Extra Stage:12/24
それは吐く息が白くなりきらないころ……十一月の頭か半ばか……いずれにせよ水曜日であることに間違いはなかった。水曜日は彼女がバイトを入れない曜日だからだ。
……三年次に上がったは空いた時間のほとんどを労働と、佐倉家に預けている飼い犬の世話にあてていたが、その中で水曜日を必ず空けているのは特別理由があってのことではないらしい。
ただなんとなく、予定を組むと自然と。
彼女はそう強く、強く主張していた。
これもまた特に関わりのない話だけれど、洸星高校の授業時間割のうち、水曜日はどの科にしても六時限目までで、ロングホームルームもなく、またこの時期になると完全下校時刻も繰り上げられて、文化部などはどんなに遅くとも夕方の五時には学校を追い出される。
それらは己の行動にまったく関わりのないことだと主張する少女は今、度の入っていないラウンドフレームと長い前髪で目元を隠し、白いマフラーで口元を覆って、洸星高校の校門付近をノロノロと歩いていた。
この際、彼女の通う都立の工業高校と住処が全然、まったく、あさっての方向に位置する事実も小さなことだ。
校門から一番近くにある交差点で彼女を捕まえた喜多川は、これらを偶然であると主張する愚かしさに呆れながらもそれを埋め尽くすほどの微笑ましさに口元を緩めて言った。
「つまりお前は、偶然に導かれて俺のところにやってきたというわけだな」
この上なく嬉しそうに吐かれた台詞に、は眼鏡とマフラーの下の顔をしかめる。
「まったくありがたいことだ。おかげで今日もこうしていられる」
勝ち誇ったような声の追撃には手が伴われていた。意外なくらいに華奢なの手の甲を、彼の手がノックするように優しく叩いている。
「……ん」
握られていた拳が開かれると、喜多川は直ちにそこへ手のひらを滑り込ませ、指を絡めて彼女の手を包み込んだ。
もう十一月だ。五時過ぎともなれば気温はますます下がり、身震いする程度には寒くなる。
だというのには手袋をしていない。
それは持ち合わせがないからだとか、出掛けに慌ただしくして忘れてしまったというわけではなく、こうして素肌を触れ合わせたいという控えめにすぎる主張なのだと喜多川は思い込むことにしている。そしてそれは、決して彼の自意識過剰なんかではなかった。
その証拠にもまた彼の手を握り返し、
「あったかい」と、ホッとした様子で漏らしている。
それからすぐ、交差点を渡り切ると同時に彼女は不思議そうな様子で首を傾げた。
「にしても、ずいぶん熱いな。走ってきたわけじゃないよな?」
「ああ、カイロを握っていたからだろう。ほら」
と、喜多川はポケットからそろそろ冷たくなり始めた使い捨てのカイロを引っ張り出してみせる。
「ふーん、珍しいじゃんか。キミがそんなぜいたく品を使ってるなんて」
熱の正体を知ってまた安堵したのだろう。カラカラと笑うに、喜多川は唇を尖らせた。
「失敬な。……まあ、手がかじかんで筆を持つのが辛いともらしたら、部の女子がくれただけなんだが」
言い終わるが早いか、は目を剥いてきつく手を握りしめると、素っ頓狂な声を上げて喜多川に詰め寄った。
「はあっ!? 女子? 誰だ!?」
「ん? ああ、芦原さんといって……」
「それ去年のバレンタインにキミにチョコ渡してたひとじゃないかよ!」
「去年の……うっ、頭が」
「きっ、禁止! あのヒトから……いや、女子から物もらうの禁止!」
「ええ?」
それには杏や真、双葉に春といった怪盗団のメンバーも含まれるのか―――
追及はしかし、うるんだ目元にせき止められる。
「あー……わかった。わかったよ」
「ほ、ほんと?」
「ああ」
頷きつつも喜多川は「でも」と語尾に添えるようにして告げる。
「厚意を無碍にするのは俺とて心苦しい。時と場合によっては容赦してくれ」
は複雑な表情を浮かべたが、馬鹿正直に容赦を求められては彼女こそ無碍にはできない。
かえって己の狭量さが恥ずかしくなるくらいだ。
「わかった……」
恥らって俯く姿をどう捉えたのか、喜多川はふっと口元を緩めて肩をぶつけた。
「拗ねるな」
「拗ねてない」
「そうか?」
「そうだよ。このポジティブバカ」
「それは―――褒め言葉だな?」
そんなわけがあるか。は強くそう訴えたが、これは聞き流された。
勝ち誇るような態度が不満なのだろう、は先にされたようにせっせと肩をぶつけ返しているが、大して力も篭められていないから彼はぐらつきもしない。
二人はそのままじゃれ合いながら駅に続く大通りに足を踏み入れる。
夕方のこの時間、二車線の道路の交通量は多く、すでに街灯も看板も明かりが点されている。点在する娯楽施設の前には彼らと同じ学生の姿もチラホラと見受けられた。
「それで、どうする? タロウの散歩ついでにどこか行こうか?」
は一度うーんと唸ると、握った手を引いておきながら顔を逸した。
「散歩したらさ、そのあとうち来いよ。ご飯作ってやるから」
喜多川は一秒たりとも彼女を待たせることなく応えた。
「行く」
これには密かに息をつき、肩から力を抜き落とす。もちろんそのどちらも、密かだと思っているのは本人だけだ。
ところで、喜多川には一つ不満がある。
それは出された料理が焦げていただとか、ちょっと全体の色味が悪いだとか、味付けが濃い目でやたらとご飯がすすむだとか、そういう食欲に関するものではなく、もっと感情的な、触れることの叶わないものに対する不満だ。
例えば、つい先ほどはこの少年が同じ学校の女生徒に施しを受けたことに嫉妬の炎を燃したが、それは喜多川のほうが訴えたい事柄でもあった。
前述の通り、は三年次に進級してからの一年、多くの時間をアルバイトに当てている。
それは単純に、学費と、家賃と、様々な資格取得試験のためと、その他もろもろの資金稼ぎの一環だ。
それは喜多川にも理解できる。なんなら懐が心許ないときにはいくつかの労働に相乗りさせてもらったこともあった。
ただそういうとき、喜多川は常にとともにいられるわけではないし、なんなら同じ場所に居るはずなのに互いの姿を一日中目にすることが叶わない場合もあった。
それ自体は不満と言えば不満ではあるが、公私は別けなければならぬ。少年はきちんと分別を身に着けていると自負している。ただしこれは時と場合による。
そうやって二人の関係が明らかでない場所で離れ、ふとした瞬間に彼女を見かけるとする。するとたいてい、彼女は異性と笑顔で会話している、というわけだ。
―――お前はそんなに、俺の脳を破壊したいのか?
