Extra Stage:3/14

 やっと寒さも和らぎはじめたと思った矢先の寒の戻り、冷える部屋の中を見回して喜多川はため息をついた。
 そこは狭いアパートの一室だった。
 六畳一間、収納付き。築四十年。敷金礼金なし。最寄り駅まで徒歩十分。
 これが今の彼の『城』だ。
 卒業式を終えたばかりの三月の半ば、いよいよ退寮となった彼はほんの一週間前からここに居を移して生活し始めた。
 想像していたより悪くはなかった。広さや新しさは寮のほうが勝っているが、なにしろここは邪魔が入らない。
 隣人はいるらしいが、どちらともまだ顔を合わせたことはなかった。何度か挨拶に伺おうとはしたが、生活のリズムが違うのかいつ訪れても不在で、結今日まで顔を合わせたことはない。とりあえずとドアノブに引っ越し挨拶の蕎麦をぶら下げておいたが、それも翌日には消えていたから、受け取ってはもらえたようだ。
 つまり隣人の存在がキャンバスに向かう手を止めているわけではない。ブルーシートを敷いた床から昇る冷気によるものでも。
 原因は気鬱だ。重く心にのしかかるものが彼の手を掴んで鈍らせていた。
 敷金や礼金は無くとも管理費は家賃とともに徴収される。おまけに、入居の条件は二月分の家賃の先払いが含まれていた。
 仕方がない。と思う。
 身寄りのない己が身一つで乗り込んで、さあ信用してくれと威張って誰が信用するものか。
 もちろん彼に差し伸べられた手はいくつもあった。かつて彼の師、斑目一流とともに学び、今は若い芸術家たちの支援と援助を目的とした団体を運営する河鍋は当然、洸星高校で教鞭をとる教師に、知り合いの保護者と義父である純喫茶を営む店主、それから恋人の法律上の保護者もだ。彼らは一様に保証人ならば引き受けようかと打診してくれていた。
 それを、いりません、大丈夫です、俺だってもう一人前だと見栄をはって追い返したのは他でもない喜多川自身だ。暖房器具の一つもない部屋くらい堪えなければ、彼らに顔向けもできまい。
 そしてこれらはあくまでも環境に関する話であって、彼の手を止めている重みの原因は別にある。
 それも、誰か他者に課せられたわけでもない。彼自身が『そうするべき』だと思い込み、自縄自縛となって苦しんでいるというだけの話だった。
 喜多川の目は壁にある唯一の調度品であるカレンダーに向かった。それはこの部屋のあまりの殺風景さに引っ越しを手伝ってくれた友人が『余ってたやつだから』と勝手に置いていったものだ。
 最下段にはマツムラ電気と記されている。どうやら電気屋から年末に頂戴したものが横流しされたらしい。
 さておき三月の日付を教える数字の羅列は、十四日に丸がつけられている。それは彼自身が記したものだった。
 そして今日は十三日。
 つまり、彼にはひと月前に頂戴したバレンタインデーの贈呈品に対する返礼を用意するだけの余裕―――主に懐に―――がなく、そのことで思い悩んでいる。
 そういう理由があると正直に明かせばいいのだろうが、しかしささやかな矜持や見栄がこれをせき止めていた。
 そも彼女はお返しなんて気にするな、とも言ってくれている。何事もなかったかのように過ごしてしまえば、むこうだって変に気を遣わずに済むことだろう。
 でも、と思う。
 イベントにかこつけるでなくても、惚れた女の喜ぶ顔が見たいと思うのはごく普通のことなんじゃないのか? と。
