「ひれ伏せ、愚民ども」
などと彼が言い出したのはいよいよ正気を失って他者を無差別に敵認定し始めたからなどではなく、正真正銘彼が人をそうと呼ぶに相応しい栄光を得たからだった。
休日のこの日、ルブランの屋根裏部屋、その中央に引き出されたテーブルには彼を含めた四人の男女が着いている。出掛けるのも面倒だけど、一人で過ごすのも嫌だという勝手気まま極まる理由で呼び出された仲間たちは、一様にくたびれた視線を彼に注いでいた。
理由は明白だ。テーブルの上には各々が持ち込んだ菓子類や粉もの、招待主が歓待に出したコーヒーやジュースに―――
トランプが一組、バラバラになって散らばっている。
彼はこれを用いた勝負に勝ち、『大富豪』の称号をその手に収めた。それだけだ。
それだけのことで人を『愚民』呼ばわりしうる経緯があるのだが、勝負には加わらずモルガナとともに観戦していた坂本などはとっくに飽きて漫画本に熱中している。つまり、傍目には退屈な試合展開でしかなかった。
坂本の横で見守っていたモルガナもいつしかウトウトとまどろんでいたのだが、無言の中唐突に響いた声に驚いて迷惑そうに眉間にしわを寄せている。
「なんだよ……終わったのか? ダレが勝ったんだ? ふわぁ〜」
あくび混じり、さして興味もなさそうに問うたモルガナに、彼は自らを示してやたらと気取った仕草で前髪に触れてみせた。
「ふ〜ん。で、他は?」
黒猫は毛づくろいを始めた。
「私が『富豪』ね」
疑問に答えたのは高巻だった。自らの胸に手を置いて微笑む姿は誇らしげで、勝負の白熱ぶりを物語るようにその頬はわずかに上気している―――モルガナはうっとりとした眼差しを彼女に投げかけた。優しくて、きれいで、おまけに勝負事にも強いなんて! やっぱりアン殿こそワガハイの運命の人に違いない……などと片一方的に考えたりするが、彼女の勝負強さは黒猫にそう思わせるに足るものだ。手元に流れ込んだ幸運と勝機をそれと自覚さえせず掴んで逃さない強かさは磨けば千金を得るに値する。とはいえ今一歩頂点に手が届かないのは自覚のなさ故か。
「俺が『貧民』だな。フッ……」
自虐的な笑声と物憂げなため息が喜多川の薄い唇から同時にこぼれ落ちた。
途中までは良かった。富豪の座を得て余裕をみせていた試合中盤、仕掛けられた『革命』に対して『革命返し』に打って出たまでは良かったのだが、その後の読み違いが決定打となって彼は転落した。原因を求めてじっと手を見たところであるのはしわだけだ。金運線は濃くはっきりとしているが、財運線はそれらしきしわさえ見えない。他はやたらとくっきりとした生命線が目立って手首との境い目近くまで伸びているくらいだ。
「てぇことは……」
モルガナは腹の毛を整えながらチラとテーブルのほうへ視線をやった。そこでは参加者の最後の一人が天板に突っ伏して呻いている。
『大富豪』は情け容赦なく現実を突きつけた。
「ああ、
が『大貧民』だ」
「ふぐうぅ〜……!」
無様な鳴き声を上げて
は手足をばたつかせた。
元より『大富豪』あるいは『大貧民』なるゲームは初回の勝敗が大きな意味を持つ。仕様上逆転はし難く、その反面成し遂げればリターンは大きい―――初動をしくじった挙げ句、無謀な成り上がりをくり返した結果の敗北だった。傍らで見守っていた坂本に言わせれば「そりゃそうよ」だ。
「どうして……どうして勝てないの……おかしいよぉ、イカサマだよぉ……」
ついには自らの敗北の責任を他者になすりつける暴挙に出始めた
に大富豪は嘲りの視線を送る。
「負けは負けだ。出すもの出してもらおうか?」
「ぐっ……」
呻いたのは
だけではなかった。貧者は二人いる―――
「……仕方がない。そういう賭けだったのだからな」
ふう、と息をついて姿勢を正した喜多川に先までの陰鬱とした雰囲気はない。居直ったのか諦めの境地に至ったのかは定かでないが、いずれにせよそんな彼を見て大富豪と富豪はひどく楽しげに口角を歪めてみせる。
そうとも、彼らはゲームをはじめる前にただ遊ぶのじゃつまらないと、誰にともなく賭けをしようと言い出した。それ自体は珍しいことでもないし、出るのも入るのも大したものでもない。総取りしてやっと四桁いくことが今のところはほとんどだ。
