
 心の整理をつける時間が欲しいと立花が願ってからほんの三十分ほど後のことだった。どうやら授業を終えてすぐこちらへ足を運んだらしい、手土産の紙袋の他に通学に使っている鞄を下げている。
 彼を病室に案内した母親などはその容姿にいらぬ期待を抱いているのか瞳を輝かせて彼と娘とを交互に見やり、土産の品を受け取っている。どうも複数人かららしいそれは、銀座の有名店のスイーツや老舗の芋菓子にもなかと、渡してくるのが彼でさえなければ飛んで喜びたくなるようなラインナップだった。
 空気を読まないとは言ったが、立花の気持ちなど喜多川には知る由もない。ただ、わざわざこの日、二月の十四日にやってくるというのはいかがなものか。
 その理由もすぐに知れた。
 気を利かせたつもりでまったく逆効果の母親が辞して後、二人きりになると喜多川はすぐに切り出した。
……ああ、いや、さんから君の見舞いに行くよう頼まれたんだ。元気なようで本当に良かった。それと、なにか俺への届け物を君が預かってくれていると聞いたんだが……」
 つまりはそういうことだった。直接渡すのを忘れていたくせに、直接郵送する度胸はないくせに、渡すものを立花に預けてあるとは直接伝えたらしい。
 立花は忌々しくも幼馴染の成長を喜んだ。あやつめ小技を身につけたな、と。
 だけどじゃあといってすぐに渡すのもしゃくだった。はらわたが煮えくり返り、今にも融け落ちてシーツと床を燃え上がらせそうなほどの嫉妬と苛立ちがそこにあった。
「……うちのがお世話になったみたいで」
 ろくに挨拶も返さず、要求にも応じず、やたらと『うちの』を強調して彼女は言った。それは彼女の実にささやかな主導権の主張だった。
 喜多川は少し面食らった様子でまばたきをくり返すが、立花の意図さえ通じてはいないのだろう、うっすらと微笑んで首をゆるく横に振った。
「たしかに少しは世話もしたが、こちらも得るものは多くあった。礼を言うのは俺のほうだ」
 立花は懲りなかった。
「そ、そう。でもあの子、たくさん迷惑もかけたでしょ? ちょっとどんくさいところがあるから……」
「それもお互い様だ。俺の性質のために負担を強いることもあったが、彼女は受け入れてくれたよ。どんくさいと君は言うが、それは温雅な人柄ということだ」
 わかってるじゃない。立花は憤懣と揚々とした気持ちをないまぜにして舌を噛んだ。
「まあ、そうね。そうだよ。のんびりしているけど、頭の回転は悪くない」
「それに機転も利く。そのぶん迂闊なところもあるが、いざというときの勇壮さはいっそ頼もしくもあった」
「そうなの! あの子はいつもこっちを頼ってくるみたいに思わせておいて、いざってときはこっちを助けてくれる」
 今回そうだったみたいに。
 熱心な様子で拳を握る立花の姿に、喜多川は共感とともに頷いてみせた。
 同じ学校、同じ教室に通っていたはずの二人は初めて共通するものを得てにわかに会話を弾ませはじめる―――直前立花は我を取り戻して握っていた拳を開いた。違うそうじゃない、こいつと盛り上がってどうする。
 しかし喜多川のほうはやめるつもりもなさそうだった。彼は浅く腰掛けた膝の上で手を組み、ビニル製の床材に目を落としている。その口元にはまだ穏やかな笑みが湛えられたままだ。
「あの子が行ってしまってこれほど寂しいと思うなんてな。君もこちらへ越す際こういう心地になったんだろう?」
「喜多川くんは、たった一か月一緒にいただけでしょ。一緒にしないで」
「ひと月と一週間だ。その間ほとんどの時間をともにした」
「私は、三歳のころにはもう一緒に遊んでた記憶があるし。十二年以上ほとんど一緒にいたんだからね」
「俺たちはなにを張り合っているんだ?」
「そっちが始めてきたんじゃない」
 喜多川はかすかに喉を鳴らした。その余裕のある仕草がなにより気に食わないと立花はまた舌を噛んだ。