喜多川の言い分は以上だ。ただし彼はこれを直接告げたことはない。
浅はかな理由だ。男らしくないと思われたくなかった。『ささやか』な見栄が彼の口を塞いでいた。
食後の洗い物をするの後ろ姿をこたつに入って眺めながら、喜多川は手元の湯呑みに息を吹きかける。ため息を誤魔化すには最適な小道具だった。
―――まあいい。あちらがそうであるように、こちらもどうせ杞憂だ。
気を取り直して、喜多川はガチャガチャとやたらと音を立てる危なっかしい背中に―――俺がやったほうが安全なんじゃないか、という言葉を呑み込んでから―――声をかけた。
「そういえば、来月の予定は?」
「えっ? あっ!?」
ガチャン! と窓の外にまで飛び出していきそうな派手な音が鳴った。
不意に話しかけられたせいで手を滑らせたらしい。
喜多川は慌てて立ち上がると、大股で歩み寄って彼女の手元を覗き込んだ。
「大丈夫か? ああ、どちらも無事だな」
驚かせてすまないと謝罪する喜多川の視線の先、流し台の上には形を保ったままの平皿と茶碗、そして泡にまみれたの手がある。いずれにも傷は見当たらなかった。
音が大きかっただけかと安堵するついでに、喜多川は彼女の手からやんわりとスポンジを奪い取った。
「あ、なにすんだ」
「待つのに飽きた。君は洗い上がったものを拭いてくれ」
言って、白く細いが傷も多い手に水を浴びせかける。はむくれた様子でしばらく彼を睨みつけていたが、洗い終わった皿が次々に積み上げられていくのを見て布巾に手を伸ばした。
「……で?」
「ん?」
「さっき言ってただろ。予定って」
「ああ……」
洗い物といっても二人分だ。大した量はない。手早く事を済ませた喜多川は泡を水で落としてから冷えた手をタオルで包んだ。
「十二月だろ。年末の前にクリスマスだ。どこかに出かけるなり、いつも通りに過ごすなり……なにかしたいことはあるか?」
予定を訪ねておきながら、すでに確保しているような言い様だった。
は、キョトンとした顔で拭き終わった最後の一枚をシンクの上にそっと置いた。
「なに言ってんだ? もうバイト入れちゃったよ?」
今度は喜多川のほうがキョトンとする番だった。
彼はまた脳に直接手を突っ込まれてかき回されるような不快感を覚えながら、
「……なぜ?」と辛うじて問い返した。
そもそも彼には断られるという想定がなかった。先に別の予定を入れられてしまうなんて事態も。
だって俺たち付き合ってるんじゃないか。ほとんど毎週水曜日には放課後デートなんていかにも学生らしいことをして、春に夏に、ついこの間のシルバーウィークにだって二人きりで遠出したりもしたじゃないか。
それが今さら、いつの間にやら恋人たちの日みたいな認知をされるようになった日に限って、先に予定を入れたりするんだ?
視線に込められた一種恨みがましげな感情に気がついているのかいないのか、は戸惑いがちに答えた。
「なぜって、そりゃ、キミがイブに予定あるって言ったから。だから私も稼ぎ時かなって……」
「は―――?」
思わずと低く脅しつけるような声を出した彼に、はますます困惑を強めた様子で手を振った。
「え、えー、だってこの間、私、どうするって訊いたよな? そしたらキミ、絵を仕上げるまで動けないって……」
喜多川は幾度かまばたきをして、彼女の言い分をよく吟味した。
この間。この間……先週の土曜日!
パッと花火のように脳内に広がった光景に、喜多川は苦虫を噛み潰したような表情になる。
そうだ。先週の土曜。都内の美術館の一つが開催する公募展に出すための一枚を仕上げようと、寮の部屋に一日中籠もっていた。そこへ昼ごろに彼女がやってきて、適当にゴロゴロするからお構いなくと持ち込んだ雑誌を開いて本当に寝転んだ。
そういえばあの時、手を動かしつつも何気ない雑談も幾つか重ねていたのだった。どこに出す作品なのかとか、テーマはなんだとか、画材は足りてるのかとか、冬季限定の新しいチョコレート菓子がおいしいだとか言う彼女に口まで運ばせたり……
そうだ、それで集中力を欠きはじめたから、これはいかんと心を入れ替えて、気がついたときにはとっぷりと日が暮れて、彼女は部屋の隅で丸まって寝落ちていた。
「あの時か……!」
合点がいくと同時に呻いた彼に対し、はどことなく喜ばしげだ。
「完成したの?」
己の作品の完成と出来を楽しみにして瞳を輝かせる様は率直に言って愛らしい。喜多川は思わずと腕を伸ばして彼女を己の胸の中に招き入れていた。
「した。というか、あれは……動けないというのは、動いたら集中が切れるから待ってくれという意味だったんだ」
特別抵抗もせず寄りかかった彼女もまた、聞いた途端に渋い表情になる。
「あっ、あ〜……そういうことかぁ……ごめん……」
「いや、俺がきちんと伝えなかったのがそもそも悪いんだ。すまなかった。がっかりさせただろう」
顎を肩口に置いて目を細めるの後頭部に手を置いて、喜多川はそこを優しく撫でおろした。艷やかで滑らかな黒髪の手触りは心地よいが、今はそれがますます彼を落ち込ませている。
はその手に自ら擦り付けるように頭を左右に振った。
「そりゃまあ、ガッカリはしたよ。でも今回ばっかりはお互いさまだろ? それに、キミが描いてるとこ見るのは好きだし……」
その邪魔になるようなことはしたくないし、誰にもさせるものかとささやくように言われて、喜多川はぎゅっと腕に力を込める。
「……ありがとう」
なんと返すべきか迷った末に吐き出した台詞は味気ないもののように思えた。もっと他に言うべきことがあるはずなの、それはうまく言葉としてはまとまってくれない。
けれどにはそれで充分だったらしく、クスッと小さく笑うと彼女もまた腕を回して優しく背中を叩きはじめる。
赤子を寝かしつけるような仕草だ。喜多川は思わずとまぶたを下ろして彼女の肩口に顔を埋めた。
すると、その耳に吉報が舞い込んでくる。
「あ、そうだ。バイト終わるの十時だから、その後なら」
「朝の?」
「夜のに決まってるだろ、バカ」
罵り言葉も耳に心地よく響く。
喜多川は唇を尖らせながらゆっくりと身体を離すと、静かに頷いてみせた。
「……わかった。待っている」
「うん」
大人しくしてるんだぞ、とまるで飼い犬に言い聞かせるようにして言って、今度はのほうから彼の胸の中に飛び込んでくる。
「へへ、なんだよーもー」
背に腰に腕を絡ませ、身体を押し付けて頬ずりされると、当然、彼の肉体は少女の豊かなもののあたたかさとやわらかさを享受することになる。