ところが今回喜多川はその小銭すら持ち合わせがないと言い出した―――これもまた、悲しいことに珍しくない。こうした場合、多く物品か労働で支払われるか、あるいはじゃあ後日手持ちのあるときにでもと言って皆忘れる。
この日もそうなるはずだった。
もまた、屈辱感を覚えつつもどうせ皿洗いか掃除か、ノートを写させろとか、そんな程度のことだろうとたかを括って開き直っていた。
しかし搾取する支配層が言って寄越したのは、いささか難解な命令だった。
「じゃ、アンタたち今日帰るとき手ぇ繋いで帰ってね」
「なに……?」
「はぁ〜?」
ずいぶん古典的、紋切り型な罰ゲームだ。貧者たちは揃って眉をひそめるが、富裕層はおかしそうに笑うだけだ。ごねたところでもっと厄介な指令が下ることを経験上よく知っている二人は互いの顔を見交わし合い、やがてまあいいかと情動も薄くこれを受け入れた。
メンバーを入れ替えてもうワンゲームを挟み、彼らはしばらく今後の活動についてを話し合った。細々とした依頼こそこなしているが、パレスまで出てくるような大物の情報は早々掴めるものでもない。しばらくはいつそんなターゲットに遭遇しても困らないよう、必要な装備や消耗品の補充を行い、メメントスの探索を行っていこうと話はまとまる。
それがちょうど夕方の五時。高校生の帰宅時としてはやや早いが、このまま居座ってはマスターにご迷惑がかかると仲間たちはルブランを出た。
「さっ、罰ゲームしよっか!」
軽快なドアベルに見送られて店を出た開口一番、高巻は楽しげに言ってのけた。言われたほうはすっかり忘れていたのか、揃ってあっと声を上げる。
「お前ら、忘れてたろ」
呆れた調子で坂本は言うが、彼だって高巻の言や見送りと夕飯の買い出しのために同道する少年の表情を見てやっと思い出したくらいだ。
はあからさまに不機嫌そうな表情を取り繕って喜多川から距離を取った。
「……祐介、あんた手洗った?」
「失敬な。日頃からきちんと清潔にしている」
「でもさっきトイレ借りてたじゃん。あれどっち?」
「大小でなにが変わると言うんだ?」
喜多川は疑問符を浮かべて首を傾げるが、答えが与えられるより早くモルガナが遮った。
「知りたくねぇよどっちの情報も……」
これには全員がごもっともだと同意する。
なんにせよこうも監視の目が揃っては先延ばしにした上で有耶無耶にもできなさそうだ。
は渋々、喜多川に手を差し出した。
「ん」
喜多川はなんの感慨もなさそうにその手を取った。
そもそもこの二人への罰ゲームとして手を繋いで帰れという命令が下されたのは、単に道の都合が大きい。
の家はルブランからそう離れておらず、ここへ集まるとなると彼女はたいてい徒か自転車でやってくる。翻って今日の喜多川は懐具合の都合で短くない距離をその足でもって往復するのだとはじめから明言していた。
つまりこの状況は喜多川の懐がもう少し暖かければ成り立たなかった。
駅へ向かう皆と反対方向に歩き出してすぐ、
はそのことを恨みがましく指摘した。
「あんたが小銭をキチンと用意してればこんなことにならなかったのに」
「すまんな。どうしても欲しい本があったんだ」
「どーせ美術の本かなんかでしょ。まったく……」
フン、と不機嫌そうに鼻と踵が鳴らされた。
二人の足はルブランから繋がる飲み屋の連なる通りを抜け、車通りの多い通りを経て商店街に差し掛かっていた。ここを越えて少し歩けば彼女の家だ。距離はそう長いものでもなかった。
夕方の時間帯にあって、青果店や惣菜屋といった食い物を扱う店の前には人が集まっている。通りかかると、やわらかな風とともに人いきれと揚げ物の香りが運ばれ、二人の鼻と胃を刺激した。
―――こんな所に長居してはいられない。喜多川は歩幅を大きくして前へ踏み出した。
「ちょっと、歩くの早い」
すると隣からまた恨みがましげな声がぶつけられる。喜多川は少し気まずく思いつつも空いた手で頭をかいた。
「そうか? 君も普段からこれくらいだと思ったが」
空腹を悟られまいとする涙ぐましい努力ではあるが、これは事実を言い表してもいた。
という少女はいつも早足で、せかせかしていて、皆より先を歩きたがる傾向にある。
ところが本人には自覚がないのか、あるいはなにか二心を抱いているのか、唇を尖らせて不満げにしはじめる。