 そう思うのなら日ごろから努めていればいいとも思わないでもない。
(いや、少なくとも一緒にいるときは大抵楽しそうに……)
 思い返そうときつくまぶたを閉じるが、浮かび上がるのは怒っているような表情ばかりだ。それが見せかけで内心は喜んでいることも、彼女が素直でない性格であることも解っているが、それでも喜多川はついに筆から手を離し、肩を落として項垂れてしまった。
 描きかけの風景画もなんだかひどい出来損ないのように思えてくる。
 ―――そうとも、こんな作品、公募にかすりさえせず屋根裏に押し込まれ、死後やっと人目に触れて数千、数億の値がつく程度の価値しかあるまい。
 彼は落ち込んでいてもポジティブだった。
 ゴッホ気取りの若者はひとしきり自己憐憫に浸って気が済んだのか、改めて絵に向き合った。
 とにかく手を動かしていよう。己にできるのはそれだけだ。
 きっとそのうち、名案も降って湧くことだろう。きっと。たぶん。

……
 閃きが訪れたのはそれから十二時間も経ってからのことだった。
 きっとたぶんと制作に没頭し始めたのが昼過ぎのことだったから、すでに日付は変わってしまっている。
 下塗りの段階にあった絵はもう完成間際だ。没頭しすぎたことの証明のように頭も肩も重く、全身を疲労感が覆い、腹は激しく空腹を訴えている。
 流石になにか食べなくては集中力どころか肉体が保たない。いやでも、いいところだから後もうちょっと、五分だけ。
 結局彼がキャンバスの前を離れたのはそれから二時間も後のことだった。
 買い置きの値引きシールが眩しい食パンと、何故かあった長期保存用食料―――祐介ってさ、寮出たらどうすんだろうね。大丈夫かな。知らないうちに餓死とかしてそうじゃん、なーんちゃっ、て……ちょっと竜司、アンタ荷物持ちと運送屋してよ。なんか保存できるもんこっそり置いとかないとこっちの心臓に悪くない?―――で腹を満たし、やっとひと心地つく。
 落ち着いて見上げた風景画はもう屋根裏に押し込まれも、死後とんでもない高値がつくこともなさそうな仕上がりに収まっていた。
 とはいえそれでは駄目なのだ。前者はともかく、後者には至らねば。
 けれど、今日のところはここまでだ。画家としての己は一時休店、一人の男としての喜びを得たいと彼は己自身に求めていた。
 筆や絵の具、皿とブルーシートを手早く片付け、キャンバスに布を掛けると、彼はコートを肩に引っ掛けて部屋を出た。
 そして彼はその時初めて隣人の顔を目撃する。
 輝くような黒のボディに彫りの深い顔と巻き毛……不安感を覚えたのは人種的な意識によるものではなく、言語的な能力の不足からだった。
 硬直した彼に隣人は、
「こんばんは! やっとお会いできましたね。お蕎麦いただきました、ごちそうさまです!」となめらかな発音で挨拶してくれた。

 そのようにして、彼がの暮らすアパート前にたどり着いたのは深更過ぎた明け方に差し掛かってのことだった。
 当然の如く、起き抜けどころか眠りの中にあった彼女はひどく不機嫌だ。
「なんだよぉ、こんな時間に……寝てたんだぞ……」
 ルームウェアと寝間着を兼ねるスウェットに身を包んで喜多川を出迎えてくれたはいいが、その口からは悪態とあくびが途切れることなく続いている。
 喜多川はほんの少しだけ申し訳なさを覚えて頭を下げた。