念のための警告として彼は言った。
「そうあまりひっつかれると、『ヘンなこと』をしたくなるだろう」
すると彼女は顔を上げていたずらっぽく目を細めた。
「うーん……いいよ、って言ったらどうする?」
黒々とした瞳の奥には期待の色が垣間見える。
喜多川はすぐにそれに応えた。
狭苦しいキッチンはしばらくの間無言になる。小さな曇りガラスの窓にはぼやけた外の灯りが浮かび、そこを通る近隣の住民だろう足音と、時おり狭い街路をなんとかして通過する車のエンジン音が響くばかりだ。
室内は灯油式のストーブの上に置かれたやかんがシュンシュンと鳴いている以外に音はない。
気がつけば二人は薄っぺらいキッチンマットの下、フローリング床から冷気が登ってくるのにも構わず、膝を折ってその場に腰をつけていた。
やがて喜多川はふと思い出して、
「こうする」と辛うじてそう言った。
彼女はその頬を優しく一撫ですると、むふー、と子供っぽくも嬉しそうに息をついた。
どうやらご満足いただけたらしい。喜多川は心底安堵して脱力する。
と、頬に触れていた指が軽くそこの皮と肉をつまんだ。
「もっと」
「むっ……」
その後も特別なことはこれといってなかった。くつ下の一枚くらいは履き間違えて帰ったかもしれない。
取り立てて語るようなこともなくひと月が経過して、当日の午後、十二月二十四日の午後一時を過ぎたころ、喜多川は寮の自室を出た。
なにか思い立ってのことではなかった。ただ単純に、この日の日中は寮内が―――悪い意味で―――落ち着きなく、騒がしくなることを去年の経験から知っているからというだけだ。
嘆きか怨嗟か、あるいは興奮や優越感……どれも興味深い題材ではあるがむやみやたらにつつけば鬼よりも蛇よりも厄介なものが飛び出して襲いかかってくるということも知っている。
しかし理解はあまりしていない喜多川は、早足になって寮の廊下を抜けるとそのまま施設から遠ざかった。
年の瀬も近い十二月の外気はひどく冷たい。どうも去年一昨年と比べると気温は二度も三度も下回っているらしい。これは今日の空がどんよりとした雲に覆われているのも関係しているだろう。
いつものように人通りの多い場所で人間観察とでも洒落こもうかと考えていたが、彼は早々にこれを諦めて別の方向に足を運んだ。
言うまでもなくそれは狭い路地の先にひっそりと佇む純喫茶だ。飲み屋通りに隣接しながら酒とは縁遠いそこは今日もコーヒーの香りに包まれている。
「ムッ、出たなおイナリ! このコーヒーをくらえ!」
「ワンッ!」
ドアベルの音とともに入店した彼を出迎えたのは身丈に対して長過ぎるエプロンを身に着け、頭にはサンタ帽を乗せた佐倉双葉と、同じく小さなサンタ帽を括りつけられた一部だけが白い黒犬……クロ・モナルダ・ポチ・フランシス・タロウ・ぶち丸・チビ・モモ・ジュニア・サクラ・……だった。名付けに紆余曲折を経た末、寿限無方式で全てが採用されたためこの犬のフルネームは王族のように長ったらしくなっている。
床に置かれたマットの上できちんと脚を揃えて尾を振るだけの彼はさておき、双葉はカウンターの裏に立って店を包む香りの中心であるサイフォンを睨みつけている。傍らの店主、佐倉惣治郎がいささかくたびれた様子でいるところを見るに、彼女に看板娘でもやらせようと試みていたところなのかもしれない。
実際、のこのことやって来て奥のソファ席に腰を下ろしついでに犬の頭を撫でてやる喜多川に、注文もしないうちにソーサーとカップ、そこになみなみと注がれた黒い液体が乱暴な手付きで差し出された。
「……なんだこれは」
「コーヒーだろどーみても。さ、飲め。オゴリだぞ。そうじろうの」
「俺かよ。ああ、無理して飲もうとしなくていいからな」
眼鏡を外した眉間を指先でつまむ壮年の男の姿には疲労感が見て取れる。どうやら双葉はあまりよい生徒ではなかったようだ。
「うっ……」
実際、喜多川は一口をすすったきり、ゆっくりとカップをソーサーに戻して沈黙した。
―――苦い。
いやさコーヒーとは苦いものだ。これはそもそもそういう飲み物だ。
しかしこれは……深煎りのジャバロブスタを必要以上に焙煎し、酸味を完全に追いやった苦味の化身のようなこれは……
「クゥン……」
項垂れる彼の顔を、クロ……タロウ……が心配そうに覗き込む。
「一発で目が覚めるようなの目指したんだけど、どうだっ?」
「ああ……そういう……」
どうもこれはこの味を狙って作り出したものであるらしい。合点がいくと同時に肩を落とし、喜多川はジュニアの垂れた耳の下を撫でてやりながら率直な感想を告げた。
「目的は達成していると言っていいだろう。だが、人に飲ませていい味では決してない」
「ひゅーっ、辛口ぃ」
気楽な様子で口笛を鳴らして、双葉は彼の手元からソーサーごとカップを奪い取った。
躊躇なく黒い液体をすすると、満足げな様子で「まずい! もういっぱい!」などとはしゃいでいる―――
……食べ物で遊ばせるのはいかがなものか。そんな非難の意図を込めた視線を送ると、惣治郎はいかにも参ったといった様子で広い額を掻いた。
曰く、あの少年のように双葉にも一つ、コーヒーの淹れ方くらい受け継がせたいと親心を疼かせたこの男は、しばらく前からせっせと手ほどきをし始めたのだとか。
双葉も双葉で、そんな親心を理解しているのだろう。きちんと耳を傾け、記憶して、実際に手を動かしもした。なんなら母譲りの思考能力と天才的な記憶力を用いて惣治郎も思いつかないでいた新しいブレンドを編み出したりもしていた。
教育は順調だったが、しかしあるとき迂闊な誰かが漏らした一言ですべては台無しになった。
『この調子でマスターしたらアイツここにいらねーんじゃね?』
もちろんそんなわけはないし、迂闊な誰かも単なる冗談の一種として放ったのだろう。これに関しては本当に、いつもの、余計な、思慮の足りない、声の大きな、冗談の一つでしかなかった。
しかし双葉はそれを真に受けた―――というよりは、正統派の美味しいコーヒーやカレーならもう作れるやつがいると思い出したのだろう。
そんならわたしは邪道を行くぜと昂然として以降、ずっとこんな調子なのだという。
「なんというか……俺が頭を下げる筋合いなどまったくありませんが、それでも……やつが余計なことを……」