「そりゃ、手を繋いでるんだから、遅くなるでしょ」
「そういうものか?」
「そうなの!」
「そうか……」
いまいち納得しきれていないものの、藪をつついて猛獣を出したくはないと喜多川は口を噤んだ。
―――どうも自分は彼女にあまり好かれていないようだ。仲間としては問題なくやっていけているどころか、視野が広く小回りが利く彼女に助けられることが多いくらいだから、嫌われているわけではなさそうだが……きっとこの罰ゲームも、この不
とも呼べないわだかまりを解消させようと皆が気を回した結果だろう。
喜多川はそんなふうに思いながら、そっぽを向いて無言になる彼女の気を引こうと手に力をこめた。
「……なに。あんま力入れないでよ。痛い……」
目論見は概ね成功した。細い肩が一瞬震え、眇められた眼が彼を見上げている。
「すまない。そうだな、あまり力をこめては……」
手折ってしまいそうだと口にしようとして、彼ははたと言葉を止めた。
は不思議そうに目を瞬かせるが、やがて再び肩を震わせて驚きに目を見開いた。
「……小さいな。骨も細い」
「ちょっ、ちょ―――」
舌先はもつれて言葉はおぼつかない。少年の手指が握ったものの形を、その皮膚の下まで確かめるように蠢き始めたからだ。力はもちろん込められていないが、それが却って得も言えず、おぞましいような心地よいような……何某かの感覚を与えて彼女を震え上がらせていた。
「なぜこんなに華奢なんだ? 栄養不足か?」
喜多川は構いもせず、手と腕を繋ぐ関節部をなぞる指先を止めた。指の腹には薄い皮膚と硬い骨の感触がある。
「……栄養、とか、祐介に言われたくないんですけど」
「それは、そうかもしれないが。それを踏まえてもこんなに」
はうつむいて自らのつま先に視線を落とした。
二人の足は商店街の外れに差し掛かったところで止まっていた。彼ら同様帰宅しようとする人々やこれから買い物をしようと向かう人で辺りはざわめきに満ちている。そんな中にあって
の声は小さく、聞き取るのに少しの努力を彼に求めた。
「……私の手が小さいんじゃなくて、あんたが大きいんじゃないの」
それはそうだ。性差もあれば身体の大きさも違っているし、遺伝というものもある。人の肉体の色形や大きさをつくる様々な要因が手にも表れているというだけのことだ。
喜多川は納得して、それからどうしてそんなことに今さら気がついたかのように言及したのかと自分自身に首を傾げる。わかり切っていたことじゃないかと。
戸惑いは彼に手を引かせた。繋がっていた手から力が抜け、ゆっくりと離れていく。
「あ―――」
吐息に近い声を漏らしたのは喜多川のほうだった。今まさに離れようとする手を、
が繋ぎ止めていた。
喜多川からすれば奇妙な行動だった。ルブランからはもう随分離れていて、罰ゲームを言いつけた富裕層の眼は最早なく、続ける義理も義務もありはしない。
沈黙でもってそう訴える彼に、
は相変わらず下を向いたまま答えた。
「こういうのは、ちゃんとやらないと」
「そういうものなのか」
普段の罰ゲーム―――小銭の支払いや肉体労働、ノートの貸し借りに恥ずかしいポーズ――――などは極めてぞんざいに執行されるというのに、今回ばかりは完遂を求められるというのか。
喜多川はますます解らないと眉をひそめたが、やっと顔を上げた
に手を引かれると素直に従った。
「ていうか、うちもうすぐそこだし。今さら感あるし。なんならもうルブランの前で皆と別れてたんだし……」
言い訳がましく言を重ねるところを見るに、彼女も喜多川と同じ発想には至っているらしい。
それにしては、と喜多川はやはり首を傾げた。
―――なんだかずいぶん、ゆっくり歩くんだな。
口に出さずに済ます程度の分別はあったが、推察できるその理由からは目を逸らした。
己が彼女のペースに合わせて歩調を落としていることにも、女子平均からすれば言うほど小さくもないはずの彼女の手が、やたらと小さく華奢に感じられることからも。
なんであれば、明日明後日あたりに顔を合わせた富裕層と野次馬が首を突っ込んでくるだろうことからもだ。
想像から生じる気だるさにため息を吐いた喜多川を、
は頬を膨らませて睨みつけた。