「すまない。一応出る前に連絡したんだが」
「見るわけないだろ! 寝てたって言っただろうが!」
 くわっと目と牙をむいて怒鳴りつけるに、喜多川は慣れた様子で人差し指を突きつけた。
「静かに。ご近所迷惑だ」
「そもそもキミがこんな時間に来なけりゃな……!」
「駄目だったか?」
「よっ、よくはないだろ」
「合鍵をくれたのに?」
「それは、そう、だけど。でも別に夜中に押しかけさせるために渡したんじゃ。ただちょっと、おかえりって言ってもらえるチャンスあるかなとか思っただけで……」
「相分かった。今度は不在の際にお邪魔しよう」
「クソポジティブかよっ! 帰れ!」
 駄目だと言い切って、喜多川はやっと始発も動き始めた時間に押しかけた訳を語り始めた。
 堂々と胸を張り、なに一つ恥じるところは無いと、男らしさの極地に至ったみたいな顔をして。
「日付を見てくれ、。俺はこのひと月、君への返礼としてなにを用意すべきか懸命に考えた。候補は数多あったが、折り悪く俺は引っ越したばかりでいずれも手が届かず、三倍どころか相対的な返礼もできそうにない」
 旧式の石油ストーブに火を入れながら耳を傾けていたは、なんだそんな理由かと肩を落とした。
 こんな時間の訪問だ、怪盗としてのシゴトか技術者としての手腕を求めてか、はたまたなにか個人的な要件でもあるのかと密かに心配していただけに、脱力感は大きい。
 こたつを挟んだ対面に座した喜多川は真面目くさった表情のまま、寝台に崩れ落ちた彼女を見つめている。
 まるで忠犬のような風情だ。は口と目元を緩ませて手をひらひらと振ってやった。
「別にいいよ。お返しが欲しくてくれてやるもんじゃないだろ」
「それでは俺の気が済まん」
 律儀なことだ。たいへん結構。
 は満足げにして、続く言葉を待った。
 すると彼は立ち上がり、足音も少なに寝台のそばに歩み寄ると、うやうやしくその手を取って握りしめる。
「……というわけで、俺もお前に倣おうと思う。受け取ってくれ」
「ん?」
 意図を理解できず首を傾げる少女に、少年はずいと顔を寄せた。
「さあ」
「あ?」
「遠慮するな」
「なに?」
「ほら」
「いやだから、なにをだよ」
 疑問符を頭の上にいくつも並べたに、彼は極めて真剣に言い放った。
「返礼品は俺だ」
 ……ひと月前、は自ら望んでではないが、その身を贈呈品として差し出している。その際、二重の意味で本命のはずのチョコレートはもののついでと成り果てた。
 喜多川はそれをたいへん喜んだが、としては、さて。恥辱の限りを尽くされたと言えば言い過ぎだろうが、あまり思い返したくない恥ずかしい記憶だ。彼女のセンスからすれば、あんなのはまったくばかばかしくてたまらない。
 だというのに、記憶を掘り返されて目の前に置かれるような真似をされてはたまったものではない。
 は女の子にしてはちょっとたくましい脚で少年を蹴っ飛ばした。
「ぐえっ……なにをするんだ!」
「うるさい。なんだよ、くそぉ、キミまでそんなこと言うのかよ。やっと忘れてきたっていうのに……」
 枕に顔を埋めて、蹴り飛ばしたばかりの脚をバタつかせる。あんないかにも浮かれた真似は、本来彼女の趣味ではないのだ。
 とはいえそれはあげる側にある場合の話だ。もらう側になってみると、どうだろうか。
 べっ、別に嬉しいだなんて思ってないんだからね!