申し訳ないと深々頭を下げる喜多川にか、彼を真似てその場に伏せるジュニアの姿にか、惣治郎は苦々しくもいつも通りの笑い声を上げてみせた。
「気にすんな。ま、俺だって薄々思っちゃいたことだからよ。後継者が二人もいちゃケンカになっちまうってな」
「ああ、それもそうか……そうですね。継承問題などあっては大変だ」
「わたしがヨユーで勝っちゃうからな」
ひたすら苦味だけを追求した液体を飲み終えたのだろう。どことなく目をギラつかせた双葉は、両手にきちんと持ったカップを慎重に流しへ置いた。
そのまま洗い物は後でいいやと放り出し、踵を返して喜多川へ向きなおる。
「で、おイナリおまえなにしにきたんだ? カノジョほったらかしてこんなとこにさ」
「こんなところはないだろう。ルブランは良い店だ」
「よせやい」
惣治郎は嬉しそうに顔をほころばせて彼の前にちゃんと美味しいほうのコーヒーを用意する。
「ありがとうございます。……は夜までバイトだ。聞いていないのか?」
「知ってるけど?」
「ならなぜ訊いた?」
「あ、把握した。おまえ聞かされてないんだな」
「バイトだろう?」
「そうだよ」
「他になにかあるのか?」
首を傾けた喜多川の鼻先に、双葉はポケットから引っ張り出したスマートフォンを突きつけた。
そこに表示された画像には二人の少女の姿がある。どちらも赤い衣装を身にまとって、一方は自慢げに長い脚を見せつけ、もう一方は恥ずかしげにしつつもカメラに向けて笑みを浮かべている。
「……杏じゃないか」
「そっちかい」
見間違いようもなく二人のうち片方は高巻杏だ。濃いえんじ色のタイツに包まれた形のよい脚がひざ丈の赤いワンピースから伸び、華奢な肩を同色のケープが守っている。そこかしこに取り付けられたふわふわのファーは明らかに安物のフェイクだろうが、彼女が身につけているとそれも気にならない。頭の上に乗せられた潰れたサンタ帽もだ。
その隣で、が同じものを身につけている。女の子にしてはややたくましいふくらはぎとキュッと締まった足首がまぶしい―――
どうやら二人は同じ店頭に立ってケーキの販売員として勤めているらしい。それは喜多川にだって解る。高巻までもがとは知らされていなかったが、洋菓子店にとっては一年で最も忙しい書き入れ時だ。どちらからかは不明だが誘い出されて共に務めることになったのだろう。
だから、それはいい。サンタクロースをモチーフにしているらしい赤い衣装も二人とも似合っている。
だけど―――
「……短すぎないか?」
スカート丈を指して彼は言った。
満点のリアクションに、双葉は満面の笑みを浮かべている。
「言うとおもった。ジジイかおまえはっていうか、なんなら杏は普段より長いくらいだよ」
ごもっとも。コンパニオンではなく販売員としては目立つ格好だろうが、スカート丈は常識的な範囲だし、なんなら肌の露出も顔以外には無い。
喜多川は渋面を浮かべて目の前のスマートフォンを押し返した。
どうも双葉は今日の午前中、二人が店頭に出ると同時に冷やかしに足を運んだのだという。
そこでクリスマスケーキの予約をしていたからでもあるが、その店を選んだのはもちろん、二人がバイトをすると聞かされていたからだ。
今は惣治郎と二人だけだから、一番小さいケーキを一つ。そいつは今、佐倉家の自宅の冷蔵庫の中で、ひっそりと夜を待って眠っている。起きたら真っ二つにされる運命とも知らずに。
楽しみだとはしゃぐ双葉とそれを諌める惣治郎の父娘を横目で見つつ、喜多川はコーヒーを口に流し込みながら想像を巡らせる。
高巻が居る、というだけで店先は大変な混雑ぶりだろう。
なにしろあの美貌だ。微笑みかけられただけで男はホールケーキの一つや二つ、三つ四つは買っていくだろう。
近ごろは雑誌の表紙をも飾るというネームバリューもあって、女性客も意識を持っていかれるかもしれない。双葉が言うには、おひとり様用のいわゆる『映え』を意識したケーキも多種取り揃えているらしいからなおのことだ。
そのようにして、高巻が注目されるのは別にいい。彼女の美しさや華やかさはその心根とともに人々に知らしめられて然るべきだ。
けれどもう一人はどうだろうか。喜多川は想像を進めて眉を寄せた。
彼女だって、美しくないわけがない。そこに恋愛の補正がいくらか掛かっていることを加味したって、遜色ない―――と言うのは杏を相手にしては酷なことかもしれないが、優劣はつけ難いはずだ。
少なくとも、下心を他者に抱かせる程度の魅力は、間違いなく有している。
それが喜多川には面白くなかった。
杏はいい。別にいいさ。見られるのが彼女の仕事だ。そうされることで彼女はますます輝きを増して煌めいていく。自分だって見ているし、なんなら今日ここにはいない連中も、仮面の下からチラチラ見ている。
だけどあの子は、と思うと、本当に面白くない。
気がつけばカップの中は空になっていた。美味しいはずのコーヒーを、香りも味もほとんど味わわずに飲み干してしまったという衝撃が彼を貫いていった。
なんてことだ。次に味わえるのはいつになるかも分からないというのに―――
悲劇の主役みたいな顔をして項垂れた彼の姿をどう思ったのか、惣治郎はやれやれと頭を振って若者を元気付けてやろうと試みる。
「こういうのは彼氏としちゃあんま面白くねぇよな、そりゃあな。でもよ、似合ってるだろ」
「え―――ええ、それは、はい。……すごく」
「ならいいじゃねぇか。他人がどんな目を寄越そうが、本命は一人だけさ」
一言も口にしていないはずの煩悶のほとんどが惣治郎には筒抜けかと思うと、喜多川の胸には羞恥心がわき起こった。
それすらも見透かして惣治郎は重ねて告げる。
「そんなに心配なら声でも掛けに行きゃあいい」
お前みたいな色男が近寄れば、並の野郎じゃキャンと鳴いて逃げ出すさ―――本当に厄介なのはそれでも逃げない並外れた相手だけどな。
「それ、励ましているんですか?」
「なに言ってんだ。俺にはそんなつもりはねぇよ」
「ではなんです」
「からかってんのさ」
「双葉とマスターは……本当に父娘なんですね」
「よせやい」
二杯目のコーヒーはすぐに提供された。
それで結局、様々なものの都合と思惑と電車に乗って、喜多川は都心部のデパートの一つにやって来ていた。
食品の売り場は地下にあるはずだが、日付が関係しているのか、それとも本当に高巻の影響があるというのか、デパートの中はやたらと人でごった返している―――
これは目当てにたどり着くのに時間が掛かりそうだ。