 本当に気に食わなかった。喜多川がに関して表面的なことだけでなく、その内面の良きにつけ悪しきにつけ、きちんとよく見ていることが腹立たしい。それはなにより、からの一方的な好意であってほしいという立花の実に身勝手な願望を否定しているからだ。
 喜多川のほうが抱いているのがどういった類の感情かは判らないが―――
 なんにせよ約束を反故にすることだけはできないと、立花はやっと棚の上に所在なさげに置かれていた長方形の箱を彼に差し出してやった。
「これは?」
「さっき言ってたからの届け物」
「ああ」
 そうだった、と受け取るために差し出された手からサッと上に遠ざける。小さな子どもがするような意地悪に喜多川は眉をひそめた。なんのつもりだ、と。
「これがなんなのか解ってる?」
 問いにもまた。
 もちろん彼は理解している。つい先ほど、校舎を出ようとする彼を引き止める女子が渡してくれたものは彼の鞄の中にまだ納まったままだ。それで今、立花が掲げた手の中のリボンの巻かれた箱を見て連想できないほど彼はとぼけてもいなかった。
「解っている。今日はバレンタインデーだ」
「そういう常識はちゃんとあるのね」
「どういう意味だ?」
「自分の胸に手を当てて考えてみたら」
 言われたとおりに胸に手をやって考えたところで喜多川には思いつくところはあまりなかった。変人と思われていることは察知してこそいるが、常識知らずとまでは思われていないはずだという自負はあった。実際彼は意外なくらい常識はわきまえている。
 そうとも、バレンタインデーだ。この日に渡される届け物など一つに決まっている。おまけに他の面々にもというわけではないことも彼は承知していた。
 は、別れ際にも特別なことは言わなかった。ただ、またねと朗らかに告げてふり返りもせず行ってしまった。
 だから喜多川には解らない。これにどんな想いが籠められているのか。強い親愛の情か、謝礼のつもりかもしれない。あるいはもっと特別なものがあるのか……
 困ったように眉尻を下げる喜多川を見て溜飲を下げたのか、立花はやっと腕を下ろして彼にそれを手渡してやった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 なんで私がこんなことをと不貞腐れる彼女を前にして、喜多川は受け取った長方形の箱をまじまじ眺めて吐息をもらした。空いた手を己の口元にやって、こみ上げるものを堪えるように手のひらで隠そうともする。
「そうか……が俺に……」
 くぐもった声に立花はフンと鼻を鳴らした。彼が馴れ馴れしくと呼んだことにも、嬉しそうに目を細めていることにも、不快感を覚えて腕を組んでいる。
 なんにせよこれで立花も喜多川も用は済んだはずだ。話題だって共通の友人であるところの以外にこれといってありはしないのだから話が弾むはずもなく、また立花は彼がのことに触れることを見るからに嫌がっている。それが何故かまでは察し切れないが、しかし退き時だということくらいは喜多川だって理解していた。早く一人になって、包みを開けるなり差し込まれたメッセージカードに目を通すなりしたいとも。
 それじゃあ俺はこれでと立ち上がった彼の目元を見て、ふと立花の胸を嫌な予感がよぎった。
 そうだ、彼は先ほど『君も』と言った。君もこんな心地になったんだろうと。翻って立花はわが身を顧みた。あの子と距離を隔てることになったとき、寂しいと思ったのは習慣の変化以上に彼女にとって幼馴染が特別な存在だったから……
 立ち去ろうとする喜多川の背に、立花は最後に一つ問いかけた。
「あの子のこと、どう思ってるの?」
 彼は一度だけ立ち止まり、首だけを巡らせてふり返る。そこには困ったような笑みだけが乗せられている。
 結局彼はそのまま、一言も返さず立ち去ってしまった。