じっとりとまとわりつくような湿気の中、三〇分も待ったころになってようやく姿を現した喜多川に、
ははっきりとした非難の眼を向けた。
「すまない。道を尋ねられて……」
口頭で説明してみせたが理解されず、目印になる建物が見えるまで同道したのだと語る彼に申し訳無さはあっても後ろめたさや誤魔化しは見て取れず、
はすぐに冷ややかな視線を床に落とした。急いでやってきたのはお互い様だと証明するように二人の靴は生憎の雨で汚れている。
固く結ばれていた
の口元が緩むのを見て、それを許しと受け取ったのだろう、喜多川はほっと息をついた。
「どれくらい待たせたんだ?」
「大したことないよ。一〇分かそこら」
「そうか」
告げられた数字が実際より少ないことくらいは喜多川にもすぐに分かった。
自身もそれを承知で嘘をついた節がある。小狡い真似だという認識は共通していた。
なにより
にとってはそれ以上の、時間を忘れるような理由があった。
「あそこ、最近新しく入ったショップがあるでしょ」
「うん? ああ、靴屋か」
「そう。あそこの店先にね、さっきまで杏がいたの」
「ほう」
珍しいことではなかった。
高巻杏はアマチュアとはいえモデルとして雑誌の表紙を飾ったこともあるような人物だ。両親の影響もあってファッションへの関心は人一倍強く、彼女がそこに現れることにはなんの不思議もないだろう。偶然という意味では楽しい時間だったかもしれないが───
が言うには、二人は会話を交わすなどして時間を潰しあったわけではないらしい。
「なんだ、声をかけなかったのか?」
「うん。だって杏ってば、なんだかずいぶん真剣そうな顔をしていて、とても声をかけられる雰囲気じゃなかったんだよね」
それは少し珍しいことだった。
高巻の家庭環境は決して貧しいものではない。彼女自身アルバイトによって賃金を得ているから、物を購入するための出費に戸惑うことはあまりない。もちろんそれは高校生という身分の範疇に収まっている。
おまけに
が語る中、広く店中をじっくり見て回っていたということでもないらしい。たった一足の靴をじっと見て、少し離れて、また戻ってはチラチラと覗っては、店員に声をかけられそうな気配を察して逃げるように遠ざかる……そんなことをくり返していたのだという。
これは明確に珍しいことだ。
人見知りのケこそあるが、基本的には人懐こく、開放的な人柄の少女のはず。
の語る高巻の動向をうまく想像できない己の未熟さを呪いつつ、喜多川は素直に答えを求めた。
「杏はなぜそんなことを?」
「恥ずかしかったんじゃないかな」
「うん……?」
解らない、と眉をひそめた彼に、
は手のひらを水平にして己の頭をポンと軽く叩いてみせる。彼女はまた、踵を浮かせてつま先立ちになってもいた。
「杏が見てたのはね、ヒールのないぺたんこの靴だったんだよ」
喜多川はやはり首を傾げた。彼には
の奇妙な振る舞いも、高巻があえてフラットシューズを選ぶ理由も解らなかったからだ。彼女の無駄のない造形の足には、同じく細く長いヒールが似合う。それは彼女の魅惑的な下半身から艶めかしい腰の曲線美をより強調する───
「否定はしないけど」
「すいません」
ストンと踵を落とした
の冷たい視線が喜多川の脇に突き刺さっていた。
しかし刺激を与えられても彼には思いつくものがない。
は肩をすくめて答えを与えてやった。
「理想的な恋人の身長差って、一十五センチなんだって」
「ふむ、そうだな。デザインの黄金比としてもそのあたりに納まるか……?」
「そういう意味じゃなくって」
苦笑しながら己を見上げる彼女へ視線を落とし、少しして彼はやっと真相にたどり着いた。
「ああ……そういうことか……」
「杏がヒール履くと身長差縮んじゃうからね」
なるほど、涙ぐましいアプローチの一環であったかと得心して、喜多川は深く頷いた。彼女の気持ちを汲んで奴めが観念すればいいとも、さっさと別のもっといい相手を探せばいいとも思う。そんな輩が存在するのであればの話だが。
じゃあと言って自分ならそんな心配は無用と名乗り出ることはできなかった。なんとなればそんなことを考えること自体が不誠実に当たる相手が隣にいる。
そこまで考えて彼はやっと、先ほど
が背伸びをしてみせた理由を悟った。
「縮んだほうがいいか?」
「私が伸びたほうが早いよ」
「それもそうだ。背を伸ばす手術というのは足の骨を───」
「なんで怖い話をしようとしてるの。手術までするとは言ってないよね」
二人の足はどちらともなく歩き出していた。喜多川はふと先の話題に上った高巻に挨拶くらいはすべきかと考えるが、言葉にするより前に察した
が「杏ならきみが来る前に行っちゃったよ」と言う。
すると喜多川の胸に好奇心が湧き上がった。
「結局杏はその靴を買ったのか?」
彼らしくもない下世話な思考だ。他人の金の使い道を探ろうなどと───とはいえ、その気持ちはよくわかると
は苦笑する。なにより己こそが懇切丁寧にそれをくすぐったという自覚もあった。
その上で秘すべきこともあるとも。
「どうせそのうち分かることなんだから」
そう言って差し出された手を喜多川はなんの疑問も挟まずに握った。
───以前と比べると、こうするのにずいぶん姿勢が楽になった気がする。歩調を合わせるのにもあまり気を遣わなくなったか。
それが単純な慣れなのか、それとも彼女の成長の証なのか、喜多川にはすぐに判別がつかなかった。見れば解るかと視線を落とすと、果たしてそこには待ち構える瞳があって、どことなく挑戦的な光を湛えている。
「たしかに、お前が伸びるほうが早そうだな」
「でしょ」
自慢気な声は彼の耳に心地よく響いて、いずれもっと近くなることを彼に強く予感させた。