そう思ってわずかに肩を落としたが、幸運はすぐに向こうから顔を覗かせた。
「祐介くんじゃん。なにしてんだ?」
もちろんと言うべきか、小走りになって彼の元へやって来たのはだ。小脇にラミネートされた用紙を抱えているところを見るに、混雑の解消のため上がってきたのかもしれない。実際に彼女が抱えた用紙には『ご予約のお客様はエレベーターホール側のレジへお並び下さい』と記されている。
ともあれ、この偶然を逃す手はない。少しのおしゃべりくらいなら見逃してもらえる……はずだ。
周りの混み具合から目を逸しつつも彼は言った。
「君に会いに来たんだ」
素直に目的を告げるなりは一瞬で表情を明るくさせる。わずかに滲んでいた疲れが吹き飛び、尾があれば千切れんばかりに振っていそうな顔だった。
ただしそれはひと呼吸ののち隠されてしまう。
「ふん、つまり冷やかしに来たってことだろ?」
「かもな」
必要性の見いだせないいつもの強がりを笑いながら、喜多川は改めて彼女を頭のてっぺんからつま先まで、圧縮された画像としてではなく己の眼でもってよく観察する。
「な、なんだよ」
怪訝そうに眉をひそめるの声を聞き流して彼はますます熱心な視線を注いだ。
されるほうはたまったものではないとたじろぎ、踵をにじって後退る。それでも外れない視線には困りきった様子でスカートの裾をはたいた。
「まさか……似合わないって言いに来たのか?」
そりゃあ確かに、杏と比べられたら雲と泥、月とスッポンかもしれない。だけどわざわざ会いに来てまでして伝えられるほど悪くはないはずだ―――
しょげて項垂れた頭には潰れたサンタ帽が乗せられている。よく見るとファーの影にピンが隠されていて、それが黒髪に差し込まれ帽子を固定していた。
喜多川は少しの呆れと憤慨とともに告げてやる。
「なぜ俺がそんな面倒なことをしなければならない。似合っているに決まっているだろう」
「じゃあ黙るなよ! 真っ先に言えよ! というか、もう、なんなんだ!? じゃあなにしに来たんだ!?」
まさかケーキを買いに来たわけでもあるまいと、は照れと怒りで眦を吊り上げる。
喜多川は再び沈黙した。
なにをしに来たと言われれば、はて……会いに来たに決まっている。その動機は惣治郎に指摘された通り、心配だったからだが、じゃあといってあけすけにそれを告げれば、この少女のことだ、調子に乗ってこちらの脳を破壊するような展開を招きそうな気がする―――
「なんか失礼なこと考えてるだろ」
「読心術を身に着けたか」
「否定しろよ! もう帰れ! バカ! バーカ!!」
今日び小学生だってもう少し罵倒のバリエーションはあるだろうに。
相も変わらず貧弱に過ぎる罵倒語の語彙に笑いを誘われて喉を鳴らす彼の姿に、ますます怒りを煽られたのかは顔を紅潮させてその腹に拳をめり込ませた。
それもさして痛くもなかった。現実にいてアシストスーツも身に着けていなければ、彼女はそこらにいる女子高生の一人でしかない。
腕を捕まえてしまえば抵抗もほとんどできはしなかった。
「ぬあっ……離せよ、仕事中なんだぞ……!」
は焦った様子で周囲に視線を這わせたが、周りはざわめきに満ちていて、慌ただしく通り過ぎる人々ばかりだ。場所もホールの隅でしかないから、大抵の人は彼女の格好に目をやりこそすれ、足早に通り過ぎて行ってしまう。
それでも彼女の言うことはもっともだと喜多川はすぐに手を離してやった。
ただし距離はそのままだ。
「……十時までだったな。待ってるから、なるべく早めに来てくれ」
耳元で囁かれたことに、は眉尻を下げて口をへの字に歪める。
「待ってるって、どこでだよ……」
「適当にこの辺りをぶらつくつもりだ」
耳を押さえた彼女は、今度は複雑な顔をしてみせた。納得しかねると訴えるそれに、しかし喜多川はただ肩をすくめて妥協するつもりはないと訴えている。
こうなるとは承服するしかない。
「……ちゃんと暖かいとこにいろよ? 外で人間観察とか、してたらダメだからな?」
「承知している。大丈夫だ」
「うー……じゃあ、なるべくな。なるべくそうするから。でもあんま期待はするなよ」
「うん」
喜多川は子どものように頷いて返した。
それを見ても一応は納得したのだろう。よしと一つ頷いて、肘で彼を押しやった。
「ほら、もう行けよ。店長や他のスタッフに見つかったらなに言われるかわかんないし」
「そうだな、じゃあ、また後で。杏にもよろしくと伝えてくれ」
「そんな暇があればいいけどな」
そこまでの繁忙ぶりか。感心させられつつ喜多川は踵を返した。
その背に雑踏に紛れそうなほどかすかな声がかかる。
「……来てくれたの、嬉しかった。ありがとう。元気でた……ちょっとだけな」
ふり返ると照れくさそうに笑う少女と目があった。
服装のせいもあるだろうが、距離を置いた今、先より道行く人の目が彼女に向けられているように感じられる。
……だけど、なるほど、本命は一人だけか。
喜多川はややキザったらしい仕草で手を振ると、そのままなんの迷いもなく建物を後にした。
『来てたんなら私にも挨拶くらいしてきなさいよ!』
礼儀がなってないと叱りつけるメッセージが叩きつけられたのはそれから三時間ほど経ってからのことだった。やっと休憩時間に入ったのだと漏らす高巻が言うには、どうやら入れ違いに坂本も同じ場所に来ていたらしい。
ただし彼の場合は喜多川とも双葉とも違い、高巻とらがバイトをしているからケーキを予約『した』のではなく、彼女らがバイトをしているから予約『させられた』のが正しい。
この調子ではそのうち新島や奥村もやってきそうだ。バイト代に色が付くわけでもあるまいに、商魂たくましいと言うべきか……それとも紹介料が報酬に上乗せされたり、知り合いなら社割りが利いたりするんだろうか?
喜多川はしばらくの間デパートに隣接するコーヒーショップに居座り、道行く人々の中に知り合いの顔を探したが、結局目当てのものが見つかることはなかった。
それからまた何時間か経ったころ、再びスマートフォンが通知に震える。
今度はからだった。タイムスタンプは22時03分と表示されている。
『終わった! 今どこ?』
喜多川はかじかんだ手でどうにか、
『東口の改札の近く』と答えた。
『じゃあそっち行くから、動くなよ』
からのさらなる返信にはジャブを打つボクシンググローブをはめたウサギのスタンプが付いていた。
(……動いたら殴るという意味か……?)