 とは言わなかったが、悪くはないかな程度には考えている。
?」
 さりとて喜多川には通じていないから、彼は不安に思って寝台に片膝と片腕を侵入させた。
 顔のすぐ横に着けられた大きな手を見つめて、は消え入りそうなほどか細い声で告げる。
「……キミの、寝間着。こないだ置いてったやつ。洗濯してそこの棚、一番下に入ってるから、それに着替えろよ」
「なぜ?」
「外歩いてきたやつに部屋うろつかれたくない。もう花粉飛んでるし」
 指摘されて、喜多川は慌てて示された棚を探った。そこには確かに、意外にもきちんと畳まれた寝間着が押し込まれている。
 袖を通そうとワイシャツのボタンに手をかけて、しかし少年はぴたりと動きを止めた。
「……おい、あまり見るな」
 何故なら布団に入ったが、ニヤニヤしながらこちらを眺めている。
「ふふん、なんでダメなんだ?」
「駄目ではないが、やりづらい」
「アハハ、ざまみろ。ほらほら、早く着替えなよ。ちゃーんと着替えられるかお姉さんが見ててやるからな?」
 喜多川はすばやくシャツから腕を抜くと、それをあざ笑う少女の顔めがけて放り投げてやった。
「うわっぷ! おい! 卑怯だぞ―――」
「戦術と言ってもらおう。ほら、着替えたぞ」
 が視界を覆う布地からやっと抜け出せたとき、喜多川はすでにすっかり寝間着に着替え終えていた。
 なんという早業か。悔しそうに舌を巻く彼女に、喜多川は憮然としつつも再び歩み寄る。
「それで? なにをしたらいい? 力仕事は……任せろと言いたいところだが、君の作品には敵わんか。ああそうだ、一通りの家事はできるぞ?」
「バカ」
「唐突だな。なにが気にくわないんだ」
 は枕から頭を下ろし、壁際に寄って場所を空けると、そこを手のひらでポンポンと叩いて示した。
 尖らせた唇からは、猫や犬を呼び寄せるように「チッチ」と舌が鳴らされる音。
 喜多川はほんの少しだけ尻込みするも、立ち止まっては男の恥と誘われるままそこ―――少女のすぐ隣に横たわった。
 ふっ、と満足げな吐息がの唇からこぼれて、少年の首すじをくすぐる。
「でかいなー……うちじゃここ以外に置く場所ないぞ」
「そこまでではないだろう。あ、。枕は」
 一つきりの枕にちゃっかり頭を乗せてから言うのに、はまた喉を鳴らした。
「私の枕はこっち。ほら早く。こう……」
 と、少年の左腕を引っ張って、真横に伸ばす。
 ああそういうことかと喜多川が合点するころには、は彼の左腕を枕にして嬉しそうに笑っていた。
「うん、ちょうどいいな」
「枕になれと」
「そういうこと」
 喜多川の胸元に額を擦りつけ、は痩躯に腕を回した。
 途端喜多川の鼻を甘い花の香りがくすぐる。もうすっかり嗅ぎ慣れて鼻も反応しないかと思われたが、やはりこの距離となるとまだ感じるらしい。
 香りの主な発生源である艷やかな黒髪に手を伸ばしつつ、喜多川は彼女に囁きかける。
「こんなことでいいのか? もっとこう、他にも……」
「なにしてくれる?」
「……番犬……?」
「侵入してきたのはキミだろ」
「許しをくれたのはそちらだ」
「嬉しくないの?」
「無上の喜びだ」
 大げさなんだよと毒づいても口先だけだ。はうっとりした様子で頭に置かれた手に頬を擦り寄せた。
「……ここ来る直前まで作業してたな。絵の具のニオイ……」
 鼻を引くつかせての言葉に、喜多川はさっと手を引いた。洗ってきたつもりだったが足りなかったかと、彼女の美しい髪を汚してはならないとしての行動だった。
 しかしはそれにこそ不服そうに眉をひそめ、ぐいと身体を押し付けてくる。
「うぐっ……おい、あのな……」
「聞こえない。キミは今日一日私の枕」
 ほら、と促されて、喜多川はやわらかな感触から意識を逸らそうと頭を撫でてやる。
 の落ち着いた呼吸はいつしか彼をもまた落ち着かせた。
 そういえば、もう夜明けも近い時間帯で、己は一睡もせずここへやってきたのだ。
 枕のほうが先に寝入ってしまうことにいささかばかりの罪悪感を覚えつつも睡魔には打ち勝てず、彼は手を止めてすぐに寝入ってしまった。
「のび太くんかよ。早いって」
 は安らかな寝顔を覗き込もうと頬杖をつき、じっくりとそれを堪能する。
 安らかな吐息をもらす唇を眺めて少しは邪な考えも頭を過ったが、結局彼女もすぐに眠りについた。
 どうせ今日一日、彼は自分の言いなりだ、と。