戦々恐々としながら改札近くの壁に背を預けて待つこと十数分。は人波を器用に避けつつ、一度喜多川の目の前を駆け抜けてから戻ってきた。
「なんで声かけないんだよ!!」
「気が付くかなと思った」
「だとしても掛けろよ! 挨拶しろ!」
「おつかれさま」
が息をせき切らせてやって来たことにも、こんなに早く再会できたのはきっと高巻の手引きがあったのだろうことにも、顔中をほころばせて喜びを明らかにする喜多川に、は二の句を継げずに押し黙ってしまった。
ずるい、と漏れ聞こえた気もするが、喜多川には意味するところは理解できない。
代わりに手を差し出して彼女が抱える荷物を奪い取る。つい数時間前に冷やかしたデパートのロゴが付いているから、きっとケーキだろう。
中身を確認してまた嬉しそうにする彼を見て、はやっと口を開いた。
「……ほんとにずっと待ってたのか?」
「うん? ああ、あちこちで人間観察とスケッチをしていた」
見るか? と言って本日の成果を差し出すと、は嬉しそうに画帳に目を落とす―――
街並みや通りかかる人の姿が精巧に写し出されていると思えば、ハトやカラス、犬猫の姿もある。見知らぬ女性の横顔や疲れ切ったタクシーの運転手らしき男性の顔もあった。
ふとの手が止まる。
タクシーの運転手らしき男の口には煙草が咥えられているが、駅構内に喫煙所は無いし、近隣の飲食店はおおむね全面禁煙化が進んでいる。
あるとしたらそれは駅から出て少し行った吹きっさらしの喫煙所くらいだ。
は厳しい目を彼に向けた。
「おいこれ外で描いただろ! 暖かいとこにいろって言ったのにこのバカ!」
風邪を引いたらどうするんだと喚く丸い頬に、喜多川はニヤリと笑って手を伸ばした。
「悪かったな」
「うわー! 冷たい! 指先ヤバい!」
頬をつねられる痛みよりも喜多川の指先の冷たさのほうが堪える、とは激しく首を振って氷の手を追い払う。
「フッ、どうだ参ったか」
勝ち誇る彼に、肩を落とす以外に彼女ができることはない。
「なにがだよ……もーほんとにバカ……」
心底呆れたと一通りの罵倒を済ませると画帳をカルトンバッグに押し込み、ぶ厚い毛糸の手袋から手を抜き取る。外よりはましだろうがそれでも冷たい外気にさらされた細く白い手指には、やっぱりまた小さな傷ができていた。
その手が喜多川の冷え切ってかじかむ指先を捕まえる。じんわりと伝わる熱は彼にホッと息をつかせた。
「……暖かい」
「そりゃそうだろ……あーあ、指先真っ赤っかじゃないかよ。ほら、早く部屋帰ろ。冷凍だけどチキンも買ってあるから」
クリスマスしよ、と手を引かれて、喜多川は再び、
「うん」と子どものように頷いてみせた。
それで二人は幸せにクリスマスイブの夜を過ごせました。めでたしめでたし。
とは生憎なことにならなかった。
バチン、と音がしてやっと暖かくなりはじめた1DKが闇に閉ざされる。今や足元を照らすのは石油式ストーブのほのかな灯りだけだ。
レンジの前でチキンの解凍を今か今かと皿を携えて待っていた喜多川の目の前ももちろん、今は暗闇だけになっている。
肉ばかりもアレかとキッチンでサラダ菜を雑に千切っていたもまた。彼女はサッと身を乗り出してベランダの外や隣の部屋の様子を確認すると、現状を正しく理解して素っ頓狂な声を上げた。
「なんでぇ!?」
外の狭い街路を照らす街灯も、隣の部屋から漏れる明かりにも変化はない。すなわちこの暗闇は風や雷といった自然災害によって引き起こされる大規模なものではなく、極めて小規模な場所のみに発生したブラックアウトということだ。
「料金未払いか?」
「キミと一緒にするなよ!」
「おい」
そんな不名誉にはまだ巡り合っていないと主張する傍ら、はサラダ菜をボウルに放り投げてその場にへたりこんだ。
心当たりはあった。それはもちろん電気料金の未納ではなく、寒さに耐えかねて部屋が暖まるまでと強めにかけたエアコンと、チキンの解凍を任せた電子レンジと、お茶を用意するのにお湯が欲しいから電気ケトルに任せて、ベッドのそばのパソコンは待機状態のまま、コタツにも熱が籠もっている―――
なんでぇ、などではなかった。これは必然によって呼び起こされた現象だ。
「そりゃ落ちるよなぁ」
うーむと唸ったの胸を一条の光が射した。喜多川が手にしたスマートフォンのモバイルライトを点灯させたものだ。
「直せるか?」
「当たり前だろ。ブレーカー見てくる」
立ち上がった彼女もモバイルライトで足元を照らしつつ、椅子を引きずって玄関ドアの上に設置されたブレーカーを覗き込んだ。
手持ち無沙汰の喜多川は念のためと椅子の脚を押さえている。見上げたところで、暗闇の中に隠されたスカートの下なんてものはチラリとも見えなかった。
また見る気もない。望めばいくらでも―――は難しいだろうが、そこそこ見られるものを今この時にわざわざ求める必要はない。
などと考えている間もは唸り続けている。その手が何度かブレーカーのスイッチを上げ下げしているのだが、一向に復旧の兆しは見えない。
「まじかー」
やがて何某かの結論か可能性に行き着いたらしいが言う。彼女が椅子から降りようとするのをうやうやしく手伝う喜多川は首をひねった。
「ブレーカー自体が壊れているのか?」
「そういう感じじゃなさそうだ。故障した箇所は見当たらなかった」
電子・機械工学のエキスパートである彼女がそう言うのであればそうなのだろうと納得する。仮に明かりが点いていたって、喜多川にはスイッチのオンオフくらいしか判らない。
さて、は一度寝室に引っ込むと、上着と懐中電灯を手に戻った。
なんだと思う間に彼女は「こたつで待ってていいよ」と言い置いて出ていってしまう。
じゃあそれでわかったと言えるような男でもなし。なにより彼女が心配だということもあるが、なにをしようとしているのかにも興味があった。
喜多川もまた上着に袖を通すと、早足で彼女のあとを追う。
重いスチール合金のドアを押し開けると、冷たい外気が一気に体温を奪っていった。乱れた前髪を押さえながら見れば、昼ごろは曇天だった空がからりと晴れ渡り、月がこうこうと家々を照らし出している光景が目の前に広がっていた。
その家の一つ一つにも光があるところを見るに、やはり停電はの部屋だけのようだ。
その割に辺りはシンと静かで、コツコツと床を叩くの足音がすぐに彼女の居場所を教えてくれる。
「―――」
「待ってていいって言ったのに」
その彼女のほうも己を追う足音にすぐ気がついたのだろう。足を止めると並ぶのを待ってから階段を降り始めた。
「多分だけど、部屋のじゃなくて共用の分電盤に異常が出たんだと思う」
そうなんだ、と相槌を打っていると、二階から一階へ降り、ポストの並ぶ狭い玄関ホールを通り過ぎて隅の倉庫近くまでやってくる。
壁に取り付けられたスチール製らしきボックスには、三角形に稲妻のマークが記されたシールが貼り付けられている。その戸には小さな覗き窓が二つあって、そこから何某かのメーターが動いている様子が垣間見えた。ただし喜多川にはそれがなにを示しているのかは解らない。
それに、こんな共用部にある電気関係の設備なのだから、鍵くらい掛かっているんじゃないか。
疑問を口にしようとするのと同時に、カチャンと音がして戸が開け放たれた。
見れば、の手には小さな鍵がつままれている。
「……なぜ鍵を? いや、開けていいものなのか?」
「ん? ああ、ヘーキヘーキ、こういうボックスの鍵ってだいたい同じタイプのを使ってるんだよ」
だから、同じ物を入手さえできれば訳はない。
自信満々に言い切られると、喜多川は疑問も挟まずに納得してしまう。
その中身を弄るには国家資格が必要になるとは黙ったまま、は開閉器のうち一つのカバーをこじ開けた。
今回に限っては喜多川にも一目瞭然だった。幾つか並んだ金属製らしきテープのような物の一つが溶断されている。
「こりゃ見事に飛んでるな」
これがヒューズだ、と指して言われて、喜多川は感心に似た眼差しを焼き切れたヒューズに目を向ける。
「へえ……ヒューズが飛ぶとはよく聞く表現だが、実際にこんなふうになるのか」
「うん。過電流が通ると一瞬で焼き切れるようになってるんだよ。それで火事を防ぐ」
「なるほど」
エアコンにこたつ、電気ケトルと電子レンジとパソコンと……ヒトの無体な行いにこのヒューズは自らを断ち切って役目を果たしたというわけか。
無機物に人格を見出して感謝の念を捧げはじめた喜多川の傍ら、しかしは困り顔で腕を組み、うーんと呻いて戸を閉ざしてしまった。
「直さないのか?」
キョトンとして尋ねた彼に、はやはり難しい顔をしてみせる。
「ヒューズを交換すればいいだけだから、作業自体は一瞬で済むよ。ただ、肝心のヒューズが部屋にはないんだよね」
それはそうだ。普通は寝室に新品未使用のヒューズが転がっていたりはしない。
「であれば、お前の『巣』のいずれかに置いてないのか?」
『巣』というのはが都内と一部隣県に確保してある貸し倉庫やコンテナ、ロッカーやトランクルームのことだ。復讐劇の幕が降ろされ、身の安全が確立された今になっても彼女はそうしたものをあちこちに設置したがる妙な癖がある。おそらく、半ば趣味になっているのだろう。
そういったものを手放せば暮らし向きはもう少し楽になるし、タロウを迎え入れる日もぐっと近づくんじゃないか―――とは喜多川が言わずに済ませている本音の一つでもあった。
なにも知らないはまだ困り顔だ。手袋をした手で頭の後ろを掻いている。
「あるけど、ちょっと遠いんだよ。行って帰ってたら日付変わっちゃうし、ケーキもチキンも冷めちゃうよ」
「それは……」
チキンは温め終わっていなかったし、ケーキはむしろ冷ましておいたほうがいいのだろうが、どちらにせよ一時間以上おあずけを喰らうことになる。さしもの喜多川にしても即答はできなかった。
「今から大家さんに連絡して、電気会社に来てもらってもやっぱりそれくらいかかるかなー……」
「この夜に呼ぶというのも、忍びないな」
「それな」
カチャンと音を立ててボックスは再び施錠される。
どうしようかなと喜多川は呑気に天井を仰いだが、のほうは俯いて床と見つめ合ってしまう。
「……ごめんな。せっかく寒いなかずっと待っててくれたのに、こんなことになっちゃって……」
声は平坦だ。泣いているわけではないだろう。ただひどく落ち込んでいるだけだ。
喜多川は上を向いていてそのことに気が付かない。ただ己の空腹感と現在気温、彼女といられる時間とを秤にかけてから、いささか性急と呼べる勢いでその手を引っ張った。
「わっ、なん、なんだ!?」
「この格好では少々心もとないだろう? 一度戻って支度をしよう」
「えっ、え……取りに行くの? 寒いよ? 待ってても……いや待ってても寒いだろうけど」
半ば引きずられるかっこうのが目を白黒とさせながら言う。
対する喜多川の返答はスッキリしたものだった。
「一緒に行くよ。当然だろう」
要求には首を縦に振った
結局、ケーキは切り分けられる寸前に冷蔵庫に押し込められて延命され、チキンはレンジの中に入ったまま、サラダ菜はボウルに放置され、二人はアパートを出た。
時刻は二十三時を過ぎたところだ。月もすでにかなり傾き、もう数時間もすれば背の高い建物の影に隠れてしまうだろう。
静まり返った夜道に人の姿は見られない。澄んだ空気の中、二人の足音が遠くまで反響した。
「なーんかさぁ」
「ん?」
吐く息も当然白く染まっている。口元を覆うマフラーから湯気のように上がってはすぐに冷気の中に消え、続く言葉を追うようにまた広がった。
「去年のイブもドタバタしてゆっくりはできなかったなぁって」
「フッ、そうだな。大した騒動だった」
「もうちょっとこう、まったりっていうかさ」
落ち着いて粛々とした聖夜を楽しみたい、と愚痴っぽくもらす横顔はしかめられている。丸い頬はまだアパートを出て大した距離も歩いていないのにほんのりと赤くなってしまっている。
「俺はこれでも構わないが」
穏やかに返す喜多川の頬も赤く、息は白い。今はポケットに隠されている手の指先も赤くなっているはずだ。
それは彼の偽るところのない本音だった。子どものころから寒さには頓着しない性質だったし、クリスマスイブになにか特別なことをした記憶もあまりない。
が語った通り、去年のイブはそれこそ大騒ぎだった。その後にあったことも―――
騒動の顛末はさておき今は隣に好きな女の子が居て、肩が触れそうな距離を保っている。この上まだなにかを、例えばサンタクロースなる白ひげの老人からのプレゼントなど望むべくもなかった。貰えるのなら頂戴するが。
―――だけど、どうだろう。
喜多川はふと不安になってチラと隣の少女を見下ろした。
通学用も兼ねたライトグレーのダッフルコートにからし色のマフラー、艶とくせのある黒髪は街灯と月明かりを浴びてキラキラと輝いている。
なんの飾り気もなく、ただきれいだなぁと思う。りんごのような丸い頬も、今は前だけを見ている黒々とした瞳も、歩に合わせて揺れる袖から覗く白く小さな手指も……
一人の少女を構成するパーツの一つ一つが美しく思えるのは恋をしているからなのか、それとも万人に共通する認知なのか、喜多川には解らない。
だからこそなのか、不安が首をもたげている。
この子の胸には間違いなく、粛々と過ごした聖夜の記憶があるはずだ。両親と祖父、それから飼い犬と食卓を囲み、賑やかしくも穏やかな時間があった。
それと比べたら今はどうだろう。
はこの事態に陥ったことにひどく落ち込んでいた様子だが、それは喜多川こそが不安に感じていることだった。
例えば、己がもっと大人で、金銭的余裕があって、車の一台でも持っていれば、寒い中を歩いて終電間近の電車に滑り込む必要はなかっただろう。
あるいは、未だ果たせない夢を叶えていたら、二人きりのささやかなパーティなんてものではなく、なにかもっときらびやかで、誰もが羨むような催しが企てられたりしたのかもしれない。
想像してみるが、これはあまり上手くはいかなかった。
なんにせよはゆらゆらと千鳥足じみた足取りで右に左に揺れながら歯切れ悪く言う。
「……まあ、そりゃ、私だって……別に。イヤとかじゃないよ。全然。当たり前だろ」
とん、と肩がぶつかった。
と同時に、喜多川は息をつく。そうか、当たり前か、と。
ただし彼女のほうはまだなにか言いたいようで、冷たくなった指先をしきりにすり合わせている。
「きっ……キミがいるしさ。うん。ゼンゼン……嫌じゃない。むしろ嬉しい……んだけど、そういう全体的なことじゃなくてさ……」
モゴモゴと口内で転がされる言葉はその内容にしても不明瞭だった。
喜多川は、なんだろうと首を傾げる。その間も彼女の歩みは振り子のように左右に揺れ、ぶつかったり離れたりをくり返した。
「……さ、寒いよなって……」
「ああ、そうだな」
「だから……だからさぁ……」
俯いた黒髪のつむじに目を落としながら、喜多川はふーむと唸る。
なるほど、どうやら彼女には何某かの要求があるらしい。
それが告げられる前に喜多川は素早く遮った。
「待て。当ててみせよう」
手をかざして静止を求めると、はピタリと左右に揺れるのを止める。前進はそのまま、十歩ほど進んでからおもむろに喜多川が動いた。
「こうか?」
革靴の踵がアスファルトを叩く音が夜闇の中によく響いた。
伸ばされた彼の腕はの背を通り過ぎ、肩に回されて優しく引き寄せる。見つめていたつむじがちょうど顎のあたりに触れると、すっかり馴染んだ花の香りが冷感とともに鼻孔をくすぐった。
胸にあった小さな懸念はとっくに溶けて消えている。彼女がむふー、と子供っぽくも嬉しそうに息をついたからだ。
「正解ってことにしといてやるよ」
そのくせまだ尊大な態度を繕おうとする無駄な努力に喜多川は鼻を鳴らした。
「フッ、そうか。そうだな」
「そうなの。へへ、あったかい」
形のよいを後頭部が顎にグリグリと押し付けられる。柔らかな黒髪の感触と香りを楽しむ余裕くらいは彼にも充分あった。
「……ゆっくり行こ。別に急ぐことはないんだし」
その通りだと同意して、喜多川は腕の中のぬくもりを確かめるように頬をすり寄せる。
少し歩き難いとも思ったが、たった今ゆっくり行こうと決めたばかりだ。支障はなにもなかった。
満足感からこみ上げる感嘆の息をついて、彼は言った。
「ああ……俺は来年もこれでいい」
「いやそれはさすがに」
「あれ?」
今そういう空気じゃなかった? 愕然とする喜多川に、はさらに追い打ちを放った。
「明日……っていうかもう今日か。起きたらジュニアの散歩、長めにするから付き合ってよ」
「それは、構わないが……なぜ?」
「最近バイトバイトでお世話をおじさまと双葉に任せっきりだったし、私もジュニアともっと遊びたいしさー」
はやくペット可の物件に移り住むなり、一戸建て購入などしてみたい―――
星々を見上げて夢を語る彼女の瞳は今日一輝いている。
クロ・モナルダ・ポチ・フランシス・タロウ・ぶち丸・チビ・モモ・ジュニア・サクラ・を引き取り、時間が許す限り遊び、ブラシをかけてやって、おやつを手ずから与え、夜は一つの布団で眠り、朝な夕なを過ごしたい。
夢見る少女は陶酔の境地に至り、己を抱く少年の空気より冷たい視線に気が付かない。
喜多川は空いているほうの腕をポケットから出し、冷気にわざと晒してから彼女の頬をつねり上げた。
「冷たっ、あっ、痛い! なにすんだよ!?」
「フン、俺の脳を破壊しようとするからだ」
「な、なんの話?」
唇を尖らせた彼はいかにも拗ねてますと言わんばかりの低い声で述べる。
「やつは……タロウはオスだろう」
「あ? うん、そうだよ」
受けて見上げる瞳は現実に戻ってこそいるが、キョトンとしている。
自分が居る前で他のオトコの話なんて聞きたくないと訴えたつもりだったが、はこの少年の『ささやか』な悋気を理解していない様子だ。
それもそうだ。クロ……タロウ……ジュニア……は犬なのだから、喜多川以外誰も同衾の望みを気にしたりはしない。
しかし彼は嫉妬の炎を静かに燃やしながら心に思い描いた相手を睨み続けている。
「……並外れた、か。なるほどな」
「なにが? おーい、一人で納得するなよー」
「うるさい。もっとくっついていろ」
「えー……」
ほとんど抱き込まれるような形になるまで密着しては、歩く速度はますます落ちる。
これでは目的を果たして戻り、ケーキとチキンにありつけるのはいつになることやら―――
「……まあいいや。ふふん、よくわかんないけど、なんかいい気分だぞ」
晴れ渡った聖夜の空に、どこかの飼い犬の遠吠えが響き渡った。近くの家から漏れる笑声はバラエティ特番を見てのものだろう。
どこか他の、離れていない道を通る車の走行音や、かすかな猫の鳴き声に、こんな時間に洗濯機を回しているようなモーター音もある。
結局、静かだったのはほんの少しの時間のことか単に耳に入っていなかっただけで、穏やかで粛々とした聖夜というものは、こんな状況でなくとも難しかったのかもしれない。